Hungarian Rhapsody ハンガリー狂詩曲


           (3)


 西暦2219年。今年は「火星移民七十周年」の年とされている。
 第一次火星調査移民団が、クリュス平原の【火星ベースメント】に降り立ったのが、70年前の2149年のことだった。
 そして、その【火星ベースメント】の建設基地となったのが、衛星フォボスだ。だから、フォボスの名は必ず、火星開拓史の最初のページに誇らしげに出てくる。
 だが、今のフォボスに往時の面影はない。
 【闇市】。それが今のフォボスの不名誉な別名だ。火星への輸入品全体にかけられる高い関税が、【経済特区】であるここにはない。
 したがって、ありとあらゆる贅沢品が街にあふれかえる。賄賂が横行し、配給制になっている食糧の横流しや、輸出を固く禁じられている植物や鉱物の密輸までが、隠然と行なわれている。
 華やかな光と、それと同じだけの影をまとい、富の偏在する【浮遊城】。
 そして、そのどこかに【グラナトゥス】の本部があるという。

 吹き抜けの中央広場には、巨大な円筒形水槽が林立している。【海の森】と呼ばれるフォボスのシンボルだ。
 天井にはゆらゆらと水の映像が映り、見る者に、海の底から空を覗いているような錯覚を起こさせる。宇宙に生まれ育った人間にとっては、海は永遠のあこがれだ。
「ただやみくもに探し回るのは、効率的ではありません」
 オープンカフェの一角にいったん腰を落ち着けると、セフィロトが言った。
「まずわたしが、ここのシステムを統括するマザーコンピュータとの直接アクセスを試みます。その間にクリフォトがフォボスの内部を一周して、監視カメラの記録をチェックする。運がよければ、敵の手がかりがつかめるかもしれません」
「俺たちは、そのあいだ何をすればいい?」
「とりあえずは、ここに待機していてください。何かあれば、すぐに連絡を入れますから」
「では、わしは今のうちに、クルーザーの整備をしておこう」
 タオも立ち上がった。「敵地となれば、いつ緊急発進が必要になるか、わからんからな」
 結局あとには、レイとマルギットのふたりだけが残された。
「くそっ」
 もっとも血気に逸る男が、その場に足止めを喰らった格好だ。
「あの……レイ」
「なんだ」
「どうして、そうなっちゃったの?」
 マルギットはおずおずと、彼の苦虫を噛みつぶしたような横顔を見つめる。「なんというか、突然に性格が変わるのって」
 答える気はないとばかりに、レイは不機嫌にテーブルのコーヒーを口に含んでいる。マルギットが黙り込むと、ようやく自分から口を開いた。
「あんたの親は、どこの出身だ」
「え?」
「俺のハンガリー人の母親が、マルギットという名前だ。だから同じ東欧の生まれかと思った」
「ううん」
 マルギットは即座に首を振った。「あたし知らないの。ふたりとも話そうとしなかったし、あたしも別に興味なかったし」
「そうか」
「ハンガリーってどんなとこ?」
「俺の村は、丘の上に古い城があって、周りは一面のブドウ畑だった」
「そんな夢のような生まれ故郷があるなんて、あんたは幸せだね」
 話しながら、テーブルの上の男の拳が震えているのにマルギットは気づいた。薄茶色の瞳は、行き場所をなくしたエネルギーがうねって、あたかも暴走寸前の状態だった。
「ちくしょう」
「ど、どこへ行くの」
「どこでもいい。じっとしていられねえ!」
 レイは立ち上がると、走り出した。絶えずゆっくりと動いている地面の上で走ると、慣れない者は軽い目眩のような感覚に襲われる。【サテライト】生まれのマルギットでさえ、そうだ。
 フォボスは人工重力を得るために、毎秒80メートルの速度で【城】全体が回転している。ここは決して不動の大地ではないのだ。
 高層ビル同士を結ぶ透明チューブ状の連絡通路に駆け上がると、レイは手すりをつかみ、大きくあえいだ。
「だいじょうぶ?」
 ようやく追いついたマルギットは、彼の屈んだ背中を不安げに見つめる。
「……具合、悪そう」
「ときどき、こんなふうに息がつまる。気を抜いてると、すぐ意識が遠くなる」
「どうして?」
「情けねえ話だが、宇宙にいる間はずっとその調子だ」
 レイは背筋を伸ばし、首の汗を手の甲でぬぐった。
「フォボスの上にいても?」
「ああ、固い大地の上に立っていないとダメなんだ」
 と、口の端だけで微笑む。「事故の後遺症でな。子どもの頃、乗ってたシップが隕石と衝突して、ひとりだけ生き残っちまった」
「じゃあ、家族は――」
「シップもろとも粉々になった」
 マルギットはぎゅっと肩をこわばらせた。「ひどい――」
「自分の恐怖に打ち勝つために、航宙士になった」
 レイは拳を固めて、手すりに打ちつけた。「けど相変わらず、このザマだ。情けねえ」
「何言ってんの。そんな経験したら恐いのは当たり前だよ! あんたは全然、情けなくなんかない」
 少女はレイの背中から両腕を回して、衝動的に抱きついた。
「な、何を」
「これで、少しは恐くなくなる」
 広い背中に、ぎゅっと柔らかな胸を押しつける。「ほらね。人間は心臓の音が聞こえると、昔自分のいた胎内を思い出して落ち着くんだって。子どものとき、あたしが恐い夢を見て泣くと、お母さんがこうしてくれてたんだ」
 レイは、腰から彼女の腕をそっとはずすと、向き直った。
「バカなことするな」
 眉が困ったようにひそめられている。「せっかくの今までの努力が、水の泡になるだろう」
「努力?」
 彼はしばらくマルギットの唇を親指でなぞっていたが、思いを断ち切るように、再びくるりと背を向けた。
 思いがけない光景を発見したのは、そのときだった。
「あ、あれは……」
「え?」
「下を見てみろ」
 広場の片隅、レイたちのいるチューブ通路からそう遠く離れていない場所に、クリフォトが歩いている。
「ねえ、あれって」
「しっ」
 ふたりは、あわてて通路にしゃがみこんで身を隠した。
 クリフォトのそばに、もうひとりの男が近づいてきたのだ。彼らは短くことばを交わしたかと思うと、そのまま離れていった。
「誰なのかな」
「火星にもう七十年も住んでるんだ。あちこちに知り合いがいて当然だろう」
 と答えながらも、今の彼らの様子に、レイは何か不審なものを感じていた。
 そのとき、胸の徽章が点滅した。パイロット専用の暗号通信装置で、盗聴の危険性が最も少ない通信手段だ。
「俺だ」
『セフィロトです』
 いつ彼にキーナンバーを教えただろうかと訝りながらも、「どこにいる」と訊ねる。
『地下のショッピング・アーケードです。すぐに来てください』
 通信機の向こうのロボットは、意味ありげに声を落とした。『例の男を見つけました』