The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 12 「はるかなる故郷よ」

(2)

 誰かが入ってくる気配に気づき、レノスは跳ね起きた。手にすばやく剣を握りしめたのを見たその人物は、大あわてで後ずさり、その拍子にカタンと杖が鳴った。
「お、俺です。フラーメンです」
 と叫びながら、ランプの火を自分の顔に近づける。明かりの中にぼんやりと、金髪の元百人隊長のなつかしい顔が浮かび上がったとき、レノスはようやく腕をだらりと下げた。
「わたしは……どれくらい眠っていた?」
「一時間ちょっとというところですか。二時間は経っていません」
「あの子は」
「さっきの女がずっと面倒を見ています。乳の出もいいようです」
「そうか」
「それと、ハイイロオオカミみたいな犬ころが、赤ん坊のそばから離れようとしないので、紐でつないでおきました。あの犬は確か……」
「セヴァンの猟犬だ」
 レノスは崩れるように、さっきまで寝ていた長椅子に腰を下ろした。膝に力が入らない。芯のある疲労が身体じゅうにまとわりついている。
 片脚のないフラーメンは、ゆっくりと杖を頼りに近づいてきた。
「あなたが砦に飛び込んできたときは、正直、手負いのライオンが檻から放たれたかと思いました。どうしてそんなことに」
「藪の中に、追手がひそんでいたのだ」
 飢えと渇きのためにひりひりと痛む喉から、ことばを絞り出す。「砦が見えたところで安堵が先に立って、油断した。いきなり横から飛びかかられて、どうしようもなかった――殺すしか、なかった」
「なぜ、あなたが氏族に追われるのです。氏族連合の王の奥方ともあろう方が」
 レノスはしばらく、考えの中に沈み込んだ。そして、意を決して口を開いた。
「将校たちを呼んでもらえないだろうか。至急、話したいことがある」
 兵士がひとり入ってきて、壁の松明に火を入れて、出て行った。そのあとに、真先に飛び込んできたのは、ラールス筆頭百人隊長だった。
 驚きと、何か痛々しいものを見るときの憐れみと。彼はそんな目で、レノスをひたと見据え続けた。
 セリキウス司令官、騎馬隊長ウォーデンと副官のペイグ、土木将校カイウス、補給係のルスクス、百人隊長たち。なつかしい顔ぶれがぞろぞろ入ってきた。どう考えればよいかわからないという皆の当惑の表情を、松明の光がぼんやりと浮かび上がらせた。
 無理もない。男だと信じていたのに女だった元上官が、氏族の男と結婚して子まで生した挙句、ふたたびローマの軍服を着こんで舞い戻ってきたのだから。
 まるで、喜劇だ。茶番だ。蹴られても、唾を吐きかけられても、叩き出されても文句は言えまい。
「いきなり飛び込んできて、すまない」
 硬く、低い声でレノスは話を切り出した。「今さら戻って来られる筋合いでないことは、よくわかっている。それに、わたしは今、追われている身だ。夜が明ける前に、ここを出て行くつもりでいる……ただ、その前に、どうしても伝えておかなければならないことがある」
「何でしょう」
 セリキウス司令官が、かすれた声で先を催促した。
「……セヴァンが殺された」
 男たちは、黙ったままだった。きっと声を漏らさぬようにと、歯を食いしばっていたのだろう。
「殺したのは、同じクレディン族の戦士長だ。ドルイド僧たちは氏族全体に、わたしと息子を殺せという命令を出した。古い恨みを焚きつけられた氏族たちは、ローマに関わるすべてのものを排除しようとしている」
 第七辺境部隊の士官たちは、身じろぎもせずに立っている。その無言が、自分に対する声高な非難だと思えて、レノスは、肺をなだめながら、何度も震える息を吸った。
「わたしたちの討伐を口実にして、一斉にローマ軍に刃を向けて来るだろう。セヴァンがいない以上、歯止めは利かない。ここだけではなく、ハドリアヌスの防壁より北にあるすべての砦が一斉に襲撃されると考えたほうがよい。もうあまり時間はない。一刻も早く、各砦にこのことを――」
 レノスは口をつぐみ、苦く笑った。「わたしなどが口出しすべきことではないな。すまなかった。すぐに出立の用意をする」
「ま――待ってください」
 騎馬隊のペイグが、口ごもりながら言った。「馬が疲れ切っています。今無理をさせたら、途中で泡を吹いて倒れるでしょう。もう半日だけでも休ませたほうが」
 レノスはうっすらと笑みを浮かべた。「ありがとう。だが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」
「なら、どうしてこの砦に来たんです?」
 ラールスの容赦ない怒声が沈黙を裂いた。「ここよりも、もっと安全な隠れ場所が、ほかにいくらでもあったはずです。現に、氏族の追手が砦の近くで待ち伏せていたと言う。忠告だけなら、ほかの誰かに伝言を託せばよかったのです。どうして、わざわざこの砦に逃げて来たのですか?」
「自分でもわからないのだ」
 レノスは惨めな気持ちで答えた。「……足が自然とここに向いていた。セヴァンが最期にローマの砦に行けと言い遺したのは確かだ。だが、そうでなかったとしても、わたしはここに来ていただろう」
「セヴァンが……?」
「世話になった」
 左手が、もう剣をつかんでいた。男たちの視線から逃げるように、レノスは部屋を出ていこうとした。
「待ってください――元司令官どの」
 セリキウスの大声が裏返った。立ち止まったレノスにつかつかと歩み寄る。
「ひとつだけ質問に答えていただきたい。あなたは氏族の現状を誰よりも知っている――わたしたちは氏族たちと戦って、勝てると思いますか?」
 レノスは振り向いた。セリキウスの真面目くさった顔つきは、いつも一番に門の前で出迎えてくれたころの彼と何も変わっていなかった。
 小さく息を吐くと、レノスは首を振った。
「むずかしいだろう。氏族はもう十年前の烏合の衆ではない。ローマ軍に劣らぬ指揮系統を持って、氏族間の連絡を密にしている。若い下っ端の盾持ちでさえも、熟練の鍛冶職人によって鍛えられた剣と槍を装備している」
 誰かが、小さく「くそ」とうめいた。
「さらに悪いことに、ドルイド僧たちが人々をそそのかし、狂信的な攻撃へと駆り立てている。古い呪いの世界へと、氏族たちは一夜にして立ち戻ってしまった。今までローマとの融和に好意的だった者たちも、今度は異を唱えることはできまい。そんなことをすれば、たちまち自分が次の標的となってしまう――セヴァンと同じように」
 目の縁が熱く燃えるようだ。レノスは涙をこぼすまいと、懸命に抗った。
「セヴァンは……わたしの夫は、武力によって氏族をひとつにまとめあげようとしていたのだ。北方からの襲撃を押さえ込み、ピクト人たちともローマ帝国とも、等しく平和を保ち、繁栄を分かち合おうとしていた……」
 ほんの数日前まで、そういう時代が来ると固く信じていたのに。平和を産み出すはずだった武器は、今やただの殺戮の道具に戻ろうとしている。
「それが、かえって裏目に出てしまった。すまない」
 うなだれてしまったレノスに、セリキウスが静かに問うた。
「あなたの判断をお聞かせねがいたい。われわれは、どうすべきだと思います?」
 レノスはしばらく、答えをためらっていた。
 もしローマ軍の司令官であったなら、口に出すことすら憚られたことばだ。帝国軍人としての誇りと矜持が、決して言わせないことばだ。
 だが、今のレノスは違う。軍人の誇りなど、すでにない。
「八つの砦に駐屯しているすべての辺境部隊を、いったんハドリアヌス長城まで後退させる。町の住民もふくめて、全員だ」
「なんだって!」
「氏族はローマ軍の五倍の人数で、大海の津波のように襲ってくるだろう。ローマ軍はその波にのみこまれる。数日は持ちこたえたとしても、最終的には敗北する」
 将校たちは、一斉に悲鳴と怒号を挙げた。
「氏族に負けるだって? 忘れているんですか。おれたちは、そんな弱くはない」
「この砦は強固だ。籠城して迎え撃つほうがいいに決まってます。砦を捨ててしまったら、それこそ敵の思うツボです」
「町の住民もすべて避難させるだなんて。何千人いると思ってるんです。そんなこと不可能だ」
 当然だ。かつてのわたしだって、同じことを言われたら同じように答えるだろう。全員退却は不可能だと決めつけ、徹底抗戦を選ぶだろう。
「すまなかった。とうてい受け入れられない話だったな。氏族の女のたわごとだ。忘れてくれ」
 ふたたび部屋を出ようとしたレノスの足元に、今度はルスクスのひび割れた太い声が、楔を打ちこんだ。
「待てや、司令官どの!」
 補給係は顔を真赤にして、つかみかからんばかりに詰め寄った。
「あんたは、また俺らを捨てて行くのかよ。ようやく帰って来てくれたと思ったのは、思い違いだったのかよ」
「……え?」
「それは、あんまりじゃねえか。あんたは、俺たちが敗けることを知って、救いに来てくれたんだろう?」
 レノスは途方に暮れて、首を振る。「わたしは……」
 ルスクスは、ふところから紅いりんごをひとつ取り出した。「俺は、あのくそったれな倉庫に、いつも最上のりんごを隠してたんぜ。あんたが帰ってきたら、これを食べて元気を出してもらおうってよ。さあ、これをやるから、俺たちといっしょにいてくれ。俺たちを助けてくれよ!」
 レノスは、受け取ったりんごをぼんやりと見つめた。
「元司令官……いいえ、レノス・クレリウス・カルス司令官どの」
 驚いて目を上げると、セリキウスは、うやうやしい敬礼の姿勢を取っていた。
「行かないでください。氏族の情勢を内部から見てよく知っているあなた以上に、われわれを導くのに適任の人はいるでしょうか。どうか今から、あなたがわれわれ第七辺境部隊六百人の指揮を取ってください」
 訴えかけるような何十ものまなざしが、レノスの胸を貫いた。
「じ――冗談を言っているのか」
 レノスは狼狽のあまり、舌をもつれさせた。「わたしは、もう司令官ではない。ローマ軍人ですらない。記録抹殺の処分を受けたのだぞ」
 セリキウスは部下たちに振り向いた。「誰か、カルス司令官の記録を処分した者はいるか?」
「いいえ、俺は知りません」
「俺もです」
 彼は、真顔で向きなおった。「あなたの後任の司令長官は来るには来ましたが、本部に居座ったきり、一度も砦を訪れたことはありません。中央はともかく、ここでは、辺境部隊の司令長官は、今もあなたです。どの砦も、喜んであなたの命令を聞くでしょう」
「違う……そんなことではない」
 レノスは地団駄を踏んで叫んだ。「わたしはずっと自分を偽っていた……おまえたちを裏切っていた。わかっているのか。わたしにおまえたちを指揮する資格などない。ローマ軍に入る資格すらない……わたしは、女なのだぞ!」
 そのとき、部屋の隅でガタンという大きな音がした。
 筆頭百人隊長のラールスだった。木の大卓の上に手に持っていた鞘入りのグラディウス剣を乱暴に置いたのだ。
「もう何か月も飲んだくれて、手入れすらしていなかった。刃こぼれだらけだ。だが、これから俺は鍛冶場に飛んでいく。そしてもう二度と酒は飲まないと誓う」
 彼の黒い双眸は、村を訪れたときの彼とはまるで別人だった。錆びついていたランプに、ふたたび火が灯ったのだ。
「確かに、全員退却するなんて常識じゃありえない。不可能だ……でも、あなたなら、話は違う。もし、あなたが指揮を取ってくれると言うなら、俺たちはどんな不可能だってやり遂げてみせる。なあ、みんな」
 そして、その火は、赤々と回りに燃え移って行く。
「ああ、おれたちならやれる。司令官さえいれば」
「どこまでもついていきますよ、カルス司令官」
「どうぞ、昔のようにご命令を!」
「おかえりなさい、司令官」
「おまえたち……」
 震える拳で、レノスはあふれでる涙をぬぐいとった。「わたしで……ほんとうに……本当に、こんなわたしでいいのか?」
「決まりですな」
 セリキウスの明るい声が聞こえる。「この瞬間から、この砦の司令官はあなたです。何でもお命じください。われわれ第七辺境部隊は忠実にあなたに従います!」


 一年の半分を雪に閉じ込められる極寒の地で、氏族たちは地面を掘って地下に食糧を貯蔵する。
 長い冬を間近に控えたこの季節、女たちは果物のジャム、チーズ、はちみつ、乾燥したキノコを宝物として棚いっぱいにたくわえておくのだ。
 麦酒や蜜酒が男たちの管轄であるのと同様、この地下の食糧倉庫には、女たち以外は足を踏み入れない。
 階段を降りてくる音に身を硬くしたクリストゥス信者たちは、それがメーブであることを知って、ほっと胸をなでおろした。
「馬車の用意ができたわ。みなさん、すぐに乗って」
 リュクスが「やれやれ」と、低い天井に気を遣いながら、せいいっぱいの伸びをした。「捜索隊は行っちまったのか。ひどく荒っぽい物音がここまで聞こえてきたぜ」
「ひとまずは村を出て行った。しばらくは戻って来ないと思う」
「あんたの親父さんもいたのか?」
 鋭い視線を向けられたメーブは、かすかに首を震わせた。「いいえ、父はいなかった。先頭に立ってレウナを追いかけているらしい」
「レウナのことは何か聞いているか」
「追跡が終わらないということは……無事だということよ」
「日数からすると、もう北の砦に着いた頃だろうな」
 三日ぶりに隠れ場所を出た信者たちは、陽の光に目の痛みを感じながらも、村の惨状から顔をそむけることができなかった。
「ひどい」
「みんな、なくなってる……」
 彼らの家も、祈りをささげていた集会の場も。
 すべて焼け落ちていた。ローマ式の公共浴場も、村の中央広場にあった日時計も、原型なきまでに砕かれ、打ち壊されていた。
 ローマ人たちが作り出したもの、ローマの痕跡と呼べるものはすべて、徹底的に破壊され尽くしていたのだ。
 泣き出した女性信者の肩を抱いて、ユニアが励ますように言った。
「さあ、砦の町に戻って、兄弟姉妹たちといっしょに主に感謝しましょう」
 メーブに案内された一団は、木立の中に慎重に隠された馬車に乗り込んだ。手荷物などない。誰もが着のみ着のままだった。
 リュクスが最後に乗り込もうとしたとき、突然腕をつかまれた。
 木の影にひそみ、彼を引き戻したのは、セヴァンの弟ルエルだった。
「あなただけに、話しておきたいことがあります」
 枯葉を踏みしめ、馬車から少しの距離を置く。ルエルは半ば顔をそむけるようにして立った。
「決して誰にも言わないと約束してください。ユニアさんにも誰にも、です」
「なんの話だ」
「セヴァン兄さんは……生きています」
「な……」
 リュクスは、ぱくぱく口を開いたが、喉からはふいごのような音しか出てこなかった。
「刺された直後、息がありました。僕はとっさにカタラウニ族の族長に助けを頼み、彼の知り合いの猟師の家に運んでかくまってもらったのです」
「……死んだというのは、嘘か」
「そう言わなければ、レウナさんは決して逃げようとはしなかったでしょう」
 ルエルは拳をぎゅっと握りしめた。「それどころか、どんなに止めても、兄を助けに行ったでしょう」
「そうだろうな……あの人ならそうする」
 リュクスはしばらく顎の傷をもてあそんで考え込んでいたが、やがて「よし」と大きくうなずいた。「わかった。砦でレウナに会ったとき、俺がそのことを伝えればよいのだな」
「いいえ」
 木立の暗がりの中で、ルエルの薄緑色の目は、水面でちろちろと燃える沼気の炎のように見えた。
「絶対に話さないでください。遠くへ逃げて、万が一引き返そうとしたときは――あなたがどんな手段を使ってでも、あの人を止めてください」


 レノスは片手に短剣を持ち、背中を向けて立っていた。床には長い髪の房が散らばっている。
「失礼します」
 セリキウスが声をかけると、不揃いな前髪を揺らして振り向き、笑う。「床を汚してすまんな」
「いいえ」
 彼は、かつんとサンダルの音を立てた。「町の主だった者たちを呼びました。会議室で待っています」
「わかった」
 レノスは、剣を剣帯に差し、百人隊長の兜を頭にかぶった。その頬の厳しい線を見て、セリキウスはこの人が女であることを、ほとんど忘れそうになった。
 朝の光が射しこむ大部屋には、町の主だった者たちが座っていた。参事会員、商人組合の代表、退役軍人たち。スーラ元司令官もその中にいた。
「朝早くからすまない。あらましについては、書状に書いたとおりだ」
 レノスは立ったまま両手を卓につき、ひとりひとりを見渡した。
「氏族軍がこの砦に対して包囲陣を敷くまでには、あと三日はかかるだろう。一日の猶予を与える。その時間で避難の準備をしてほしい。ひとりにつき、食糧のほかに袋ひとつの荷物を持つことを許可する。あとはすべて置いていくように」
 顔色をなくした男たちは、互いを見交わした。
「氏族の出身で、頼れるような親族がいる場合は、そちらに身を寄せてくれてもよい。ただし、ローマの町に住んでいたことは決して悟られぬように。知れれば命はないと思え」
「待ってください」
 参事会員のひとりが、耐えきれなくなって立ち上がった。「避難と言うのは、いつまでです。いつ戻って来れるのです」
「戻って来る予定はない」
 「なんだって」と、代表たちはざわめき始めた。
「待ってくださいよ。話が違う。この町は将来発展すると聞いたから、財産を全部売り払って南から越してきたんだ」
「25年働いて退役のときにもらった大切な土地を、みすみす氏族にくれてやれというのか。冗談じゃない」
「おれたちを守るのが、あんたらの仕事だろう。戦えないなら、何のための軍隊だ」
「なんとか氏族と和議を結ぶことはできないのか」
「それでも、栄光あるローマ軍か。いくじなし」
 レノスは、彼らの轟轟たる非難に、ただじっと沈黙をもって耐えた。
「みんなの言うことは、よくわかる」
 最後に、低い声で答える。「わたしも撤退などはしたくない。だが今、氏族連合軍を率いているのは、ドルイドの教えを忠実に守る者たちだ。彼らは敵の命を惜しんだりはしない。異質なる者は徹底的に排除される。町はすべて踏みにじられ、略奪され、人々は槍に貫かれて串刺しにされる。女も子どももひとり残らずだ。東のカタラウニ族の領地にあるローマの廃墟を見た者なら、わかるはずだ」
 レノスの瞼の裏には、二十年前にあそこで起こった惨事が焼きついている。
「すぐに逃げなければ、同じことが繰り返されるだろう。今の氏族の中には、アイダンもセヴァンもいない。ローマと和議を結ぼうなどと企てる者は、すべて死に絶えた。財産だろうが土地だろうが、生きていればまた取り戻すことはできる。だが、生命だけは誰にも取り戻すことはできんのだ」
 最後のことばの残響が部屋から消え去るまで、誰ひとりとして身じろぎもしなかった。
「明朝、夜明けに南の門の前に集まれ。まず、女と子どもと老人が馬車で出発する。壮健な男は徒歩だ。全員が南の要塞に到着するまで、道中はローマ軍が責任を持って護衛する」
 静まりかえった部屋を後にして、外に出たとき、レノスは思わずよろめいて、壁に背中を預けた。
(わたしは取り返しのつかない間違いを犯しているのか。先が見えない。どうすればよいか、わからない……セヴァン。教えてくれ。おまえだったら、どうする?)
「レノス」
 あとを追って部屋から出てきたスーラ元司令官が、両腕を広げてレノスを抱きしめた。
「大変な思いをしたのだな。つらかったろうな。フィオネラも泣きながら祈り続けているよ」
「……スーラどの」
 この腕の中でわずかでも憩うことは、今のレノスには許されていなかった。腕から離れると、兜の下からまっすぐな眼差しを彼に向ける。「あなたは、この撤退という判断を、正しいと思われますか」
「ああ。疑う余地はない」
 老将は目をしばたいた。「だが、それでも、この町に残ろうとする住民はかなりいるだろう。全財産を失うことを死よりも恐れる人間はとても多いのだ」
「あなたも全財産を売り払って、この町に来たのではないですか」
「わたしの財産は、何があっても失われることはないのだよ」
 スーラは人差し指を天に向かってぐいと突き上げて、笑った。
「できるだけ、皆を説得して回る。わしの老いた体では、もうそれくらいしか、きみの役に立てん」
「ありがとうございます」
 足を引きずりながら去っていく元上官を見送りながら、レノスはそっと目じりの涙をぬぐった。
 ルーンが寝ている部屋に入ると、世話をしていた若い女はレノスを見て、ぽかんと口を開けた。この赤子を彼女に託した母親と、今目の前にいるローマ軍の隊長が、同じ人間とはとても思えなかったのだ。
「ずっと見ていてもらって、すまなかった」
 レノスは片膝をついて、女の手を取った。「あなたの名前は何という」
「デヴィン……です」
「デヴィン。すでに聞いているだろう。町の住民全員が南の要塞へと避難することになった。今から家に戻って、準備をしてきてほしい。そして、あなたの夫と子ども、親族全員を連れて、できるだけ早くここに戻ってきてほしい。当分のあいだ、この子をあなたに頼みたいのだ」
「わ、わたしが、隊長さまのお子を?」
「その代わり、あなたの一家の行く末は、わたしが責任を持って面倒を見る。どうか、よろしく頼む」
 女は唇を引き結んで思案していたが、それほど長い時間ではなかった。
「わかりました。急いで支度をしてきます」
 と、一礼して小走りに立ち去った。
 賢い女性だ。レノスの提案が、家族にとって最善の道であることを、一瞬にして判断したのだろう。彼女ならルーンを安心して預けることができる。
「ルーン」
 レノスは、籠の中ですやすや眠っている我が子ににじり寄った。
 何時間も乳をやっていない。いつもなら乳房は痛いほど張ってくるはずなのに、赤子を見ても少しの張りも感じない。
 もう自分は、母親ではない。この子の母ではいられなくなったのだ。
「ルーン、すまない」
 赤子のやわらかな髪にそっと指を触れ、レノスは嗚咽を噛み殺した。「おまえのそばにいてやれなくて、すまない……」
 かたかたと杖の音がして、「やはり、ここでしたか」とフラーメンが垂れ幕を上げて入ってきた。
「ウォーデン隊長が捜してましたぜ。早馬が戻ってきたそうです」
「わかった。すぐに行く」
「お願いします」
 フラーメンは笑みを口元に張りつけたまま、視線を落とした。
「……可愛いもんですね、赤ん坊ってものは」
 声のわずかな翳りに気づいて、レノスは部下を見上げた。「どうした、何かあったのか」
 フラーメンはおどけたように、肩をすくめた。
「ローリアが残ると言い出したんです。親父さんがもともとダエニ族の村の出で、知り合いの家に身を寄せると言い張っていて。たったひとりの親を置いては行けないと言われました」
「それで、おまえは何と答えた」
「仕方ないな、と答えましたよ。俺たちは縁がなかったんだろうと」
「馬鹿な。なぜ、ついてきてほしいと言わない」
「言えませんよ、そんなこと」
 フラーメンは頭をくしゃくしゃと掻きむしった。「この足は、自分が立っているだけでせいいっぱいだ。彼女を守ってやることも、まして将来を約束することも、俺にはできっこありません」
「フラーメン」
 レノスは立ちあがり、杖を握りしめている彼の手に両手を重ねた。
「愛する人の手を離してはいけない。きっといつか後悔するときが来る。そのときは、もう遅いのだ」
「でも……」
「ひれ伏して、結婚を申し込んでこい。ローリアと父親を、縄で縛ってでも連れて来い。ふたりは、第七辺境部隊全員で守るから」
 フラーメンは青い目を見開いて、まじまじとレノスを見ていたが、ものも言わずに部屋を飛び出した。
 入れ替わりに、騎馬隊長のウォーデンが入ってきた。
「どうしたんです。血相変えて飛び出して行きましたよ、フラーメンのやつ」
「なんでもない。東の砦はどうだった」
「信号塔ののろしで、全部の砦に命令が行きわたっていることを確認しました。東の砦でもすでに退却の準備が始まっています。先方の司令官と、避難経路の確認をしてきました」
「氏族たちの様子はどうだ」
「ざわめいていますね。ただ、動きはまだありません。向こうも十分に準備を整えて、全砦に一斉に攻撃をしかけてくるつもりでしょう。偵察に行った部下たちが戻って来たら、あらためて詳細を知らせます。それと」
 ウォーデンは何でもないという口ぶりで付け加えた。「藪にころがっていた三つの死体は、片づけておきました」
 レノスがここへ逃げてくる途中に殺した追手たちのことだった。
「すまない。ご苦労だった」
 ウォーデンが出て行くと、入れ替わりに伝令兵が入ってきた。
「クレディン族の交易所の代表が、司令官どのに会いたいと外で待っています」
「すぐに通してくれ。あ、それから」
 大勢の出入りに、すっかり目を覚ましてしまったルーンは、籠の中でぐずり始めていた。
「非番の兵士をひとり寄こしてくれ。子守の経験がある者がいい。それと、何か食べ物だ」
「承知しました」
 レノスはふたたび、兜を目深にかぶった。ルスクスのくれたリンゴは、すでに芯まで食べてしまった。これから当分、食事は立って食べることになるだろう。
 クーランの弟ブリアンは悲痛な面持ちで現われ、レノスの顔を見ると、膝を折った。
「レウナさま。セヴァンさまのことは何と申し上げればよいのか……どうか、赦してください」
「そんなふうに言うな。あなたの責任ではないのだ」
 レノスは小柄な男の腕を引いて、立ち上がらせた。
「それより、町の様子はどうだ」
「みんな逃げる準備で大騒ぎです。われわれの妻と子どもも送り出しました。村へは入らず、丘の中腹の羊飼いの小屋でしばらく様子をうかがえと」
「賢明な判断だ。村には今はかえらないほうがよい。あなたたちもすぐにここを出て、身をひそめていてほしい」
「そのことですが」
 ブリアンは居住まいを正した。「何かお手伝いさせてください」
「え?」
「男が五人残っています。クレディン族として、この町のために何かしたいのです」
 目をうるませながら、レノスを見つめる。「わたしはセヴァンさまの改革に賭けていた。戦いによる奪い合いではなく、交易によって国と国は互いに豊かになるべきだという言葉に心酔した。ここに来た者たちは皆、同じ気持ちです。それなのに、あの愚かな兄は、力によって希望を捻じ曲げてしまった……わたしは悔しい。何かしなければ、いても立ってもいられないのです」
 戦士長であるクーランとは、性格も体つきもまるで正反対な弟。
 彼らはどんな子ども時代を送ったのだろうか。アイダンとセヴァンのように、互いをそねみ、同時に慕い合っていたのだろうか。
 レノスは温かな痛みが腹の底に湧き上がるのを感じながら、ブリアンの二の腕をぽんと叩いた。「ありがとう。あなたの思いは受け取った。ひとつだけ、協力してほしいことがある」
「喜んで。何をすればよいのですか」
「まだ今は言えない。砦の中で待機していてくれ。時が来たら呼ぶ」


 北の砦の町の最後の夜が明けていく。
 戦勝記念塔の先端は曙光に薔薇色に染まり、なお消えぬ家々の灯は、ローマ支配の終焉を惜しむかのように美しく瞬いていた。
「こんなに平和なのに」
 砦の胸壁に登り、町を見下ろしていたレノスの隣に、いつのまにかセリキウス司令官が立っていた。
「本当に終わってしまうんですかね。ここは」
「わからん。いつか……何年か何十年かして」
 レノスは静かに答えた。「ローマがふたたび力を取り戻したときは……またここに戻って来れるかもしれん。そうでなければ、廃墟として、永久に朽ち果てて行くままだ」
 あの、千年前の人々の聖地だったという、朽ちた石垣のように。
「人間の運命なんて、はかないものです」
 セリキウスは、白み始めた東の空を仰いだ。「昨日まで命を懸けて守っていた砦を、今日は見捨てて去らなければならない。今日は生きていても、明日生きているかどうかなんて誰にもわからない」
「セリキウス」
 レノスは、部下の横顔を目を細めながら見た。「この撤退の責任はすべてわたしが負うつもりだ。だが、副官のおまえに、とばっちりが及ぶのは避けられぬかもしれん」
「大丈夫です。別に死んでも悲しむ家族はおりません」
「何を言っている。おまえが死んだら、転げまわって泣く連中がここには大勢いるんだぞ」
「それを言うなら、あなたが鞭十回の刑でも受けるようなことになったら、連中は皇宮に攻め入りますぜ」
 ふたりは声を殺して笑った。セリキウスはさばさばした笑顔を、レノスに向けた。
「帰ってきてくださって、本当にありがとうございます。わたしは司令官となってから、自分の手に人の運命を握ることが、ずっと恐くてしかたなかった。今度のことも、わたしひとりでは何も決められないまま、多くの人間を無駄死にさせてしまったことでしょう」
 彼は薄れていく星空を見上げ、鼻水をすすりあげた。
「あなたを連れ去ったセヴァンをずっと恨んでいました。馬のしっぽに足をくくりつけて、引きずり回してやりたいと思っていました。だが、今は違う。むしろ感謝しています――最後の最後に、一番必要な時に、あいつはあなたをわれわれに返してくれたのだと」
 町の灯がにじんで、溶けてゆく。もうすぐ灯は消え、家々の扉がおずおずと開き、人々は大きな不安と絶望を胸に、南の門の前に集まり始める。
 泣いている暇などない。
(セヴァン……)
――おまえは今、ヴァルハラにいるのか。隣にアイダンは立っているか。どうか、ふたりとも、わたしに力を貸してくれ。ルーンと、このおびただしい人々の命を守りきることができるように、空からわたしを見守っていてくれ。


 猟師の男は、猟と野良仕事の合間にやってきては、水を飲ませ、背中の傷の包帯を取り換え、寝床に新しい藁を敷いていく。
 今、セヴァンは左の脇腹を下に、戸口のほうに顔を向けて寝かされている。
 入り口の垂れ幕が開くと、秋の長い光が射しこんで瞼の裏を赤く染め、すぐに暗闇に戻った。
「ラモントか……」
「目覚めていたのか」
 カタラウニ族の族長がゆっくりと近づいてくる足音がした。「具合はどうだ」
 セヴァンはそろそろと瞼を押し上げ、なんとか彼に焦点を合わせようと努めた。
「俺は、どれくらい寝ていた?」
「五日だ」
「そんなに……」
 肘で体を支えて起き上がろうとしたが、激痛のためにすぐに試みを放棄した。頭の中がぐるぐると回り、瞼の裏にたくさんの光の斑点が浮かんでは消えていく。
「無理をするな」
 ラモントは椅子を引き寄せて寝床のそばに腰かけ、熱に浮かされているセヴァンの額に手を当てた。
「腹の傷は治りが悪い。無理をすれば、二十年経っても痛みがぶりかえす」
 セヴァンがうっすらを目を開くと、彼は自分のみぞおちを手で指差した。「二十年前に同族から受けた傷だ。こんなふうになりたくなければ、今は何も考えず、養生しろ」
「レウナは……」
「クレディン族の追手が三人戻って来ないと聞いた。ローマの北の砦の近くで血の痕が見つかった。レウナはなんとか砦へと逃げおおせただろう」
 ラモントは炉の火を見つめながら、あの日の幼い少女に少しのあいだ思いを馳せた。
「俺がここに来るのは今日が最後だ。明日の夜、ローマのすべての砦に対して全氏族が陣を敷く。払暁と同時に総攻撃をかける。俺もカタラウニ族の族長として、先頭に立って戦うつもりだ」
「なんだと……」
「俺はおまえの仲間だと疑われている。ふたりで話していたところを誰かが見ていたらしい。勇敢に戦って、カシの木の聖者に忠実に従うことを示すしか、自分の民を守る道はないのだ」
 セヴァンは痛みをこらえて上半身を起こした。
「頼む。たとえ半日でも……1時間でもいい。その総攻撃を遅らせてくれ」
「遅らせて、どうするというのだ」
「レウナは……すべての砦からローマ軍を撤退させるために、今必死で動いているはずだ」
「全ローマ軍を撤退?」
「あの人なら、きっとそうする」
 ラモントは首を振った。「いくらなんでも……三日やそこらで、そんなこと不可能だ」
「あの人なら、それができる。ラモント、頼む」
 伸ばそうとした腕がだらりと床に落ち、セヴァンはふたたび寝床に突っ伏した。
 ラモントは立ち上がった。「やってみよう。できるかどうかわからんが」
「恩にきる」
 セヴァンは顔をわらに押しつけたまま、浅く呼吸した。
「成功すれば、あの人は部下をひとりも失わずにすむ。ハドリアヌスの城壁の南に逃げて……二度とこの地には足を踏み入れないだろう」
「それでいいのか?」
「ああ」
 瞼の裏の闇に、チカチカと火花がはじける。「俺はもう……死んだのだ。二度と妻と息子に会うつもりはない」

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