The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 4 「牙を抜かれた狼」

(5)

 セヴァンが毎朝の日課どおり部屋に入ってくるのを見て、レノスは軽く目を見張った。
「また、生傷が増えているな。ゼノ、おまえはどれだけ毎日、いざこざを起こせば気がすむのだ」
 奴隷は、黙って頭を垂れる。内心は、(この傷の半分は、あんたがつけたものだろう)と悪態をつきながら。
 実際、そのとおりだ。マルキス司令官は恐ろしい主人だった。少しでも不服従のそぶりを見せれば、容赦なく指揮棒でめった打ちにされる。
 奴隷生活も三ヶ月を越えた今、セヴァンは、あからさまに楯突くことは控えるようになった。表面は従順に従い、心で呪いの言葉をつぶやく。外側と内側を完璧に演じ分ける。
 そのかたわら、うっぷんを晴らすかのように、食事の割り当てをめぐって始終、乱闘を起こしている。両手の鎖のせいで最初は一方的に負けていたが、今では奴隷仲間から恐怖の目で見られるようになった。
 生きるためには、そうするしかなかった。
(強い者には尾を振り、弱い者に噛みつく。俺はもう、オオカミじゃない。卑怯なローマの飼い犬だ)
 みじめさに打ちひしがれていると、レノスは書机から一枚の木板を取り出した。
「今日はまず、これだ」
「はい」
 差し出された木板をおしいただき、そのまま後ろに退く。
 部屋を出て、まっすぐに隣の事務室へ向かった。そこに座っていた青年に、「司令官、からです」と木板を渡した。
 会計係は素早く目を走らせると、それを机の上の木板の山に積み、「ご苦労」と答えた。
 司令官室に戻ると、セヴァンは片言で「渡しました。ネポス」と報告した。
「わたしは、届け先を言わなかったぞ」
 レノスは、面白がっているような表情を浮かべた。「なのに、おまえはなぜ、木板をネポスに届けることができた?」
 セヴァンは思わず、さっきまで木板を握っていた自分の手に目を落とした。
 木板の上には、文字と呼ばれるたくさんの模様が書かれてあって、持っていく相手によって少しずつ異なっている。
 この三ヶ月のあいだに、彼は自然と、ほとんどの模様の組み合わせを覚えてしまっていた。内容はわからなくとも、誰のもとに届ければよいかくらいは、わかるのだ。
 司令官の眼差しは、長い間じっと彼に注がれていた。
 そして、一枚の新しい木板を取り出すと、ペンを墨壺に浸し、よどみなく走らせ始めた。
 書き上げると、レノスはそれを渡した。
「妓楼のフィオネラに、これを届けてくれ」
「ぎ……ろう?」
「町だ。場所は、わからなければ誰かに聞け」


 奴隷になってから、セヴァンが砦を出るのは、これが初めてだ。
 だが町の門には見張りがいるし、たとえ逃げ出したとしても、この鎖があるかぎり、すぐ捕まってしまう。広い町の中とは言え、牢獄と同じだ。
 通りのあちこちから侮蔑の視線が投げかけられるのを感じる。髪を短く刈られ、奴隷の印を彫られ、鎖につながれた姿のまま市中を歩くことは、さらし者と変わりない。
 いつのまにか背中を丸めて歩くのが、習慣になっていた。絶えず目を伏せているように命じられているうちに、顔が上げられなくなってしまったのだ。
 町の地図は、おおよそ頭に入っている。これまでにも、こっそり夜闇にまぎれて忍び込み、家畜を盗み出したり、家に火をつけたりしてきた。
 ローマに反感を抱き、クレディン族に与しようとする町の若者は、かつては少なくなかった。セヴァンはひそかに彼らと接触し、いっしょにローマと戦うように説得し続けていたのだ。
 あのとき手引きしてくれた鍛冶屋の下働きのラングも、他の連中も、姿が見えない。きっと、戦いの後で逃げ出してしまったのだろう。
 『妓楼』が、どういうことをする場所なのかわかったのは、しどけない姿の女が入り口の垂れ幕をめくったときだった。
 「なんだよ、あんた」と、じろじろ舐めまわすように見て、「姐さん、ヘンな子が来たよ」と奥に向かって叫ぶ。
 通された部屋にいた上品な中年女性は、セヴァンの渡した木板を読み終えると、居住まいを正した。
「初めてお目にかかります。セヴァンさま」
 と、腰をかがめる。
 なつかしい氏族の言葉だった。奴隷に落ちてからというもの、自分の前で人が腰をかがめるのを見るのははじめてだった。
「あなたはクレディン族……なのか」
「はい。フィオネラと申します。わたくしが村を出たとき、あなたのお父上サフィラさまは、またお若い戦士長でした」
 彼女は、セヴァンに敷物の上に座るように勧め、自分と姉がローマ兵士にさらわれてきたという身の上を短く話した。
「わたくしは、マルキス司令官にとても良くしていただいております」
 彼女は熱意をこめて、続けた。
「この手紙には、あなたにラテン語の言葉と文字を学ばせたいと、したためてあります。わたくしに、そのお手伝いをせよと」
 それを聞いて、セヴァンはまなじりをつり上げた。
「ことわる。ローマの言葉など学ぶつもりはない」
「なぜです」
「やつらは俺たちに、ローマのやり方を押しつけ、氏族に伝わる古い暮らしを忘れさせようとしている。そんな手に乗るものか」
「そうでしょうか」
「なぜローマの味方をする。兵士にもてあそばれたというのに、ローマが憎くないのか」
 フィオネラは、おだやかに、悲しげに微笑んだ。「ローマ人は悪人ばかりではありません。すばらしい方々もたくさんいます。憎しみは何も生み出しません。過去ばかり見ていては、前に進む力を失います。わたくしは、セヴァンさまに、そうなってほしくはありません」
「俺に、前へ進めと?」
 じゃらりと手の鎖を鳴らし、セヴァンは吐き出すように言った。「俺の望みは、あいつを殺して兄の仇を取り、同じ刃でおのれも死ぬことだ。それ以外の望みなどない」
「そんなことを、亡くなられたアイダンさまはお望みでしょうか」
「あなたに、兄の無念がわかるというのか!」
 セヴァンは妓楼を飛び出し、走り出した。
(春をひさいでいるような汚れた女から、文字を習わせるだと? くそ、あいつの考えそうなことだ)
 みじめさでいっぱいになりながら、心の中で主人を罵倒し続ける。
 翌朝、レノスは平然と、木板を手渡した。
「これをフィオネラのところへ持って行け」
 手紙を届けることを口実に、毎日彼女のもとへ通わせるというのが、司令官の計画だった。
「いやか」
 頑なに無言を通すセヴァンに、レノスはあざけるように鼻を鳴らした。「早くラテン語を学んでもらわねば、おまえは何の役にも立たないではないか。ただのごくつぶしだ」
「……」
「これならば、おまえの弟ルエルを奴隷にしたほうが、ずっとましだったな」
 ルエルの名を聞いたとたん、セヴァンは木板をひったくるように受け取った。
「行き、ます」
 昨日と同じ道をたどりながら、腹立たしさのあまり、何度も途中で足が止まった。
 だが不思議なことに、心底からイヤではないのだ。
 奴隷としてしいたげられる日々を送る中で、自分を一人前に扱ってくれるフィオネラの態度は、セヴァンの傷ついた誇りを多少なりとも癒した。
 何よりも、氏族の言葉が話せることが、うれしかった。自分の言葉で、自分の考えを思う存分話す心地よさは、まるで血の通わなかった全身に熱い血がめぐり始めたようだ。
 おずおずと妓楼の奥の部屋に入ると、フィオネラは美しい微笑みと山盛りの菓子で、彼を歓待してくれた。
「ラテン文字を書いておきました。まずは、これをひとつずつ写してください」
 ドルイドの呪いの道具を見つめるような目つきで、差し出された蝋板をじっと見つめる。
 この数ヶ月、言われたことを全く理解できない中で生活してきた。まるで赤子のように、筋道立てて考えることも、回りの状況を判断することもできない。
 ローマの言葉を学べば、何かが変わるだろうか。木板に書いてあることもわかるようになるのだろうか。
 そしてやがては、ローマ軍の人数、規模と駐屯地、砦に運ばれる物資の量と時期を知り、彼らの戦略を盗むこともできるようになるだろうか。
 セヴァンは、鉄筆を拳で握ったまま、しばらくガリガリと不器用に蝋を削った。そして要領をつかむと、いつしか文字をなぞることに没頭していた。


 見張りの交代の時刻でもないのに、にわかに砦の門が騒がしくなった。
 雨避けのマントをかぶった百人隊長のラールスが、事務室の扉を大きく開け放ち、敬礼する。
「司令官どの。クレディン族の新兵五十人を引き連れた一行が砦に立ち寄りました。雨が小降りになるのを待ちたいそうです。どうしますか」
「わかった。すぐ行く」
 レノスは立ち上がり、ちらりと背後を見てから、部屋を足早に出て行った。
(クレディン族だと?)
 思わず後を追おうとするセヴァンの前に、ラールスが立ちふさがった。「おまえは行かせん」
 そして、副官に命じる。「こいつを、動けぬように縛っておけ」
 中央広場に入ってきたのは、セヴァンとともに戦士の家で訓練を受けた、同じ年代の若者たちだった。どの顔もよく知っている。全身ぬれねずみになり、疲れ切っていた。
 彼らは、戦後の調停で定められたとおりに、この春からローマ軍の補助軍に入隊する。だが実質は、食糧も装備も自前で用意しなければならない。態のいい増税であり、態のいい人質だった。
 戸口の柱に縄でつながれている間も、セヴァンの腹の底からやり場のない怒りがこみあげた。
 若い働き手を失った村は、今よりもっと疲弊することになる。食糧や金を奪い取り、住民をさらい、ローマは長い時をかけて、氏族を根絶やしにするつもりなのか!
 雨を避けるために、兵舎の軒先に身を寄せ合って座る新兵たちのひとりが目を上げて、こちらを見た。
「セヴァン?」
 彼らは茫然と立ち上がった。族長の息子がローマの奴隷となって、馬のようにつながれているのを見たのだから。
 セヴァンは、恥ずかしさに顔が燃えるようだった。いっそのこと、この場で舌を噛み切って死んでしまいたい。
 縄をちぎろうともがき、手と手を結ぶ鎖に、血がにじむ。レノスは、門の衛兵詰所の前に立ち、その様子を冷ややかに見つめている。
 一時間ほどして雨が小降りになり、ふたたび彼らが南の港町へと出発する時が来た。これから彼らは港の辺境部隊の司令本部に移送され、ローマ軍の補助兵として、厳しい訓練を受けることになる。
 除隊できるのは、二十五年後だ――わずかな給金や、ローマの市民権と引き換えに。
 彼らは、重い背嚢を背に、のろのろと歩き出した。
 だが、門を出る前に立ち止まり、まっすぐにセヴァンのほうを見つめて、頭を垂れた。
 セヴァンは呆けたように立っていた。ひとりの奴隷に、五十人の若者が頭を下げる。ありえない光景だった。
 黒髪の百人隊長が「縄をほどいてやれ」と言っているのが、遠くに聞こえた。
 自由になると、セヴァンは弾かれたように走り出した。塁壁の階段を駆け上がり、爪先立って下をのぞくと、灰色の隊列が、とぼとぼと砦の門を出て行くのが、見えた。
 彼らが川の渡し場を渡り、尾根をたどり、南の谷に隠れて姿を消すまで、セヴァンは塁壁に立ち続けた。視界がぼんやりと煙るのは、霧雨のせいだけではない。
(俺は、生き残る)
 無数の水滴を浴び、空を見上げて、誓う。
(ローマの首輪をつけた犬となって、ここで生き残る。ローマ軍と戦って勝つ方法を見つけるために。いつか、豊かで強い氏族の村を作り上げて、あいつらの帰りを待つために)


 セヴァンは、いつものように町から戻ると、パン焼き釜の裏手に行った。
 地面に座り込んで乳鉢を抱えているのは、奴隷仲間のひとりだ。まだ三十を過ぎたばかりだというのに、老人のように痩せこけて、すり棒を操る手も心もとない。
「ゼノ」
 彼はセヴァンを見て、子どものように目を輝かせた。
「バリ、これ、やる」
 片言のラテン語とともに取り出したのは、妓楼の女将フィオネラにもらったハチミツ入りの揚げ菓子だ。たいていは食べずに持ち帰って、腹を空かせた奴隷仲間に分け与えている。
 飯炊き女に、妓楼で捨ててあった古い髪飾りをやったら、割り当ての大麦粥が増えたこともあった。
 新入りに対するいじめはぴたりと止み、セヴァンは少しずつ彼らの心を掌握しつつあった。敵は少なく、味方は多いほうがいい。
 彼は、菓子をむさぼっているバリの隣に座った。
「今日、何見た? 何聞いた?」
「料理人がこぼしていた。いよいよレンズ豆も底をついたらしい。船が着くのがひどく遅れているそうだ」
「それから」
「ゴルドンという兵士が、仲間にワインを飲まれたと大ゲンカになった」
「ふうん」
 奴隷には、ひとつだけ強みがある。回りから、道具だと思われていることだ。どこにでも入りこめ、その場にいることを意識させない。耳をそばだてていれば、砦じゅうの情報を集めることができる。
 バリと話し終えると、わざと砦の中をぶらぶら歩いた。
「おい、ゼノ」
 案の定、ゴルドンから呼び止められる。
「こないだのワイン、また買ってきてくれよ。あれは美味かった」
「6セステルティウス」
「給料前なんだ、もうちょっと安くならねえのか」
「4セステルティウス、海の水、薄める」
「わかった、わかった。海水入りワインはごめんだ」
 兵士から貨幣を受け取り、巾着に収める。
 数週間前に始めた砦の兵士相手の商いは、まずまず順調だった。
 ワイン、かたつむり、りんご、チーズ入りの甘いリブム。兵士たちの注文をまとめて、次の日フィオネラの妓楼に通う途中で店に立ち寄るのだ。
 今年は春が遅く、海が荒れて、いつまで経っても食糧を運ぶガレー船がやってこない。兵士たちは懐具合も腹具合もさみしく、だからこそセヴァンの安い品物に飛びつく。
 大量に注文を受け、値切れば値切っただけ、差額は自分のふところに入る寸法だ。商売の才能があるのか、それとも、クレディン族の奴隷に同情を覚える商人が多いのか、たいていの交渉はうまくいった。
 もちろん、それなりの資金は要る。
 マルキス司令官は、驚くほど金に頓着しない人間だった。長持ちの小箱に金を放り込んだまま、ほとんど見ることもない。セヴァンは隙を見てこっそり、その中から何デナリウスかを抜き取り、商売の元手に使っている。見つかれば、ただではすまないとわかっているが、今のところは、まったく気づかれていない。
 横暴な主人を出し抜くのは、胸がすくような快感だった。
 最後に、厩舎に向かった。
 厩舎の横をそっと通り抜けようとすると、中から話し声が聞こえた。
「どうも、こいつ昨日から、腹の調子が悪いんだ」
「虫でも湧いたのかな」
 騎馬隊の隊員、セイグとペイグが心配げな顔つきで、仔馬を囲んでいる。
 話している内容はわからないが、何が問題なのかはわかる。よちよち歩きのころから、羊や馬に囲まれて育ってきたのだ。
「おい、何の用だ」
 近づいてきたセヴァンを警戒して、彼らは拳を固めた。親友のタイグを殺されたことで、いまだに彼を恨んでいるらしい。
 かまわず、馬に触れ、なだめるように話しかけた。
 仔馬は嫌がらずに、じっとしている。毛並を見、腹を強く押さえ、糞の匂いを嗅ぎ、飼い葉をひとつかみ手に取る。
「飼い葉に砂が混じっている」
 クレディン族のことばのわかるセイグに向かって、飼い葉を突き出した。「砂のせいで腹をくだしているんだ。糖蜜を少し飼い葉に混ぜれば、粘り気が砂を吸い取る」
 あっけにとられているふたりを残して、セヴァンはさっさと立ち去った。
 厩舎の裏の藪に、アカライチョウが巣をかけているのだ。ときどき様子を見に来て、時期がくれば、親鳥も卵も売るつもりだった。


 夜、レノスは火鉢のそばで温めたワインを飲んでいた。
 セヴァンはたらいに湯を張り、主人の足を洗おうとひざまずいている。
「さっき、セイグが報告してきたぞ。おまえの言うとおりにしたら、仔馬の腹具合が治ったと」
「そう、ですか」
「ゼノ。おまえは少し変わったな」
 顔を上げると、司令官の薄い茶色の目が暗がりの中で、ひどくやさしい光をたたえている。思わず息を飲むほど美しく、女かと見まごうほどだ。
「ここへ来たころは、ただの役立たずだったのに、今は自分から進んで働くようになった」
 セヴァンは膝でにじり寄った。「お願い、あります」
「なんだ」
「これ、はずしてください」
 セヴァンは自分の両手をつなぐ忌まわしい鎖を、主人の目の前に差し出した。
「これ、ない、もっと働けます」
 レノスは、小さく笑った。「うそをつけ。鎖をはずしたとたん、逃げる気だろう」
「逃げ、ません」
 ふたりは目をそらさず、互いをにらみ合った。
 セヴァンは、もう一度繰り返した。「逃げません」
「わたしを殺すまでは逃げられぬ、というわけか」
 レノスは、含み笑った。「わかった」と立ち上がる。
「ついさきほど、南の要塞から伝令が来た。遅れていた船がようやく入港したそうだ」
「船が?」
「積荷を降ろしたら、帰りの船に乗って、ブリタニア総督府に行く。おまえもいっしょに来い」
「……いっしょに」
「無論だ。おまえは、わたしの奴隷。死ぬまでどこへでも連れていく」
 司令官は、ランプを持って長持ちに近づき、蓋を開けた。
「総督に会うのに、新しいトゥニカを買わねばならんな。サンダルもぼろぼろだ」
 小箱を開けて中の金を検めていたレノスは、愉快そうに笑い出した。
「不思議なこともあるものだ。ここに入れておいたデナリウス銀貨は、アントニウス帝の銘だったはずなのに、いつのまにかマルクス・アウレリウス帝の銘になっている。どうやら、長持ちの中で即位したらしい」



    第四章 終

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