The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 5 「ローマへ」

(1)

 アカライチョウを捕まえるためにしかけておいた罠にかかったのは、巣穴から出てきたばかりのウサギだった。
――これじゃ、3アスにもならない。
 舌打ちをして、その小さな獲物を手に少し考えてから、厨房に入る。
「皮、はぐ。小刀、貸してほしい」
「ああ、いいよ。そこに並べてあるのを、どれでも使いな」
 セヴァンは、ていねいにウサギの皮を剥いで、肉と毛皮を下働きの女にくれてやった。
 土産をもらった女は上機嫌になった。「今夜はこれで美味しい煮込みを作ってやるよ。明日は、ゼノ、あんたの出発の日だしね」
「ありがとう」
 それから、木切れを取ってきて慎重に削り、本物の代わりに鞘に納め、何食わぬ顔をして厨房に返した。
 そうやって手に入れた小刀に布を巻き、トゥニカの内側にしまった。みぞおちに当たる青銅の感触は、小さな安らぎを与えてくれる。
 明日はいよいよ、司令官のお伴をして、南ブリタニアの総督府に出発する日だ。生まれ育った土地を離れることは、セヴァンにとって、ひどく恐ろしくて、禍々しいことだった――まるで死出の旅路のように。
 ナナカマドの実の色に染まった西空を見上げる。死んだ戦士の魂は、西の彼方アヴァロンの地に飛んでいくのだと、ケルトの氏族は信じている。
――アイダン兄さん。俺を守ってくれ。そっちへ行くときは、司令官の命を供物として持っていくから。


 南の港から、食糧や衣類などの配給物資、それに兵士たちの半年分の給料が数台の馬車で運ばれてきた。
 砦は夜を徹して搬入作業に忙殺された。奴隷たちも駆り出され、寝る暇もなかった。
 それらの引き渡しが無事に終わり、倉庫には、十分ではないにしろ、二百人隊が数ヶ月は食べていけるだけの食糧が積まれ、補給係のルスクスが罵詈雑言を並べる理由のない貴重な日々が訪れたとき、出発の準備は整った。
 正式な召喚命令が届いてからちょうど十日後、払暁の星が消えゆくころ、鳴り響く起床ラッパをはなむけにして、司令官一行は砦を出発した。
 総督府行きにあたって大問題となったのは、『誰が、司令官どののお伴をするか』ということだった。
 これに関しては、ふたりの百人隊長は一歩も譲らず、決闘にまで発展しそうな勢いだったが、最後にフラーメンが自信たっぷりに発したひとことが、勝敗を決した。
「あそこは、俺の故郷だ。司令官どのをウィッラに招いて、エトルリアのワインで手厚くもてなすことだってできる」
「くそう、おまえは金持ちだったのか」
 ここまで言われては、ガリア生まれの平民ラールスは黙るしかなかった。
 マルキス司令官と百人隊長フラーメンはそれぞれの馬に乗り、奴隷ゼノは、荷運び用のロバを引いて後に従った。まず東の砦を経由して、そこから街道を南下し、船の待つ港町でファビウス司令長官と合流することになっている。
 戦火に焼かれた東の砦は、順調な再建の途上にあった。
 ほぼ全滅した部隊の代わりに、本部から新たに派遣されてきた駐留軍が、砦の中央にまっすぐな道を通し、手際よく塁壁の石を積んでいた。
 しかし、たくましい槌音が響いている中にも、焼け焦げた匂いがあたりに漂い、風は死者の断末魔のうめき声を運んでくるようだった。レノスの肩がぶるりと震えたのを、後ろにいたセヴァンはいぶかしく見つめた。
 轡を並べていたフラーメンが、「あれを見てください」と指さした。
「今度の町はえらく立派じゃありませんか。広場も大きくなったし、会堂(バシリカ)も、神殿もある」
「破壊されるたびに、もっと大きなものを作る。そして、負けたことを忘れる。これはローマ人の意地だろうな」
 レノスは、苦々しく答える。「建物は何度でも新しくして、何もなかったことにできる。だが、人間は違う。十年経っても古い恨みは残るんだ」
 東の砦に立ち寄り、新司令官に表敬のあいさつをしてから、彼らはふたたび南に向かって旅を続けた。
「要塞からの道も新たに舗装し、軍用道路を作るそうだ」
「本当ですか。そりゃ難工事ですね。あそこの谷なんか、どうするんだろう」
「陸橋を作るしかないな。あの湿地も杭を打って補強せねばならん。雨が降れば、たちどころに荷車など沈んでしまうからな」
 馬上で熱心に議論しているローマの軍人たちの背中を見ながら、セヴァンは不思議でならなかった。
 なぜ、ローマ人は道や町を作ることなどに、これほど熱心になるのだろう。大工仕事など、戦士のすることではないはずなのに。
 穏やかな気候のため旅ははかどり、あくる日には南の要塞に着いた。
 要塞の町は、東の砦よりもさらに大きかった。たくさんの住居と商店、大きな広場と浴場と神殿。
 兵士たちのための軍病院もあり、地域の住民のためにも開かれている。北の砦の重傷者たちも一時はここに入院していたが、すでに復帰した者もいれば、健康を損なって除隊した者もいた。レノスの部隊は、それ以降、定員を割り込んだ状態になっている。
 要塞で夜を明かした次の朝、一行は川沿いに東を目指して進み、ついにガレー船の停泊する、目的の港町に着いた。
 そこは、今まで見た町よりもさらに大きかった。海に面した一帯が船着き場で、穀物や肉の倉庫、船の補修用のドックが立ち並んでいる。
 辺境の補助部隊すべてを統括する司令本部は、中央の大きな一角を占める数棟の石造りの建物だった。
 マニウス・テレンティウス・ファビウス司令長官が中から現われたとき、セヴァンはその大きな鼻を初めて見て、ワシのくちばしのようだと思ったことを思い出した。
 忘れるはずはない。
 北の砦の閲兵式の日、彼ら兄弟を、すさまじい憎悪と侮蔑の目で見た男を。
「司令長官どの、二百人隊長マルキス、百人隊長フラーメンとともに出頭いたしました」
 敬礼を軽く受け流したファビウスは、その後ろで睨みつけている奴隷に気づき、ゆがんだ笑みを浮かべた。
「おや、これは、誰かと思ったら、クレディン族の。……そうか。兄を殺し、弟を奴隷にしたと聞いていたが、確かに良い選択だ。昼夜そばに侍らす奴隷は、見てくれも大事だからな」
 レノスは答えなかったが、肩がこわばっている。
 セヴァンは、思わずふところの小刀に手を当てた。
 会話をすべて理解したわけではないが、ひどい侮蔑が込められているのはわかる。その侮蔑が自分だけでなく、レノスにも向けられているのを肌で感じたとき、怒りが倍に膨れ上がった。
「クレディン族とダエニ族の新兵たちは、どうなりました」
 レノスは、あくまでも平静な声で問いかけた。
「六週間の初兵訓練を終わり、北東の砦に追いやったよ。まったく、いくら教えても、ろくに敬礼もできない連中だ。戦力にはならん」
 北東の砦は、遠い北の果て、数十年前に打ち捨てられたアントニウスの長城の東にあった。ピクト人の略奪によって半ば壊れ、兵舎には屋根すらないと聞いている。物資もろくに届かないだろう。レノスは彼らの過酷な毎日を思い、歯を噛みしめた。
 だが、ここで憤っていても、どうすることもできない。
 ガレー船は、搬入作業のために、港になお二日とどまり続けた。
 補給物資を降ろして空っぽになった船倉には、今度は属州からの税や貢を積んで、ローマへ運ぶのだ。錫、羊毛、穀物、馬、猟犬、そして人間の奴隷。
 搬入が終わると、船は帆を上げ、三段に並んだ長いオールを操って、南に向かって出航した。
 今年は、北の海が春になっても例年になく荒れており、船の到着が遅れたのも、そのためだった。
 船体の高い三段櫂船は、西風を避けるために沿岸に張りつくように、歩くほうが早いくらいの微速で航行した。
 生まれて初めて船というものに乗ったセヴァンは、ひどくみじめな気分でいた。臓腑が絶えず体の中ででんぐりがえりを起こし、身体じゅうの水分をしぼりきっても、まだ収まらない吐き気は、砦の兵士から打ち叩かれていた捕虜のころのほうが、まだましだと思えるような苦痛だった。フラーメンは、甲板にうずくまるセヴァンを横目で眺め、冷たい笑いを浮かべて通り過ぎた。
 レノスは、そんな状態の奴隷を役に立たぬとあきらめ、ほとんど呼びつけることをしなかった。しかし、実のところ、誰にも邪魔されずにひとりでいたいというのが、本音だったのだ。
(ファビウスどのの、腹に一物あるような態度が、どうも気になる)
 船室で寝ころびながら、レノスはあれこれと想像をもてあそんだ。
(わたしをわざわざ総督府に連れていくのも、クビにするということではないらしい。いったい、どんな話が待っているというのだ)


 属州ブリタニアの総督府が置かれた町は、ロンディニウム――ケルトの古いことばで『沼地の砦』と呼ばれている。
 しかし、そのわびしい名前からは想像もつかないほどの巨大な町で、勾配のゆるやかな二つの丘の上に建てられていた。
 桟橋に降り立っても、いまだに体が揺れているのが止まらないセヴァンは、ロバを引いてふらふらと歩きながら、行き交う人々の多さと雑多さに息を飲んだ。トーガを着たローマ人が目の前を通り過ぎたかと思えば、シカ革のマントとズボン姿の氏族も歩いてくる。生まれて初めて見る、肌の黒い種族もいた。
 広い川にはどっしりと大きな石の橋が架けられ、北の河岸に沿って、延々と町が広がっている。舗装された広い大通りが縦横に走り、大広場、壮麗なバシリカ、ミトラ神殿、円形闘技場、いくつもの浴場といった建築物がそびえたつ。
 さらに、それら町の全体を、人の身丈の三倍はあるような石壁が取り囲んでいた。
「この市壁は、先年できたばかりですよ」
 フラーメンが総督府までの道を、自慢げに馬で先導した。ここは彼が育った町なので、案内するのが務めと心得ている。
「すごい人だな」
「六万人が住んでいるそうです。数えたわけじゃありませんけど、もっといるかもしれません。近隣の村々からも商人がやってくるし、海の向こうからも」
 彼は、大河の下流を指で指し示した。「ユリウス・カエサルがこの島に攻め込むずっと以前から、商売人は海峡を渡って、この島にやってきていたんですからね」
 島を南に下るにしたがって町がどんどん大きくなることに、セヴァンは肝をつぶし、恐怖さえ覚えていた。これでは、皇帝が住むという帝都ローマは、どれほど大きな町だというのだろう。
 総督府は、ふたつの丘の左側、町の北西部にある軍団要塞と同じ敷地内にあった。ブリタニア総督は、この島のローマ軍を束ねる最高指揮官も兼ねているためだ。
 主人たちが中に入っていったあと、セヴァンは中庭で馬の世話をしながら待っていたが、やがてフラーメンが出てきた。
「追い出されちまった。司令官どのは、総督と司令長官と三人で食事をとりながら、秘密の会談だそうだ」
 彼は頭を振り、蒼い目を光らせた。「いったい何の話だろう。絶対に、何かあるよなあ」
 そして、そばに立っているセヴァンに今初めて気づいたかのように、声を挙げた。
「ただ待っているのも退屈だ。ついてこい。うまいものを食わしてやる」
 フラーメンは、途中の露店で、串刺しの肉を買い、干しブドウを買い、ハチミツ漬けのパンを買って頬張りながら歩いた。「食わしてやる」と言ったくせに、セヴァンには一口も与えようとはしない。
 彼らは河畔に降りると、下流に向かって歩いた。川面をゆったりと舟が行き交い、さざなみが岸の葦を揺らしている。これほど幅が広い川はセヴァンにとっては海と同じだ。実際、川の水は海と混じり合って、かすかに潮の匂いがした。
「俺のことばが、わかるか」
 思いついたようにフラーメンが氏族のことばを使ったので、セヴァンは面食らった。
「……少しだけ」
「そうだろうな。氏族と言っても南と北では風習も違うし、なにしろ俺は、もの心ついてからラテン語しか教わらなかった」
 フラーメンは、湿地を好んで生えるニワトコの藪のそばで立ち止まり、じっと川面を見つめた。
「ローマはこの一帯を武力で征服したあと、降伏した王や族長に、引き続き自治領として自分たちの土地を治めさせたんだ」
 意思の疎通への試みをあっさり放棄すると、フラーメンはラテン語で好き勝手に話し始めた。
「貢を集め、兵士を供出する義務を負わせる一方で、王や貴族にはローマの市民権を与えた。何十年か経ち、ローマ風の豪勢な暮らしに次第に馴染み始めてきたころ、借金漬けにされた王たちの土地は、税と債務の取り立てで次々と属州に吸収されていった――うまいやり方だろ?」
 問われても、相槌の打ちようがない。
 麦わら色の髪をした百人隊長は、セヴァンとそう背丈の変わらない小柄な男だが、背筋をすうっと伸ばしたとたん、大きく見えた。
「黙って指をくわえている連中ばかりじゃない。百年ほど前に、馬族の女王ボウディッカが諸族を率いて、ローマに叛乱を起こしたんだ。ローマ軍は、さんざんにやられて敗走し、この町も放棄されて、数万人が虐殺された。叛乱はうまくいったように見えたが、そのあと再編されたローマ軍に、ひとたまりもなく、やられちまった」
――なぜだろう。
 彼の話している言葉のひとことひとことが、共鳴する。身体に染み入るように内容がわかる。自分にはまだ、それほどラテン語を理解できるはずはないのに。
 セヴァンたち自身が、古の馬族の女王と同じように反乱を起こし、同じように滅びの道をたどってきたからだろうか。
 それとも、フラーメンの心の片隅のどこかに、悲劇の女王に対する崇敬が潜んでいるからか。
「この町も再建され、前よりももっと立派な、堅固な町になったよ。司令官どのも言ってただろう。破壊されるたびに、もっと大きなものを作るのがローマ人だ、って。勝てるわけはないんだ。烏合の衆の氏族連合になど」
 百人隊長は、後ろに立ち尽くしている奴隷に振り向き、うっすらと笑った。
「おまえも、そろそろわかってきたはずだろう。自分たちが、どれほど愚かな戦いを巨人にしかけたか」
「……」
「だいたい、バカなんだよ、そんな意地のせいで、おまえたちの側も、俺たちの側も、どれだけの人間が死んだと思ってるんだ」
 セヴァンは、くっと奥歯を噛みしめた。
「氏族の誇りとかなんとかを振りかざしやがって。俺は、おまえが大っ嫌いだ」
 フラーメンの瞳はたちまち、静かで冷たい氷の色になった。
「おまえ、ふところに刃物をしのばせてるよな。船の上で、ちらりと見えたんだ。砦を出発する騒ぎのどさくさに、持ち出したか……油断したよ、俺もラールスも、おまえからは絶対に目を離さないようにしてたのに」
 一歩前に出した彼の軍靴がずぶりと、やわらかな湿地に沈む。セヴァンは退こうとしたが、逃げ場がない。
「性懲りもなく、司令官どのへの逆恨みを捨てないつもりなら、そろそろ考えねばならんな」
 フラーメンは鋭く息を吐くと、飛びかかってきた。ニワトコの藪の中に倒れこんだセヴァンは、あおむけに地面に押しつけられた。
 鉄の剣の切っ先が、首すじにひやりと当たった。



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