The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 9 「流転」

(1)

 窓の外に、小さく切り取られた冬の空が見えた。低く垂れ込めた暗雲から時折り雪が落ち、部屋の中にまで舞い込んでくる。
 去年の冬をレノスは思い出していた。ゲルマニアの森の深い静けさ。新雪の上に残るライチョウの足跡。暖炉で爆ぜる薪の匂い。
 大地をどこまでも馬で駆けて行けるような、あの自由の喜びは今はない。
 ぶるりと小さく震えると、レノスは窓の覆い板を下げた。部屋の中は暗くなるが、暖かさには代えられない。
 後はひたすら、寝台の上で膝をかかえて待つだけの時間が続く。
 まったく外に出られないわけではない。見張りつきではあったが、軽い運動のために外に出ることも、将校用の浴場に行くこともできる。
 ここは一般の牢獄と違い、身代金が見込める身分の高い捕虜や、将校階級の囚人のための牢獄だ。軍団本部の裏手にある倉庫の一区画を占め、貴重な戦利品も保管してあるため、絶えず守衛が巡回している。
 足音が近づいてくるたび、扉を見る習慣がついた。その扉が開き、彼が入ってくるのを待ち焦がれている。
 四か月という歳月は人間を変えるには十分だな、と苦く笑う。大隊司令官のこのわたしが、これほど弱くなってしまうとは。まるで女のようではないか。まるで女――。
 軽やかな早い足音が止まり、扉が開いた。寒風とともに入りこんできた訪問者は、オオカミのマントについた雪をはらうと、寝台に座っているレノスをまっすぐに見下ろした。
 この位置から見上げると、あらためて彼の背の高さに驚く。はじめて見たときは少女のようだった十五歳の少年は、もう十九歳になっていた。
 セヴァンはすばやく部屋を見回し、粗末な机の上にある、ほとんど手つかずの盆に視線を止めた。
「また、食べていないのですか」
「寝て食べてばかりでは、腹が減らん」
 彼は火矢を射かけるシリアの弓兵のように、主を鋭く睨みつけた。「そんなに痩せてしまったくせに」
「肩や腕の筋肉が落ちただけだ。鍛錬をしようにも、剣を取り上げられてしまったからな」
 われながら下手な言い訳だと思いつつ、視線を落とすと、薄汚れたトゥニカの袖からはみ出た奴隷の腕に、深くえぐれた新しい傷が刻まれているのに気づいた。
「その傷はどうした」
 セヴァンはすっと体の向きを変えて、腕を隠した。
「たいしたことはありません。うっかりして馬止めの鉄柱の鎖で切りました」
「……おまえこそ、どこで寝ている。まともに食べているのか」
「俺ひとりくらい、どうにでもなります。囚人などに心配されるいわれはありません」
 レノスは、ふふっと笑いを漏らした。それもそうだなと。
「りんごがほしいな。持ってないか?」
 セヴァンは困ったように眉をひそめた。「俺のかじりかけです」
「それでいい。味に変わりはない」
 セヴァンはため息をつき、持っていた布袋の口を開いて、差し出した。
 レノスは、歯型のついた赤い果実をいとおしげに見つめ、がぶりと噛みついた。


 最初にセヴァンがここを訪れたのは、この牢獄に閉じ込められた次の日だった。
 まるで当然とでも言わんばかりに扉を開けて入ってきたのを見たときは、腰をぬかすほど驚いた。「どうやって、ここに入れたのだ」という問いに、
「奴隷など、人の数には入りません」
 セヴァンは事もなげに、そう説明した。「ご主人さまは奴隷がいないと、ひとりで服も着替えられないのだ」と言うと、あっさり許可してくれたと言う。
 それからというもの 彼はほとんど毎日この牢獄を訪れ、必要なものを持ってきてくれる。
 今レノスの肩を被っている掛け布も、セヴァンが手に入れてきたものだ。火鉢もなく、炉もない部屋で、北国の冬を生き抜くには、暖かい毛織物が欠かせない。
 ローマ軍将校のしるしである赤いマントの代わりに肩に羽織ると、まるでゲルマニア人の農夫の妻のようだ。
 セヴァンは、水差しを持って扉を出て行った。戻ってきて、いっぱいに水を満たした水差しを机に置き、手早く部屋の中を片づけた。
 いつもの日課が終わると、ここが自分の居場所とばかりに寝台の足元にうずくまる。
 交わす言葉などない。話しかけたとしても、答えは、いつもそっけない。
 だが、冷たい言葉の裏に、さりげない気づかいが読み取れる。明日の命がどうなるかわからない牢獄では、目に見えないものこそが全てだ。
 いつまでもここにいて、ふたりでこうしていたいと、心のどこかで願っている自分がいる。
――だからこそ。
「ゼノ。おまえはブリタニアに帰れ」
「またですか」
 うんざりした調子で、セヴァンは答えた。「俺の答えは決まっています」
「解放の証明書はもう渡してある。囚人には奴隷など必要ない」
「誰が、あなたのトゥニカを洗濯するんです」
「それくらい、自分でできる」
「では、どうやって蚤のついていない新しい毛布を手に入れますか。りんごが食べたくなったらどうするんです」
 からかうような調子で続けてから、セヴァンは急に口をつぐんだ。慎重に声をしぼる。
「ご自分の部隊がどうなったか、知りたくはないのですか」
 レノスは薄茶色の目を見開き、まじまじと奴隷を見た。
「砦に行ったのか?」
「昨日行ってきました」
「……だが、入れてもらえなかっただろう」
「近くの村人の服を借り、部隊が長城の修理に出たときに、こっそり近づきました」
「言葉を交わしたのか」
「フラーメン隊長と少しだけ。第七辺境部隊は、ルフス司令官の指揮下に入ったそうです」
 あの赤毛の司令官の、むっつりと不機嫌な顔を思い出す。
「うまくやっているのか」
「朝早くから夜遅くまで、奴隷のようにこきつかわれていると。一応おとなしくはしているようですが、いつまで続くことか」
 セヴァンは笑いをかみ殺して続けた。「いっそ蜂起して、この軍団本部に攻め込もうと毎晩相談していると言っていました」
 引き結んだレノスの唇がわなないた。司令官が投獄されたことで、部下たちはどれだけ形見の狭い思いをしているだろう。ただでさえブリタニアの田舎部隊と馬鹿にされていたのに。
「あいつらはまだ、わたしを心配してくれているのだな」
「部下が司令官を心配するのは、当然でしょう」
「こんな司令官をか」
 最後の最後まで軍団長が不正の張本人であることを見抜けず、単身のこのこ乗り込んで来た大間抜けの司令官だ。今考えれば、もっとやりようがあったはずなのに。
「五百人の命を預かっている者として、わたしは失格だ。こんなところで生きていること自体、恥ずかしい。いっそ自決したほうがよい」
 悄然とつぶやくレノスを、セヴァンはじっと見据えた。
「俺が、ルグドゥヌムに行ってきます」
「なに?」
「ブリタニアの総督にこのことを伝えて、釈放を命じてもらいます」
 レノスは、力なく首を振った。「危険だ」
「危険などありません。俺なら、追手にやすやすと捕まることもないでしょう」
「今はこんなことで、アルビヌス総督とブレヌス軍団長を対立させるわけにはいかない。皇帝の位を得るためには、第22軍団の支持は不可欠なのだ」
「こんなこと? 反乱の汚名を着せられて、牢獄で死刑を待つことが、『こんなこと』ですか」
「国の運命は、私事に優先する」
「では、このまま黙って死ぬつもりですか」
 セヴァンはゆらりと立ち上がった。「あなたの心が全然わかりません」
「ブリタニアの奴隷などに、ローマ帝国の軍人の心がわかってたまるか」
 バタンと扉が閉まる音を聞きながら、レノスは寝台の上で膝をかかえてうずくまった。
「ゼノ。わたしを見限れ」
 わたしに、もうかまうな。おまえだけでも、ブリタニアに帰ってくれ。そして、わたしの分まであの自由の大地を駆け回ってくれ。


 それから三日、セヴァンは姿を見せなかった。
(さすがに、もう来ないだろうな)
 そう覚悟し始めたとき、いつもと違う重くせっかちな足音が近づいてきて、扉が勢いよく開け放たれた。
「ラールス!」
 立ち上がったとたん、毛織の布が肩からはらりと落ちた。レノスの直属の部下、黒髪の百人隊長ラールスだった。
「どうやって、ここへ来た」
 レノスはあわてて駆け寄り、扉の外をうかがった。「衛兵に見咎められなかったのか」
「第22軍団の兵士の軍服を着て、もぐりこみました」
 ラールスはにやりと笑うと、脇に抱えている飾りのない兜をぽんと叩いた。「ガリア人の俺なら怪しまれずに入れるだろうからと、フラーメンを蹴落として代表としてやってきました」
「……なんて無茶なことを」
「三日前ゼノが砦にやって来たんです。誰かが司令官に会いに行って、元気づけてほしいと」
 セヴァンは無言のまま外に出て、扉を閉めた。
「ここに入る手はずも、あいつが何もかも整えてくれました」
「そうか……」
 ラールスは椅子を引っ張ってきて、レノスに相対する位置に座った。
「痩せたとは聞いていましたが」
 くしゃりと顔をゆがめる。「ひとまわり小さくなられましたな。まるで……」
 ラールスは、その次のことばを飲み込んだ。彼がなんと言おうとしたのか、うすうすはわかる。
「皆、どうしてる」
 レノスは、さりげなく話を変えた。
「元気です。ウルトーの腕の骨はちゃんとくっつきましたよ。セクンドゥスが眼病にかかりましたが、薬を根気よく塗って、なんとか治りそうです」
「それはよかった」
 レノスは少しのあいだ口ごもり、それから問いかけた。「その他の者は、どうだ」
「ウォルムスたちのことをおっしゃっているなら」
 ラールスは笑みを消した。「砦を追い出されました」
「追い出された?」
「司令官どのが捕まってすぐ、ルフス司令官が態度をころりと変えたんです。たとえ補助軍であろうと、逃亡兵を正規のローマ兵士と認めるわけにはいかない、いつ裏切られて、盗賊の手引きをされるかわからんからな、と」
「……くそ」
 レノスは拳をきつく握りしめた。彼らをブリタニア第七辺境部隊に編入することは、アルビヌス総督からも正式な許可の書状を得ていた。そのことはルフスもよく知っているはずだ。
「でも、心配はいりません。ウォルムスたちは、ゲルマニアに帰って、あの森の冬営地に住み着きました。自分たちのことを第七辺境部隊の分隊と名乗っているそうです」
「分隊?」
 ラールスはうなずいた。「ええ、俺たちの分隊です。今ごろ、あのひどい匂いのズボンを履いて、錆びた鎧とよれよれの赤いマントをつけて、畑仕事の合間に、毎日近隣の村々を巡回しているはずです。羊を野盗から守り、氏族同士のもめごとを仲裁して、ゲルマニアをローマよりももっと豊かな土地にするんだと笑っていました」
「あいつら……」
「司令官どの」
 どこを見ているかわからない、いつも眠たげなラールスの眼差しは、今は熱っぽく輝いていた。
「俺をここへ連れ帰ってくれて、礼を言います。正直言って、俺はあの日以来、戦うことの意味を見失っていました。ローマのために戦って、守るべきものなど何もないと思っていました。けれど、司令官どのを見ていて、ようやく悟ったんです。ローマであろうとローマでなかろうと、何の区別もない。あなたが追い求めているのは、すべての人の平和だ。だから、ブリタニアでもゲルマニアでも、行く先々で、司令官どのは人々の心を引きつける」
「待て。わたしはそんな大層なことは……」
「俺は、あなたに出会えたことに感謝しています」
 百人隊長は片膝をつき、深々と頭を下げた。「なんとかして、きっとあなたをこの牢から救い出します。あきらめないで待っていてください」
「ラールス……」
 レノスの視界が曇って、ゆらゆらと揺らめく。
 希望を失い、死すら考えていたこのわたしを、おまえたちはそれほどにも大切に思っていてくれるのか。
「ありがとう。だが」
 目をしばたいて涙を追いやりながら、言った。「ことは慎重に運んでもらいたい。ブレヌス軍団長は秘密を知ったわたしを逃がそうとはするまい。下手をすれば、アルビヌス総督との関係が悪化するかもしれないのだ」
「そのことですが」
 ラールスは寝台ににじり寄り、ほとんどささやきでしかない声で言った。「どうも、雲行きがおかしいのです」
「どういうことだ?」
「妙だなと感じることがありました。ゲルマニア防衛を担っている四軍団はこぞって、アルビヌス総督を正帝として推挙し、忠誠を誓ったはずです。だが、長城の砦では、新年最初の日の忠誠の儀式は、とうとう行われませんでした」
 レノスは、「あっ」と叫んだ。
「まさか、ブレヌス軍団長は、アルビヌス総督を裏切って、セウェルス帝に与するつもりなのか」
 それで、あの日の謎が解ける。レノスがいきなり投獄されたのは、もしかすると、物資の横流しに感づいたという理由ばかりではないかもしれない。
 アルビヌス総督の勅命で派遣されてきたレノスが、彼にとって何かと邪魔な存在だったからだとすれば。
 ゲルマニア防衛線の精鋭軍団四つが、セウェルス側に寝返るとなれば、アルビヌス陣営にこれほどの打撃はあるまい。
 セウェルスが東方に遠征しているあいだ、アルビヌスがまったく動かなかったのは、こちらが兵力の面において有利だったからなのだ。
 その前提が崩れる。セウェルスは東方から戻り次第、圧倒的な兵力を持って襲いかかってくるだろう。
「ラールス」
 レノスは、百人隊長の手首を力をこめてつかんだ。「わたしを心配してくれる気持ちはわかる。だが、今は絶対に動くな。息をひそめていろ」
「しかし……」
「さもないと、気がつけば、おまえたちの回りがみな敵ということになりかねん」
 司令官と部下は、強く視線をからませた。「もう、ここにも二度と来るな」
「あなたは、どうなるのです。一番危険な立場ではありませんか」
「自分のことは自分で何とかする。ゼノがいてくれる」
「……わかりました」
 ラールスは不承不承、立ち上がった。「どうぞ、ご無事で」
「ありがとう。おまえもな」
「ゼノと言えば」
 兜の緒を留めながら、ラールスは扉のほうを振り向いた。「ここに入るとき、ゼノは衛兵に金貨を渡していましたよ」
「なんだと?」
「入るたびに金貨を渡しているとすれば、それだけの金を、あいつはどうやって工面しているのでしょう」
 ラールスが出て行くのと入れ替わりに、セヴァンが入ってきた。
 牢獄に沈黙が落ちる。
「金はどうしていた?」
「え?」
「衛兵に渡した金貨をどうやって手に入れた」
 セヴァンは、素知らぬ顔で低い天井を見上げた。「元はと言えば、あなたの金です。北の砦にいたころ、あなたの長持から勝手に金貨を抜き取り、それを元手に商売をして貯めました」
「そんなもので、とうてい足りるか」
「ローマの下町にいたころも、用事を頼まれて小銭をかせいでいました」
 レノスは腹が焼けそうに痛むのを堪えて、立ち上がった。「四か月間、毎日のように衛兵にわいろを渡していたのだろう。金貨百枚ですむかどうか。それだけの金を、そんな仕事で稼げるはずはない。嘘をつくな」
 レノスはすばやくセヴァンの腕をつかみ、袖をまくった。なぜ見抜けなかったのだろう。この深くえぐれた傷は、剣でできたものではないか。
「正直に言え! いったい何をしていた」
 浴びせられる憤怒に向かって、セヴァンはゆっくりと顔を巡らせた。その瞳には、昏い炎が宿っていた。
「昔、俺がやっていたことです」
「なに?」
「町の厩舎から馬を盗みました。倉庫から荷を抜き取りました。往来を行く商人を襲って、財布を奪いました」
 レノスは声にならない声を上げて、セヴァンに飛びかかり、壁に押しつけて顔を殴った。
 鍛錬を怠っていた体はたちどころに悲鳴を上げたが、それでも殴ることをやめようとはしなかった。
「なぜ、そんなことを……おまえは、あの野蛮なごろつきに戻ってしまったのか! あれだけ苦労して、ラテン語を学んだのに。ローマの叡智、法と秩序の意味を知ろうと努力した日々は何だったんだ」
 いつのまにか口から言葉の代わりに嗚咽が漏れているのに気づき、レノスはよろよろと寝台に座り込み、頭をかかえた。「なぜだ……」
 セヴァンは長い間、壁にもたれた姿勢のまま立っていた。
「なぜ?」
 血に染まった唇から、うつろな声が漏れる。「あなたに会えないと思っただけで、体がちぎれそうに痛むんです。ここに来るためなら、何だってする。いくらだって金を払うし、そのためなら、何人殺してもいいと思いました」
 レノスは、顔を覆っていた手をはずし、ゆっくりと頭を上げた。
「何を言っている……」
「俺にもわかりません」
 セヴァンは弾かれたように壁から身を離すと、レノスの腰かけている寝台に飛びついた。視界がふさがれる。硬いぬくもりがレノスの全身を包み込む。
「放せ」
 レノスは、突然の抱擁から逃れようと抗った。
「放したくない」
「馬鹿な。わたしは……男なのだぞ」
「いいえ。あなたは女だ」
「ちがう!」
 ありったけの力でもがいて、何とか腕の檻から抜け出ると、レノスはわめいた。「男だ。わたしはローマ軍の大隊将校だ。男なのだ。わたしは強くあらねばならない。女であってはならないのだ!」
 ぜいぜいと息の音だけが響く。
「どれだけ……どれだけ、わたしが己を抑えてきたと思っている。わたしを弱くしないでくれ。そんな目で見られると、今にも、ぼろぼろに砕けてしまいそうだ」
 レノスは、寝台に突っ伏した。「明日からもう来るな……二度と顔を見せるな!」
 どれだけの時間が経ったのか。顔を上げると、そこには誰もおらず、いつのまにか夕闇が牢獄を膠(にかわ)色に染めていた。
 肺が燃えるように熱い。下腹がじくじくと痛む。
 寝台から立ちあがろうとした拍子に、ぬるりと何かが股のあいだを伝い落ちた。
 いぶかしく思って触れ、その手を見たとたん、レノスはその場にずるずると崩れこんだ。
 手のひらを染めていたのは、赤い血――軍に入って以来、止まっていたはずの女のしるしだった。


 牢の中で日を数えるのは、むなしい。最初は木簡に日を刻んでいたが、今ではもうすっかり無駄な努力を放棄してしまった。
 セヴァンが来なくなってから、何日経つのだろう。
 刺すような寒さがほんの少し和らぎ、昨日よりも今日のほうが窓からの日射しが長く届くようになったころ、牢の扉が開いた。
 もしやと、思わず立ち上がったレノスだが、扉の外に立つ人物の顔を見たときは、心臓が止まるかと思った。
「セウェルス総督!」
 即座に直立不動の姿勢になった。「いえ、……皇帝陛下」
「久しぶりだね、カルス司令官」
 軍装に紫のマント。ローマ帝国の正帝、セプティミウス・セウェルスは、おおらかな微笑を浮かべながら、中に入ってきた。続いて入って来ようとした護衛たちを片手で押しとどめる。
「最後に会ったのは、コロセウムのブリタニア戦勝記念試合か。もう何十年も前のことのようだね」
「いったい、なぜ?」
「こんなところに、いるはずはないと思っただろう?」
 皇帝は、レノスの寝台にどかりと腰をおろした。
「知ってのとおり、わたしは去年の秋イッススでニゲルを破ったあと、ずっと東方にいた。ニゲル派の残党もまだ抵抗していたし、なによりもやつの後ろ盾だったパルティア王国とアルメニア王国を放っておけないからね。後顧の憂いを断つためにも、こっちの力を見せつけておこうと、せっせと転戦している……ということになっている」
「なっている?」
 セウェルスは、わざとらしく咳払いした。「派手な示威行動は部下にまかせて、わたしだけ密かに戻ってきたんだ。後顧の憂いという意味では、こちらのほうがもっと危ないからね」
 レノスは頬をこわばらせて、皇帝をじっと見つめた。
「ゲルマニア防衛線の四個軍団を、ご自分の味方につけるためですか」
「ああ、そうか。きみはとっくに知っているんだね」
 セウェルスは目じりを下げて、笑った。「さすが、アルビヌスの信頼厚い指揮官だけのことはある。ブレヌス軍団長がきみを牢につないでいるのは、賢明なことかもしれない」
「アルビヌス総督を副帝に任命なさったのは、時間かせぎだったというわけですか」
「あのね。わたしをそんなに悪者にしないでほしい」
 皇帝は、くすくすと含み笑った。「アルビヌスとは昔、男の約束をしてね。どちらか先にローマに入城したほうが、もうひとりを副帝に任命する。わたしは忠実にその誓いを守った。だが、そのあとのことは、別だ」
「アルビヌスさまと戦うおつもりですか」
「いずれは、そうなるだろうね」
 セウェルスは悲しげに続けた。「そして、彼もそれを望むはずだ。ローマ帝国の皇帝はただひとり。ふたりはいらない」
 レノスは眦を吊り上げた。「わかりました。それでは、わたしとあなたは、今このときから敵ということになります」
「そんなに牙をむき出さないでほしいな」
 困ったように、ぼりぼりと頭を掻く。「わたしはきみが気に入っている。コンモドゥス帝陛下と勇敢に戦ったきみの奴隷くんもね。この軍団本部の門をくぐろうとしたとき、いきなりきみの奴隷が前に飛び出て来たんだ。もう少しで、馬のひずめで蹴り殺すところだった。地面に頭をこすりつけるようにして、『主を助けてほしい』と懇願されたよ」
「ゼノが……?」
「けれど、ただできみを釈放するわけにはいかない。わたしがここの四軍団を引きこもうとしていることを知ってしまったからね」
 セウェルスは大きく両腕を広げた。
「そこで、提案だ。わたしの陣営に加わらないか?」
「あなたの……?」
「わたしに忠誠を誓えば、すぐにでも牢から出してあげよう」
 くらっと目まいがするのを、レノスは覚えた。アルビヌス総督を裏切って、セウェルス帝の側につけというのか。
「お断りいたします」
「即答だね」
「わたしはブリタニア駐留軍団に属する軍人として、クロディウス・アルビヌス総督に忠誠を誓いました。おのれの誓いを破ることはできません」
「ここから一生出られなくても?」
「陛下は、歴戦の勇士でいらっしゃいます。誓いを簡単に破る味方など、必要ないはずです」
 セウェルスは、「ははっ」とのけぞって笑った。
「すばらしい。ローマ軍もまだまだ捨てたもんじゃない。だがね」
 彼の瞳が、きらりと剣呑に光った。「これから、ローマ軍同士が互いに裏切り、殺し合う時代に入っていく。きみはその目で、その光景を見ることになるだろう」
 戦慄するような予言のことばをつぶやいてから、皇帝はぽんと手を叩いた。
「よかろう。クレリウス・カルス司令官をたったいま釈放する」
「……陛下?」
 彼は、うしろに控えていた文官を呼び、パピルスの巻物を受け取ると、レノスに渡した。
「これが、許可証だ。きみの部隊を連れて、ルグドゥヌムのアルビヌスのもとへ行きたまえ」
 レノスは自分の耳を疑って、しばらく口ごもった。
「よいのですか。わたしは……」
「かまわない」
 セウェルスは腕を組み、外まで聞こえるような張りのある声で言った。
「アルビヌスに全部話してくれ。レヌス川防衛線の四個軍団がわたしの側についたことも、何もかも。どうせ、もう少しすると、カラカラを副帝に任命するつもりだった。アルビヌスへの宣戦布告の意味でね」
「宣戦布告……」
「あ、カラカラというのは、わたしの長男のあだ名でね。まだ八歳のやんちゃざかりで妻も困っている。戴冠式のあいだじっと椅子に座ってられるか、怪しいものだよ」
 家族の話で相好を崩す皇帝に、レノスはサンダルをとんと鳴らして、敬礼した。「必ず伝えます。命を救ってくださり、ありがとうございました」
「うむ、元気でな。戦場で会おう」
 彼は踵を返してから、振り向いて片目をつぶった。「奴隷くんと仲良くな」
 セウェルス帝が扉の向こうに去り、レノスはふっと息をついた。
(飄々と、どこか憎めない御方だ)
 とうとう最後まで誤解されたままだったな。いや、あの方の目は最初から、鋭く一片の真実を突いていたのかもしれない。
 人心を掌握する術に長けておられる。皇帝となるにふさわしいのは、アルビヌス総督ではなく、あの方なのかもしれない。
(だが、わたしはブリタニアの司令官として、アルビヌスさまを裏切ることはできない。絶対に)
 衛兵の黙礼を受けて外に出ると、セヴァンが柱廊の柱の陰に立っていた。
 着ている服は泥だらけ。皇帝の行列の前に飛び出したというのは、本当だったのだ。レノスは震える唇を、きゅっと噛みしめ、さまざまな思いが奔流となって襲って来るのに耐えた。
「行くぞ。ゼノ」
「はい」
「まずは、長城の砦に向かう。それからルグドゥヌムへ行軍だ」
「馬の準備はできています」
 レノスは後ろを振り向かず、歩き出した。セヴァンは半歩右後ろに、ぴたりと付き従って歩く。それ以上の言葉は必要ない。互いの身を焼き尽くす激しい熱情も、甘やかな想いも、すべて封印する。
 ここから先には、ローマ全体を巻き込む壮絶な内戦が待っているのだ。
 だから、今はこのままでいい。





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