The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 12 「はるかなる故郷よ」

(3)

 かつて氏族連合の王であった男は、傷のもたらす高熱にうなされながら、藁の床に伏していた。
「俺は……レウナが望むことを、すべて自分の力で実現しようと思った」
「ローマと氏族との平和……か」
 ラモントはかたわらの椅子に腰かけ、あわれみをこめて彼を見つめていた。
 「ああ」と、苦悶の息の合間に、言葉をひと撚りずつ細く紡ぐ。「王となって氏族をまとめあげ……異民族の侵入を阻む。そして、ローマと対等な力をつける」
 最初のうちは、すべてうまく行った。民は新しい王を受け入れ、彼のかかげた『強く豊かな国を作る』という理想に熱狂した。ピクト人や海の向こうの民との絶え間ない戦いも終息に向かい、ローマとも和睦を結んだ。
 彼の目指していたものまで、あと少し。あと少しだったのに。
「俺は、間違っていたのかもしれない」
「何を」
「俺はローマへ行って、見てしまった。山よりも高い高層の建物を、町のいたるところに水が湧き出で、奴隷のパンがありあまっている国を。すべての人が法律の文言で裁かれ、町角で小さな子どもでさえもが文字や算盤を学ぶ国を」
 セヴァンは藁をつかんで握りしめた。まるで自分の心臓を握りつぶすかのように。
「俺は心の隅で、自分の生まれ育った村を恥ずかしく思った。ローマを憎みながら、ローマにあこがれた。あの国が持っている知識を、俺の育った村にも伝え、同じ繁栄を分かち合いたいと。文字を伝え、日時計と水時計で時刻を読み、川から水路を引き、道を整え……」
「何もかもがその通りになったではないか。みんな喜んでいた」
「ああ、みんな喜んだ。だが、本当に、民はそれを願っていたのか」
 ローマの公衆浴場の庭で、ガリア戦記を音読していたときのことを思い出す。
――では、なぜウェルキンゲトリクスは敗れたのか。
 レノスの問いかけに、彼はとうとう答えていなかった。なぜ俺は敗れてしまったのか。
「人は、変わることを恐れる。心の底では、変化を願っていない者もいたはずだ。力ずくではなく、もっと時間をかけて、ひとりひとりと話すべきだった。今までの氏族の生き方を捨てるのではない、より良くするのだと、きちんと伝えるべきだった」
「そうだな。おまえは、性急すぎた」
「ああ。俺は性急すぎた。もっと自分の回りにたくさんの味方を作るべきだった……ウェルキンゲトリクスも俺も、焦りすぎたのだ」
 いつのまにか、戸口に松脂色の闇がわだかまっていた。夜風とともに、モリフクロウの茫とした鳴き声が部屋に忍びこんでくる。
 ラモントは今晩のうちにローマとの戦いに出立すると言っていた。
 では、今セヴァンと話しているのは誰なのだろうか。もしかして、そこにはもう誰もいないのかもしれない。
 彼と話しているのは、疲れ切ってうずくまる、ただの影なのかもしれない。
 

 夜が明ける前に、第一陣が出発した。
 五十名の先遣隊。その後に、徒歩の住民千人と、糧食を載せた馬車と護衛隊が続く。
「五千人の住民と六百の大隊が一週間をかけて、ハドリアヌスの長城まで退却する。途中で、他の七つの砦からの避難民およそ一万二千人と合流しながら進む」
 出発前の夜更け、砦の中央広場で、レノスは兵たちを鼓舞した。「成功すれば、ローマ軍の歴史にかつてないことが起きる。おまえたちは今日、その目撃者となるのだ」
 兵士たちは槍を地面に打ちつけて、鬨の声を上げた。
「まあ、言葉にすると簡単ですが」
 副官のセリキウスは、緊張のあまりちくちく痛むらしい腹をさすりながら、続いて会議室に入ってきた。「二万人近い一般人の食糧と水、雨風をしのげる場所、馬のまぐさを確保しつつ、追手の氏族軍と戦わなければいけないんですよ」
「簡単でないことはわかっている」
 机の上に置かれた、大きな羊皮紙の図面をレノスは指差した。「最後に、もう一度確認しておこう」
「この三つの避難経路に分かれて進むんですね」
 地図には、それぞれの砦からハドリアヌスの長城に向かって、三つの線が伸びていた。ところどころに記された丸印が、野営基地を張る候補地だ。
「同じ時間にそれぞれの砦を出発すれば、おのずと進軍にも時間差ができる。同じ経路にある中継基地を共有することが可能だ。基地候補地のそばには、飲み水を確保できる川や泉がある。馬の食べる草が豊富に生えていることも確認済みだ」
「辺境部隊の砦全部に、この地図が配布済みってことは、もうずっと前からこんな避難計画を立てていたのですか」
「司令長官になってから、ずっとこのあたりを旅しながら、少しずつ地図を作っていたのだよ。あの頃はピクト人の襲撃が頻繁だったからな」
 レノスはほほえみ、音を立てて羊皮紙を丸めた。「完璧に覚えたな。燃やすぞ」
 外では、会計係のフラーメンが、事務室からたくさんのパピルスや木簡を持ちだしては、焚き火の中に放り込んでいた。
「あーあ。俺たちがここで生きていたことは、なかったことになるんですね」
 さばけた口調だが、燃える火を見つめる目は悔しそうだった。
「すまんな。せっかくわたしの記録を抹消せずに取っておいてくれたのに。その気づかいも無駄になってしまった」
 敵に情報が渡らないように、退却時には砦のすべての書類を処分するのがローマ軍の慣習だ。レノスも先ほどの地図を、惜しげもなく火の中に放り込んだ。
「ローリアと父君は、もう発ったのか」
「いえ、第二陣の出発です」
 フラーメンはにやりと笑う。彼の求婚を待っていたかのようにローリアはすぐに肯いて、ついてくることに決めたのだと言う。残るとがんばっていた父親も、ふたりがかりの説得に、最後にはついに折れた。
「おまえも、二陣に加われ」
「いえ、任務がまだ終わっていません。ぎりぎりまで砦に残ります」
「頼む。デヴィンの家族とわたしの息子がその中にいるのだ」
 レノスの真直なまなざしは、部下を放さなかった。「そばにいてやってほしい。息子を守ってほしいのだ」
「いっしょにいても、この足では……何もできませんぜ」
「おまえがそばにいてくれるだけで、わたしは心強い」
 そして、大きく息を吸い込んで、言った。「もし、わたしに何かあれば……ルーンをおまえに託す。あの子を大切に育ててやってくれ」
 フラーメンは黙ったまま、炎を見つめていた。だが、とうとう、
「そこまで頼られるとは、まいったなあ」
 おどけたしぐさで敬礼した。「では、お言葉に甘えて、お先にとんずらさせていただきます。まだ書類が山ほどありますので、あとはよろしく」
「ああ」
「ルーンのことは、おまかせください」
 かたかたと杖をつきながら彼が去ったあと、レノスはひとりで黙々と、事務室の机に積み上げてあった木簡を放り込んだ。

――俺たちがここで生きていたことは、なかったことになるんですね。

「いや、なかったことにはならない」
 火の粉が舞い上がり、空高く立ち昇る。
「わたしたちがここで生きて、戦ったことは、わたしが知っている。誰よりも、わたしが一番よく知っている」
 だから、わたしたちは生き残らなければならない。わたしはルーンとともに生き残る。氏族とローマの歴史を、わたしたちの歴史を、決してなかったことにはしない。


 昼前に、女、子どもと老人を乗せた数台の馬車と徒歩の民間人千人が、護衛隊とともに第二陣として出発した。その中には、ルーンを抱いたデヴィン一家と、フラーメンとその恋人親子もいた。
 残った人間の数が減るにつれ、言いしれぬ不安が人々の顔を曇らせていくのがわかる。
「おい、おまえ」
 レノスは司令棟の入り口で、ひとりの兵士を呼び止めた。
「犬を見なかったか。このあたりにいたはずなのだが」
 セヴァンの猟犬ドライグのことだ。
「ああ、それなら、さっきの第二陣の出発式のとき、ささーっと走って行って馬車に飛び乗りましたよ」
「ええっ?」
「ご存知なかったのですか。司令長官どのの命令だと思っていました」
 第二陣には、ルーンがいる。セヴァンのマントに包まれて、馬車に乗っているのだ。
「そうか。そうだったか」
 レノスは笑いを噛み殺した。ドライグのやつめ。仕える相手を違わずに選んだということだ。
 そのとき、もうひとりの兵士が報告に飛んできた。
「司令長官どの。北から一台の馬車と馬の群れが近づいてきます」
「敵か」
「いいえ、味方のようです。緑の枝を掲げて、手を振っています」
 馭者台で馬車を操っているのが、見覚えのある大柄の剣闘士であることがわかり、城壁の上の兵たちは躍り上がった。
 固く閉ざされていた町の門が開き、彼らは英雄のように大歓声で迎えられて、砦の広場まで行進した。
「リュクス。ユニア。よく無事で戻った」
「あんたもな、レウナ……じゃなかった、また司令官に戻ったんだな」
 馭者台から飛び降りたリュクスと、レノスは固い握手を交わした。
「クレディン族の村の様子はどうだ」
「ああ、ひどいもんだ。ローマの痕跡は全部壊された。俺たちの家も、浴場も、日時計も。セヴァンの作った道路や水路までもが、めちゃくちゃに破壊されていた」
「みなは無事か。ルエルはどうなった」
「ああ、村人たちは全員元気だ。ルエルは喪に服すことを口実に、村から一歩も出ずに引きこもっている」
「そうか……」
「武装した氏族の戦士たちが各地で続々と集結してる。俺たちは、ユッラの教えてくれた抜け道で、なんとか奴らをやり過ごすことができた」
「ユッラだと?」
「ああ、俺たちを後から追いかけてきてくれたんだ」
 砦の門の外で、厩番の少年は数頭の馬たちにせっせと飼い葉や水を与えていた。もちろん、レノスの愛馬アラウダもいた。
「あっ、奥方さま」
「ユッラ……」
 少年の姿に戻ったユッラは、レノスの抱擁をくすぐったげに受け止めた。
「よく、無事でいてくれた」
「アラウダのおかげです。追手をさんざん引きずり回してやりました。でも、女の服で馬に乗るのは大変。もう二度と着ません」
「よかった……おまえまで死んだら、わたしは……」
 レノスの目に浮かぶ雫を見て、ユッラもつられてぼろぼろと泣き始めた。
「奥方さまも無事でよかった。馬車を引いていた馬が村へ戻ってきたとき、みんな肝を冷やしました……何かあったと思って、手分けして探して……馬車とメルヴィスを見つけました」
「メルヴィスは……わたしを助けるために敵とひとりで戦ったのだ」
「体は村に連れ帰り、葬りました。今ごろは、アヴァロンでごほうびの酒をセヴァンさまと一緒に飲んでいるでしょう」
「恩に切る」
「それよりも」
 ユッラは埃と涙でまだら模様になった顔を、ごしごしと袖でこすり、居住まいを正した。
「クーラン戦士長が村へ帰って来て、ローマとの戦いを呼びかけました。剣と槍と弓矢をたくさん準備し、村じゅうの戦士たちを連れて、出て行きました」
「そうか」
「おれ、村に残っていたありったけの馬を連れて来ました。ルエルさんの命令です。どうか、使ってください」
「これほど助かる贈り物はない。今から大勢の住民を連れて南に避難する。馬は何頭いても足りないのだ」
「アラウダがいれば、安心です。どんな追手が来ても、逃げられるでしょう」
「ユッラ」
 レノスは少年の両腕を強くつかんだ。
「ルエルを守ってくれ。わたしを逃がしたことで、咎めを受けることがないように」
「はい。おれたち全員でルエルさんを守ります」
 ユッラの日に焼けた顔に、また新たな涙が零れ落ちた。「こんなことになったけど、おれ、忘れません。奥方さまのことも。ルーンさまのことも」
「……ありがとう」
 レノスはもう一度、別れのしるしにユッラを強く抱きしめてから、背後にいたリュクスとユニアに向き直った。
「あと数時間で、第三陣が出発する。スーラどのとフィオネラどの、クリストゥス信者たちも一緒だ。きみたちの乗ってきた馬車と馬を全部連れて、いっしょに発ってくれ」
「ルーンはどうした? まだここにいるのか」
「ルーンは、すでに第二陣で出発した」
「そうか……一足遅かったか」
 リュクスは、シトラスを齧ったときのようなしかめっ面で黙り込んだ。
「実はな……」
「リュクス!」
 ユニアが小さく叫んで、夫の腕を後ろからぐいと引っ張った。「急ぎましょう。スーラさまたちが出発してしまうわ」
「あ、ああ」
「リュクス。スーラどのを頼む。足が思ったより悪化しているようなのだ。無理をさせないでくれ」
「わかった」
 建物の影に回ると、ユニアはようやく夫を掴んでいた手を離した。
「話すつもりだったの?」
「だって、このままじゃ、あの人は何も知らないまま、旅立っちまうぞ。それでいいのか」
「今から引き返して、氏族の追手につかまるほうが良いというの?」
「そんなことは言わねえ。いったんどこかに逃げて、機会を待って……」
「無理よ」
 ユニアは頑なに首を振った。「セヴァンが生きていることを知れば、レウナさんは絶対に逃げない。どんな危険な目に会っても」
「……そうだな」
 巨漢はしょんぼりと肩を丸めた。「ルエルも同じことを言ってた……だから、戻ろうとしても俺が絶対に引き留めてくれって」
 ユニアはふたたび、リュクスのたくましい腕を両手でつかんだ。今度は木の幹をそっと撫でるように。
「ルエルさんは、なぜあなたに話したんだろう」
「え?」
「あなたはどうしたって、秘密を守れる人には見えない。現に一日も経たずに、私に話してしまったでしょう?」
「俺はおまえに秘密なんて持たねえ。夫婦は一心同体だと教父さまも言ってたぞ」
「ルエルさん、本当はレウナさんに話してほしいと、心のどこかで願っていたんじゃないかしら」
 今にも泣き出しそうな妻の声を聞いて、リュクスは驚愕の色を浮かべた。
「どういうことだ」
「セヴァンさんが生きていることを話せば、レウナさんはきっと逃げない。だからひとまずは死んだことにした。けれど、心のどこかで、これじゃいけないことを知っている。真実を話したい。だからあなたに打ち明けた」
「俺だったら、必ずレウナにしゃべっちまうと見越して?」
「うん」
「ひでえな。ルエルも」
 リュクスは建物の壁に背中を預け、ずるずると地面に崩れ落ちた。「ひどい荷物を背負わせてくれたもんだ……」
 ユニアは隣にしゃがみ込み、夫の肩に額を押しつけた。
「ルエルさんの思い通りにしてはだめ。絶対にしゃべってはだめよ」
「でも俺も本当は、黙っているのは間違いだと思うんだ。好き合ってる男と女を、どんな理由があっても引き離しちゃいけねえ」
「でも、氏族の土地に戻れば、レウナさんは殺される。セヴァンさんだって、もう生きているかどうかもわからない。たとえ会えても、追手から逃げ続ける生活が続くのよ。ルーンはどうなるの。それで幸せと言えるの?」
「だが、レウナは一度は軍を逃亡したんだ。ローマに戻っても、日陰の身であることには変わりないんだぞ」
「それでも、ここには味方が大勢いる。スーラさまも助力を惜しまないだろうし、部下たちもレウナさんを慕ってる。真実さえ知らなければ……」
 ユニアは、両手で顔を覆った。「私たちさえ黙っていれば、ルーンとふたりで穏やかに暮らせる日がきっと来るわ」
「……ずっと嘘をつき続けるっていうのか」
「ああ、神さま。おゆるしください」
 リュクスは力なく妻を抱きしめた。「俺は無理だ。絶対に黙っていられねえ」
「レウナさんとルーンの命を守るためなのよ」
「無理だよ……俺にはできねえよ」
 小さな妻は、腕を広げて大きな夫の背中をあやすように撫でた。
「しっかりして、あなた。私がいっしょにいる。ふたりならきっとできる」


 日の暮れる二時間前に、第三陣が出発した。夜が訪れるまでに最初の野営地に入ることができるぎりぎりの時間を見越しての出発だ。
 スーラ元司令官とフィオネラ、リュクスとユニアらクリストゥスの信者たちも、この集団の中にいた。
 町は墓場のように静まり返り、人の姿もない。ただ、残ったローマ兵たちが手分けして、町じゅうの家に明かりを点して回った。住民たちが逃げ出したことを、朝まで敵に気取られないようにするためだ。人の温もりがまだ残る家で自分の影だけがゆらゆら揺れるのは、なんという恐ろしい光景だっただろう。
 砦の塁壁にも、たくさんの松明が掲げられた。その上に立って、レノスは死んだ町をじっと見つめていた。背後の砦では、大勢の人間があわただしく動く気配がした。もうすぐ、第四陣が出発するのだ。これで、すべての民間人たちが町を脱出することになる。
「お呼びですか、司令長官どの」
 強張った顔でレノスに敬礼したのは、十人隊長の章をつけた金髪の若者だった。
「クレディン族の兵士を束ねているのは、きみか」
「はい、ゴルドンと言います」
 彼に続いて、クーランの弟ブリアンも塁壁の階段を登ってきた。
「大切な話がある。ふたりともこちらに来てくれ」
 細い塁壁の上に三人は並び、赤黒い残照に縁どられた丘と、その足元に黒々とうずくまる森を見やった。
「少し前から、あの森のあたりに人の気配がする。そうは思わんか」
「はい。氏族の戦士たちが続々と集結しているようです」
「襲撃開始は、日の出の刻だと踏んでいる。今夜は新月、月明かりを頼りにすることもできないからな」
「はい」
「夜明けの一時間前に、この砦から最後の部隊が出発する。敵を食い止めるしんがりの部隊だ。だが、きみたちはそこに加わらずに残ってほしい」
「えっ……」
「氏族軍の突撃が始まったら、この砦に火をつけてくれないか。ブリアン。きみたちには町のほうをまかせたい」
「ど、どういうことですか」
 ゴルドンはうまく呼吸ができず、言葉をもつれさせた。「……燃やしてしまうとおっしゃるのですか」
「ああ。何もかもだ」
「なぜです」
 レノスは、火に集まってきた蛾をうざったげに振り払った。「理由はいくつかあるが、最大の目的は、われわれが決して戻ってくる気がないと、敵に知らしめることだ」
 ブリアンがうめいた。「ローマ人はもう戻ってこないと?」
 レノスはうなずく。「ローマは、ハドリアヌスの長城以北の砦をすべて放棄し、長城を最終防衛線として死守する。それが今のローマにできる最善の策だし、氏族もそれで異論はあるまい」
 ゴルドンが抗議するように首を横に振った。「俺たちの命を、氏族との取引に使おうとは思われないのですか。そのために、俺たちはここに呼ばれたと思っていました」
「そんな取引など、今の氏族軍は一蹴するだろう。それに」
 レノスはふたりの男たちにほほえみかけた。「きみたちクレディン族の民は、わたしの骨肉だ。取引の材料に使うことなど、死んでもできない」
 松明の燃える音だけが、あたりにパチパチと響いた。
 十人隊長の若者は、敬礼して答えた。「わかりました。ご命令に従います」
「火が回ったら、ローマの軍服を脱ぎ捨て、うまく逃げてくれ。ブリアン、きみたちもだ」
「きっと、その通りにいたしましょう」
「必ず生きて村に戻れ。そして、ルエルを助け、困難な時期を耐え忍んでくれ。セヴァンが望んでいた平和と繁栄が、クレディン族の上にあるように」
 レノスは、こみあげる熱いかたまりを飲み込んだ。「あとを頼む……わたしができることは、もうない」
 終わりだという印に、背を向ける。ふたりはその背中に無言で敬礼すると、階段を降りていった。
 ひとりきりになったレノスの耳もとで、ふわりと空気が動いた。
――焦土作戦だな?
「ああ。ガリア戦記の第七巻だ。ウェルキンゲトリクスは撤退のたびに町をすべて燃やし尽くし、敵に食糧や財宝を渡さなかった。敵の士気は下がるし、味方はもう戻る場所はないと覚悟を決める」
 レノスは塁壁の石をつかみ、ぐいと身を反らした。「思い出さないか。あれは、満月の夜だったな。おまえがこの町に火をつけて、馬で逃げ出したのは」
 そして、振り向いた。「なあ、この作戦は成功すると思うか。セヴァ……」
 一匹の蛾が松明の炎の中に飛び込み、火の粉を散らしながら、音もなく塁壁の下に落ちていった。
「セヴァン」
 月のない夜空を仰いだ。涙を止めることができない。
 セヴァン。わたしの愛する男よ。もうお別れだ。
 わたしの生まれたこの地。父と母の眠るこの地。おまえと巡り合い、憎み合い、愛し合ったこの地。ルーンと三人で、ともに暮らしたこの地と、訣別するのだ。だから、今だけ泣かせてくれ。
「さようなら」
 わたしの故郷よ。どうか、わたしとルーンのことを忘れないでくれ。この地を命を懸けて愛したローマ人がいたことを、覚えていてくれ。
 いつか、ローマ人もピクト人も、海の向こうの民も氏族も分け隔てなく、ともに平和に暮らすことができる日が来るように。
 たとえ、おのれの体が滅びても、わたしはいつかこの地に戻って来て、セヴァンの魂とひとつに溶けあうだろう。


――セヴァン。
 空気が動いたような気がして、セヴァンは目を開けた。
「レウナ……」
――いつまで寝ているのだ。ねぼすけめ。一国の王とも思えぬ。
 声の主を捕まえようとして手を伸ばし、むなしく空をつかむ。
――わたしはもう出かけるぞ。
「俺は行けない」
 族長になってくれと頼まれた。クレディン族の行く末を頼むと、生まれて初めて、父さんが俺に頼んだ。だから俺は、この地から離れるわけにはいかない。
――いっしょに来ないのか。
 俺は、あなたからすべてのものを奪った。祖国も、ことばも、ローマ軍司令官としての地位も名誉も、大勢の部下たちも……。俺はあなたを苦しめ続けた。もう十分だ。
 俺のことは忘れろ。彼らとともにローマに帰り、二度とここには来るな。
――わたしのそばに……いてくれないのか。
「約束を守れなくて……すまない」
 乾いた藁に、雫がぽとぽとと吸い取られていく。セヴァンは音のない声を遮るかのように、手で耳を覆った。
「さようなら、レウナ」


 払暁の闇のなか、取水口が閉じられ、砦の浴場や広場の水飲み場から水の流れる音が絶えた。
 北の砦は、生命を失ったかのように静まりかえった。
 そして、砦を取り囲んでいる氏族軍に見られぬように密かに、最後の部隊が出発した。
 主力はラールスの百人隊とウォーデンの騎馬隊。そしてレノスとセリキウスら将校たちだった。
 土木将校のカイウスは第一陣とともに発って、基地設営の指揮を取っている。軍医のグナエウスも、野営地で怪我人や病人を診ているはずだし、補給係のルスクスは食糧を積んだ馬車でふんぞりかえっているだろう。
 ひずめの音が敵に聞こえないように川べりに足を浸してゆっくりと進む。それから岸へ上がり、遅れを取り戻すかのように猛然と軍道を進み始めた。
「ウォレロ、だいじょうぶか」
 レノスは馬上から振り向き、力強い足取りで歩いてくる小柄な軍旗手をいたわった。
「もちろんです」
「われわれの命運は、おまえにかかっているのだからな」
 ウォレロのマントの下には、第七辺境部隊の軍旗が隠されている。月桂樹の栄冠を頭に戴いた竜。それは長い間、軍団の誇りだった。
 軍旗を奪われることは、第七辺境部隊が滅びることと同義なのだ。
 はるか後方で空気が震え、背中の皮膚が総毛だった。
「始まりましたな」
 セリキウスが短く言った。氏族軍が一斉に砦に押し寄せてくる、ひずめと戦車の車輪と鬨の声が空気を震わせているのだ。
 兵たちは拳を握りしめ、怒りに耐えた。逃げずに、死ぬまで戦って砦を守りたかった。砦を見捨てたという後悔のあまり、彼らは走って戻りたいという衝動にさえ駆られた。
「おい、見ろ」
 誰かが小さな悲鳴を上げた。
 振り向くと、北の方角は、黎明と見まごう色に染まっていた。黒煙がもくもくと空に立ち昇り、火の粉が竜の舌のようにちろちろときらめいていた。
「砦の方角が……燃えている」
 レノスが手綱をぐいと引き、馬上で毅然と背を伸ばした。
「ゴルドンたちに命じて、砦に火を放たせた」
「火を放ったのですか?」
「今まさに攻め込もうとしていた氏族たちの出鼻をくじくのが狙いだ。町も砦も、もぬけのからであることを確かめ、われわれが撤退したことに気づくまで、かなりの時間が稼げる」
「だけど……あれじゃ、おれたちはもう二度と」
 歩兵のひとりが泣き声を上げた。騎馬兵たちも馬から降り、呆けたように同じ方角を見やった。
「おれたちの砦が……焼けてしまう」
 何年ものあいだ、訓練に明け暮れ、同じ鍋から飯を食った。眠い目をこすりながら哨戒に立ち、給料日には町でバカ騒ぎを演じた。笑ったり泣いたり、ケンカをしたり悩みを打ち明け合ったりしながら。
 彼らの半生そのものだった、あの場所。
 ラールス百人隊長は、レノスのかすかに震える肩を見つめた。そして、大声で命じた。
「一同、整列しろ」
 第七辺境部隊は、体に叩きこまれた素早い動きで、命令に従った。
「北の砦に向かって、敬礼」
 整列した兵士たちは、北の空に向かって敬礼を送った。どの顔も嗚咽にゆがみ、涙の筋ができていた。
 沈黙のうちに、彼らは逃避行を再開した。


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