The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 9 「流転」

(2)

 冬のルグドゥヌムには、現地のことばで「ミストラル」と呼ばれる北風が吹きすさぶ。
 強風がアルプスをくだり、渓谷を一気に駆け抜けるさまは、まるで兵士たちが鬨の声を上げて突進して来るようだ。
――カエサルどのも、こうやってマントにくるまりながら、坂道をくだっておられたのだろうか。
 ミストラルに吹き飛ばされぬように、マントの留め金をしっかりと押さえながら、レノスは丘の上に立った。黄金と大理石にきらめく巨大な円形劇場がそびえ立つ丘から、狭く急な坂が幾筋も伸びている。眼下には、町を横切る二本の川。手前がアラル(ソーヌ)川、向こうがロダヌス(ローヌ)川だ。
 この川が交わるところに港がある。漆喰塗りの商店やレンガ造りの倉庫が、冬の日差しにくっきりと陰影を際立たせる。桟橋には、ガレー船や帆舟が鈴なりに横付けされている。
 ここは南ガリアの交通の大動脈だ。ガリア統治の中心地として、この丘の上に都市を建設させたのは、カエサルだった。その250年後、この美しい町で皇帝の座を争ってローマ軍同士が激突するなど、彼は想像もしていなかっただろう。
 皇帝セウェルスは大軍を率い、この町を目がけて一目散に南下してくる。パンノニア、ダキア、モエシア、イリュリアの軍団に加えて、アルビヌスに与していたはずのゲルマニア防衛線の四軍団も、彼は自軍に引き込んだ。
 後方支援も含めれば、おそらく五万はくだらないだろう。
 一方、アルビヌスはブリタニアの三軍団に加えて、ヒスパニアの第七軍団ゲミナを配下に置く。いずれも、ローマ帝国防衛を担う精鋭たち。セウェルスの軍団に引けを取らないとは言え、明らかに劣勢だ。
 加えて、この数ヶ月アルビヌスがガリアで取った戦略は、ことごとく裏目に出ていた。
 まずは敵側に寝返ったゲルマニア軍団を攻略すべく、北方に陣を張り、攻撃を仕掛けた。激戦の末、アルビヌス側に軍配が上がり、ゲルマニア軍団は潰走したが、そこで追撃は終わってしまった。本来ならば、とことん徹底的に叩いて、ふたたび彼らをこちらの陣営に取り込むべきではなかったか。
 だがアルビヌスは、いつまでも北方に兵力を割くことをしぶった。早くアルプスを越えてイタリヤ本土に侵攻することを目論んでいたからだ。
 しかし、それを察知したセウェルスは先回りして、アルプスの峠に大守備隊を敷いた。
 アルビヌスはそれを知り、イタリヤへの侵入をあきらめ、ルグドゥヌムでセウェルスを待ち受ける作戦に切り替えたのだ。
(アルビヌスどのの作戦は、中途半端で、及び腰だ)
 レノスは唇を噛む。戦いは一度走り出した以上、途中で止まってはならない。気勢を削がれて立ち止まった時点で、もう負けているのだ。
 セウェルスは、決して立ち止まらない。絶えず目の前のものに向かって、激しく挑みかかっている。アルビヌスよりも十歳以上若いセウェルスの行動力が、ここへ来て大きな差となって表われている。
 港は、兵站部の将兵たちと荷運びの奴隷たちでごったがえしていた。饐えた魚とオリーブ油の匂いのただ中を抜け、町の城壁の外に出る。
 見渡すかぎり広がる冬の休耕田には、ローマ軍の陣営が整然と立ち並んでいた。その合間に近隣の商人たちが市を立て、まるでルグドゥヌムの町の外に、丸ごとひとつ別の町が生まれたようだ。
 町の北東側にブリタニアの三正規軍団と補助軍。北西側にヒスパニア軍団とその補助軍が陣を敷いている。
 ファビウス司令長官も、配下の辺境部隊を率いてブリタニアからやってきた。いけすかない上司だが、四万の大軍の中で知っている人間を見かけると、ほっとした気分になれるものだ。
 すぐ隣の陣に、クレディン族から徴用された五十人の若者たちが配属されていたのも、思いがけない出会いだった。彼らはすでに、一人前のローマ兵士の顔になっていた。
「軍議はどうでしたか」
 門のわきの土塁に座り込み、剣を磨いていたフラーメンが問いかけた。
「北のティヌルティウム(トゥルニュ)に陣を敷いて、待ち構えることになった」
「なるほど。万が一の場合は、ここに撤退してきて、勝機をうかがうこともできますね」
 この作戦にも、内心レノスは反対だった。戦力を小出しにしても、削いで持っていかれるばかりだ。退路を断たねば、兵の士気もあがらない。
 だが、四つの正規軍団の軍団長が居並ぶなか、補助軍の大隊司令官などが、口をはさむ余地はなかった。
「まあ、いいじゃないですか。どこが戦場でも、俺たちはただ暴れるだけです」
 上官の苦渋を察して、フラーメンがのんびりと言った。
「そうだな」
 少し気持ちが明るくなる。この男が部下でよかったとつくづく思う。故郷を遠く離れたガリアの地で、いつも兵士たちを賑やかに元気づけてくれたのは、フラーメンの功績だった。
 門から、会計係のネポスの甲高い抗議の声が聞こえてきた。相手は兵站部の将校で、糧食の割り当てを減らしてきたらしい。数万の兵を食べさせていくことは、上層部にとっても並大抵の仕事ではないのだ。補助軍など、数のうちには入らないというのが本音だったろう。
 ネポスの後ろに、たくさんのパピルスの巻物を腕にかかえたセヴァンが近づいた。彼が何かを言うと、兵站部の将校は憮然とした表情になり、何かを言い捨てて、行ってしまった。交渉が成功したことは、ネポスの驚いたような笑顔でわかった。
「ゼノは、よくやってますよ」
 フラーメンは、剣を磨く手に力をこめた。「あいつがルスクスに代わって、補給を一手に担ってくれています。ここまで、うちの軍にとって必要な存在になるとは、五年前は誰も想像していなかった」
 レノスは、ほほえんだ。「もう彼のことを恨んでいないのか」
 フラーメンは目をしばたいて、薄日の射す空を仰いだ。「あいつに殺されたよりも、助けられた人間のほうが多いですからね」
「そうだな」
 つぶやきながら、レノスはセヴァンの後ろ姿を見つめる。背中にまで達した髪の先が、麦の穂先のように黄金色に揺れていた。
――いつの間に、こんなに伸びたのだ。
 半年の牢獄生活と、一年間の転戦につぐ転戦。奴隷の髪を切ることなど、すっかり忘れていた。
「どうしました?」
 放心している司令官を、フラーメンがいぶかしげに見上げる。
「なんでもない」
 レノスはきゅっと口元を引き締め、司令本部へと歩き出した。
 どんな命令が出ようとも、自分は自分の役割を果たすだけだ。五百人の部下の命を無駄に散らさぬように。


 寒い朝だった。
 太陽の姿はまだ見えず、旗ざおの先の赤いドラゴンにだけ、うっすらとオレンジ色の光が宿っていた。馬の房飾りや百人隊長のマントが狂ったように風に揺れる。
――昔、まったく同じ景色を見たことがあるような気がする。
 気をはやらせて落ち着かない馬の首を、レノスはぽんぽんと撫でた。戦いの前は決まって、そんな奇妙な気持ちに襲われる。人生とは、ただ同じ時間をぐるぐると回っているだけなのかもしれない、と。
 伝令がぱたぱたと駆けてきた。
「もうすぐ出陣の時間です」
「ご苦労」
 レノスの大隊はすでに整列を終えていた。歩兵、軽装歩兵、騎馬兵、百人隊長、ラッパ手、旗手。軍医と包帯兵。輸送隊。総勢六百人。ざわりざわりと頭が揺れるさまは、まるで風が吹き渡るヒースの草原のようだと思うのも、いつもと同じだ。
 そして、レノスの隣にいるのも、いつもと同じ。オオカミの毛皮をまとったケルトの奴隷だ。
『戦いは、ローマ軍兵士のものです。奴隷にはローマ軍に加わる資格がありません』
 かつて、ラールスが反対したときに、セヴァンはこう答えた。
『俺は、司令官の犬です。だから、主といっしょに、いつも戦いの場にいなければならない』
 セヴァンが同行することに異を唱える者は、今はもう、わが軍にはいない。
 自分を見下ろす主の視線を感じたのか、セヴァンは顔を上げた。
 その顔は、無表情な彼に似合わず、どこか誇らしげだった。セヴァンの犬イスカは戦いに出かけるとき、きっとこんな表情をしていたのだろうと、思わず笑みが浮かぶ。彼も笑みを返してくる。
――あなたは、俺が守ります。
――よろしく頼む。
 レノスは、キッと前方を見据えた。ばらばらだった体と心が、音を立ててひとつに集束していく。
「進軍開始」
 薄闇を突き抜けるように、司令官の凛とした声が響き渡った。


 アルビヌス軍とセウェルス軍は、アラル川沿いの町ティヌルティウムの近郊で合いまみえた。
 十万のローマ軍同士の戦いは熾烈を極めたが、どちらも決定的な勝利を得ることないまま、アルビヌス側が敗走して終わった。
 アルビヌス軍は、ルグドゥヌムに舞い戻って、陣営を建てなおし、セウェルス軍の南下を待ち構えた。
『できる限りセウェルス軍の戦力を削いだ。敵は行軍の連続で疲れているはず。こちらは満を持して迎え撃つだけだ』と、楽観的な論を声高に唱える者もいれば、『もうここで負ければ、後はない』と悲愴な決意にこぶしを固める者もいた。
 西暦197年2月19日。
 両軍はふたたび、ルグドゥヌムで激突した。
 アルビヌス軍は、ひとつの戦略を立てて臨んだ。
 ヒスパニア軍が中心となった左翼が突出して、敵を攻撃する。その一方、レノスたちの配された右翼は後退して敵を誘い込み、セウェルス軍の陣形を崩し、取り囲んで撃破しようというのである。
「いいか、敵を思い切り引きつけろ!」
 前衛の歩兵軍団に向かって、レノスは叫び続けた。
 戦況がどうなっているかなど、戦場のまっ只中でわかるはずもない。眼前で繰り広げられているのは、盾と盾との激突。うなる矢叫び。血しぶきと体から立ち上る湯気が視界を曇らせる。
「司令官どの。隣の部隊がどんどん前に出ます!」
 百人隊長のアルブスクラがわめいた。
「だめだ。出るな。持ちこたえろ。目いっぱい敵を引きつけるんだ!」
 恐怖に駆られ、あるいは功名心にはやる兵たちは、やみくもに突進していこうとする。レノスはそのたびに、止めなければならなかった。
「いつまでですか!」
 いつまで? もう何時間も戦っている。いや、何日か。時間の感覚がすでにない。一歩前へ踏み込み、剣を振り下ろし、敵を倒しては一歩下がる。一歩前へ踏み込み、剣を振り下ろし……。
「あぶない!」
 セヴァンが横からレノスを押しのけ、剣をふるった。側面から攻撃しようとしていた敵兵はその場に崩れ落ちた。
 思わずよろめいて、何かを踏みつけた感触に下を見ると、見覚えのある自軍の兵士が頭をぱっくりと割って、こときれていた。
「くそう!」
 汗と血糊でぬめる手のひらをぐいと拭き、剣を握りなおし、大声で吠える。
 赦さん、敵め。殺してやる。殺してやる!
 どこかで、歓声があがった。
「敵が崩れ出したぞ」
 敵陣の一角がぽっかりと空き、友軍の兵士たちがそこに向かって、突撃を始めるのを見て、レノスは我に返った。
「いかん。まだだ。まだ進軍の合図は……」
 叫びは、たちまち鬨の声にかき消される。
「どうします?」
 ラールスが、うかがうようにこちらを見る。
 一度走り出してしまっては、もう止められない。止まっては、先陣がやられてしまうだけだ。
「よし、続け!」
 レノスは意を決して、剣をかざし、雄叫びをあげて走り始めた。セヴァンがその横にぴたりとついてくるのが、見なくてもわかる。


 日が暮れ、夜が更け、次の朝が来た。
 ローマ史の中で「もっとも凄惨で、血にまみれた戦い」と評されるルグドゥヌムの戦いは、二日めに入ろうとしていた。
 剣を片手に、立ったまま水を飲み、糧食をかじった。小便は垂れ流しだ。誰も彼も、汗と泥にまみれ、悪鬼のような形相になっている。
 二十四時間以上寝ていないので、目がぼうっと霞む。少し気を抜けば、意識が途切れそうだ。
――誰か、寝かせてくれ。
 そう呟きながら、レノスは戦い続けた。
 すでに戦場は、ばらばらに切り刻まれた死体の山だった。流れ出る血が草むらを覆い、赤黒く染まっていた。
 将の首を取ろうと敵が幾度となく襲いかかってきたが、そのたびにセヴァンが退けた。
 彼も、すでに血まみれだ。レノスも左脚に槍を受けた深手を負っているが、痛みよりも眠気のほうがまさった。
――死んでもかまわないから、寝かせてくれ。
「主(あるじ)よ」
 ぎゅうっと、剣を握る手をつかまれた。湖水の色をした両目が間近で見つめていた。
「手当をして来てください。あなたはもう限界だ」
 琥珀の色をした両目で睨み返した。「今、ここを離れられるものか」
「みんな朦朧としている。戦況は硬直しています。少しなら大丈夫です」
「そういうときこそ、司令官が必要なんだ!」
 一歩踏み出し、崩れそうになる膝を、あやうく立て直す。「わたしがここを逃げ出すわけにはいかない」
「あなたの分まで、俺が戦います」
「ばかな……」
 そのとき、斜め前方から馬が走りこんできた。
「司令官どの」
 騎馬隊長のスピンテルだ。「敵の騎馬隊がこっちへ攻め込んでくる。かなりの数だ」
「なんだと?」
「急いで、迎撃態勢を取ってくれ。それまで俺たちで、なんとか時間をかせぐ」
「わかった」
 髭だらけのゲルマン人が馬上でにやりと笑った。「ひどい顔だな。色男がだいなしだぜ」
「気をつけろ、スピンテル」
 走り去る騎馬に向かって叫んでから、レノスは振り向いた。
「フィルス! 集合ラッパだ!」
 必ず司令官のそばにいるはずのラッパ手の、いつもの威勢のいい返事はなかった。
 元に向き直ると、はるか彼方に土煙が上がっている。
「……いったい何だ。あれは」
 ルグドゥヌムの戦いの雌雄を決したのは、セウェルス軍の精鋭騎馬隊だったと言われる。
 その本部隊が、ひづめの巻き起こす土煙、馬のいななきとともに、すさまじいまでの速さでレノスの大隊に襲いかかってきた。


 黄昏の戦場に、静寂が訪れた。
 しばらくのあいだ、動く者はなかった。
 断末魔のうめき声。助けを求める血濡れた手が、物言わぬ骸のあいだから伸ばされる。
 セヴァンはようやく起き上がると、倒れている主人のもとへ急いでにじり寄った。兜の側面がへこんでいる。顎の留め金をはずし、兜を脱がせ、頸すじに触れる。
 指先に小さな脈動を感じ、セヴァンは安堵の息を吐いた。水袋を取りだし、レノスの唇にあてがう。反応がないのを見て、自分の口に水を含み、そっと屈みこんだ。
 よほどの時間が経ってから、動く者の気配を感じて、セヴァンは身を起こした。
 レノスの大隊の生き残りたちが、自軍の負傷者を捜しているところだった。
「マリウス……ルキウス」
 知っている名を呼んだ。「早く……カルス司令官はここです」
「司令官どの」
 あわてて駆け寄ってきた兵士たちにレノスを託して、セヴァンは立ち上がった。
「あとは頼みます」
 落ちていた誰かのグラディウス剣を拾い、二本の剣を腰に帯びると、セヴァンは自陣とは反対の方向に歩き始めた。
 命を懸けてレノスを守ると誓ったのに、守りきれなかった自分が赦せない。
 人の死体を踏みつけ、馬の死体を踏みつけ、血の川を踏みつけ、栄光あるローマの旗を踏みつける。
「これが……おまえたちローマの……目指している平和か」
 抑えようとしても、苦い笑いがこみあげてくる。
「ばかばかしい。俺たちを蛮族と蔑み……法と秩序を押しつけ……もう少しでだまされるところだった」
 セヴァンは立ち止まり、肺もつぶれよとばかりに絶叫した。
「こんなもの、いらない! 俺たちは、ローマなんか、いらない!」
「――セヴァン……さま」
 遠くから叫びながら、ばらばらと走り寄ってくる兵士たちがいた。
「セヴァンさま、ご無事でしたか」
「おまえたち」
 セヴァンはあわてて涙をぬぐい、向きなおった。
 そこに立っていたのはクレディン族の兵士たちだった。十人ほどはいようか。
「残りの者は?」
「ばらばらになってしまいました」
「司令官は」
「……死にました。先ほどの敵襲で、副官も」
 彼らは、互いの顔を不安そうに見交わした。ブリタニアの氏族が、遠いガリアまで駆り出されて、戦場の真ん中で途方に暮れている。
 セヴァンは口を開いた。そこから漏れ出てきたのは氏族のことばだ。
「ついてくるか? 俺に」
「え?」
「セウェルスのもとに行く」
「まさか。たったおひとりで?」
「これは、ローマの戦いではない。クレディン族の戦いだ」
 セヴァンは、オオカミのマントを後ろにはらい、東の地平を指差した。強風が吹き払った雲の切れ目から、冴えた冷たい望月が昇ってくる。「月が力を与えてくれる。俺たちの狩りをしよう」
 最初は茫然としていた彼らも、口ぐちに歓声をあげた。
「仲間に加えてください!」
「よし、行こう」
 その日、月下の戦場を、一群れの男たちが走り抜けた。ある者はそれを暴れ馬だと言い、ある者はオオカミだと言った。


「きさまらは……誰だ」
 皇帝セウェルスの失策は、進まない戦況に苛立ち、みずからが前線に出過ぎてしまったことだ。だが選り抜きの親衛隊に周囲を守られていたはずだ。まさか、頼みの護衛がことごとくやられるとは思わなかった。
 しかも敵は、オオカミのマントをかぶったケルトの若者。わずかなローマ兵が彼に付き従っているのみだというのに。
「あ……きみは」
 月明かりを受けてかがやく鋭い碧色の眼光を見て、思い出した。「カルス司令官の奴隷クン……だったね」
「あなたには、借りがある」
 セヴァンは、二本の剣先をセウェルスに向けた。「一年前、主を牢から助けてもらった。今すぐに兵を引いてくれたら、あなたの命を救ってもいい」
「それは、無理だね」
 ためらいもなく、セウェルスは首を振った。「もう、わたしの一存で兵を引くことはできない。あまりにも大勢の仲間が殺された。今さら撤退を命じても、収まりがつくはずはない」
「それでは、右翼の兵だけを集めて、代わりにルグドゥヌムの町を襲うように命じてほしい」
「それなら、できない相談ではないが」
 セウェルスは肩をすくめた。「どうあっても、総大将を救うことはできんぞ」
「わかっている。アルビヌスなど、どうでもいい」
「きみの関心は、カルス司令官だけなんだね」
 セウェルスはひどく感じ入ったように、言った。「よかろう。条件を飲もう。カルスの命は保証しよう」
 セヴァンは、二本の剣を腰帯に納めた。
「約束の証拠に、皇帝のマントがほしい」
「なに?」
「あなたが裏切らないという証拠だ。今からたったひとりで戦場を突破するのに、紫のマントは邪魔だと思うが」
 皇帝は、うなった。「きみは本当に、奴隷にしておくには惜しい男だ」
 セウェルスは留め金をはずしてマントを脱ぎ、放って寄こした。そして、自分の馬にまたがると、振り返らずまっすぐに走り去って行った。
 セヴァンは、マントを拾い上げると、嘲るように鼻を鳴らし、ふわりと戯れに自分の肩にかけた。
「セウェルス」
 誰にも聞こえぬように、つぶやく。「アルビヌスが皇帝になるよりは、ましか」


 レノスが意識を取り戻して、最初に見たのは、天幕の天井にちろちろと揺れる朝の光だった。取り返しのつかないことをしたという思いで跳ね起きると、包帯兵が急いで近づいてきた。
「ひづめで頭を強打されています。絶対安静です」
「それどころではない。起こしてくれ」
 包帯を巻かれた脚を引きずり、なんとか外へ出ると、セヴァンが地面から立ち上がった。
「起きて大丈夫なのですか」
「戦いはどうなった?」
「ルグドゥヌムの町に、セウェルスの旗が立ちました」
 そっけない答えを聞いて、すっと膝から力が抜ける。
「敗けた……のか」
「アルビヌス総督は、川のほとりの小屋で自害なさったそうです」
 敗けたのか。
 レノスは地面に崩れこみ、うずくまった。敗けた。ブリタニアは敗けた。
 土をつかんだまま身を震わせている主人から、セヴァンは顔をそむけて立っていた。
「そう……だ。みんな……は」
 よろよろと立ち上がると、レノスは天幕の連なりを抜けて、中央広場に出た。
 広場は見渡すかぎり、遺体が整然と並んでいた。
 完璧に整然とは行かなかった。足がないもの。頭がないもの。遺体の一部にすぎないものもあったからだ。それでも、せいいっぱい整然と安置しようと、兵たちは努力したのだ。
 レノスは、ひとりひとりの遺体の前で立ち止まった。
「アルブスクラ」
 いつも一番元気で、砦の中を走っていた若き百人隊長。
「ネポス……なぜ」
 後方の輸送隊にいたはずの会計係。仲間の安否を気づかって前に出過ぎ、流れ矢に当たったのだという。
「フィルス」
 いつもレノスの後ろにいて、彼の命令を的確に、高らかな音色で伝えてくれたラッパ手。
「スピンテル」
 あの愛すべき騎馬隊長の髭だらけの顔は、今は蝋のように白く、固くなっていた。
「おまえほどの男が……スピンテル」
 セウェルス騎馬隊の襲撃を食い止めようと、最期まで奮闘したのだという。
「スピンテル、おまえがいなくなったら、臭いと文句を言うこともできないではないか」
 遺体の前にひざまずき、うわごとのように呟くレノスを、セヴァンは腕をつかんで立たせた。
「もういいでしょう。休んでください」
 引きずるようにレノスを救護用の天幕に連れ戻したとき、医師のグナエウスが大股で近づいてきた。
「司令官どの。フラーメンの足を切ります」
「……なんだと?」
 金髪の百人隊長の右脚は、敵の騎馬隊にずたずたに踏み砕かれて、手のほどこしようがないという。
「なんとかならないのか。軍病院に運んで」
「早く切らないと、足の傷から体じゅうに毒が回ります。一刻の猶予もなりません」
 命か、片脚かの苦渋の選択。許可を得ると、ギリシャ人の医師は小走りに天幕に戻って行った。
「フラーメン」
 天幕に入ろうとすると、悲鳴が聞こえてきた。
「やめろ!」
 フラーメンの声だった。
「ばかやろ、切るなっ。俺は筆頭百人隊長だぞ。脚なくしたら、戦えなくなるだろう。……やめろ、やめろって」
   その直後、耳を覆いたくなるような絶叫。
「司令官どの。助けてっ。やめさせてください。司令官どの」
 レノスは天幕に飛び込もうとしたが、セヴァンが羽交い絞めにした。
「フラーメン、フラーメン」
 むちゃくちゃに抗いながら、レノスは叫び続けた。
「なぜ、なぜですか。神よ。なぜ、わたしではなく、あいつらがこんな目に……。もう十分だ。わたしの、わたしの命を代わりに取ってください……神よ、お願いです」
 慟哭に身をよじる主を、セヴァンはありったけの力で抱きしめるしかなかった。





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