伯爵家の秘密


第3章「王都へ」


(2)

「ミルドレッドや」
 父親が呼ぶ優しい声に、子爵令嬢は手を止めた。
 朝からずっと、メイドとともに自室のクロゼットの整理をしていた。領地の館から、昨夜遅く王都に戻ってきたばかりである。
 毎年夏を領地で過ごし、あとの管理は家令に託して、秋から翌年の春まで王都で過ごすのが、知る限りずっと続いているモンターニュ家の習わしだった。
 秋になると、社交シーズンが始まるからだ。のどかで穏やかな田舎暮らしにも、それなりの良さはある。だが、読書と縫い物と乗馬しかすることがない毎日は、三ヶ月で十分だ。
 ハンガーに架かっているローズピンクのドレスを眺め、その柔らかいドレープの手触りを確かめながら、ミルドレッドはうっとりと溜め息をついた。
 今秋最初の宮廷舞踏会に着ていけるように、誂えたばかりのドレスだ。
 胸ぐりの深い大人びたデザイン画を見て、最初のうち父は眉をひそめたが、母が「これを着たあなたは、きっと誰よりも美しいわ」と強力に後押しをしてくれた。
 品の良いピンクは、彼女の薄茶色の髪と目によく似合う。母方の曾祖母が金髪の持ち主だったそうで、彼女の髪は、その高貴な血をわずかでも受け継いでいる証だ。
「ああ、早く、舞踏会の日にならないかしら」
「ええ、お嬢さま。きっと殿方たちの視線は、きっとまた、お嬢さまに釘づけになりますわ。黄色のドレスのときのように」
 クロゼットのバーにリボンを丁寧に架けていた侍女のジルは、ふくよかな腰に自慢げに手を当ててみせた。
「翌月の舞踏会では、公爵令嬢や侯爵令嬢さまたちが、こぞって黄色のドレスをお召しになったと伺いました。しばらく都はその噂で持ちきり。わたくしたち使用人も鼻高々でしたわ」
 ミルドレッドはあの幸福な夜を思い出し、微笑みながらうなずいた。
 帰途の馬車の中で、父と母は涙を浮かべながら彼女を抱きしめてくれたのだ。『おまえは、わたしたちの誇りだよ』と。
 子爵は、貴族の中でも決して位は高くない。しかもモンターニュ子爵の領地は山ふところにあって地味に恵まれず、とりたてて産物もない、ごく貧しい土地柄だった。
 その貧乏貴族の娘が、社交界という最高の舞台で、公侯爵令嬢たちの羨望の視線を浴びることができる。女性として、これほどの名誉はない。
 ミルドレッドは貴族のしきたりどおり、幼いときは修道院の女学校で厳しいしつけを受け、二年前15歳になるのを待ちかねるようにして社交界にデビューした。
 生来の明るい気性が、華やかで刺激に満ちた社交界の水に合っていたのだろう。
 晩餐会や舞踏会での機知に富んだ会話を楽しみ、音楽や観劇に心おどらせる毎日。気がついてみれば、彼女の美貌と優雅さは人々から賞賛の的となっていた。
 父の声に呼ばれて廊下を歩きながら、ミルドレッドは何の用だろうといぶかしんだ。ジルは、「きっと、大通りへ買い物へ行こうとのお誘いでございますよ」と自信たっぷりの口ぶりだった。「あのドレスに合う毛皮のショールを、お嬢さまが欲しがっていらしたことを思い出されたのですわ」
 パルシヴァル・ド・モンターニュ子爵は、暖炉の前の安楽椅子で、ゆったりとパイプをふかしていた。むずかしい考えごとが苦手な男で、何かを考えなければならないときはパイプを忙しなく口に運ぶ癖がある。
 ダフネ夫人は、その横の椅子に座り、膝の上には作りかけのレース編みのモチーフが置かれていたが、去年からモチーフの数はちっとも増えていない。
「お呼びになりました? お父さま」
「おお、ミルドレッド」
 挨拶のため片膝を屈める間もないほど、子爵はすばやく腕を広げて、娘を抱き取った。
 続いて夫人も、雨のようなキスを彼女の両の頬に降らせる。
 幼いときから当たり前だった両親の愛情表現も、この歳になると、さすがに面映い。
「今日は、とてもいい知らせがあるのだよ」
「実はね、あなたに……」
「これこれ、重要な話は当主であるわたしの役目だよ」
「まあ、もったいぶって。どちらが話しても同じことですわ」
 ミルドレッドは、いらだつ気持を完璧に隠して、にっこりと花のように微笑んだ。
「お父さま、お願い。じらさないで教えてくださいな」
「はは。すまぬ。実はおまえに素晴らしい縁談が持ち上がったのだよ」
「縁談?」
 まったく予想もしていない言葉だった。
「驚いたかね」
「心臓が止まりそう。あまりにも急なお話で」
「実は、先方が一刻も早くとお望みで、ゆうべ遅くに使者をお寄こしになってね」
「お相手は、あなたもよく存じ上げている、ラヴァレ伯爵さまのご子息ですよ」
「伯爵さまの? まさか」
 ますます耳を疑う。
 ラヴァレ伯爵は、ミルドレッドにとって特別な意味を持つ方だ。彼女が二年前社交界にデビューするとき、エスコート役を務めたのが、かの伯爵だった。
 奥方さまが亡くなる数ヶ月前のこと、ご自身もまだ十分に健康を保っておられた頃だった。
 四十五歳を過ぎてなお若者と変わらぬ魅力にあふれた伯爵に手をとられて、大広間の大階段を降りていくとき、ミルドレッドはふわふわと夢見心地で、自分の足が動いている感覚さえなかった。
 下級貴族の令嬢にとって、上位の爵位を持つ貴族のエスコートを受けることは、大変な名誉だ。誰でも頼めば引き受けてもらえるものではない。
 それは社交界における後見人のしるしであり、さらに幸運な場合には、その爵家との婚約を意味することもあったからだ。
「でも、伯爵さまには確か、お子さまはおられなかったはずですわ」
 頭がくらくらして、何が何だかわからない。
「それがおられたのだよ」
 モンターニュ子爵は、頬がはちきれそうなほどの満面の笑みで答えた。
「十七年間、お館の外でお育ちになられたのだ」
「外で?」
 そのことが何を意味するのか、彼女は即座に理解する。
「だが、これはわたしたちにとって幸いなことだ。ラヴァレ家は伯爵家の中でも名門中の名門。もし正統のご嫡子さまなら、決して子爵家ごときの中から奥方を望むことなどなかっただろう」
「ご庶子さまとは言え、伯爵さまのお血筋を引いておられることに間違いはないのです」
 励ますように、母も口を添えた。「聞けば、お顔立ちも伯爵さまに似て、たいそう見目良き方だそうですよ。きっと一目見れば、あなたも夢中になります」
「――はい」
「お話をお受けしてもよいな」
 どの道、選択権などないことを、ミルドレッドは知っている。貴族の娘にとって結婚とは、まず家の結びつきなのだ。
 特にモンターニュ子爵家の場合は、子どもはひとり娘の彼女だけ。跡継ぎとなる男子がいない。
 血縁のある家から養子をもらう話が決まりかけたものの、ろくな財産もないことを見抜かれたか、何のかのと理由をつけて、いまだに実現していない。
 もし裕福な伯爵家と姻戚関係を結ぶことができれば、強力な後ろ盾ができることになり、先方も安心して養子を送ってくれるはずだった。
 養子と言えど、名目上のもの。顔を合わす必要もない。田舎の領地をさっさと引き渡して、子爵夫妻は王都で伯爵の庇護のもとに優雅に暮らせばよいのだ。
 家にとって、両親にとって、そしてミルドレッド自身にとって、これほど良い話はないではないか。
 それならば、何も迷う必要はない。唐突な縁談にうろたえるほど、自分は愚かな娘ではないはずだ。
 ミルドレッドは、心からの笑みを見せた。
「はい、お父さま、お母さま。よろしくお願いいたします」
「おお、そう言ってくれると思っていたよ。わたしの可愛い子」
 もう一度かわるがわる抱き合う。自室に引き取る娘の後姿を見送りながら、子爵夫妻は心配そうに顔を見合わせた。
「本当に大丈夫なのでしょうか」
 夫人は美しい眉間にしわを寄せて、訴えた。「伯爵さまにご庶子がいたことについては、陛下が大層ご立腹だとうかがいましたわ。その他にも、ご子息さまについて良くない噂が聞こえてまいります」
 パルシヴァルは重々しく首を振った。
「陛下も、あのような名家を軽々しく廃爵するようなことはなさるまい。叙爵式の日取りも決まったのだ。何も案ずることはない」
「そうだと良いのですけれど」
「このときのために、有象無象からの縁談を片っ端から断ってきたのだ。こんな恵まれた縁組は、もう二度と来ないのだぞ」
「あなた。あの子が涙を流すようなことは、決してないのでしょうね」
「ないとも。同じ涙でも、喜びの涙だよ、ダフネ」
 部屋に戻ったミルドレッドを、侍女が待ちかねるようにして迎えた。
「お嬢さま、いかがでした? わたくしの申し上げたとおり、やはりショールのお話でしたでしょう?」
「ショール?」
 子爵令嬢は、ローズピンクのドレスに虚ろな目をやった。
 さっきまで、あれほど彼女の心を浮き立たせてくれたものたちが、今ではすっかり色褪せて見える。
 舞踏会、晩餐会に観劇。ついさっきまで彼女の世界を形作っていたものが音もなく崩れていく。やさしい父と母のもとで、こんな日々が続くと信じていたのに。
 ――もう結婚だなんて。
「お、お嬢さま!」
 ジルがうろたえて叫ぶ声がする。
 ミルドレッドはベッドに突っ伏しながら、どうして自分が泣いているのかもわからなかった。


 エドゥアールは、その夜とんでもなく不機嫌だった。
 晩餐に出た上等の仔牛のローストを、親の仇のようにフォークで突き刺し、噛みちぎり、サーモンと秋野菜のクリーム煮は、完膚なきまでに叩きのめして消滅させた。
 空っぽのお皿と、投げ捨てられたナプキンと、「美味かった」という無愛想なひとことを残して伯爵子息が食事室を出て行ったあと、コックのシモンは緊張が解けて、やれやれと座り込んだ。
 王都の居館では、二階突き当たりの二間続きの部屋がエドゥアールのために用意されていた。重厚なつづれ織りのカーテンで覆われた天蓋つきベッドに仰向けになり、ぎりと歯を噛みしめる。
「結婚だとぉ?」
 ユベールは直立不動のまま、主の湯気が立つような憤激にひるむ気配もない。
「なぜ、今まで隠していた」
「もし前もってお教えしたら、若さまはそれこそ全力で妨害の策略をめぐらせたでしょう? そうなると、わたくしにも手に負えぬことになりますので」
「あたりまえだ。俺は絶対に結婚する気などないからな!」
 無実の羽根枕に拳で八つ当たりしながら、エドゥアールは上半身を起こした。「それでなくとも今は、爵位を無事に受け継ぐことしか考えられねえ」
「ですが、しかるべき身元の確かな令嬢とのご婚約が整っているということにしたほうが、叙爵前のご審議が有利に運ぶのですよ。なにせ」
 無表情な騎士は、また笑いの発作を抑えるために言葉を切る。「エドゥアールさまは、その方面ではかなり危いだろうというのが、衆目の一致した意見でして」
「そういう人聞きの悪い噂を、率先して立てるな!」
 吐き捨てるように言ったあと、エドゥアールはたっぷりと黙り込んだが、その時間が彼にとって状況を前向きに受け入れるのに必要な時間だということが、ユベールにはわかっている。
「モンターニュ子爵の娘――どんな女なんだ?」
「歳は十六歳、あなたさまより一歳下になります。社交界のみならず市井でも、大変な美貌の才媛と評判の令嬢です。伯爵さまが二年前にデビューのエスコート役をお務めになりました」
「親父が?」
「いたくお気にいられたご様子で、領地に帰られると病床の奥方さまに、『あんな愛らしい娘は見たことがない』と興奮して話されたとうかがっております」
 ――伯爵夫妻はそのときすでに、彼女を息子の妻として迎えることを話し合っていたのだろうか。
 と、エドゥアールは言葉にすることなく考える。王都の居館では、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。うかつなことを口にするわけにはいかないのだ。
「モンターニュ子爵は温厚でご夫婦仲も良く、よき家庭人として有名な方。王宮の政治にも、できるだけ関わらぬようにしておられます」
 ――つまり、政治的には中立。プレンヌ公爵派に与することはないだろうということだ。
「ミルドレッドさまは暖かい家庭に育まれ、良き教育を受けた、たいへん聡明な方だとお見受けしております」
 ――そして、これが最も重要な条件。彼の妻になる女性は、賢さと誠実さを備えていなければならない。エドゥアールの出生に関わる秘密を、一生のあいだ守り抜かなければならないのだから。
 ミルドレッドはその全ての条件を満たしていると、父であるラヴァレ伯爵は見込んだということだろうか。だが、何の関わりもない女性を、自分の厄介な運命に巻き込んでしまうことが許されるのか。
「まだ、ご立腹ですか」
 ユベールは主の逡巡に気づいて、声を和らげた。
 エドゥアールは、ベッドの上からまっすぐに近侍の青年を見上げた。その湖のような瞳は深く澄み、ときおり子どものように、ゆらゆらと頼りなげに見えることがある。
「ユベール、女とキスをするときは、目をつぶるものだって言うのは本当か?」
「は?」
 まったく見当違いの質問に呆気に取られた騎士は、屈みこんで小声でそっと訊く。「まさかと思いますが……若さまはまだご婦人とキスをなさったことは」
「ないに決まってるだろう。どこででもミストレスの目が光ってたし」
「娼館でいったい八年間も何をなさっていたのです」
「……いろいろしておいた方がよかったのか?」
「やれやれ。これは、ご結婚どころじゃないですね」
「わっ」
 ユベールは、エドゥアールの肩をつかんで、いきなりベッドに押し倒した。この氷のごとき男にとって、主人がうろたえるのを見るのは最高の娯楽らしい。
「それでは、今のうちにキスの極意をお教えします」
「おまえと? じ、冗談じゃねえ――」
 そのときちょうど、ノックの音がして、ジョゼが新しいタオルを山のように腕に抱えて入ってきた。何も気づかずにバスルームに入ってタオルを棚に置き、出てきたときに初めて、若旦那さまがベッドで近侍の騎士に組みしだかれているのを発見する。
「ひゃーっ」
 彼女は、この世の終わりを思わせる甲高い悲鳴を残して走り去った。
 メイドたちの間にまた妙な噂が立つのは、時間の問題だろう。


「何が起きてるんだ?」
 居館執事のナタンが眉をひそめながら、管に耳を押し当てている。主従の怪しげな会話がぼそぼそと続いたかと思ったら、突然メイドらしき女の悲鳴が聞こえてきたのだ。
 ボイラールームから各部屋に暖気を通すための空気管を使って、真下の執事の部屋からエドゥアールの部屋の物音を探ろうとしている最中だった。
(なんという、悪趣味な)
 家令のオリヴィエは、その様子を見ながら、あからさまな嫌悪に顔をしかめた。
 家令と執事では地位は明らかに家令のほうが上なのに、ナタンが彼に敬語を使わないことも気に入らない。王都に住み王宮との直接の連絡役だということを、この男は鼻にかけている節がある。
「今夜遅くにお呼びだ。わかっているな」
「ああ」
 苦々しい思いで、オリヴィエは答えた。
 その夜。伯爵家の居館がすみずみまで眠りに沈むころ、こっそりと裏口から出て行く人影があった。
 さらにもうひとつ、まったく闇に同化した影が音もなくすべり出た。
 月明かりの下、一対の尾行する者と尾行される者は、等距離を保ったまま王都の人気のない坂道をゆっくりと登っていく。
 やがて静まり返った屋敷町の一角で動きが止まった。
「ご主人さまにお取次ぎ願いたい」
 門番のカンテラの灯を避けるようにしてマントの襟を立てた男が、ひそやかな声を立てた。「オリヴィエと言えばわかる」
 ギギと扉が開き、男を飲み込んで、また閉まった。
 残された追跡者は、木の陰からその様子を見つめている。
 彼を迎え入れた館の主とは、クライン王国の国務大臣にして国王の叔父。この国の政務外交を一手に握り、フレデリク王を凌ぐほどの権勢を持っている男――プレンヌ公爵エルヴェ・ダルフォンス。
 そして、ユベールの父の命を奪った黒幕。
 騎士は、灰緑色の瞳を静かな怒りに燃え立たせて、ひときわ壮麗な館を睨み上げた。






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