The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 8 「炉端で」

(2)

「脇があまい!」
 レノスの怒声は、演習場の四方から跳ね返ってこだまし、まるで神々の天からの託宣のようだった。
 北の砦が大改築を行なったとき、兵たちの演習場も生まれ変わった。それまで観客席と言えば、雑草が生えた土手に過ぎなかったのに、石と木枠を組んだ長椅子が常設され、階段状に敷き詰められたのだ。ローマのコロセウムを知っている者には物足りないが、それでも物資の少ない北ブリタニアの砦にしては、せいいっぱいの普請だと言えよう。
 新しくなった演習場では、百人隊六つ、つまり、今や立派な大隊(コホルス)の規模となった第七辺境部隊の兵士たちが、演習を行なっている。訓練とは言え、限りなく実戦に近い。模擬剣での斬り合い、肉と肉のぶつかり合いである。コロセウムの剣闘試合に慣れたリュクスにとっても、なかなかの壮観と言えるべきものだった。
 だが、きわだつ異才を放っているのは、やはり司令官のレノスだ。その冴え冴えとした剣さばきと、思わずしり込みしそうになるほどの気迫は、離れて見ていても身震いが起きるほどだ。
「うおお、たいしたもんだな」
 リュクスが感嘆の声を上げていると、フラーメンが近づいてきた。このブリテン島の生まれで、気さくで陽気な金髪の男だ。性格が似ているせいか、このふたりは出会ったときから妙に気が合う。
「あの細い体で、なんであんな重たい斬撃ができるのか、さっぱりわからない」
 フラーメンは腕の青あざをなでながら弱音を吐いた。「対戦相手を務める身にもなってくれ。命がいくつあっても足りない」
 リュクスはふんと鼻を鳴らした。「筆頭百人隊長サマともあろう御方が、よく言うぜ」
 フラーメンは、新しく編成された六百人大隊で、百人隊長の筆頭に出世したのだ。正規軍団ではないから給料もたいしたことはないが、砦ではレノスの次席とされる身分だ。
「しかし、確かにあの人はすごい。天性の武人だ」
 リュクスはほれぼれと、レノスを見つめる。「あんなに若いのに、死線を幾度も越えたってツラをしてやがる」
「子どものころ、戦乱の中で相当ひどい目に会ったという話だけどね」
 フラーメンはかぶとを脱いで、ぽりぽりと頭をかいた。「さきの氏族との戦闘でも、敵の大将と一対一でやり合って、腕に深手を負った。剣を持つと手が震えるって言ってたのに、今はどうだ。そんな怪我は記憶にないとばかりに、自在に剣を振るっている」
 ことによると、深手を負ったのは、腕じゃないかもしれないけどな、とつぶやく。
「コロセウムの筆頭剣闘士なら勝てるかもしれないぜ? いっぺん立ち合ってみろよ」
「そいつはお断りだ」
 リュクスはにやりと返した。「剣闘士が生き残る極意はだな。自分より強いやつとの対戦は、何があっても逃げまくることなんだよ」


 砦のあちこちを歩き回ったリュクスは、ようやく捜していた人間を見つけた。
「ゼノ」
 倉庫の前で、太った補給係将校と蝋板と鉄筆を手にやりとりしていた司令官づきの奴隷は、歓迎しているとは言いがたい顔つきで振り向いた。
「リュクス。何をしている」
「何をって、おまえの手伝いに来てやったんじゃねえか」
 腕を組み、威張って言う。「俺の直接の主人はスーラさまだが、本当の主人はおまえだ」
「そうだったか」
 ぶっきらぼうに答えて、セヴァンは門のほうへ歩き出した。「家の用事は、いいのか」
「ああ、家の外回りはすっかり仕上がったし、俺のすることはもうない。あとは、ユニアが花嫁さまといっしょに、家の中を万事ととのえてる最中さ」
 と、空を見上げる。「いいよなあ。家を新しく建てて、好きな女を妻に迎えるってのは」
 スーラ元司令官は、北の砦に着いてしばらくは、フィオネラに会いに行こうともせずに悶々としていた。いざとなると気持ちがくじけてしまったのだ。だが、リュクスやユニアをはじめ多くの人の声援に後押しされて、勇気を奮い起して、ついに求婚した。
 フィオネラは涙を流しながらうなずいたという。すぐに妓楼の経営は仲間のひとりに譲り、スーラのもとに嫁ぐことを決めた。
「ユニアも、うらやましい、私も結婚したいとため息ばかりついているくせに、すぐそばにいる俺に、どうして気づかないんだろう」
「そう思うなら、毎晩のように妓楼に通うのをやめろ」
「な、なぜ知っている! ばれないように用心してたのに」
 呆れたといったため息を吐くと、セヴァンは門を指差した。「いいから帰れ。水汲みでも手伝って、せいぜいユニアの機嫌を取ってやるんだな」
「俺は、おまえの役に立ちたいんだ」
 憤慨した様子でリュクスは答える。「何のためにこの北の果てまでやってきたと思ってる。命を救ってくれたおまえに、少しでも恩返しがしたいからだぞ」
「用はない。なんなら、砦の新米兵士に剣でも教えてやったらどうだ」
「それが……」
 リュクスは悔やしそうに、後ろを振り返る。「演習場に入ろうとすると、あの黒髪のガリア人隊長に怒られるんだ」
 黒髪のガリア人とは、ラールスのことだ。「卑しい剣闘士ふぜいが、神聖な軍の訓練場に立ち入るなとさ」
 剣闘士は、どんなに民衆の熱狂的な人気を受けても、富を得ても、社会的身分は下賤なものとされていた。奴隷よりもさらに下等とされ、解放された後も、ローマ市民になることもできず、軍に入ることもできなかったのだ。
 「そう言えば、おまえのご主人、すごい剣の腕だな」と、しんみりしたリュクスは急いで話題を変える。「さすがに、大隊をまかされるだけある。張り切ってるぞ」
 セヴァンは立ち止まり、奴隷の刺青を彫られた眉根をきゅっと寄せた。「あれは、張り切ってるんじゃない。怒ってるんだ」
「怒ってる?」
「行き場のない怒りを剣にこめて、相手ではなく自分を痛めつけている。毎日へとへとになって気を失う寸前まで」
「いったい何があったんだ」
 セヴァンは胸壁の上を行き来する見張り兵を、じっと見上げたまま答えない。リュクスはようやく思い当たった。
「例の皇帝争いのことか……」


 ブリタニア総督アルビヌスに付き従って、レノスがローマに赴いたのは、昨年の暮れだった。その眼前で、皇帝コンモドゥスは家臣たちの陰謀によって暗殺された。
 すぐに、元老院議員ポンペイアヌスらの推挙を受けて、当時の執政官だったペルティナクスが皇帝の座に就いた。
 だが、そのわずか八十六日後にペルティナクスも暗殺されてしまったのだ。急報は、ブリタニアに帰ったばかりのレノスの背中を追いかけるように届いた。
 主謀者は、近衛隊長官ラエトゥスだった。コンモドゥス帝暗殺にも加わった、キツネのような狡賢い風貌の男である。
 暗殺の原因は、ペルティナクスが財政の建て直しを優先して、近衛兵たちに十分な報奨金を支払わなかったためとも言われるし、エジプト長官の座をうかがっていたラエトゥスに満足な返事を与えなかったとも言われるが、定かではない。
 辺境にいる身にとっては、すべてが推測でしかない。おそらく、真面目すぎるほど生真面目なペルティナクスの性格が災いしたのだろう。
 その後くりひろげられた皇帝の地位をめぐる争いの一部始終が、レノスの憤激をますます煽った。
 ペルティナクスの死後、驚いたことに、ラエトゥスは「帝位を競売にかける」との触れを出したというのだ。応じたのは、亡きペルティナクスの岳父であった首都長官スルピキアヌスと、アフリカ総督ディディウス・ユリアヌス。彼らは近衛隊の面前で掛け金を吊り上げていき、最終的に高い金額を提示したユリアヌスが勝利した。近衛隊のありえない突出ぶりに、元老院も狼狽しながらも、この結果を追認するしかなかった。
 ローマ市民の与り知らぬところで、元老院でさえ何の口出しもできずに、皇帝の座が金の力で動いたという事実。
「もう、だめだ」
 レノスはこのことを聞いたとき、呆然と立ちすくんだ。
 ローマはもう終わりだ。どこの国に、自分たちの長を競売にかける民族がいるだろう。法を重んじていたはずのローマは、こんなにも堕落してしまったのか。
 レノスでなくても、怒りのあまり暴れたくなるのは当たり前だとセヴァンは思う。
「食事です」
 演習を終えて風呂を浴び、ぐったりとした様子で自室に戻ってきたレノスに、セヴァンは朝食の乗った盆を運んだ。
「いらない」
「食べてください」
「いらないと言っている。食べたくないんだ」
 セヴァンは机の上にがちゃんと乱暴にパンの皿を置いた。
「あなたが、この島の氏族からむしりとった小麦です。食べないとは言わせません」
 静かだが底知れぬ怒りをこめたことばに、レノスは一瞬あっけにとられ、そして観念したように、すとんと腰を落とした。
「そうだったな」
 スープを飲み、パンをちぎって、頬張る。だが少しして、噛むことを忘れたようにじっとしていたかと思うと、ぐったりと首をかしげた。食べながら寝てしまったのだ。
 セヴァンは、その姿を目に刻み続けた。やがて、毛布をレノスの肩にかけると、部屋を出た。
「あ、ゼノ。司令官は?」
 あたふたと事務室のほうから、会計のネポスがやってくる。
「今、食事中ですが、何か?」
「至急、相談したいことがあるんだ。新しく増えた四つの百人隊の分の給料のことで――」
「俺が聞きます」
「え?」
「手順は主から、すべて聞いています。俺が代わりにやるようにと」
 一笑に伏そうと思ったネポスは、息を飲んだ。セヴァンの薄緑色の瞳は、ためらいなく真っ直ぐ前を見つめ、確信にあふれていた。その目を見ていると、不思議と素直に納得できたのだ。彼はもはや蛮族の奴隷ではなく、司令官の右腕なのだと。
「そうか。旅のあいだにいろいろ司令官から学んできたもんな。ことばも見違えるくらい巧くなったし、おまえならできるな」
「はい。では事務室に」
 セヴァンは、そっと後ろ手に扉を閉めた。


 辺境部隊司令本部からの召喚命令が来たのは、その一週間後だった。
 港町までは一日半の行程、さっそく奴隷を伴って向かう。レノスの到着をしびれを切らして待っていたのは、ファビウス司令長官だった。
「遅いぞ。カルス司令官」
「申し訳ございません」
「アルビヌス総督からの命令書だ」
 挨拶を交わす暇もなく、ファビウスはパピルスの巻物をレノスに突きつけた。
「これは……」
 広げて文面に目を走らせたとたん、レノスの目が驚愕に見開かれた。
「わたしが……隊を率いて、ガリアに赴任?」
「そういうことだ」
「なぜですか。第六軍団の補助軍でしかない辺境部隊が」
 ファビウスは立ち上がり、ゆっくりと部屋を歩き回った。
「帝位を不法に簒奪しているディディウス・ユリアヌスを廃すべきだという声が、各方面の軍団から上がっておる。現在三名の総督が、それぞれ皇帝に推挙されていると聞く」
 ひとりは、シリア総督ペスケンニウス・ニゲル。
 今ひとりは、パンノニア総督セプティミウス・セウェルス。
 そして、レノスの属するブリタニア駐留軍団の総督クロディウス・アルビヌス。
「アルビヌス総督は、さっそくゲルマニア軍団の精鋭部隊を率いて、帝都ローマに進軍なされるつもりだ。だが一方で、ゲルマニア防衛線の維持も不可避だ。蛮族が手薄なところを狙って攻め込んでこぬように、防備を強固にせねばならん」
 ファビウスは鷲鼻をしごいた。「よって、辺境部隊の中でも勇猛果敢で名を知られたきみの部隊を派遣し、防衛線を補強してもらうということに話が決まった」
「わたしが……ですか」
「総督はきみを買っておられる。ローマへの同行以来、ことのほかお気に召したようでね」
 長官の下卑た眼差しを、レノスは見ないふりをした。「光栄です」
「引き受けてくれるだろうね」
「わたしのような若輩者でよければ。ご期待に応えるよう全力を尽くします」
 感情をひとかけらも交えず、一息で言い切った。
「よかった。きみはあの砦と周辺の氏族をいたく気に入っていたからね。行きたくないと断られるのではないかと内心びくびくしていたのだよ」
 ファビウスは、皮肉げに口の端をゆがめて笑う。蛮族との融和を唱える異端児を厄介払いできることを喜んでいるようだ。
「北の砦はどうなりますか」
「新しく赴任したばかりのセリキウス百人隊長を、司令官代理とする。連れて行く兵の人選はきみに任せる。不足の人数は本部から補充する」
「承知いたしました」
 本部の建物を出るとき、まばゆい青空を見上げて、レノスは目まいを覚えた。
 外で待っていたセヴァンが、近づいた。「どうしたのですか」
「この島を離れねばならん」
 レノスは、うつろな声で答えた。「旅の途中に立ち寄った、レヌス川の防衛線を覚えているな。あの砦のひとつに派遣される。夏までに移動だ」
「……そんなに早く」
「やっと帰ってきたと思ったのに……ようやく醜い内紛から切り離されたのに、また巻き込まれるのか」
 悔しげにうめく主の背中が、セヴァンの目にはひどく小さく、頼りなく見えた。
――どんなに強がっていても、この人はやはり……。
 思わず伸ばそうとした手を寸前で握りしめ、代わりに、鋭いことばを浴びせる。
「では、急いで帰りましょう」
「……」
「一刻も無駄にできません。すぐに砦に帰って準備を始めないと。兵士たちの装備、馬。それに数ヶ月分の糧食も現地に送る必要があります」
 振り向いたレノスは、まだ状況を把握できていないような顔をしている。
「何をしているのですか。即座に命令どおりに動くのが、ローマ軍の司令官の役目でしょう」
 セヴァンは、なじるように続ける。「……それとも、命令にそむきますか?」
 レノスは、唇をきゅっと真一文字に結んだ。
「いや」
 その瞳に力が戻ってくる。「行くぞ、ゼノ。全速力で砦に戻る」
「はい」
 アラウダとエッラ、二頭の葦毛馬はたてがみを逆立て、濃い緑色に染まる草原を競い合うように駆け始めた。


 食堂に集まった将校たちのあいだには、まだざわめきが残っていた。
「部隊を編成する権限は、このわたしにある」
 レノスは、もう一度はっきりと繰り返した。「遠征することを望まぬ者は、この北の砦でセリキウス司令官代理のもとで務めを果たすことができる。降格も不利益もない。諸君がこの地を愛しているのは、誰よりもこのわたしが知っている……わたしだって残りたいくらいだ」
 くすくすと、あちこちから笑い声が漏れた。
「もちろん、ついて行きますよ」
 フラーメンがもったいぶった調子で叫んだ。「司令官どのをひとりで行かせるなんて不人情なまねはしません。なあ、そうだろう」
 口々に、同意の声があがった。
「待ってくれ。行きたくないと言い出せない雰囲気は困る」
 無理に怖い顔を作って、レノスは一同を見渡した。「遠慮せずに言ってほしい。ここに残ろうと思う者は?」
「悪いが、司令官どの」
 補給係のルスクスが片手を挙げ、重い声で言った。「おれは残らせてもらいますよ」
「ルスクス」
「あの戦闘で怪我をした腹がときどき痛むんだ。長旅はごめんですぜ」
「わかった。ルスクス」
「それに、せっかくクソったれな倉庫を新しく建て替えたばかりだというのに、人に任せてはいけません」
 レノスはうなずいて、微笑んだ。「わたしたちの帰りをここで待っていてくれ。おまえが砦の食糧を守っていてくれるとわかれば、安心して腹ペコで帰って来れる」
「くれぐれも、玉ねぎを腐らせるなよ」とヤジが飛び、皆どっと笑う。皆の気持ちが明るくなった証拠だった。
「ほかに、いないか」
 フラーメンは、隣にいる同僚が今までの話し合いにまったく加わらず、うつむいたままなのに気づいた。
「ラールス、おまえも当然行くよな」
 返事はなかった。「聞くまでもないか。北ガリアはおまえの故郷だもんな」
 その声を遮るように、ラールスはきっぱりと顔を上げた。
「司令官どの。俺も残らせてもらいます」
 「ええーっ」という全員の悲鳴が、部屋に響き渡った。


 ラッパが、第二哨戒の時刻を告げた。十人隊が門から見回りに出て行くのを見送ってから、レノスは胸壁の階段を上がった。上から眺める夜空は澄みきって、山々のきわまでくっきりと星明りに彩られていた。
「ラールス。話とはなんだ」
 黒髪の百人隊長はレノスの隣に立ち、長いあいだ無言のままだった。星が天空をめぐる音が聞こえそうなほどだ。
「司令官」
 ついに口を開く。「俺は故郷には帰れません」
「なぜ」
「人を殺しました」
 狭間のくぼみをぐっと片手で握りしめながら、ラールスは吐き出すように言った。「上官と、それに、好きだった女を……一度に殺してしまったんです」
「よかったら、理由を聞かせてくれないか」
 レノスはできる限り、さりげなく訊ねた。
「俺は十七歳でローマ軍に入隊し、ゲルマニア防衛線のコンフルエンテスの砦の陣営に加えられました。配属された大隊は、親が元老院議員という若い貴族さまが司令官でした」
 話すことが得意ではないラールスは、時間をかけて言葉をさがしている。
 十年前、その周辺は小康状態を保っていた。ふたつの川が合流する交通の要所であるため、コンフルエンテス砦の近くには、市場が開かれ、砦には、長城の東側からやってくるゲルマニアの商売人たちが、たくさん通行許可を求めて訪れていた。
 彼らの土地には広大な森が広がり、氏族たちが森の木の実で育てた豚は良く肥えて、美味だった。
「前に言ったことがありましたね。司令官。あなたがクレディン族の族長の息子と狩りに行った日の帰り」

――僭越ながら、忠告もうしあげます。俺には、司令官どのは、この島に取りつかれているように見えるのです。

「ああ、覚えている」
「俺のそのときの上官が、とりつかれてしまったのですよ」
 砦の警備を見回っていた上官は、氏族の美しい娘に心を奪われた。言葉を交わし、恋焦がれるあまり彼女を自分の部屋に引き入れて、腕ずくで操を奪った。
 妻に迎えたいと懇願すると、氏族の娘は、ひとこと答えた。自分の父の家に来て贈り物をしてほしいと。
 彼はラールスら数人の部下を供に連れ、おおいに威儀を正して、高価な贈り物をたずさえて、娘の氏族の村に向かった。
 そして、ラールスひとりを残して、全員が氏族に虐殺されてしまったのだ。
「俺ひとりが危険を察して、いちはやく砦に逃げ帰り、このことを報告しました。軍団長は千人の大軍を送り、氏族の村を皆殺しにしました。もちろん、あの娘も含め一人残らず」
「待ってくれ」
 レノスは問い正した。「さっき、おまえは好きな女を殺したと言ったではないか。それでは」
「俺の上官が懸想した娘とは、俺の想い人だったからです。俺と会っているところを、上官が横恋慕しました」
 絶句するレノスの隣で、ラールスは静かに息を吐いた。
「上官を止める機会はいくらでもあったでしょう。だが、俺はそうしなかった。そうする勇気がなかった。逃げ帰って軍に報告すれば、村に報復が及ぶのもわかっていた。けれど、俺は報告した。俺の中に渦巻いていた怒り、恨みや妬みがそうさせた。ローマへの忠誠と憎しみのあいだで迷いながら――結局、彼らを殺したのは俺なんです」
 ラールスはレノスに向かって、直立の姿勢を取った。「これが、俺が故郷に帰ることができない理由です」
「事情はわかった」
「申し訳ありません」
「だがな。ラールス」
 レノスは天頂を仰いで、息を吐いた。「前に進みたいと思うなら、ガリアに帰れ」
「え?」
「わたしもローマに帰って、ようやくそれがわかった」
 星空に、従兄のアウラスを思い浮かべる。「昔の傷には、思いきった荒療治が必要なんだ」
 ラールスは、司令官の横顔にじっと目をそそいだ。
 レノスは、部下の肩にぽんと手を置いた。「どうするかは、おまえが自分で決めろ」


「巡回に行く。ついてこい」
 午後になって、砦の司令官はいきなり身支度を始めた。セヴァンは鎧を着こむのを手伝い、マントをブローチで止め、それから急いで厩舎に行き、二頭の馬を引っ張ってくる。
 砦を出て、まっすぐに伸びる町の大通りをくだる。地面には整然と石が敷き詰められ、行き交う大勢の人々の気を引こうとする商人たちの売り声でにぎやかだ。広場には完成したばかりの石造りのバシリカがそびえ立っている。そこここで槌音が響き、町はさらに大きく広がろうとしていた。
 町の門を出ると、東の見張り台から西の見張り台へと、順繰りに進んだ。騎馬隊が巡回するいつもの道筋。すなわち、北の砦が受け持つ地域の境界線をめぐることになる。
 兜を脱ぎ捨てたレノスの短い黒髪は、夏の風とたわむれるように揺れている。日焼けした肌にはうっすらと汗がにじみ、赤銅でできた馬の女神像のように輝いている。ただひたすら丘を登り、谷を下り、口を利くこともなく、ふたりの主従は馬を走らせ続けた。
 夕暮れになり、彼らは『欠けた石垣』と呼ばれる大昔の遺跡で立ち止まった。セヴァンたちの先祖がこの地に定住するもっと前、古の種族がこの聖なる巨石を立てた。この向こうがクレディン族の支配する領域だ。セヴァンはここに来るといつも、知らず知らずのうちに自分の村の方角に目をやってしまう。
 ローマと氏族との境の地。アイダンや戦士たちの遺体が引き渡されたのも、ここだった。
「ゼノ」
 馬を降りたレノスは、苔むした石を指の腹で撫でた。「もっと早く、こうすべきだった」
 セヴァンはたちまち身を固くした。「何の話ですか」
「おまえを奴隷から解放する」
 レノスは鎧のふところから、パピルスの紙を取り出した。「これが、その証書だ。額の刺青が消えるまでは、持ち歩け。ローマ兵に捕まりたくなければな。鉄の腕輪は鍛冶屋にはずしてもらえ」
 ふたりは、向き合って立った。ヘザーの葉が足元をくすぐる。
「なぜ……ですか」
「うれしくないのか」
 レノスは顔をしかめた。「リュクスに言われてから、ずっと考えてはいたんだ――そろそろ、解放してやるべきかと。今までよく忠実に仕えてくれた。コロセウムでは、わたしの身代わりに死ぬほどの怪我まで負ってくれた。もう十分だ」
 セヴァンは、ぼんやりと彼方の丘を見やった。
――もう、奴隷ではない?
「わたしはガリアへ行く。いつまた、ここに帰って来られるかわからない。おまえをこれ以上軍とともに連れ回すべきではないと思う」
 主の声が、次々と風に運び去られていく。
 もう、奴隷ではない。
 どこにでも好きなところに行ける。誰にも指図されない。命令にそむいても鞭で打たれない。髪を短く切る必要もない。
「クレディン族の村に帰れ。ピクト人も海の向こうの民もなりをひそめている。しばらくのあいだ、ブリタニアでは平和が続くだろう。おまえの身に着けた知識を、氏族の繁栄のために用いてほしい」
 胸の中が熱くなった。今から走って村に帰り、父や弟のいる家に入って、「ただいま」と叫ぶのだ。炉端に座り込んで、お腹いっぱい羊肉のシチューを食べて、好きなだけ眠れるのだ。
「ゼノ」
 その声に、我を取り戻した。夕映えに橙色に照らされて、主の顔は今にも泣きそうに見えた。
「家族のもとに帰れ。わたしの教えることは何もない。おまえは文字の読み書きを覚えた。計算も、ローマの歴史と法律も学んだ。これ以上、わたしのもとにいても」
 レノスは苦労して、深く息を吸い込んだ。「ローマの情けなく、恥ずかしい姿を見せるだけだと言う気がする。我々が権力を求めて相争うところを、見せたくはない」
「……いいのですか」
「え?」
「俺がいなくなって、あなたはどうやって、ひとりで鎧を着るのです。剣ばかり振り回して、食事もろくにとらず、椅子に座ったまま眠ってしまい、補給係や会計への指示も忘れて……俺がいなくて、どうやって生きていくつもりです」
「……ゼノ」
「無理やり奴隷にしておいて、今さら、よくも、そんなに簡単に帰れなどと――」
 胸にいだいた淡い郷愁など瞬時に焼け溶かしてしまうほど、体の奥底から煮えたぎる怒りが湧き出してくる。
 セヴァンは、地面から解き放たれた影のように、ひといきに主に掴みかかった。レノスの身体を石垣に押しつけ、喉笛に両手を当て、力をこめる。
 レノスは抵抗もせず、目を見開いたままこちらを見つめている。
――あなたを、手離すものか。
 その大きな薄茶色の瞳も。なめらかな磁器のような肌も。猫のような細く癖のある髪の毛も。鎧の下に隠したひそやかな丸みも。
「……く」
 レノスの口から苦しげな声が漏れ、セヴァンは力をゆるめた。
「あなたを殺すまで、俺はあなたのそばを離れません」
 耳元に低くことばを残して、セヴァンは立ち上がった。
 咳が鎮まると、レノスはかすれた声で言った。「そうか。そうだったな。おまえは、アイダンの仇であるわたしを殺すと誓ったのだったな」
「そうです。あなたの首を持って帰らなければ、村には帰れません」
 レノスは、石垣を頼りに、立ち上がる。
「だが、悪いが、まだ殺されてやるわけにはいかん。わたしにはまだ、ガリアに行くという任務がある」
「わかっています」
「ついて来たいならついて来い。だが、奴隷のままだぞ」
 セヴァンは皮肉っぽく目をきらめかせた。「あなたもそうでしょう?」
「わたし?」
「あなたも、ローマの奴隷だ。行けと言われたら行くし、来いと言われれば来る。命じられれば意に反して汚いこともする。いったい俺たちと何が違うのです」
 ぽかんと開いていたレノスの口に、やがて笑みが形作られた。
「そうか。ふふ。確かにそうだな」
 セヴァンは馬の手綱を取って、主人に渡した。「さあ、砦に帰りましょう」
 エッダにまたがり、先立つセヴァンの背中を見つめながら、レノスは口の中でつぶやいた。
「……ありがとう。ゼノ」


 初夏の夕べ、スーラ元司令官の結婚の宴が開かれた。
 オリーブの葉や花で飾られた町の広場。砦の兵士と町の住民が大勢集まる中、オレンジ色の花嫁衣裳のフィオネラと白いトーガ姿のスーラは並んで入ってきた。民衆の面前で結婚契約書に署名をし、介添え役の女性がふたりの手を重ねあわせた。
 披露宴では、町じゅうの人々が酒を酌み交わして、おおいに騒ぎ、松明行列が新居まで練り歩いた。
 スーラは先に家の中に入って待ち、花嫁は玄関の前で『ガイウスがいるところ、ガイアもあり』と決まり文句を歌う。すると、花婿の友人であるレノスとリュクスが、花嫁が敷居でつまずかぬように担ぎ上げて玄関をくぐるのだ。
 新しい町の完成を祝うかのような、美しい夜だった。スーラもフィオネラも喜びに輝いていた。町の住民も砦の兵士たちも、自由人も奴隷も、ともに分け隔てなくふたりの幸せを祝った。
「ああ、来月にはガリアに行っちまうのか」
 リュクスは杯を干した口元を手の甲でぬぐいながら、悔しげに言った。「俺もついていきたい。おまえと離れ離れになるんなら、ブリタニアまで来た意味がないじゃないか」
「おまえは、スーラさまに雇われているんだろう」
 セヴァンはそっけなく答え、骨付き肉を噛みちぎった。内心はリュクスの言葉がくすぐったかった。こんなふうにあけっぴろげに好意を示されることに、慣れていないのだ。
「何か、俺にできることはないか」
 友の真剣なまなざしを受けて、セヴァンは考え込んだ。
「ひとつ、やっておいてほしいことがある」
「なんだ」
「この町の住民を集めて、剣闘士を養成してほしい。できるだけ大勢」
 声をひそめる。「表向きは剣闘士だが、いざというときは、町を守って戦えるようにしてほしい」
「……自警団か」
 リュクスは、セヴァンの意図をはかりかねて口ごもった。「でも、町はローマ兵が守っているのに、何のために?」
「ローマ軍団は、いずれこの地からいなくなる」
 予言者めいた言葉をつぶやくセヴァンを、リュクスは驚いて見つめた。「……わかった。おまえの助けになるんなら、なんでもやるよ」
 沈むことをしぶっていた太陽も、ようやく丘の向こうに隠れるころ、通りでぐずぐず寝ている酔っ払いたちを家に叩きこんでから、兵士たちはにぎやかな歌を歌いながら、砦に引き上げた。
「平和だな」
 その隊列を後ろから見つめながら、レノスはつぶやいた。
 ゲルマニア防衛線に赴任しても、彼らの笑顔は消えないだろうか。留守のあいだ、北ブリタニアの治安は保たれているだろうか。
 もしかして、こののどかな光景が、レノスが見る最後の幸せな記憶になるのだろうか。
「司令官どの」
 物思いから引き戻したのは、ラールスのうわずった声だった。
 彼は夜風に黒髪を乱し、深酒に目の縁を赤くし、ふらふら近づいてきた。
「司令官どの。俺もついて行きますよ。行かせてください」
「……おまえ、酔っぱらってないか?」
「酔っぱらわずに、こんなことは言えません!」
 敷石に蹴つまずいて、百人隊長はレノスの腕にしがみついた。「……司令官どのみたいに、俺も前に進みたい。連れて行ってください」
 泣いているらしい、くぐもった声に、レノスはぐいとラールスの背中に手を回し、ぽんぽんとあやすように叩いた。
「わかった。頼りにしているぞ」
「……すみません」
 部下と肩を組みながら、レノスは砦への坂道を歩んだ。
――必ず、ここに帰ってくる。第七辺境部隊全員、ひとりも欠けずに、だ。
「それまで、平和でいてくれ。北の砦」


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