インビジブル・ラブ


岩手山と北上川岩手山と北上川 / lllnorikolll-300ER



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番外編 (2)



「結婚詐欺師か――」
 晴れ上がった青空を見上げながら、俺は腹の底からの息をついた。
 仮に俺が何かのはずみで犯罪を犯すとしても、結婚詐欺という選択肢だけは絶対に選ばない。
 生まれてから27年間、女性とまともに付き合ったことがないのだ。わずらわしい恋愛に自分から飛び込む気はないし、女をだまして金を巻き上げる苦労をするくらいなら、貧乏で苦労するほうがよほどいい。
 要するに、偏屈な人間なのだ。女はおろか、動物にだって好かれた試しはない。
「ぶみゃー」
 豚のような鳴き声がして、気がついたらデブ猫が俺のズボンに顔をこすりつけていた。
 小潟刑事の飼い猫で、三毛猫には珍しいオスだ。
 この独身寮は一応、動物禁止という建前になっている。部屋にトイレ用の砂箱や飼育マットを買ってくるまでは、横の空き地の一隅をダンボールで囲って飼うように、彼女には言い渡してあった。
「エサはもらったのか、フー公」
 後ろでは、小潟刑事が皿の水を取り換えているところだった。俺がこの猫の名前を一発で当てたということで、彼女はますます俺を水主淳平だと信じ込んでしまった。けれど、『フー公』なんて、猫にはごく普通の名前じゃないのか?
 靴の爪先で喉をこすってやると、フー公はうれしそうに「ぐらあ」なんて甘えた声を出している。
「そろそろ、出かけましょうか」
 俺は、彼女に声をかけた。
 空き地に停めた軽自動車に乗り込もうとしたとき、ばたばたと階段を降りてくる賑やかな音がした。
「いがったー。俺も乗っけでけろ」
 同僚の高橋は、彼女の前に走りこんでくると、普段の五割増のさわやかな笑顔で、びしっと敬礼した。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
「昨日も、ここでお目にかかりましたが、覚えていただいてますでしょうか。盛岡南署の交通課所属の高橋、高橋宗則。宗教のシュウと規則のソクと書いてムネノリ。27歳独身、嫁さん募集中です」
「なんだよ、その選挙演説みてえな過剰なアピールは」
 ぼやく俺に、高橋はにやりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「そこっと(こっそり)朝飯で釣ってるヤツには言われたぐね」
 ……目撃されていたのか。
「さあ、小潟刑事。そろそろ出発しましょうか」
「おめは、来な」
 さっさと乗り込もうとする悪友を、俺は背中をつかんで引き戻した。
「いつもどおり自転車で行がねば、帰りは歩きになるぞ」
「あーっ。こずれえ、俊平。抜け駆けするつもりか」
 とりあえず邪魔者を強制排除し、俺は彼女を助手席に乗せて車を発進させた。
「俊平さんって言うんですか」
 隣から、こわばった声が聞こえてくる。
「ええ、まあ」
 平静を装って答える。なるべくなら、下の名は彼女には知らせないつもりだった。
 俺のフルネームは水月俊平(みづきしゅんぺい)。偶然にしてはおそろしいほど水主淳平に似ている。これを聞けば、この人がますます、俺のことをヤツの生まれ変わりだと確信してしまうのは、わかりきっていた。

「水月さん、もう一度。自分の名前は言えますか?」
「……みず……ひ……じゅん……ぺ」
「あはは、この子あ、まだそんたなごど、そって(言って)らよ」

 付き添ってた祖母ちゃんの、泣き笑いの声が聞こえたのを、かすかに覚えている。
 病室で四ヶ月の昏睡から目覚めたとき、俺は自分のことを何度も「じゅんぺい」だと答えたのだそうだ。人工呼吸器をはずしたばかりの喉は、がらがらに擦れていて聞き取りにくく、そのまま事はうやむやになった。
 けれど、あのとき俺が本当は「淳平」と言ったのだとしたら? その後の刷り込みですっかり忘れているだけで、本当は水主淳平なのだとしたら?
 ――ばかばかしい。そんなこと、考えるまでもない。
 盛岡南署までは、車で五分もかからない。
 門をくぐると、広い駐車場があり、その奥に三階建ての建物がある。
 二階の刑事課は一応、一課と二課に分かれているが、無論、間仕切りはまったくない。俺が所属しているのは一課だ。
 扉を開けると、いっせいに室内の熱い視線が俺たちに注がれた。まあ、正確に言えば、後ろの美人刑事だけに注がれているわけだが。
 昨日、挨拶回りと簡単な署の案内だけはすませていたので、今日は彼女の勤務初日となるわけだ。
 あとの世話は課長に任せてしまえばいい。俺は肩の荷が下りた心地で、自分の席についた。前日が非番だったので、たまった仕事を片づけていると、しばらくして「おい、水月」と声をかけられた。
 刑事一課の西島課長のデスクに行くと、ついたてで仕切られた談話コーナーを指差された。そこでは小潟刑事が、紙コップを両手で抱えて、ふうふう息を吹きかけている。相変わらず子どもみたいに、うんとぬるくしないと飲めないのだ。
 いや、『相変わらず』なんて言葉の使い方はおかしい。俺は昨日はじめて彼女に会ったのだから。
 給湯器で自分の分のお茶を注いでから、椅子に座った。課長もやってきて、俺の顔を意味ありげに見る。
「どうだった?」
「ええ、まあ」
 何が「どうだった」で、何が「ええ、まあ」だか意味不明だが、西島さんとの会話はいつもこんな感じだ。良く言えば癒し系、悪く言えば緊張感がない。
「実は、今日からふたりで組んで、捜査に出てほしい」
「え?」
 絶句した俺に、彼女は申し訳なさそうに、チラリとこちらを見、こくんとお茶を飲んだ。
「小潟くんは土地勘がないし、地元のもんと組むほうがいいだろう」
「そうじゃなくて、外回りは早すぎませんか。最初はデスクワークから、ゆっくりとここに慣れてもらうほうが」
「実は、昨日、東京から捜査共助の依頼があってね。にわかに人手が足りなくなったんだよ」
 それに、小潟刑事は東京の事情もよく知っているから即戦力になる、という意味のことを、口の中でもごもご言う。
「話では、事件の重要参考人の男が、うちの管内に潜伏している可能性があるらしい」
「殺しですか」
「いやいや、結婚詐欺の被疑者だそうだ」
 俺と彼女は、同時にお茶を噴いた。

 盛岡市の南部とその周辺町村およそ500kuを管轄する盛岡南署は、管内に本署と三つの交番と七つの派出所がある。署員は157人。
 昨年の署全体の刑法犯の認知件数は600件。つまり、一日に二件の事件があるかないかの割合だ。東京の新宿署は一万件を超える。
 別に仕事が楽だとか言ってるわけじゃない。むしろ管轄する面積と署員の人数を考えれば、ひとりあたりの仕事はきついと思う。たかが結婚詐欺師ひとりを検挙するために、昨日赴任してきたばかりの女刑事の手を借りなければならないくらいだ。
 捜査資料をひととおり読み終えると、小潟刑事の姿が見えなくなっていた。刑事課を出ると、廊下の向かい側の給湯室で、女性警官たちの甲高い話し声が漏れてくる。彼女の声も、まじって聞こえた。
 あれほどの美人なら、相当なやっかみを同性から受けるんじゃないかと思う。知らない土地で、笑い合える友だちを作るには、かなり時間がかかるだろう。
「きゃあ、岩手の女のコって、お肌すべすべ〜。北国は美人が多いって本当だね」
「やだー。愛海ちゃんのほうが美人よー。それに、すごい気さくだし、仲良くなれそうっ」
 ……心配して、損した。
「ところで、水月警部補のことだけど」
 いきなり俺の名が出てきて、どきっとする。
「私、組むことになったんだけど、どんな人かなあ。なんか、去年ダイビングの事故に会ったって聞いたけど」
「うん、ひどい事故だったんだよ。何ヶ月もずっと意識がなくて、目を覚ましても記憶が全然なくて、家族や署の同僚の顔も忘れてたって」
 大げさなことを。何も記憶がなかったわけじゃない。ただちょっと……混乱してただけだ。
「ずっとリハビリで、本格的に戻ってきたのは今年の四月になってからだったかな」
「でも、なんか、ちょっとイメージが変わったね」
「んだなー」
「どう変わったの?」
「前はちょっと取っつきにくいというか、近寄りがたい感じだった。それがなんか、ふわんと柔らかくなって、着るものもすごくカッコいいし」
「ダンボール持ってくれたり、書類の書き方教えてくれたり、女のコに、すごく優しくなったよお」
 ……。
 ……信じられない。いったい誰の話だ?
「警部補にメタぼれのコ、署内にいっぱいいるんだよ」
「へえ」
「して、愛海ちゃんはどうなの」
「えへへ、私も、かなりタイプかも」
「きゃーっ。同じ寮なんでしょ、襲っちゃいなよ」
 だめだ。もう許容量を超えた。女の会話が、これほど生命力を殺ぐものだとは思ってもみなかった。
 廊下に並べてある書類用のロッカーの扉を叩いてわざと音を立てると、三人はおしゃべりを止めて振り返った。
 彼女が俺を見て笑顔を消すのが、ますます癪にさわる。
「行くぞ、愛海」
「ひ、ひゃい。すぐ支度します!」
 彼女は大慌てで給湯室を飛び出した。ほかのふたりは、ぽかんと呆けた顔で俺たちを見送っている。
 俺が無意識に彼女を呼び捨てにしたことは、瞬く間に署内に広がり、夕方には署長の耳にまで達していたそうだ。




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盛岡南署は架空の警察署です。盛岡弁もかなりアヤしいので、ご指摘よろしくお願いします。
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