The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 1 「黒き丘陵」

(2)

 この北の果てで眺める月と、帝都ローマから見る月は、同じ月だ。そう思うと不思議な心地になる。
 砦の塁壁の頂上に立って、レノスは別れを告げたばかりの温かな故郷を思い出していた。
 今ごろ、伯父の別荘の庭は、夜気を受けてひときわ強いシトラスの香りに包まれているだろう。従兄のアウラスは眠気がさすと庭に出てきて、もいだ実にカリと白い歯を立てて、かぶりついていたものだ。
 幼いころから、ふたりはよく噴水のへりに並んで腰をかけ、話をした。
「初任地はブリテン島に決まったというのは、本当か」
「耳が早いな。さすがに、皇帝の書記官だけのことはある」
 おぼろに煙る夜空を仰いでいたレノスは、ゆっくりと頭を巡らした。「今朝、本部で辞令を受け取ったばかりだ。ありがたいことに、父の副官だったスーラどのが、直々にわたしを後任に推挙してくださった」
「出立は」
「三日後だ。おまえの結婚式に出られないのは残念だが、しかたないな」
 月が雲の中に入ったので、アウラスがどんな表情を浮かべたのかはわからなかった。
「いきなりそんな辺境の地へ行くものではないだろうに」
「わたしは軍人だ。いつどこへ赴けと言われても、覚悟はできている」
 レノスは、晴れやかな声で答えた。「まして、ブリテン島はわたしの生まれた地。これは、神々の導きだ」
 アウラスは、もう何も言わなかった。
 陸軍参謀長であるアウラスの父が、あらゆる反対を押し切って、この人事を強力に推し進めたという。そのことだけで、もう結論は出ている。
 一族の邪魔者が、黙って辺境に去ってくれるのだ。息子がなぜ結婚をしぶっているか、うすうすは感じているはずの伯父にとっては、この話は渡りに船だっただろう。
(これでよかったのだ)
 めめしい感傷を振り払い、砦から冴え冴えとした月を見上げながら、レノスはあらためて思う。
 わたしは、男だ。
 十年前、志半ばで斃れた父の無念を晴らそうと誓ったときに、そう思い定めた。
 髪を切り、男の服を来て、男として考え、ふるまった。
 軍に入ってからは、いっそう過酷な訓練に身を投じた。
 背丈が伸び、声は低くつぶれ、男と互角に戦えるだけの筋力を身につけるのと引き換えに、女のしるしは、いつのまにか途絶えていた。
 訓練の後は、平気で共同浴場も使った。ひどい傷があるからと胸にきつく帯を巻き、腰を布で被えば、誰もレノスが男であることを疑わなかった。
 レウナという名前は、とうに捨てた。今さら、女であることを思い出す必要はない。
 ドレスをまとい、夫のそばでにこやかに微笑み、子を産み育てるという夢は、彼女――いや、『彼』の中からは、とうの昔に消え去っていたのだから。


 翌朝、砦の広場に全員が集まり、司令官の交代式が行われた。
 帝国軍の軍旗が、うやうやしく正面の壁に掲げられる。
 新旧の司令官が並び立つ前に、兵士たちが整列した。
 百人ずつの部隊がふたつ、計二百人。それぞれの百人隊長を先頭に、五列縦隊を形作っているが、後ろのほうは六列なのか七列なのか判然としない。
 軍装も、とても揃っているとは言いがたく、かぶとを持っていない兵士もいる。
 兵士は、装備を自前で調達するのが決まりなので、よろいさえ買えない者も少なからずいる。彼らは布をはぎ合わせたキルトや動物の革を代わりに着ていた。
 この二百人隊は、正規のローマ軍団ではない。ブリテン島に駐留している第六軍団の傘下にはあるが、『補助軍』という位置づけで、『第七辺境部隊』と呼ばれている。
 ローマ市民権を持たない者も多く、肌の色も混然としている。ローマ人の将校や兵士が、駐留中に島の女とのあいだに儲けた子どもも少なくない。
 純粋なローマ市民は、オリーブの実に似た浅黒い肌と、つややかで硬い黒髪が特徴だ。
 だが、北の辺境の民は、肌が白く、細い髪は動物の毛のような砂色や灰色をしている。混血の民も、その血を受け継いでいるので、色素が薄い。
 多くの場合、彼らは、父親が本国に帰還するときに母親とともに残される。捨てられると言ったほうがよいかもしれない。彼らは砦の町で下働きなどで生計を立て、成長すると補助軍に入隊してくるのだ。
 氏族は、混血を忌み嫌い、決して村には入れない。そういう意味で彼らが氏族の回し者であるという危険は、ほとんどない。
 しかし、過去に一度だけ例外があった。
 十年前、混血の兵士ひとりが氏族と通じていて、帝国軍を裏切ったのだ。彼の手引きによって砦は急襲され、当時の司令官は無念の死を遂げた――。
 レノスはきりと唇を噛みしめ、自分を見つめている二百人の視線を、臆することなく受け返した。
 この雑然とした群れが、戦争になったとき、果たして機能するのだろうか。
 そして、自分は第七辺境部隊の司令官として、この二百人を率いていくことができるのだろうか。
 彼の横にいたユリウス・スーラ司令官が、壇に立ち、退任のあいさつを始めた。
「諸君。わしは古い足の怪我の悪化により、任期途中でこの砦を去ることになった。しかし、わしの古い友人の息子、レノス・クレリウス・マルキスをわしの代わりに迎えることができた。これは皆にとっては、このうえない幸運である。そして彼にとっても、このうえない幸運と呼べるようになるであろうことを固く信ずる」
 スーラは、レノスがこの島で育ったことを、告げなかった。もちろん、彼が古い友人の『娘』であることも、ひとことも漏らさなかった。
 ここには、十年前のレノスを知っている者はいない。たとえ見たことがある者がいたとしても、目の前の長身の軍人と、あのときの幼女が同一人物であると看破できる者が、いるはずはない。さらに、『マルキス』という家名は、父のものではなく、養父となった伯父から名乗ることを許されたものだ。
 老司令官にうながされ、レノスはうなずいた。壇に登ると、二百人の緊張した顔をゆっくりと見渡す。
「クレリウス・マルキスだ。よろしく頼む」
 兵士たちが、我先にと槍で地面を突き鳴らす音が響いた。新司令官は、その奇妙な歓迎の音楽に包まれたまま立っていた。それからしばらく壇上にとどまり、兵たちの行進と、騎馬隊の手綱さばきを検閲した。
 交代式が終わったとき、レノスは建物の入り口で、マントを脱いで埃をはらい、壁にかけた。
 もう後戻りはできない。この砦は、今このときから彼のものになったのだ。
「司令官となった気分はどうだね」
 問いかける老司令官に、レノスはにやりと笑ってみせた。
「スーラどの、嘘をつきましたね」
「嘘だと?」
「わたしを呼び寄せたのは、塁壁の階段から落ちて骨を折ったからだとおっしゃった。しかし、今の演説では『古い怪我』のせいだと言われた。どちらが本当なのです」
 スーラは「おお」と喉の奥でうめいてから、しまったと言うように額をごしごしとこすった。
「階段から落ちたのは、嘘ではない。二年前の話だ。ただ、これまではなんとか周囲をだませるほどには歩けた、というだけだ」
「わたしの任官時期に合わせて、傷病届を出すのを待っていてくださったのでしょう」
 レノスは頭を下げた。「感謝いたします」
「礼には及ばん。いやむしろ、わしは自分に背負いきれない荷をきみに残していくのかもしれぬぞ」
「……それは、聞いておかなければならない話ですか?」
「中に入ろう」
 司令官の部屋は、まだ荷作り途中の持ち物でいっぱいだった。スーラはその中から、酒の壺と錫の杯を取り出し、それぞれに注いだ。
「港で、司令長官どのには会ったかね」
「はい」
 司令長官の名は、ファビウスといった。北ブリタニアに駐留する辺境部隊のすべてを束ねる総指揮官だ。司令本部は、ハドリアヌスの長城の東端に位置する港町にあり、彼はそこから部隊全体の指揮を執っている。
 張り出した額と、鋭く曲がった大きな鼻は、ファビウスが純粋なローマ人の血を色濃く受け継いでいることを示していた。
 毎年、各属州からガレー船に積まれてやってくる兵士たちと現地で志願する兵士たちは、いったん司令本部に集められ、とともに数週間の訓練を受ける。そして二百人、あるいは五百人ずつの分隊に編成され、辺境のあちこちに散らばる十二の砦に派遣されて、周辺の治安を担うことになるのだ。
 レノスが受け持つ北の砦も、そのひとつだった。
「帝国軍は、百五十年前にこのブリテン島に侵攻し、南端を属州とした」
 スーラは、歴史を語るにふさわしい、重々しい声で言った。
「だが、古くから住む北部の氏族たちにとっては、この島の支配者はいまだに自分たちだ。帝国は渡り鳥のように、いつか去っていくものと思っておる。二年前に赴任してきた司令長官どのは、今の状態を何とかしなければならないと考えた。つまり、今まで以上に武力でもって、氏族たちを抑えつけようというわけだ。この島で長く続いていた緩やかな支配が、一夜にして強硬なものへと塗り替えられた。そうなると氏族たちは」
 彼は酒壺を取り、後任者の杯をなみなみと酒で満たした。「われわれを、やかましい害鳥とみなして、巣を壊そうと企み始めたわけだ」
 レノスは一息で杯を干すと、錫の表面の飾り模様をながめた。そこには帝国の象徴である、翼を広げた鷲の姿が浮き彫りにされていた。
 なるほど、これが彼らの畑を食い荒らす害鳥というわけか。
「このあたりの氏族が、何か不穏な動きをしているのですか」
 問いかけると、前任の司令官は首を振った。
「組織だったものは、まだない。だが、その予兆はある。ときどきクレディン族らしき者が、砦の町を襲いに来ることがある」
「クレディン族?」
「決まって満月の夜を選んで現れるというのに、いくら警戒しても隙をつかれる。ニワトリや羊を盗む。厩の扉を壊して馬を逃がす。他愛ないいたずらと呼ぶには、あまりにやりたい放題なのだ」
 スーラはいまいましげに言った。
「あまりに神出鬼没なので、悪霊のしわざだと信じる者もいたほどだ。だが目撃者の話によれば、犯人はオオカミのマントをかぶり、戦化粧をした男たち――しかも、その先頭に立つのは、まだほんの子どもだと言うのだ」
     

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