Hungarian Rhapsody ハンガリー狂詩曲


           (4)


 【地下】という言い方はおかしいかもしれない。
 すでに衛星フォボスには形ある地面はなく、人工の構造物で塗り固められた宇宙ステーションと化しているからだ。そして、遠心力で重力を作り出しているために、フォボスの中心部にエレベータで向かっていくとき、感覚的には確かに『昇った』のだった。
 だが着いた階層は閉鎖的で、のびやかな自然を感じさせるものは何もなく、セフィロトの持つ語彙の中では、やはり【地下】という言葉が一番ぴったり来るように思えた。
 フォボスのマザーコンピュータと短時間で膨大なデータをやりとりした末、マルギットと渋川ヒロトを誘拐した男の名を突き止めることができた。
【ジュラ・ロストフ】。
 驚いたことに、レイ・三神の母親と同じハンガリー人だ。仲間うちでは、竜を意味する【フェルニゲシュ】という暗号名で呼ばれている。
 IDカードの使用状況から、そのロストフが頻繁に出没する場所が、この地下のショッピング・アーケードだったのだ。
 華やかなディスプレイに彩られた街には、ないものはなかった。
 火星の住民の口には滅多に入らない、合成肉ではない本物のステーキ。配給制のバターや牛乳をふんだんに使ったケーキ。非合法の薬までが堂々と売られている。
(人間さえ売っていても、おかしくないな)
 セフィロトが考えたとき、レイとマルギットが走ってきた。
「タオさんは?」
「クルーザーの整備中だ。こっちの状況は連絡してある。――クリフは?」
「連絡を取ったところです。今、こちらに向かっています」
「実は……」
 レイは今見たことと、そのときのクリフォトの様子にかすかな懸念を感じたことを話した。
 セフィロトは口元に拳を当てて、考え込む。
「あいつは【グラナトゥス】の名を聞いたときに、明らかに反応しました。わたしたちの知らないことを何か知っているはずなのに、言おうとしません」
「あいつらと関わりがあるって言うの!」
 マルギットが気色ばんで、言った。「まさかそんなこと、絶対にあるはず――」
「それより、その男が出入りしている店ってのは、どこだ」
 レイ・三神は気短に彼女のことばをさえぎった。
「あそこです」
 セフィロトが指を差したのは、素人には一見何の変哲もない普通の酒場だった。だが、それだけではない淫靡な雰囲気をまとっていることは、勘の良い者ならばすぐにわかる。
「この女といっしょに、どこかで待っててくれ」
「え?」
「ここは、俺ひとりのほうがいいだろう」
 レイはプルシアン・ブルーの制服の襟をきゅっと整えると、ためらうことなく入り口に向かう。
「ああ、なるほど」
 セフィロトは納得して、心配そうに見送るマルギットの肩に手を置いた。「じゃあ、わたしたちは、おとなしくしていましょう」
「レイは危険じゃないの? 敵地にひとりで乗り込むなんて」
「彼なら、だいじょうぶです」
 セフィロトはとろけるような笑顔で言った。「ほら、あそこのコーヒーショップのケーキがとても美味しそうですよ」


 店に入ると、奥への扉の前にひとりの男が立っていた。
「こちらの店は、会員制になっておりますが」
 と言いながらも、客の一級航宙士の制服を興味深そうにちらりと見る。
「【フェルニゲシュ】の紹介で来たんだが」
 レイは落ち着きはらって、言った。「女に会わせてくれると聞いた―ー俺好みに調教できる、とびきりの女にな」
 男は、すぐに意味ありげな笑いを浮かべた。「なるほど、それなら、ここにいらしたのは正解です」
「すぐに会わせてもらえるのか」
「多少、お時間をいただきます。店の外から連れてきますもので。で、どのようなタイプがお好みでしょう」
「小柄なのがいい。ブロンドはごめんだ」
「承知しました。ちょうど良いのがおります」
 男はレイを、豪華な調度のある別室に通すと、自分は奥の扉から消えた。
(マルギットの話からすれば、誘拐された女たちは、おそらく一箇所に数人ずつ固まって閉じ込められている)
 レイはあたりに油断なく目を配る。(セフィロトならば、移動経路を赤外線か何かでトレースできるはずだ。それがダメなら、女を気に入らないふりをして店を出て、こっそり後をつける)
 果たして、事態はレイの目算どおりに運んだ。
 受付の男が、おびえたような表情の女性を連れて入ってくると同時に、レイの腕の通信機が鳴った。「悪いな。シップからの緊急招集だ」と店を飛び出すと、セフィロトがひとりで待ち構えていた。
「マルギットはどこだ?」
「あの店で待っていたほうが安全だからと、店中のチョコレートケーキを御馳走して、なんとか説得したところです」
 薄茶色の目をしたロボットは、いたずらっぽく目配せした。「ここからは、少々荒っぽい話し合いになりそうなので」
 細長いショッピング街をしばらく行き、途中で脇にそれる。下水道ポンプや配電チューブが張り巡らされている狭い通用路を、セフィロトの先導でさらに進むと、すぐにひとつの扉の前で立ち止まった。
「さっきの店と、このビルの二階の一室との間に通信回線が開かれたんです」
 と、この場所を突き止めた経緯を説明する。「中はざっと見て、十人ほどの赤外線反応があります。なるべく穏便にことを運びたいのですが――最悪の場合の覚悟はいいですか」
「どちらかと言えば、穏便な解決のほうが苦手でね」
「今の性格のあなたは、心強い道連れですね」
 セフィロトは、しみじみと言った。
 音を立てぬように扉を開けて中に入ろうとしたとき、後ろからささやく声がした。
「ちょっと待って」
 ふたりの男は後ろを振り向き、ため息をついた。
「ついてきちゃったんですね」
「もうチョコレートケーキは、当分見るのもイヤ」
 マルギットは当然とばかりに、男たちの間をすり抜けた。「私にも、【グラナトゥス】と戦う権利があるはずよ」
「しかたないな。もう後戻りはできない」
 レイは大きな手でマルギットの黒い髪の毛を、くしゃっと鷲づかみにした。「遅れたら、敵の真ん中へ置いてくぞ」
 途中にいくつかロックされた場所があったが、セフィロトはなんなく解除し、目指す階へと進んだ。
 この建物全体が、【グラナトゥス】の拠点になっているらしい。もしそうなら、無関係な者を巻き込む危険は減るが、敵の巣窟へ無謀にも飛び込んだことになる。
 前方の扉が突然開き、中から出てきた若い男が、三人に気づいてぎょっとした。
「誰だ」
「このへんで、うまいステーキの店をさがしてるんだが、おすすめはないかな」
 レイは余裕たっぷりの笑みを含みながら、堂々と前に進み出た。
 青年は、あわてて懐から電磁銃を取り出す。「とまれ。とまらないと」
「やめろ、ナット」
 扉の中から聞き覚えのある声がした。「そいつらは、俺の知り合いだ」
 ドアの陰から、ひとりの男が現れた。
 背の高い黒髪の青年。その顔を見たとき、これ以上意外なものを見たことがないというように、三人は動けなくなった。
「そんなまさか――」
「クリフ。なぜ――」
 クリフォトは、彫像のように無表情なままだった。
 そして、静かに口を開き、仲間たちの必死の問いに答えた。
「言わなかったか。【グラナトゥス】は、俺が作った組織だ」