インビジブル・ラブ


ピアノ


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Chapter 7-2



 たまげたのは、こっちだ。
 まさか涼香は、幽霊の俺が見えているのか。
 木下は不審そうに、彼にとっては何もいない空間を振り返り、また向き直った。
「どうかなさいましたか」
「い、いえ」
 まだ半信半疑の状態で、涼香は俺の顔を見つめている。
 その様子で、ようやく愛海にも、彼女に俺が見えていることがわかったみたいだ。
「えーと、あのう、何です」
 愛海は両手をぱたぱた仰ぐように振ると、とっさに言った。
「と、トイレを貸していただけません?」
「おい、小潟。失礼だぞ」
 うんざりしたように、木下がたしなめる。
「あの、急にお腹が。お願いします」
 木下のいないところで涼香と話そうとしているのだ。そう気づいた俺は、すっと部屋の奥のバスルームに向かった。
 涼香の視線が俺の後を追って移動する。間違いない。やっぱりこいつには、俺が見えているのだ。
「わかりました。こちらへ」
 彼女は愛海をバスルームに案内した。
「水主淳平が見えているんですね」
 バスルームに入ると、愛海は小声で話しかけた。
「ど、どういうことなの。なんで中杉くんがここにいるの」
「話せば長くなりますが、ここにいるのは彼の幽霊なんです」
「幽霊?」
「しっ」
 愛海は唇に人差し指を当てた。「もうひとりの刑事は何も知りません。あとで別に、ゆっくりお話できる時間は取れませんか?」
 涼香は少しおびえた目つきで、もう一度俺を見た。
「今夜なら」
「連絡先を教えてください」
 愛海の差し出したメモ帳に、涼香はさらさらとケータイの番号を書きとめた。
 バスルームから出た涼香は、木下警部補に言った。
「悪いけれど、今日のところはお引取りください。到着したばかりで疲れています。お話があるということなら、後日お越しください」
 愛海が後ろで、メモ帳をひらひら振ってみせたので、木下はうなずいた。 「いつまで、こちらにはご滞在ですか」
「来月7日と8日の演奏会が終わるまでです」
「わかりました。あらためて連絡させていただきます」
 部屋を辞すると、木下が珍しくほめてくれた。
「よく、ケータイの番号を聞き出せたな。そのためにトイレに行ったのか」
「そうそう。女はトイレで自分の本心を話すものなんですよ」
 それは男も同じだけどな。
 俺はこのあいだ、トイレで加賀美と木下が、愛海について話していたことをチラリと思い出した。だがすぐに、思いは涼香のことに戻った。
 愛海も、かなり気になっているようだった。
 木下の運転する車の助手席で、何気なくケータイを取り出すと、画面で俺とのやりとりを始めた。
『涼香さん、もともと霊感が強い人だったの?』
『そう言えば、そんなことを言ってたな。ビルから誰かが飛び降りてきたので飛びのいたら、誰もいなかったとか。夜行列車に乗っていたら、窓の外に人の手がベタベタ張りついているのが見えたとか』
「ひええ。窓に人の手が」
 思わず、愛海が声に出して叫ぶと、「なんだ、なんだ」と木下が急ブレーキを踏み、きょろきょろと車の窓を見渡した。

 愛海はその日の夜、署からの帰宅途中に、さっそく涼香に電話を入れた。
 加賀美係長から、事情聴取の約束を取りつけろと命令されていたこともあるが、何よりもまず、少しでも早く涼香と話をしたかったのだ。
 俺と愛海は、事件の捜査のために今まで十人以上の参考人に会ってきたが、幽霊の俺を目で見ることができた女は、涼香がはじめてだった。
 電話は、すぐにつながった。
『はい……もしもし』
 少しかすれた、疲れた声だった。
「今日、お部屋にお邪魔した南原署の小潟です」
『ああ、はい』
「正式な事情聴取の前に、まずふたりだけで会えませんか。水主淳平のことで――」
『中杉くんは、今でもそこにいるの?』
 涼香は、愛海のことばを途中でさえぎった。
「は、はい」
『どうして? どうしてそんなことが』
「だから、そのことも含めて、いろいろお話ししたいんです。会っていただけますか」
 涼香はしばらく黙っていたが、答えた。『今からすぐに、ホテルまでいらっしゃれる?』
「はい!」
 愛海はケータイを切ると、すぐに地下鉄の階段を元来た方向に駆け上がり始めた。
 走りながら、確信ありげに言う。
「涼香さんは、淳平を殺していない」
「なんで、そう思うんだ?」
「もし自分が殺した人間が幽霊になって浮いてたら、恐ろしくてたまらないはずだよ。でも涼香さんは、あのとき驚いてはいたけれど、全然恐がっていなかったもの」
「なるほど」
 まっすぐ俺に向かって見開いた涼香の目。あの中にこめられていた感情は、恐怖でないとしたら、いったい何だったのだろう。

 昼間訪れたばかりのホテルの部屋だったが、もう変わっていることがあった。
 グランドピアノが運び込まれていたのだ。涼香が練習用にと注文したのだろう。
 「ピアノから片時も離れたくない」と、いつも言っている涼香らしいわがままだ。
 しかし、都心の一流ホテルのスイートルームと言い、これだけ破格の扱いをされるとは、さすがピオッティ涼香だ。
 愛海を迎え入れた涼香は、即座に視線を俺に移した。やはり、こいつは俺の姿が見えているのだ。
「久しぶりだな、涼香」
「中杉くん――」
 彼女はぶるっと肩を震わすと、あわてて顔をそむけた。
「どうぞ」
 ソファを勧められた愛海は、ぺこりと頭を下げて座った。俺はどうしようか迷ったが、愛海の隣に足を組んで座った。もちろん、座るふりをしただけで、ソファは1ミリも凹まない。
 涼香は、しばらく俺の様子をまじまじと見つめていたが、唇をちょっと持ち上げて笑った。
「あのときとは、ずいぶん雰囲気が違うのね」
「そりゃ、あれから幽霊になっちまったからな」
「そうじゃなくって。私と会ってたころのあなたは、髪をきちっと梳いて、シャツのボタンも一番上まで留めて、いつ見ても折り目正しい態度だったわ」
「新進の音楽評論家という役柄を演じていたんだよ」
 本当の俺は、今目の前にいる霊体のとおり。よれよれのジーンズをはいた無作法で下品な男――稀代の結婚詐欺師、水主淳平だ。
 愛海は、俺たちの親しげな会話を複雑な面持ちで聞いている。
「で、生きてるときは犯罪者だったあなたが、今は刑事さんといっしょに何をしてるの?」
 涼香は、皮肉たっぷりに訊ねた。
「事件の捜査に協力してる」
「自分を殺した犯人を捕まえなきゃ、成仏できないってわけ?」
 そこで愛海が会話に割って入って、簡単に今までのいきさつを話した。
 一周忌に殺害現場に花を手向けたことがきっかけで、幽霊の俺が愛海のもとに引き寄せられたこと。
 だが、肝心の俺には、事件のときの記憶がまったくなかった。そこで、犯人を捕まえたいという愛海の求めに応じて、結婚詐欺を働いた相手を、ひとりひとり訪ね歩いてきたこと。
「あら、それじゃ、あなたたち私を犯人だと疑っているの?」
 外国人めいた大げさな身振りをしてみせたあと、涼香はくすくす笑った。
「ひどいわ、中杉くん。そんなに私に恨まれてると思ってたの」
「恨まれてないとは思ってないよ」
 俺は低く答えた。
「ふふ。わかってるじゃない」
 涼香はピアノの椅子に座って、鍵盤の上に指をすべらせた。
「よくも、平気な顔でそんなことが言えるわね」
 突然、彼女は鍵盤の上に拳を叩きつけた。空気を引き裂く不協和音に、俺も愛海もあぜんとした。
「あれから、どれだけ私がつらい思いをしたかわかってるの」
 さらに続いた罵倒は、俺をうちのめすに十分だった。
「あなたのせいで、……私はピアノが弾けなくなったのよ!」

 そんなはずはない。
 俺の知る限り、被害届を警察に出してすぐ、涼香はすぐにヨーロッパに舞い戻った。
 そして、欧州各地でリサイタルやオーケストラとの競演を、次々と精力的にこなしていたはずだ。
『この調子なら、俺がだまし取った450万は一ヶ月で取り戻せたな』
 俺は場末の居酒屋の片隅で、彼女の活躍を報じた新聞記事を手に、ひとりでうそぶいて祝杯を上げたことを覚えているのだ。
「騙されたとわかったときは、あなたを心の底から憎んだわ。でも正直言って、それが演奏の力にもなった」
 涼香は俺を睨みながら、吐き捨てるように言った。
「あなたなんか私にとっては瑣末な存在だったと、思い知らせてやるんだと決めた。大きな賞も取ったわ。受賞を記念して、日本の大きなレーベルからレコーディングと記念コンサートの誘いがあったのが、二年半前の一月だった」
「二年半前の一月って。まさか」
 と、愛海が叫んだ。
「そう、日本に滞在中のある朝、新聞を見たとき気を失いそうになった。結婚詐欺容疑で指名手配されていた水主という男が、路上で誰かに殺されたという記事が載ってたの。本名を知っていたわけじゃなかったけど、中杉くんだと直感したわ。その日から寝ても覚めても、いろんな思い出がこみあげてきて――」
 涼香は、わななく唇を押さえつけるように噛みしめた。「鍵盤に向かうと手が震えて、どうしても弾けなくなってしまった」
 愛海は、喉からしぼりだすような声で言った。
「それでは、涼香さんが帰国したとき、何も予定がなかったというのは――」
 まっかな嘘だった。突如として極度のスランプ状態に陥った涼香は、レコーディングもコンサートもキャンセルして、逃げるように日本を飛び出してしまったのだ。
「あっけないものね。みるみるうちに私のスケジュール帳は真っ白に変わっていったわ」
 今の名声を勝ち取るために、涼香がどれほどの練習を積んできたか、俺は何度も聞かされた。
 起きているときはすべてピアノを弾いていた。練習のしすぎで指の関節が腫れ上がり、スプーンも握れないときもあった。そんなときは、クッキーだけをつまんで、またピアノに向かったという。
 その涼香が、鍵盤の上で指が止まるとは。ピアニストとして、これ以上の苦しみがあっただろうか。
「自分の音を取り戻すために、1年以上かかった。どんな小さなリサイタルや教会のコンサートにも、招かれたら出かけていったわ。周囲は『ピオッティ涼香は、もう絶頂を過ぎた』と陰口を叩いたけど、それでもかまわなかった。ようやく、もう一度日本でリサイタルを開こうと決意できたところなのに――」
 涼香は、俺をキッとにらんだ。「どうして、今頃になって、あなたの幽霊なんかに会わなきゃならないの」
 涼香の目には、いっぱいの涙がたまっていたが、彼女は決して、そのことを認めようとはせず、高飛車に顎を上げていた。
 涼香はそういう女なのだ。弱音を吐くことを他人の前でも自分に対しても、絶対に認めようとしない。
「愛海」
 俺は自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
「俺と涼香をふたりだけにしてくれないか」
 愛海は目をしばたいて、うなずいた。「じゃあ、私ロビーで待ってるから」
「すまない」
「ううん」
 愛海はドアを出て行くとき、俺のほうを不安そうに振り返った。
 重苦しい空気が、部屋に立ち込めている。
 俺はピアノのそばに立ち、涼香と向き合った。
 何と言えばいいのだろう。
 今まで、何人もの女に謝ってきた。だが、幽霊の俺の声は相手には聞こえないから、いつも愛海に通訳になって伝えてもらっていた。
 でも、今日は違う。涼香は俺の声が聞こえる。
 俺は愛海の助けなしに、自分の口で、自分のことばで赦しを乞わなければならないのだ。
「涼香」
 俺は何を言っていいかわからないまま、つっかえつっかえ話し始めた。
「どれだけ謝っても、赦してもらえないことはわかっている。それでも謝るしかない。俺は金のために愛をささやいた。一番卑劣な方法で、おまえを騙した。もし生きていれば自分の命を差し出すこともできただろうが、幽霊の俺では、何もしてやることができない」
「やめて」
 しぼり出すような声で、涼香は言った。「どんなにあやまっても、私はあなたを絶対に赦さない」
「それでいい。赦さないでくれ」
「消えて! 二度と私に近づかないで」
「……わかった」
 今の涼香に何を言っても無駄だった。俺のことばは何の慰めにもならない。時間をかけて、何度も謝るしかない。それともいっそ、言われたとおり二度と近づかないほうがよいのか。
「リサイタル、成功するように祈ってる」
 俺は憔悴した気持で、ドアをすりぬけようとした。
「……待って」
 彼女はいきなり振り返って、俺を凝視した。
「今からどこへ行くの? 霊界みたいな、どこか帰る場所があるの?」
「いや」
 俺は首を振った。「ずっと、あの女刑事といっしょに暮らしてる」
「――そう」
 そのとき俺は、自分の霊体が何かの力で引き戻されるのを感じた。
 たとえて言えば、首根っこをつかまれ動けなくなったような感じだ。俺はしばらく、一歩も前に踏み出すことができなかった。
 焦って、霊指の力をぎゅっと強めた。
 突然まるで弾き飛ばされるような感覚がして、気がつくと愛海の座っている一階ロビーにワープしていた。
「淳平」
 愛海はすぐに俺に駆け寄り、ほっとしたような顔で笑った。
「終わったの?」
「あ、ああ」
 俺は、ほとんど倒れこむような恰好で、彼女にしがみついた。
「淳平、すごくつらそう」
「……大丈夫だよ」
「じゃあ、早く家に帰ろう。もうここにいたくない」
「いったん署に戻るんじゃないのか」
「報告書は、明日早出して書くよ。今日は疲れたもん」
 俺たちは道々、ことば少なだった。
「きれいな星空だね」
 愛海が夜空を見上げながら、言った。
「なんだか、家に帰るのがもったいないね。もうちょっとこのまま歩いてみない?」
「疲れたと言ってたくせに」
 俺たちは、しっかりと互いの手を握りしめ、わざと遠回りした。
 なぜだか、俺も愛海も、ひどく不安でたまらないのだ。一度互いの姿を見失えば、もう二度と会えないような気がする。
 途中、弁当を買うために愛海はコンビニに立ち寄った。
 デザートコーナーで、「白玉パンナコッタ」と「アボカド大福」を見つけ、大喜びでゲットしている。両方とも中途半端にレトロなところがポイントらしい。
 家に帰ると、一日留守番をしていたフー公が「ぶみゃあ」と鳴きながら、俺に突進してきた。
 この頃は、俺に飛びつこうとして壁にぶつかることもなく、一歩手前でブレーキをかける。こいつもちゃんと学習しているのだ。
「よしよし、腹が減ったか」
 ネコ缶を開けて皿に盛ってやると、フー公はしばらく、しげしげと俺の顔を見て、それからメシに貪りついた。
 幽霊と女刑事とネコ一匹が同居するようになって、もう一年余りが過ぎた。
 そのあいだにネコのフー公ですら、幽霊は人間と違うことや、幽霊には実体がないことを学習したのだ。
 俺と愛海もそろそろ気づくべきときなのかもしれない。
 俺たちの恋愛には、実体などない。いつか俺たちには別れの時が来る。愛海は生の世界に、俺は死の世界に、それぞれ向かわなければならない。
 確実に来るその日を一日延ばしにして、俺たちは足掻いているだけなのだ。
「淳平」
 風呂から上がってバスタオルを巻きつけただけの愛海が、部屋に入ってきて俺の名を呼んだ。
 透き通るような桜色の肌。艶やかな雫をまとっている髪。
 ああ、俺はたとえ悪霊になっても夜叉になっても、絶対にこいつから離れられない。たとえどんな奴にだって、俺たちの邪魔はさせるものか。
 生きているあいだにめぐり合えなかった、たったひとりの女に、俺は死んでから出会ってしまったのだから。
「愛海」
 俺は彼女を霊指の力で抱きすくめた。
「愛してる」
「淳……平」
「俺は、おまえがババアになって寿命が尽きるまで、そばにいて待っててやる。そして、ふたりで一緒にあの世に行くんだぞ」
「うん……」
 唇をむさぼるように求め合っているうちに、いつのまにか愛海の体から、バスタオルがすとんと床に落ちた。





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