インビジブル・ラブ


岩手山と北上川岩手山と北上川 / lllnorikolll-300ER



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番外編 (1)



「……嘘だろ」
 俺は頭を抱えながら、起き上がった。
 真上の部屋からは、信じられない音量の目覚まし時計が、さっきから一分おきに鳴り続けている。
 天井を突き抜ける火災報知機のようなけたたましい音は、階下でさえ寝ていられないのに、同じ部屋で平気で寝ていられる神経が信じられない。
 フリースの上着を羽織ると、外に出る。階段を上がり、真上の部屋の扉をノックしようとして、はずみでノブに手が当たった。
「うわ?」
 ノブは何の抵抗もなく回ると、するりと扉が開いた。
 まさか、夜中のあいだに、誰かが鍵をこじ開けて侵入した?
「小潟刑事!」
 俺は猛然と、玄関でサンダルを脱ぎ捨てた。
 奥の部屋のふすまをガラリと開けると、眼前に繰り広げられている光景に、思わず大声を上げそうになった。
 たとえそこに死体があったとしても、これほど驚きはしないだろう。
 東京の警視庁から人事交流制度で赴任してきた小潟愛海は、掛けふとんを蹴っ飛ばし、大の字になって幸せそうに高いびきをかいていた。クマの絵柄のパジャマは半分以上がめくりあがり、乳首のあたりまで丸見えになっている。
 意識が途切れそうになり、そっとふすまを閉めた。
「お……落ち着け」
 破裂しそうな心臓をなだめ、自分に言い聞かせる。
 こんなところで大騒ぎして、誰かに見られたら、言い訳のしようがない。いくら鍵が開いているからと言って、独身女性がひとりで寝ている部屋まで突進してくるなど。
 俺とあろうものが、どうかしている。
 くそ、だいたい何故、こんな苦労をしなきゃならないんだ。
 そもそも、いくら空き部屋がないからって、署の男子寮に女性刑事を住ませるなどと、最初に言い出したヤツはいったい誰だ。さしずめ、高橋ってところか。
 おまけに、署長も刑事部長も、誰も異を唱えなかった。普通だったら、絶対に変だろう。独身の男どもが七人も住んでいるアパートに女を入れるなんて、鯉がうようよ泳いでいる池にパンくずを放り込むようなものだ。
 何かあれば、寮長である俺の責任になる。絶対になにごともなく、円満に東京に帰ってもらわなきゃ困るんだ。
 また、けたたましいアラームが鳴り始めた。今度も止める気配がない。
「あ、あの。小潟刑事」
 ふすま越しに控えめな声をかける。「今日は初出勤だし、そろそろ起きてほしいんですが」
 返事の代わりに、前にも増して高いびきが聞こえてきた。
「この、バカ女!」
 昨日かいま見せた、雨に濡れたユリのような、しおらしさは何だったんだ!
 俺はふたたび、勢いよくふすまを開けた。
 問題の箇所をなるべく見ないようにして、吹っ飛ばされていた布団を掛けてやる。そして、部屋の隅までころがっていた目覚まし時計を拾い上げて、スイッチを切った。
 なんで、俺がこんなことまで。
「起きろ!」
 彼女のそばまでにじりよって、腹立ちまぎれに耳元でありったけの声で怒鳴った。
 次の瞬間。
「淳平……」
 つぶやきながら、小潟愛海の両腕が伸びてきて、ふわりと俺の首にからまった。
 俺は体勢を崩し、彼女の柔らかな身体の上にのしかかる羽目になってしまった。
「☆*#$&%♭+!」
 その異常な心地よさに必死で抗おうとするが、彼女の手は海草のようにからみついて抜け出せない。
 ぱちっと、黒いまんまるな目が開き、視線が間近でかち合う。
「……じゃなかった」
 という奇妙な言葉とともに、急に手の力が緩んだ。
 俺はあわてて後ろに飛びのき、すばやく立ち上がった。
「すみません。扉の鍵が開いていたもので、何か異常があったのかと入ってきました」
 なにごともなかったような平然と落ち着きはらった声で言うと、小潟刑事は布団を引き寄せて起き上がり、目の焦点を合わせて、まじまじと俺を見た。
「ああ、そっか。鍵かけるの忘れていたかも」
「警察官ともあろうものが、戸締りを忘れていた?」
「えへ」
 何が、「えへ」だ!
 不可抗力にせよ、身体に触ってしまったという都合の悪い事実をきれいに消し去るために、俺はわざと不機嫌な表情を作って、顔をそむけた。
 室内は寒々しく、がらんとしていた。テーブルと椅子は備えつけで、布団だけはレンタルで手配しておいたが、当然ながら、台所には調理器具もほとんどない。
 昨日、東京から着いたばかり。知り合いもいない初めての土地で過ごした夜は、彼女にとってどんなものだったのだろう。
 さっきの幸せそうな笑顔、そして目を開けたときの失望した声。
 ――淳平……じゃなかった。
「三十分で身じたくをして、降りてきてください。朝飯を用意しておきます」
「え……?」
「要らなければ、別にかまいませんが」
「いえ、要ります。いただきます!」

 小潟刑事は、約束の三十分を数十秒過ぎたところで、バタバタと俺の部屋にやってきた。
 ベーコンエッグ、ドレッシングをかけたトマト、焼きあがったばかりのトーストを二枚ずつ乗せた皿を並べ、テーブルにつく。
「どうぞ」
「いただきます」
 彼女は、きちんと両手を合わせると、フォークを手に取った。
 しばらくは何の会話もなく、黙々と食べ物を腹につめこむ。
 目玉焼きの最後のひときれを頬張ろうとしたとき、彼女が手を止めて、じっと俺を見ているのに気づいた。
「なんでしょう」
「いえ、あの」
 彼女は、あたふたとミルクのコップを置き、居住まいを正した。
「昨日から本当にいろいろ、ありがとうございます。まさか朝ごはんまでご馳走になるなんて」
「一応、寮長の務めです。この土地に慣れるまではサポートしろと命じられています」
「そんなに丁寧な言葉を使わないでください。そちらは警部補さんですし」
「でも、あなたのほうが二年、人生の先輩ですから」
「え、何で知ってるの?」
 よく言う。昨日、車の中で『二十代も崖っぷち』と盛んに冗談を言ってたのは、自分だろう。
「それに、地方の県警の警部補ごときじゃ、警視庁のエリート刑事に上司づらなんかできません」
「エリート……なんかじゃありません」
 彼女は顔を赤らめて、うなだれた。
 俺は、さっきから、ひどく意地悪な感情を彼女にぶつけている。なぜかわからないが、無性に苛立つのだ。
「淳平って、誰ですか」
「え」
「寝ぼけながら、俺のことをそいつと間違えていた」
「……ごめんなさい」
 小潟刑事の顔のあたりの空気が、急に湿めり気を帯びたように見える。
「そいつが、昨日言ってた幽霊の恋人、ですか」
「はい」
 水主淳平、と彼女は名前をつぶやいた。
 そいつの霊が、今は別人の身体の中に入っていて、いつか現れるのだと彼女は信じているらしい。
 昨日、悲しげな横顔で話を聞かされて、何の魔が差したのか、俺はつい信じると言ってしまった。
 慰める意味もあったけれど、俺自身が四ヶ月、生死の境をさまよっていたからだ。その体験以来、霊の存在というのは、まんざら嘘ではないと思うようになっていた。
 ところが、その話をしたとたん、彼女の態度が変わった。俺が、その恋人の生まれ変わりだと思いこもうとしているらしい。
 悪いが、そういうオカルトな展開はお断りだ。俺には俺の人生がある。誰かの身代わりになんか、なりたくない。
「違いますよ。俺は、水主淳平じゃない」
 そう宣言すると、彼女はうっすらと目に涙を浮かべた。なんだか、俺がいじめてるような気になってくる。
「そいつとは、どこで知り合ったんですか」
「仕事です」
「同じ警察官?」
「いえ……捜査の対象というか」
「犯罪者?」
「結婚詐欺師です」
 ――おい、勘弁してくれ。よりによって結婚詐欺師だと?
「逮捕したんですか」
「いえ、殺されたんです。その事件の捜査を、南原署の捜査一係が担当して」
 結婚詐欺を働いたあげく殺された。そんなヤツの幽霊を、担当の刑事が愛したってことか。
 この人も、たいがい頭がどうかしてる。
「悪いけど、それが自分のこととは、とうてい思えませんね」
「そうですよね……」
 俺の吐き捨てるような強い語気に気圧されたのか、小潟刑事は濡れた長いまつげを伏せた。「ごめんなさい。この話は二度としません」
「そのようにお願いします」
 話を切り上げられることに半ばホッとした心地で、俺はコーヒーのサーバーを差し出した。
「ほどよく冷ましておきましたから」
「あ、いただきます」
 カップを両手に持って差し出した彼女は、はっと何かに気づいたように顔を上げた。
「どうして、冷ましておいてくれたんですか?」
「どうしてって、いつも――」
 喉がつかえて、次の言葉が出てこない。
 『いつも』だって? 俺は今、何を言おうとしたんだ。
「私が、猫舌だってこと、なぜわかったんですか」
「……ただの勘です」
 言い訳にならない言葉をつぶやき、俺は出勤の支度をするために立ち上がった。
 洗面所に入り、鏡でまじまじと自分の顔を見る、まるで見知らぬ人間を見るかのように。
 そのときから、俺の疑問が始まった。――自分はいったい誰なのだろうか、という疑問が。




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