The Warrior in the Moonlight

月の戦士

back / top / home

Chapter 8 「炉端で」

(3)

 レノス率いる第七辺境部隊が、上ゲルマニアのモグンティアクムに着いたのは、六月に入ってからだった。
 モグンティアクムはレヌス川とモエヌス川が交わる河川交通の要所で、ローマ第22軍団の駐留基地である。レノスたちは、補助軍として支援活動をするため、到着と同時にその指揮下に入ることに決まっていた。
 第22軍団の軍団長はブレヌスという名の壮年のガリア人で、歯並びがひどく悪く、いつも口を開けて笑っているように見えた。
「さっそくだが、きみたちの部隊は長城(リメス)の砦のひとつに赴任してもらう」
 軍団長は大卓の上に、羊皮紙の地図を広げて見せた。レヌス川とモエヌス川の北岸に沿ってなだらかに続く防衛線が、一ヶ所だけ動物の首のように大きく突き出している。その首のつけ根あたりに、軍団長の指先は置かれていた。このモグンティアクムの町から三十マイルほどの地点だ。
「ここは長城全体の守備の要となる砦だ。すでにガリア補助軍第二大隊が駐留しているが、それだけでは手が足りない」
「はい」
「ゲルマン人の蛮族は近隣の村や町をたびたび襲撃してくる。なんとしても奴らを叩きのめし、ローマの力を見せつけるのだ」
「承知しております」
「今夜は一晩、ゆっくりと休んで旅の疲れを取るとよい。まだ外は十分に明るい。気がめいるなら、憂さ晴らしに町にくり出すのもよかろう」
「何かあったのですか」
 ブレヌスの意味ありげな言葉に、レノスは兜をかぶる手を止めた。「なんだか砦全体がざわついているようですが」
「そうか。まだ聞いておらぬのだな」
 彼の笑ったような口から出る声は、確かに笑っていた。「一週間前、ディディウス・ユリアヌスは、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスの前に屈した。今やセウェルスがローマ帝国の皇帝だ。そして、われらがアルビヌス総督は、副帝に任ぜられたよ」


 皇帝ディディウス・ユリアヌスが崩御したのは、6月1日であった。
 セウェルスが軍を率いて帝都に迫り来るとの知らせを受けたユリアヌスは、セウェルスを『国家の敵』として宣言し、軍に討伐させようとしたが、時すでに遅かった。
 まず海軍が寝返った。そして、実戦から遠ざかっていた近衛軍団は、歴戦のセウェルス軍の前にあっけなく降伏するしかなかった。
 すでに民衆と元老院にそっぽを向かれていた哀れな皇帝は、最後には誰の味方もなく、数人の近衛兵によって宮殿で斬り殺されたという。
 ユリアヌスの在位は、わずか六十四日だった。元老院は、ローマに入城してくるセウェルスをわざわざ出迎え、ただちに皇帝の座に就いてくれるように要請した。
 こうなることは、考えれば、初めから分かりきったことだった。
 帝位競売という恥ずべき事態が起こったとき、ただちに異議を唱え、皇帝の座を要求したのは、シリア、パンノニア、ブリタニアの三総督。ブリタニアやシリアからどれほど急いでローマに進軍しても、パンノニアにいるセウェルスが先にローマに入城するのは火を見るより明らかだった。
「セウェルスのヤツも、バカじゃないのさ」
 一報を聞いた辺境部隊の兵士たちは、のんびりと焚き火に当たりながら、天下の行方を大いに議論する。
「アルビヌスさまがローマに進軍してくるのを聞いて、あわてて同盟を結んだんだ。そうすれば、後背を気にすることなくシリアのニゲルをぶっつぶせる。一番恐いのは、ふたりを一度に敵に回すことだからな」
 いや、違う、と、離れて立っていたセヴァンは心の中で反論する。
 セウェルスとアルビヌスの密約は、去年の冬すでに、ポンペイアヌスの家の中庭でなされていたのだ。

『盟約を結ぼう。先に皇宮に入城したほうが、もうひとりを共同皇帝に任命する』

 セウェルスは約束を守った。今思えば、こうなることを、あのときすでに予想していたのだ。
(セプティミウス・セウェルス。おそろしく頭の切れる男だ)
 焚き火のそばで、陽気な笑い声が起こる。
「なんにせよ、いいことじゃないか。副帝(カエサル)と言やあ、正帝(アウグストゥス)の次に偉いんだ。ブリタニアからカエサルさまが出るとは、めでたい」
「今はな」
 セヴァンは小さくつぶやいた。奴隷のひとりごとなど、誰も聞いてはいない。
 獲物が二匹いれば、まず弱い方から倒してしまうのが狩人の常道だ。残りの一匹は、そのあとでじっくりと狩ればよいのだから。
 セウェルスは、いつまでもアルビヌスを友とは呼ばないだろう。
 焚き火のそばから離れると、井戸の縁にレノスが呆然とした表情で腰かけていた。
(また皇帝が倒されたことに、衝撃を受けているのか)
 セヴァンは、わざと嘲るような調子で話しかけた。
「ローマにとって良い知らせではありませんか。皇帝の座を金で買うような人間がいなくなったのですから」
 レノスは顔を上げると、キッと虚空を睨んだ。
「仮にもローマ皇帝の位にある方が近衛兵に暗殺されるなど、あってよいことではない……くそっ、ラエトゥスのやつめ。あいつが、災厄のそもそもの元凶だ」
 だが、このときのレノスは知らなかったが、近衛長官ラエトゥスはとっくに死んでいた。ユリアヌスが民衆の支持を取り戻そうとして、すでに処刑していたのだ。
「半年のあいだに三人も皇帝が変わる。いったいローマは、これからどうなるのだ」
 混乱がこれで終わりではないことを、レノスは感じていた。長い内乱の時代に突入する。互いに同士討ちをする血が帝国じゅうに流れるのだ。
「司令官どの」
 百人隊長のフラーメンとラールスが浮かない顔でやってきた。その影に隠れるように立つのは、会計係のネポスだ。今回、彼は大隊の移動にかかる一切の費用を、寝る暇もなく切り盛りしている。第七辺境部隊でもっとも忙しい隊員は、間違いなく彼だった。
「た、大変なことになりました」
 小柄な会計係はことばをつっかえながら、報告する。「船が、港に到着していません」
「なんだと?」
 隊の出発に先立って、ブリタニア総督の名で糧食や装備を満載した船を送っていた。海を渡り、レヌス川を遡り、ガレー船の船足ならば、もうとっくにモグンティアクムに入港していてよいはずなのに。
「兵站部はなんと言ってる」
「『そんな船が着いたという報告はない』と。倉庫を調べさせてくれと言ったら、鼻であしらわれました。ネズミが食っちまったんじゃないかとか、ブリタニアの海峡を渡るときに魔物に襲われたんじゃないかとか、にやにや笑いながら」
 憤慨したように、フラーメンは言った。「あいつら、絶対ブリタニア人を馬鹿にしていますぜ。うちの兵たちが、無理やり倉庫に突入しようと大騒ぎしてます」
「そうか」
 レノスは、努めて平静を装った。しかし、心の中は平静どころではない。
「兵站部には、わたしからもう一度話してみる。おまえたちは、兵を鎮めろ。騒ぎを起こさせるな」
「はい」
 その夜遅く、セヴァンが戻ってきた。
「港にいた水夫のひとりが、ブリタニアからのガレー船が入港したのを覚えていました」
 灯を消した部屋の中で、レノスの足元にひざまずきながら報告する。
「荷が降ろされるのを見たが、どこに運ばれたかまではわからないと」
「そうか」
 レノスは押し殺した声で答えた。「このことは誰にも言うな。わかっているな」
 セヴァンが出ていくと、寝台にあおむけに倒れこんだ。
 最悪の事態だ。何者かが糧食を横取りし、いずこかへと持ち去ってしまった。
 五百人余りの兵の半年分の糧食が消えたのだ。これから半年、彼らをどうやって食わせていけばよいのか。


 翌朝、第七辺境部隊は工具や兵糧を背負いなおして出発した。モエヌス川周辺の湿地を回り込むようにして二日進み、ようやく任地に到着した。
 灌木の生えるなだらかな平原の彼方に、石の砦が姿を現わした。二重の堀に囲まれた塀と監視塔も、りっぱな石造だ。その後方には、谷を越え稜線に沿って、木の柵を組んだ長城が見渡すかぎり続いていた。
 門をくぐると、広い長方形の砦内部は、まるで祭の日のようににぎやかだった。兵士とともに職人や商人の姿も多く、にわとりや豚がそこここを歩き回っている。
「砦の中にも町があるんだな」
「うわ、りっぱな建物じぇねえか。これ全部、兵舎か」
 城壁の外にも、家々が積み木のように軒を連ね、広い公共浴場もある。道を行き交う荷馬車や商人も多く、村は繁栄しているようだ。
「北の砦とは比べものにならないな」
 馬上でレノスがつぶやいた。たびたび蛮族の攻撃を受ける最前線の砦と聞き、わびしい荒れ果てた風景を想像していた。やはり、北ブリタニアに比べれば、ここは交通の要所であり、はるかに人口が多い豊かな土地なのだ。
 頑丈な石造りの司令本部の前で馬を降り、セヴァンに手綱を預けると、レノスは兜を脱いで奥へと進んだ。
「クインティウス・ルフスだ」
 司令室に座っていた中年の男が、机の後ろでゆっくりと立ち上がった。ルフス(赤)という添え名にふさわしく、頭髪は赤みがかり、肌の色は蒼白かった。ほくろの目立つ顔に、笑みはない。
「クレリウス・カルスです。ブリタニア第七辺境部隊一個大隊、歩兵・騎兵合わせて542人、ただいま着任しました」
「長旅、ご苦労だった」
 そっけなく労いのことばを宣べると、ルフス司令官はふたたび椅子に腰をおろし、背もたれに身を預けた。「これで千人以上の大所帯となった。少し手狭だが、我慢してほしい。急に決まった話で普請が間に合わなかったのだ」
「はい」
「さっそくだが、きみたちの任務について話しておく」
 口をはさむ余地もなく、レノスは立ったままだ。
「近ごろ、アルマンニ族がしばしば侵入してくるようになった。近隣の村を襲い、金目の物や馬、小麦などを根こそぎ奪っていく」
「長城を越えて、ですか」
 レノスは驚いた。ローマの北の防衛線であるはずの長城が、機能していないことになる。
「奴らは少人数で巧みに、こちらの警備の隙をついてくる。哨戒を増やそうにも、人数には限度がある。敵の根城を直接叩くほうが早い」
「根城、とは」
「長城の北に広がる広大な森の、どこかだ」
 ルフスは、にやりと口の端をゆがめた。「きみたちは、長城の向こうで、野戦機動軍として蛮族の討伐に当たってもらいたい。ブリタニアの辺境にいた部隊ならば、蛮族同様、森での戦いも熟知しているだろう」
「わかりました」
 気持ちが暗くよどんでいくのがわかる。ルフスの言葉の端々に、ブリタニアに対する軽蔑の思いが表われているのだ。そう言えば、フラーメンも、言っていた――あいつら、絶対ブリタニア人を馬鹿にしていますぜ、と。
「その前に、お願いがあります」
 レノスは、積荷が行方不明になったことを話す。「モグンティアクムの兵站部に、糧食の手配を頼んであります。目途が立つまでのあいだ、少しのあいだ、われわれの分を都合してもらえないでしょうか」
「この砦も、ぎりぎりの割り当てでやっているのだ。二倍の兵士が食べていく余裕はない。秋の配給まで待ってもらうしかない」
「しかし……」
「まもなく、蛮族の討伐に出発するのだ。現地調達で問題はなかろう」
 レノスは唇を噛みしめた。
 現地調達。
 ゲルマンの氏族の村を襲って、かすめ奪えというのか。われわれに、野盗になれと言うのか。


 第七辺境部隊に兵舎として宛がわれたのは、それまで厩舎として使われていたらしきボロ小屋だった。屋根も壁も穴が開いている。それでも、長い行軍の後では、雨露をしのげるだけでもありがたいと言わねばならなかった。
 翌日から、彼らはさっそく修繕と増築にとりかかった。カイウスの指揮のもとに、得意の土木の腕をふるう。
 しかし、ほどなく難問にぶち当たった。材料の木材が手に入らないのだ。
「近くで、めぼしい木はあらかた伐採されています。町の人口が急激に増えたので、家の普請や薪に使ってしまったのでしょう」
 長城にめぐらされていた木の柵も、住民に持ち去られてしまったのか、あちこちが欠けているという。
「こんな状態では、長城(リメス)が機能するはずはありません。思い切って木の柵を取り払い、堀と土塁に代えましょう」
 カイウスの提案をレノスが持って行くと、ルフスは何を言うんだという顔で見返しただけだった。
「膨大な作業になるぞ。そんなものに割く人員はない」
 その無気力な返事に、レノスは波立つ怒りを鎮めながら、言った。
「われわれがやります。長城の防衛を強化するために、われわれは派遣されてきたのですから」
「まあ、好きにするといい。ただし、軍団長への報告はそっちがやれよ」


 次の日から、第七辺境部隊は、朝から晩まで泥水につかりながら、地面を掘り、その土を内側に積み上げて高い土塁を作った。取り去った木の柵は、一部は兵舎の修理に流用し、残りは鋭く尖らせ、堀の底に埋める。
 住民が村から出てきて、興味津々の様子で、その作業を遠巻きに見物している。
「ブリタニア人は、よく働くなあ」
 聞こえてくるのは、感心半分、からかい半分の声だった。
 北の砦にいたころは適当に手を抜いていた兵士まで、ここに来てからは黙々と、がむしゃらに働いた。異郷の地で、それしかすることがなかったということもあろうが、それだけではない。
 へとへとに疲れ、土まみれになって、砦に帰ってくる。もはや風呂を浴びる気力もない。
「ちぇっ。砦に着いたら、焼きたてのパンが食えると思ってたのに」
「今日も、麦がゆか」
「文句言うな。もう少しの辛抱だって」
 兵士たちは十人隊ごとに自炊するのが、ローマ軍のならわしだ。以前からいる兵士たちから隠れるように、共同のかまどの隅でこそこそと調理する。
「おい、聞いたか。村人が言ってたぜ。百年前、この砦ができたときに、ここを守ってたのはブリタニア人の軍隊だったって」
「本当か。じゃあこのあたりは、ブリタニアの退役軍人が作った町だってことじゃないか」
「そうさ。田舎者だと馬鹿にされるいわれはないんだ」
「どうでもいいけど、せめて、もうちっと腹の足しになるものはないのかよ」
「おい、ご馳走を持ってきてやったぞ」
 スピンテルがひげ面に不気味な笑みをたたえて、騎馬隊を引き連れてやってきた。かついできた袋の中身をどさどさと大鍋の中に放り込む。
「な、なんですか。これは」
「ああ、キノコだ。そこらへんの茂みの下にたくさん生えてる。うまいぞ」
「えーっ。毒じゃないっすよね」
「バカにすんな。俺はゲルマニア出身だぞ。このへんのキノコのことなら知り尽くしてる」
「お、美味そうな匂いがするな」
 フラーメンとラールス、ふたりの百人隊長もやってきて、ささげ持っていた大鉢をさかさまにした。
「将校食堂の晩飯だ。よそもの扱いしやがって、けったくそ悪いから、こっちで食べることにした。仲間に入れろ」
 にぎやかさに魅かれて、他の北の砦の兵たちも集まってきた。
「わあ、ひでえ色だな。でも匂いはうまそうだ」
「おい、俺たちも混ぜてくれよ」
「もっと大きな鍋はないか」
 どの顔も、笑みでいっぱいだ。初めてブリタニアを離れた者もいる。望郷の念に駆られ、そのうえ食糧は乏しく、慣れぬ仕事はきつい。それなのに、第七辺境部隊は今までに増して、互いを信じ合い、結束を固めていた。
「みんな、よくやっている」
 レノスは彼らをいとしいと思った。拳をぎゅっと握りしめる。自分の命に換えても、彼らを守りたい。
「主よ」
 セヴァンが、背中から低く声をかけた。「もう一度、モグンティアクムに行ってきます」
「え?」
「積荷を取り戻して来ます」
 意外なことばに、息を飲む。
「どこを捜すというのだ」
「兵士たちは、ひそかに噂しています。モグンティアクムの軍団が、積荷を横取りしたのだと」
「何を、馬鹿な……」
「あなたも、口には出さないが、そう思っているのでしょう」
 奴隷と司令官は、しばらく互いに睨み合った。
「確かに、その通りだ」
 レノスは、しぶしぶと認めた。ガレー船の船長は港で荷の受け渡しをするとき、相手を確かめるはずだ。モグンティアクムの軍団兵でなければ、積荷を引き渡すことは絶対にすまい。
「だが、荷は途中で別の者の手に渡り、軍団の倉庫ではなく、別の場所に運ばれた」
 それが示すことは、ただひとつ。第22軍団の何者かの手によって、積荷が横流しされたのだ。
「だとしたら、ことは厄介だ」
 もし、白昼堂々と物資の横流しが行われたとすれば、軍関係者のかなりの者が関わっている可能性がある。もしかすると、軍団の上層部の名が出てくるかもしれない。それを下士官であるレノスが調べて告発するのは、危険だ。下手をすれば首が飛ぶ。
「だから、俺が行きます」
「おまえが行ってどうなる」
「あなたが兵士を動かせば、謀反になる。奴隷の俺ならば、謀反にはならない」
「だが……」
「542人を食べさせていくのは、司令官の仕事でしょう」
 セヴァンは、唇を緩めて笑った。「だから、これは、司令官の奴隷の仕事です」


 セヴァンはその夜のうちに、厩舎から厩舎から馬を一頭引っ張り出した。
 街道を南へとひた走り、夕暮れにはモグンティアクムに着いた。
 主人から夕食の買い物を命じられた奴隷という風情で、堂々と町を歩き、積荷の行方を捜す。主謀者が第22軍団の誰であるにせよ、軍団本部の中に積荷を隠すことはしないはずだ。本部の外の、目の届く範囲にある可能性が大きいと思われた。
 港の倉庫で働いている荷役の奴隷たちにひとりずつ聞いて回るうちに、ブリタニアからの積荷を運んだという奴隷に行き当たった。しかし、その場所に行ってみると、すでに積荷はなかった。再びいずこかへと運ばれてしまったのだ。敵は、実に巧妙で用心深い。
 五日経っても、それ以上何の手がかりも得ることはできなかった。
(手ぶらでは、司令官のもとに帰れない)
 途方に暮れ、通りの家壁にもたれて座り込む。(あの人に、何の役にも立たないと思われてしまう)
 レノスに、認められたい。あの人をすべての禍から守れるように強くなりたい。二度とあんな悲しい顔をさせたくない――。
 軽食堂(ポピーナ)から、にぎやかな声を上げながら、一団の男たちがぞろぞろと出てきた。
「ああ、博打がやりてえ。女が抱きてえ。このところ、ろくに休みもなく働きづめじゃねえかよ」
「文句言うな。また強盗に戻りてえのか」
 服装も全然違うし、特に声に聞き覚えがあったというわけでもない。強いて言えば、何か霊感のようなものがひらめいたのだ。セヴァンはすぐに立ち上がり、男たちを追いかけた。
「あっ」
「あ、あんたは」
 男たちは、髭だらけの口元をあんぐりと開けた。「あんた、確か、司令官の奴隷の」
「クロベルト……あんたたちか」
 ローマからブリタニアに帰る旅の途中で、馬車を襲ってきた強盗たち。ユニアの必死のとりなしで命を救われ、いっしょに旅をして、ゲソリアクムの港町で別れたのだった。
「こんなところで何をしてる。スーラさまは元気か」
 馬車のかたわらで、地面に車座になる。クロベルトたちは強盗からすっかり足を洗い、スーラ元司令官から譲り受けた馬車を使って、脱走兵仲間といっしょに、街道沿いで荷運びの仕事を始めたのだという。
 レノスの指揮する軍団がゲルマニアに移動してきたことを話すと、クロベルトはそう驚いた風でもなく、「へえ、あんたたちもか」と言った。
「皇帝争いが始まってから、軍団の動きが激しい。俺たちの属していたコロニア・アグリッピナの駐留軍団も、ブリタニア総督といっしょにガリアの南、確かルグドゥヌムって町に移動したって聞いたぜ。だから脱走兵の俺たちも、このへんを安心してうろついてられるんだが」
 それにつれて商人も動くおかげで、馬車業はけっこう繁盛している、と嬉しそうにこぼす。
「で、おまえは何で、この町でうろついてるんだ?」
 軍団の糧食が何者かに持ち去られてしまったことを、かいつまんで説明すると、金髪の巨漢たちはどよめいた。
「そりゃ大変じゃねえか。半年分の食い物がなくなるなんて」
「司令官も困っている。このままでは、長城の向こうの村を略奪しなければならない」
「それで、おまえがこっそり積荷の行方を調べてるってわけか」
 クロベルトは片膝をぐいと立てて、拳を地面に叩きつけた。「よし、俺も手伝うぜ」
「あんたが?」
「おまえの司令官には命を助けてもらった大恩がある。だが、それよりも、腹が立つじゃねえか。そもそもは俺たちが脱走したのも、糧食を横流ししたと濡れ衣を着せられたのが始まりだった」
 髭を震わせて、力説する。「ローマ軍団でいまだに、こんなあこぎなことが行われているなんて、赦せねえ、なあ、みんな」
「そうだ、そうだ」
「俺も、手伝うぞ」
 次々と名乗りを挙げる男たちに、セヴァンはひそかにため息をついた。こんなに騒がしい男たちでは目だってしまい、調査どころではない。
 ところが、彼らは翌日から、同じ運送業仲間や博打仲間に片っ端から声をかけ、驚くほど熱心に聞き込みを始めた。
 その甲斐あって、モエヌス川の上流にたくさんの積荷を船で運んだという男に出会ったのは、わずか二日後だった。


 川沿いに、石造りで黒屋根の倉庫がぎっしりと立ち並ぶ。そして、界隈には、ローマ人がネズミよけに持ち込んだ猫が何匹もうろつき、暗闇で目を光らせている。
 セヴァンは、見回りの番人の背後から忍び寄り、すばやく羽交い絞めにして、短剣を突きつけた。
「倉庫を開けろ」
 番人は回りを取り囲んだ大勢の巨漢たちを見て観念したのか、すぐに言うことを聞いた。
 錠前を鍵で開け、壁の穴の仕掛けを動かし、扉を開ける。
 中は、仕切り壁でいくつかの小部屋に分かれていた。たくさんの荷が積み上げてあり、そのための大きな滑車まで用意されていた。
 セヴァンは積荷のひとつに近づいた。間違いない。第七辺境部隊のものだ。麻袋には、補給係のルスクスが罵りながら書き散らした、誰にも読めない数字が残っていた。小麦。大麦。塩もある。
 クロベルトが小声で言った。「川に船を待たせてある。さっさと運び出そう」
 セヴァンはうなずきを返すと、番人の喉に短剣を当てた。
「この荷を運びこませたのは、誰だ」
「わ、わかりません。ただローマ軍の糧食だとしか聞いていません」
「ローマ兵だな。将校か。名前は?」
「し、知りません。何にも……ほんとに、ほんとに知りません!」
 番人は、口の端に泡を吹いてわめいた。つかんでいた手を離すと、ずるずると地面にへたりこむ。
「それなら、もう用はない」
 セヴァンが、男の喉をナイフでえぐろうとしたとき、クロベルトが彼の肘をつかんだ。
 ゲルマン人はひげ面をしかめて、首を振った。
「むやみに人を殺すのは、良くねえ」
 セヴァンはその手をふりほどいて、睨みつけた。「顔を見られた。後で、あんたたちにも迷惑がかかる」
「かまわねえ。この付近には、当分近寄らないようにする」
 クロベルトは、ぽんぽんとセヴァンの肩を叩いた。「俺たちも、殺されて当然のことをしたのに、スーラさまやユニアに命を救われた。生きていれば、こうやって再び会える。笑って、飯を食って、恩返しをすることもできる」
 クロベルトは、もやい綱を取ってきて、番人を縛り上げた。「こうしておけば、大丈夫だ……なあ、人を殺すだけじゃ、何も生まれねえよ」
 セヴァンは、ぼんやりと手の中の短剣を見つめた。
『剣を取る者は、剣で滅びる』
 頭の中に、誰かの声が響く。それは、ユニアが言っていたクリストゥスのことばだった。


「カルス司令官。何か?」
 歩哨に立っていた兵士が、不審げな目つきでレノスを見た。
 当然だろう。用もないのに、暇さえあれば物見やぐらに登ってくるのだから。
「なんでもない。少し風に当たりたいだけだ」
 言い訳をもごもご呟きながら、木立の向こう、雲を映して灰色に光る湿地や緑の草原を眺める。街道を勢いよく埃を蹴立てて走る馬が見えはしまいかと。
「もう今日で、十日になる」
 レノスは、毎日の口ぐせになってしまった言葉を舌の上でころがした。
 セヴァンはまだ帰ってこない。調べても何もわからないのだろう。だが、これほど長く連絡をよこさないのはおかしい。
 もしや、誰かに見とがめられ、町の片隅で死体になってころがっているのではないか。どんなに聡く、どんなに武術にすぐれているとしても、こんな任務は彼には酷すぎた。
「やはり、行かせるのではなかった」
 後悔に、きつく唇を噛む。どんなことをしても、反対するべきだった。兵士たちを飢えさせたくない、良き司令官でありたいという身勝手な願いのために、あの子を黙って行かせてしまった。請われるままに、短剣まで与えてしまった。
「ゼノの姿が見えないけど、どうしたんですか」
 訊かれるたびに、顔が蒼ざめ、こわばっていくレノスを、部下たちも怪訝に思っているはずだ。傍らにセヴァンがいないと気づくたびに、みぞおちに鈍い痛みを覚える。朝までまんじりともせずに、ひたすら願う。ああ、彼が生きて帰りますように。それだけで、それだけでわたしは――。
「あ、あれは」
 歩哨の声につられて振り向いたレノスは、驚くべき光景を見た。
 牛車と荷馬車の大群が、東からの軍用道を、砦へと向かって来るのだ。
 小麦の袋、ワインの壺、チーズの入った大籠。
 先頭を切って颯爽と馬車を走らせる毛むくじゃらの男たちは、かつて旅をともにしたゲルマン人たちだ。「な、なぜ、あいつらが」
 そして、その後ろから馬で続いて来るのは。
「ゼノ……」
 レノスは、にじみ出た涙が視界を揺らすのを感じた。
 かつては敵として、互いに憎み合い、殺し合った。狂気をまとった戦士にしか過ぎなかった少年が、奴隷となって幾多の責め苦に耐えながら、ローマではわたしの命を救い、今また第七辺境部隊の危機を救ってくれたのだ。
 目の縁のしずくを拭い、レノスは物見やぐらの階段を走り降りた。成功して当然だという表情でセヴァンを出迎え、「よくやった」という素っ気ないひとことを言うために。


 その夜は、久しぶりのご馳走に兵士たちは湧いた。パンと干し魚、干しイチジクとチーズにたっぷり舌鼓を打ち、ガリア隊にも、おすそ分けを配った。それまで疎遠だったふたつの部隊も、これで少しは打ち解けるだろう。
「糧食の準備もととのった。これで長城の向こうに出発することができる」
 宴会のあと、レノスは将校たちを自室に集めて、軍議を開いた。
「目的は、遊撃部隊として、各地の村で略奪をおこなう野盗一味を一掃すること。奴らの根城を突き止め、これを粉砕すること」
「はいはい、わかってますう」
 ワインを飲み過ぎたフラーメンが、ろれつの回らない声で答えた。「けど、相手は森の中にひそんで、容易には見つからないと聞きましたぜ。どうするんです」
「森の中では、騎馬隊も馬を降りて行動することになる」
 スピンテルが言った。「トイトブルクの戦いを知っているだろう。氏族連合の前に、三つものローマ軍団が壊滅した。森はやつらの領分だ。どこから攻めてくるかわからないから、恐ろしい」
 口ではそう言いながら、騎馬隊長は少し誇らしげだった。彼の遠い先祖はアルミニウスに従軍して戦っていたのかもしれない。
「こちらも、それなりの戦略を立てておこう。幸い、われわれには森での狩りの経験が豊富にある」
 みんなは笑った。シカを追って駆け回ったブリタニアの森をなつかしく思い出す。
 レノスは、隅に入り口に座っていたセヴァンをちらりと見て、ほほえんだ。「それに、森での戦いに長けたクレディン族もいるしな」
「司令官どの」
 百人隊長のひとり、ラールスが硬い声で訊ねた。「その奴隷も遠征に連れて行くのですか」
「そのつもりだ」
「俺は反対です」
 レノスは、笑顔を消した。「ゼノをまだ警戒しているのか。失った糧食を取り戻してきてくれたのだぞ」
「そうではなく、戦いは、ローマ軍兵士のものです。奴隷にはローマ軍に加わる資格がありません」
「彼はわたしの身の回りの世話をする奴隷だ。戦いには加わらせない」
「司令官どのは、そいつに大きな権限を与えすぎている。糧食の管理から財務に至るまで一介の奴隷に任せるなど、軍内の秩序を乱すだけです。ましてや、われわれ将校には一言の相談もなく、ひとりで積荷を取り戻しに行かせるなど!」
 軍議の席が凍りついた。みな一様にうつむいてしまったところを見ると、多かれ少なかれラールスと同意見ということだろう。
(みな、わたしがゼノを重用することを苦々しく思っていたわけか)
 レノスが、からからに乾いた口を開こうとしたとき、
「俺は、犬です」
 セヴァンが立ち上がった。「クレディン族の戦士は、戦いに出るとき自分の飼う犬を連れていく。犬は主人のかたわらにいて、危険を知らせ、敵に噛みついて主人を守る」
 怖じることを知らない真っ直ぐな目で、軍議の参加者たちを見回す。「俺は、司令官の犬です。だから、主といっしょに、いつも戦いの場にいなければならない」
 ラールスは、鼻先でせせら笑った。「二本足の犬など見たこともない」
 セヴァンは、笑いを返した。「では、これからはいつも四つ足で這いましょうか」
 背筋にぞっと冷たいものを感じて、一同は黙り込んだ。
「……勝手にしろ!」
 ラールスは吐き捨てるように言い、席を立ち上がる。
 レノスは、心を落ち着かせるため深々と息を吸った。
「では、出発は明後日」
 隅々までよく通る声で、閉会の合図が告げられた。


next / top / home
  あとがき(ザールブルク砦について) →  web拍手 by FC2

Copyright 2013−2015 BUTAPENN. All rights reserved.
Template Designed by TENKIYA