The Warrior in the Moonlight

月の戦士

back / top / home

Chapter 1 「黒き丘陵」

(1)

 小高い丘の頂で馬の手綱を引いたレノス・クレリウス・マルキスは、これから自分が赴くことになる土地を思うまま眺めた。
 このブリテン島に、ローマ帝国が最初の足跡を印したのは、皇帝クラウディウスの治世、今から百五十年前になる。それ以来、狭い海峡を隔てて本土に接している島には、三つの正規軍団と、主に辺境の警備をまかされている補助軍が駐留している。
 彼が赴任するのは、辺境部隊司令本部から馬で一日半、冷涼な岩だらけの土地にそびえる北の砦だ。
 去年のヒースが、地面に低くもつれるように残っている平原は、白く湿った空気の底で黒々と沈んで見えた。
 見渡す限り、雲の影以外に動くものは何もない。
「司令官どの」
 案内役の兵士が、おっかなびっくり後ろから呼びかける。
 まるで、今にも新任の司令官が回れ右をして逃げ出してしまわないかと、恐れているような声だ。
「何もないんで驚かれたでしょう。砦は、もうひとつ丘を越えた向こうで、このあたりには氏族の村もありません」
「そう、それに今は、羊や馬を囲いから出す季節でもない」
「……島のことをご存じなんですか?」
 兵士の声が裏返る。この華奢な優男の上官は、帝都から百里離れたこともなかったに違いないと思いこんでいたのだ。
「放牧は、どこも似たりよったりだよ、タイグ」
 レノスは、あるかなしかの笑みを口元に浮かべた。「きみがどう思っているか知らないが、わたしも、けっこうな辺境の生まれなんだ。田舎暮らしには慣れている」
「そうだったかあ……いえ、そうだったんでありますか」
 とたんに部下の口調が、馴れ馴れしさと恭しさのあいだで、あやうい綱渡りを演じた。
「いきなり初任地が帝国版図の果ての辺境部隊だなんて、よっぽどヘマをやらかしたもんか、酒癖か女癖の悪いお人か、って仲間とも噂してたんですよ」
「ひどい言われようだな」
 あけっぴろげに笑いながらレノスは、もう一度手綱を軽くゆるめた。動こうとしない馬の腹を、両脚で強く締めると、馬はしぶしぶと丘を降り始めた。
 タイグの連れてきた馬は、葦毛の三歳の雌だ。今まで乗ったどの軍馬と比べても、まるで調教がなっていない。これが砦で最上の馬ということなら、先が思いやられる。
 ため息をつきそうになったが、部下が後ろから様子をうかがっている気配を感じて、押し殺した。これから当分のあいだ、新任の司令官が「やり手」か「ボンクラ」か、部下たちはこぞって見極めようとしてくるだろう。
 最初の数週間で負の判定を受ければ、彼らは命令を聞かなくなる。相手は、辺境部隊の荒くれ猛者たちなのだ。
 背筋を伸ばして馬を進めながら、丘を縁どるように連なる低木に目をやった。どれも海からの強い風のせいで、ひどく傾いで捩じれている。突然の既視感に、彼は十年前から一日も時が進んでいないという錯覚に襲われそうになった。
 十年前まで、レノスはこの島に住んでいた。そのことを部下たちに隠すのは、それがもうひとつの秘密を連れているからだ。
 ここにいたければ、その秘密だけは絶対に知られてはいけない。

 キッキッキーィィッ

 まるでハイタカの鳴き声のようによく通る音が、空気をつんざいた。
 おそらく、本物のハイタカではないだろう。
 この島全体が息を殺して、新しい闖入者の動向を見張っているのだ。そう感じて、レノスはみぞおちがきゅっと締まるような緊張を覚えた。


 ニワトコの藪にひそんでいた少年は、背後に仲間が近づいてくる静かな気配を感じた。
「どうした、セヴァン」
「兄さん、見ろよ」
 弟は、もつれた前髪の間から、興奮を抑えかねた瞳を兄に向けた。「新しいカケスが来た」
 ローマ軍将校のかぶとについている朱い羽根飾りを、氏族たちはそう呼んでいる。
「まだ子どもだな」
 長身をかがめ、年長の若者は騎乗の異国人を藪の隙間から見つめた。「あの貧弱な体では、剣もろくに持てんだろう」
「俺たちは、ローマになめられてるんだよ」
 弟は、残酷な笑みを口元に刻んだ。「早いうちに、挨拶に行ってやったほうがいいかもな」
 兄はそれを聞いて不快そうに目を細めたが、声にとがめる響きはなかった。
「セヴァン、自重しろよ」
「ああ、わかってる」
 トネリコの槍を藪から引き抜くと、少年は立ち上がった。
「父さんや兄さんが困るようなことには、ならないさ」

 北の砦は、川のほとりにあった。木を組んで泥土で塗り固めた塁壁が黒々とそびえ、その上で歩哨のかぶとと槍先が、陽の光に鈍く輝いていた。
 砦の周囲には、地面に張りつくように泥炭の家々が立ち並ぶ。さらに町の外側にも、取り囲むように土塁が張り巡らされてあった。
 どこもかしこもが黒い。家々の白い壁が陽光に映える帝都とは、何もかもが違っていた。
 町の中心の広場を貫く大通りを馬で進むあいだ、人々は家の垂れ幕を上げて現われ、新顔の将校にじっと好奇の眼差しを注いだ。ほとんどはブリテン島の原住民だったが、ローマ人もいたし、属州の出身者もいた。
 水のない堀の前で馬を止めると、見張り台の歩哨が彼らに向かって敬礼した。正面の木の扉がギギと軋みながら、大きく開かれた。
 内部は、帝国の砦の典型的な造りだった。ほぼ真四角の敷地の中に、物見やぐらがあり、武器庫、穀物倉庫、厩舎がある。
 中央に軍旗をかかげる広場があり、それを取り囲むように将校専用の宿舎と食堂があり、その外側に兵士用の宿舎があった。
 細い水路が川から引かれていて、洗濯と炊事、それに将校と兵士の便所の役割を果たしている。
 すべてにおいて、ひどく不潔というわけでもなかったが、万事が整頓されているというわけでもない。
「こちらです」
 中庭からタイグに導かれて入ったのは、狭いが上等な部類の部屋だった。
 床には厚い敷物が敷かれ、漆喰塗りの壁のそばには、箪笥と寝台と書き物机が置かれていた。小さい火鉢もあった。
 机の前に座って待っていたのは、ひとりの初老の男だ。
 彼は立ち上がると、レノスがかぶとを脱ぎ、剣帯から剣をはずすのを待ち、敬礼した。
「ローマ帝国に栄光を。皇帝に長寿を」
「帝国軍の進む道に、勝利と繁栄を」
 型どおりの敬礼を終えると、ふたりはがっしりと握手した。
 案内役は一礼して退出し、扉はぴったりと閉められた。
「クレリウスの子よ。久しぶりだな」
「お元気そうで何よりです。スーラどの」
「よしてくれ。元気ならば、任期途中できみをこの島まで呼び出すことはなかったわい」
 クウィントス・ユリウス・スーラは、杖をたよりに左足を引きずって歩き、寝台の端に腰をおろした。「塁壁の階段から足をすべらせて、このありさまだ」
「痛むのですか」
「いや、だがもう普通に歩くことはできぬ。砕けた骨がまっすぐにつながらなかったのだ。おまけに、このリウマチのやつが年々ひどくなる。帝都の温かな日差しが恋しくなる一方でな」
 彼は、節くれだった両手を杖の先に乗せた。「歳は取りたくない。悔しいが、この荒々しい辺境の地で、わたしのできることはもうないらしい」
 レノスは、たった今まで彼が座っていた椅子に、代わりに腰を下ろした。それはまるで、新旧の司令官の小さな交代の儀式のように見えた。
「いえ、もう十分です。スーラどの。あなたは十年間、この島を守ってくださった」
「そうだろうか。わしは本当にお父上の遺志を継ぐことができたのか、はなはだ心もとないのだよ」
 しょぼしょぼと瞬いた老将校の目には、昔をなつかしむような色がたたえられた。
「今でも、夢に見るよ。お父上といっしょに、森に狩りに行ったときのことを。後ろには、まるで猟犬のようにチビっ子がぴったりとくっついておったな」
 レノスはほほえんだ。「覚えております」
「わしはきみのことを、なんと呼んでおったか。『レウナ嬢ちゃん』……そうだな? ああ、きみは、まるで小鹿のようにすばしこかった!」
 彼はあらためて少し驚いたような表情で、若い士官を見つめた。
「……ずっと隠してきたのだね」
「はい」
 レノスはうなずきながら、無意識のうちに剣帯の胸のあたりに指を触れた。
 そこには、十年間ずっと押し込めていた秘密――女であるという秘密が、『レウナ』という本当の名とともに隠されているのだ。

next / top / home
   

Copyright 2013 BUTAPENN. All rights reserved.
Template Designed by TENKIYA