伯爵家の秘密


第3章「王都へ」


(3)

 プレンヌ公エルヴェ・ダルフォンスは深紅のガウンを羽織って現われ、碧い瞳で、じっと訪問客を見据えた。
 今なお豊かな金髪。六十近い歳とは思わせぬ若々しい容姿。
 暖炉の前の椅子に腰をおろす動作に緩慢さはない。どれほどの権力をその手に集めても、時間だけは己の意のままにならぬことを知り尽くしている男だった。
 この世でもうひとつ、意のままにならぬものがあるとすれば、それは人の心だ。だが、そのことを認める謙虚さを、この公爵は持ち合わせていない。
「ルネから、おおよそのことは聞いた」
 人を怖じさせる重々しい声で口を開く。ルネとは、公爵の懐刀(ふところがたな)。ラヴァレ伯爵家の領館にさえ自在に姿を現わす、あの得体の知れぬ黒ずくめの密偵だ。
「あやつは、まだラヴァレ伯の嫡子が生きていると疑っておる」
「おそれながら何度も申しますように、ご嫡子さまは誕生の夜、エレーヌさまの腕の中で息を引き取られました」
 オリヴィエは顔を伏しながら、答えた。「エドゥアールさまは確かに、伯爵と農婦との間に生まれたご庶子でございます。わたくしとてサンレミ村に従者を遣わして調べさせたのです」
「だが、ルネの疑いももっともなことだ。あやつの父親は、ラトゥールの森で何者かに斬殺されて発見されたのだからな」
「不幸なことですが、あれは盗賊のしわざでございましょう」
「確かに、森を調べても、何も出てこなかったのだな」
「はい。放浪民族の老婆がひとり住んでいただけで」
 オリヴィエは、うんざりした気分をひたすら押し殺す。
 この数年、数限りなく蒸し返された話題だった。いわく、こうである。
――ラヴァレ伯爵夫妻は、王家の血を引く我が子の命が誰かに奪われることを恐れた。そこで、死産したことにして、十八年間も何処かで密かに育てているのだ。
 こんな馬鹿げたことを信じるなど、プレンヌ公はあまりにも常軌を逸している。ご嫡男セルジュさまの王位継承権をおびやかす者を憎むあまり、そう思い込みたがっているのだ。
「いずれにせよ」
 公爵はいらだった声で続けた。「エドゥアールは王家の血を引いておらぬと、そなたは申すのだな」
「はい。第一、エレーヌ姫の御血を宿すなら、必ず見事な金髪を受け継がれるはずです。あの方の御髪(おぐし)は、決して金色ではございません」
 オリヴィエは顔を上げ、胸に手を当てて誓った。
「それもそうだな」
 その確信に気圧されたのか、公爵は不服そうに反論の口をつぐんだ。「……だが、引き続き監視を怠るな」
「心得ております」
「エルンストの病状はどうだ」
「お世継ぎが決まったからでしょうか、少し生気を取り戻されたように存じます」
「ふん、早く死ねばよいものを。しぶとい奴め!」
 背筋がすっと寒くなった。プレンヌ公が伯爵を話題にするときの口調はいつも、苦いものを吐き捨てるようだ。ときどき、何か伯爵に格別の恨みでもあるのだろうかと感じることがある。
「奴は、共和主義者だ。リオニアで自由や平等などという言葉にかぶれた、貴族のくずだ」
(なるほど。カルスタンの手前、リオニアに与する者を目の仇にしておられるのか)
 リオニアとは、クライン王国の東に接する国だ。二十年前に革命と呼ばれる内乱が起き、貴族制度が廃止された。
 王制を敷いている近隣諸国は、この内乱の影響が及ぶことを今でも極端に恐れている。そのため北の強国カルスタンなどは、リオニアへの侵攻をずっと密かに画策しているとも言われているのだ。
 エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵は、若き頃この内乱前夜のリオニアに留学していたため、回りから『変わり者』、『共和主義かぶれ』と陰口をささやかれ続けてきた――実際には祖国の王政に異を唱えたことは、一度もないのにも関わらず。
 プレンヌ公が、もう用はないとばかりに立ち上がったため、オリヴィエはあわてて膝を着いてにじりよった。
「ひとつだけ、お伺いしたきことがございます」
「なんだ」
「マリオンさまとオルガさまは、健やかであられますか」
 公爵は、『なんだ、そんなことか』とばかりに、口の端をゆがめた。
「案ずることはない。息災にしておる」
「かたじけのうございます」
 貴人が部屋を出て行ったあと、オリヴィエはのろのろと立ち上がった。
 マリオンとは、プレンヌ公爵の妾夫人の名だ。公領の荘園のひとつに小さな館を与えられて、十二になる娘オルガとともに暮らしている。
 そして、ふたりはオリヴィエの愛娘と孫でもあった。
(大勢の妾夫人の中の末席。ましてや使用人ふぜいの娘。何も望んでいるわけではない)
 公爵の邸宅を辞する途上もずっと、オリヴィエは自分に言い聞かせた。
(ただ、公爵のお越しをいつも指折り数えて待ちわびている娘を、泣かせることだけは絶対にしない――たとえ、わたしの命に代えても)


 翌日、伯爵家の馬車は大橋をふたたび渡って、王都の郊外へと出かけた。このあたりの田園はすべて、王の直轄領となっている。
「なんだ。国王への挨拶がてら、王宮見物に行けると思ってたのに」
「陛下のご使者が正式なご書状を持って来なければ、何人たりとも、陛下に拝謁することはかないません」
 馬車に揺られながら、家令のオリヴィエが、ひどく冷たい声で答えた。
「ふーん、何人たりとも? 家族は別だろ」
「いいえ。王妃さまと言えど、拝謁には手続きを踏まねばなりません」
「ひでえ、夫婦でそんなのってありかよ。あー。俺、王族でなくてよかった」
 ユベールはその横で沈黙を守っている。
 昨夜の尾行で、間違いなくオリヴィエはプレンヌ公の手先であることが証明された。執事のナタンは言うに及ばない。
 回りは敵だらけだ。だが、だからと言って何が変わるわけでもない。これからも智略を尽くしてエドゥアールさまをお守りするだけなのだ。
「で、今からどこへ行くんだ?」
「聖マルディラ孤児院でございます」
「孤児院?」
「はい。伯爵家は代々この孤児院の名誉院長として、毎年五万ソルドという多額の寄付をしております。その由来と申しますのは、そもそも先々代のラヴァレ伯が45年前のラクア戦争のおり……」
「あー。わかったわかった。歴史の話は頭痛くなる。やめてくれ」
 エドゥアールは大げさに顔をしかめ、耳をふさぐ真似をした。
 ブドウ園の広がるのどかな農村地帯の一角に、ツタをからめた石塀に囲まれる修道院とおぼしき建物が見えてきた。
 広い敷地には、礼拝堂のほかに、宿舎、大きなパン焼き窯のある厨房に食堂、鶏小屋などが点在していた。
 馬車が門をくぐると待ちかねたように礼拝堂の扉が開き、中から聖職者たちに連れられた大勢の子どもが現われた。
 よちよち歩きの幼児から十五歳くらいまで。
 男の子も女の子も、白い清潔なシャツに、揃いの濃紺のローブを着ている。まるで小さな修道士のようだ。
 エドゥアールが馬車から降りてきたときには、すでに隙間なく整列して彼を迎えた。
 眼鏡をかけた背の高い女性がひとり前に進み出た。「ようこそ。若さま。わたくしが、この孤児院の院長シスター・クラリスと申します」
「こんにちは、わかさま」
 子どもたちが、ぴったりそろった可愛い声で叫んだ。
「名誉院長のご視察を受ける栄誉は、もう何年ぶりでしょうか。たいしたおもてなしもできませんが、今日はごゆっくりなさってくださいませ」
「ありがとう」
 エドゥアールはおざなりに答えながら、孤児たちを見回した。「ずいぶんたくさん、いるんだな」
「はい、82人おります。親が流行り病で死んだり、貧しい農村では、口減らしのために子どもを捨ててしまうこともございます」
「ふーん」
「でも、この孤児院に来れば、みな幸せですわ。清潔な環境で、おなかいっぱい食べられ、質の良い教育を受けることができます」
 確かに園内はどこもよく手入れされていた。果樹やハーブの生い茂る庭は、雑草の一本も見当たらない。
 大部屋に入ると、両側に並んだベッドや机はきれいに整頓され、シーツも糊が利いていた。
(さすがクラリス院長。相変わらず完璧だな)
 とオリヴィエは満足だった。
 気がつくと、エドゥアールは子どもたちにひとりずつ何ごとか話しかけ、子どもたちは目を伏せたまま、「はい」や「いいえ」と言った慎ましやかな受け答えをしている。
(ほう。この方は、こんな優しい表情ができるのか)
 いつも無作法でだらしなく、難しい話が苦手で、あくびばかりしていると思っていた主が、孤児院の視察にこれほど熱心だとは意外だった。
 建物のすみずみまで見て回ると、院長が居心地のよさそうな応接間へと客たちを促した。
「お疲れでしょう。お茶の用意がございます」
「ああ。お茶なんか、いらねえ」
「は?」
「それより、早くガキどもと遊びたくて、うずうずしてんだけど、いいかな?」
 言うが早いか、伯爵子息は着ていたジレを脱ぎ、カフスボタンをはずして、シャツの腕をまくりあげた。
「てめえら、みんな集まれ!」
 聖職者たちが唖然として見つめる中、エドゥアールは、戸惑う子どもたちをぐいぐい引っぱってきて、自分の回りに集めた。
「整列しろ。今から戦争ごっこするぜ!」
「オ、オリヴィエどの。これはいったい」
 クラリス院長は、おろおろして家令を振り返った。「お話がちがいます。今日の予定は、ご視察だけのはずでは?」
「つ、つまり、子どもたちを喜ばせようとなさる若旦那さまの突然の思いつきでして……」
 (しまった、油断した)と歯噛みしたが、すでに遅かった。
「ラクア戦役はわかるな」
 エドゥアールは、ゆっくりと孤児たちの顔を見渡した。「874年5月12日のポラン攻防戦について、誰か知ってるか」
 ひとりの年かさの少年が、おずおずと言った。「ポランの村に近い国境で、カルスタンの馬賊軍とクライン王立軍が激突しました」
「そうだ。よく勉強してるな。今日はその戦いを再現する」
 エドゥアールはてきぱきと、子どもたちを歩兵、重歩兵、騎馬隊などのいくつかのグループに分け、ふたつの陣地に配置した。
「敵の馬賊軍は、楔形陣形で山を駆け下りてきた。対する王立軍は側面から攻めた」
 ほどなく子どもたちは、先頭に立つ彼の指示に従ってときの声を上げ、庭の真中で取っ組み合いを始めた。騎馬隊は三人一組で馬と騎兵になって、ぶつかりあう。
「なんて野蛮な!」
 院長は悲鳴を挙げた。
「恐れ多くも若さまは、手ずから歴史の講義をなさっておられるのです」
 ユベールがすまして答えた。
 きれいなローブはどろどろ、靴や帽子は飛び散り、最初はへっぴり腰だった子どもたちも、次第に目を輝かせ、歓声を挙げ、倒れたり、踏まれたり、引っかき合ったりしている。
「まあ……!」
 院長は卒倒して、他のシスターたちに抱きかかえられた。
「看護兵! 負傷者を運び出せ」
 エドゥアールの命令で、看護兵役の女の子たちは次々と戦場に飛び込んでいっては、鼻血を出したり膝をすりむいたりして泣いている男の子たちを、手作りの担架で運び出す。
 陣地の後方に引き揚げると、エドゥアールは「負傷者の服を脱がせろ」と命じた。
「え……でも」
「ばかやろ。戦地における総大将の命令には絶対服従だ。脱がせろ」
 こっくりうなずいた少女たちは、男の子たちのローブとシャツをてきぱきと脱がせた。
「あ……」
 その場にいた伯爵家の訪問者たちは、全員驚きに目を見張った。
 服を脱いだ子どもたちの体に、無数の青あざがあったからだ。


 静まり返った孤児院の庭に、エドゥアールの低い声が響いた。
「これは、どういうことなんだ。院長」
 クラリス院長は、のろのろと起き上がると、ぼんやりと伯爵子息と子どもたちの顔を交互に見つめた。
「ひとりだけじゃねえ。たくさんの子どもたちの体に、同じようなアザがある。いったいどうしてだ」
「存じません」
 院長は、ひきつった笑みを浮かべた。「おおかた、わたくしどもの目の届かないところで、子ども同士ケンカでもしたのでしょう」
「そうなのか」
 エドゥアールは、ひとりの少年の肩を抱いた。「このアザは、誰につけられた」
 少年の目が泳いだ。おびえたように首を振った。
「ころんだんです」
「それは、そう言えと教え込まれたことばだろう」
「いいえ、先生たちは、とても良くしてくださいます」
 まるでセリフを言っているような一本調子。この孤児院で生活する者は誰でも、そう答えるように叩き込まれ、体が覚えこんでしまっているのだろう。
 エドゥアールは少年の前に片膝をつき、じっと見つめた。
「俺は、誰だ?」
 視線をそらさせないように目を覗きこみながら、励ます。
「さっきの戦争ごっこを思い出せ。俺は総大将だ。俺の命令は絶対なんだ」
 少年は眉を寄せ、きゅっと唇を結んだ。それから口を開いた。
「単語をうまく綴れなかったとき、院長先生に木の杖でぶたれます」
「そうか」
「詩を暗唱できなかったときも」
「挨拶のお辞儀がちゃんとしてないとき」
「朝礼の時間に遅れたとき」
 すすり泣きとともに、消え入るような声が、あちこちから上がった。
「みんな、よく教えてくれたな」
 エドゥアールは、慈愛に満ちた微笑を彼らに見せると、振り向いて院長をにらみつけた。
 その水色の瞳は一転して、荒れ狂う海の色になった。
「院長。てめえが孤児たちにしたことは、明らかに虐待だ」
「教育です!」
 クラリスは、がたがたと震えながらも反論を試みた。「わ、わたくしは、この子たちに最高の教育を与えようと……みな、何のしつけもされずに、ここへ来ます。徹底的に性根を入れ替えて、より有用な人間として社会に送り出すのが、院長としてのわたくしの使命です」
「人の目をまっすぐに見られねえようにすることが、教育か?」
 エドゥアールは吼えるように叫んだ。「ここの子どもたちは、みんなそうだ。人の顔色をうかがい、言いたいことも言えねえような人間を作ることが教育か!」
 誰もが、身じろぎひとつできない。それほどに、さっきまで子どもたちといっしょにはしゃいでいた、この泥だらけの若者は恐ろしかった。
 クラリス院長は屍のように蒼白になり、ゆっくりと地面に崩おれた。
「院長。名誉院長の名において、あんたを解任する」
 否むことのできない威厳を持って、伯爵子息は宣言した。
「その生真面目さが生かされる仕事に就けるように、できるだけの配慮をする。だが――それは、決して孤児院の院長ではない」


 聖マルディラ孤児院からの帰途についたのは、初秋の日がとっぷりと暮れる頃だった。
 馬のひづめと車輪の音だけが響いていた馬車の中で、家令のオリヴィエが疲れきった声でぽつりと言った。
「あそこには、旦那さまとごいっしょに二十年視察に参りましたが、まったく気づきませんでした」
「わたくしもです」
 近侍の騎士も同意した。「まさか院長みずからが子どもたちを虐待していたとは」
「普通は気づかねえよ」
 窓の外を見つめながら、エドゥアールは物憂げに答えた。
 娼館に売られてきた女たちの中にも、ときどきそういう場合がある。体じゅうのあざを隠し、おどおどした仕草で人と視線が合わない。
 多くは虐待を受けてきた少女たちだ。この国は、貧富の差ゆえに人が人に暴力をふるうことを見逃してきた社会なのだ。
「恐れながら、若旦那さまは子どもたちの様子をご覧になって、すぐに気づかれたのではないですか」
 オリヴィエが、向かい側の席から鋭い視線を注いだ。「だから虐待の痕を確かめる口実を作るために、戦争ごっこを提案なさったのでは」
 ユベールはそれを聞いて、「まずい」と思った。
 軽率だった。だが、あの場で知らぬふりができるようなエドゥアールではない。義憤に駆られてやむなく起こした行動が、今までの努力を水泡へと帰した。
 オリヴィエは、農村育ちの庶子にすぎない子息が持つ見識に気づいてしまった。そして、何故それをひた隠そうとするのかと、心の中でいぶかり始めている。
 真実に行き当たれば――プレンヌ公爵に秘密が漏れる。
 だが、エドゥアールはあわてる様子もなく、平然と答えた。
「まあな」
「聖職者たちと子ども双方を落ち着かせ、素早くあの場を収められた手腕……お見事でございました」
 オリヴィエは、深々と頭を下げた。「使用人にとって、賢明な主人に仕えることほど、幸福なことはございません」
 そのことばは本心なのか。それとも欺瞞なのか。ユベールにも推し量ることができない。
「もしかして俺、また面倒を起こしちまったのかな。全部あんたが後始末することになるんだろ……ごめん」
 バツが悪そうな口調とは裏腹に、エドゥアールはオリヴィエを静かにじっと見据えている。
 信頼に満ちた眼差しだった。この瞳の中に、敵をも和らがせる力が宿っている。
 切れ者の家令は、詰めていた息をふっと漏らし、頬をゆるませた。
「なんの、若旦那さま。この借りは、これからじっくり返していただきますからな」


 




【注】
髪の色については、この小説は現実とは異なる設定をしています。通常は、金髪は劣性遺伝であり、代々金髪の家系と黒髪の家系の親同士の間に金髪の子どもが生まれることはまずありません(もちろん、例外あり)。

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