猫の秘密〜異世界の姫君アスリア
岡野 なおみ

(5) 妖魔と魔王軍の面々

「手ぬるい!」
 ハガシムは、地団駄を踏んで咆吼した。牙の隙間から、よだれが一筋垂れていく。
妖魔ノガル・アンガスは、ひざまずいたまま顔を伏せていた。かすかにため息のようなものが聞こえてくる。
 廃墟になったサルデス城を、魔法で再建したあと、魔将軍たちは二階の会議室にいた。会議は紛糾していた。
「王位継承権の指輪を手に入れたのですから、王女のことは放っておいても構わないのではありませんか」
 ノガルは、落ち着いた口調で言った。
「お前の意見など、聞いておらぬわ!」
 ハガシムは、唾を飛ばしてわめいている。
「王女は、たった一人の戦争の生き残りだ。我らの異世界への侵攻を警告するかも知れぬ」
 ゲハジが、したり顔で説明する。
「猫の姿で、ですか?」
 ノガルは、眉をつり上げた。
「人間の言葉を喋られない以上、王女には実質的には味方など、誰もいないも同然です」
「おぬしの魔法が効かなかった犬がいるではないか。普通の知性ある生き物であれば、たとえ聖なる光の使徒でも、おぬしの魔法には逆らえぬはずだ」
 ゲハジは冷静に指摘した。しかし、その太ってみにくい姿では、あまり説得力は無かった。ルギドは豚め、とつぶやき、ゲハジはさっと顔をひきつらせている。
「普通の生き物なら、その通りです」
 ノガルは、穏やかに言うが、ルギドは、
「犬ころ一匹で、それほど色めき立つこともなかろう。ほうっておけ」
「申し上げにくいことではありますが」
 ノガルは、歯切れの悪い口調で言った。
「あの犬は、今後の人間奴隷化計画の、妨害となりうる存在であるように、わたしには思えてなりませぬ」
「人間奴隷化計画!」
 ハガシムは、まるで自分の投げた斧が、目的の場所ではなく、森の中にでも飛んでいったかのような反応を見せた。
「人間はエサでしか、ないはずだ!」
「身の回りのことをさせるのなら、妖魔で充分でしょう」
 ゲハジもちらりとノガルを見ながら、
「死霊を使うという手もありますし」
 それを聞いてルギドは薄く笑った。
「反対されてもやってのけるぞ。ティトスの人間には、もう飽き飽きしたところなのだ」
 ルギドの眸に、一瞬だが悲しそうな色が宿った。飽き飽きした――その言葉の本当の意味を知るものは、おそらくルギドの教育係にして侍従長のジョカルだけであろう。
しかしもちろん、ルギドは感傷に長い間浸っている男ではなかった。
「さて、それでは作戦だが」
 彼は、古代ティトス文字で書かれた月の運行表を、取り出した。
「次に異世界の扉がひらかれるのは、三時間後」
 彼は言った。
「だれか、志願して異世界に行き、王女を殺すものはいないのか?」
 一同は、絶句した。毒を――どんな魔法でも解毒が出来ない、猛毒を体内に宿らせる羽目になるのだけは、魔法軍の面々としては、願い下げである。どんなに忠誠を誓っていても、命は惜しい。
「わたしの勤めは、それほどご不満ですか」 ノガルは当惑したように言った。
「たかが猫一匹殺せないようではな、この役立たずの下僕めが」
 ルギドは平然と言った。ノガルは傷ついた表情になった。
「どうもよく判らないのですが、その『たかが猫一匹』殺害に対して、全軍の将を投入する必要があるんですか」
 ゲハジは頭を振って考え込んでいる。
「たったひとりにそこまで憎む根拠が、わたしにもよく判らないのですが」
 ノガルも言葉を継いでいる。
「下等な豚どもには、判らぬことがある」
 ルギドの言葉に、ゲハジはかっと顔を赤く染めた。だが魔王は平然として、
「妖魔よ、おまえは契約にのっとって、言ったとおりにすればいい!」
 ノガルは、あきらかに不本意そうな表情になったが、
「かしこまりました」
 と頭を下げている。
「不思議だ、あれだけの猛毒を、どうしてあっちの人間どもは、簡単に解毒したのだろうか」
 自分を冷静にさせるためだろう、ゲハジは別なことを言って頭をひねっている。
 そこでノガルは、動物病院の面々について語った。解毒薬を彼らが持っていることを。――彼はこころが読めるのである。
「だからこそ、あいつらを奴隷にするのだ」
 ルギドは、ひらりとマントを翻した。
「我々の魔力と技術力をもってすれば、アチラの世界を征服するのはわけないことです!」
 ゲハジが、甘ったるい声でごまをすっている。ハガシムは、牙を打ち鳴らし、嫌悪の表情を見せた。
「口ばかり達者で、まったく楽しいヤツだ」
 ルギドはごまをすられても、なんとも感じていないらしい。ゲハジは軽くかわされてしまったので、ますます怒りをあらわにしているが、必死で自分を抑えつけている。
 ――どうも、魔王の前では、いつもの冷静さが失われてしまう……。
「問題は、解毒薬を渡してもらえるかどうかです」ノガルは気の毒そうにゲハジを見ながら、肩をすくめた。
「普通の知性ある生き物には、わたしの魔法には抵抗できないのですが、MF動物病院の人々が、抵抗せずに解毒薬を渡すかどうかは判りませんな」
「前にアチラの世界に召還されたことがあったんだろう」
 ゲハジは鼻先で笑うように言った。
「はあ、でもそれから四百年も経ってますしねえ」
 ノガルの言葉には、あまりやる気が感じられない。
「まあまあ、ノガルさんはしばらくお休みすれば良いではありませぬか。異世界移動には、体力が必要と聞きます。ルギドさま、今度こそわたしに活躍の場をお与えください」
 ゲハジがなおもごまをすっている。
「死霊使いめが」
 ハガシムは、唾棄するようにつぶやいた。
「面白い」
 ルギドは微笑した。酷薄な笑みであった。
「ノガル・アンガス。おまえは厨房に行って、今晩の人間を切り刻んでろ」
「かしこまりました」
 ノガルは、ため息をついてその場を立ち去った。あまり、楽しそうな退出ではなかった。
「よろしいのですか、厨房仕事などという下賤な仕事を、誇り高きアンガス族にさせて」
 侍従長ジョカルは、ルギドにささやいた。
「ノガルは契約したのだ、どんな仕事もするとな」
 ルギドは笑った。
「契約は守ってもらわねば」
 自分より弱い立場のものは、踏みつぶして傷つけてむさぼり食うのが魔王軍の礼儀であった。
「さて、わたしの計画は、次の通りです」
 ゲハジは、ルギドの頭の上から、のしかかるように言ってハガシムをちらりと見た。
 あきらかに、冷笑している目である。
「死霊使いめが」
 ハガシムは、苦々しげにつぶやいた。今、この場が戦場でないのが悔しい限りだ。戦場なら、ゲハジなどに後れを取ることはないものを。ぎりぎりと、唇を噛みしめ、自分の置かれた立場を胸の中で繰り返す。
 戦場こそ、彼の居場所。猫一匹に兵を差し向けるのも、考えようによってはまた一興であろう。彼はやる気まんまんとまではいかなくとも、この任務を愉しむことにしていた。
 会議は、夜遅くまで続いた。
 
 月の輝く夜、アスリアはそっと枕元に立って、美子の無邪気な寝顔を見おろした。
 それからすらりと廊下に出て行く。その気配に気付いて、太郎丸が顔をあげ、急いでついてきて言った。
「どこへ行くんだい」
「どこって……」
「きみは、異世界から来たんだろう。帰る家もないのに、どうしてここを出ていくんだい」
「でも、出て行かなくちゃ」
「――どうして」
 太郎丸の、賢そうな黒い眸を見ているうちに、アスリアは涙が出てくるのを感じた。
「私さえ、いなくなればいいんだ」
 アスリアは呟いた。
「私がいれば、美子さんは妖魔につきまとわれて、きっと残酷に殺されてしまうわ。そんなこと、させるわけにはいかないじゃない」
「そんなことないよ」
 太郎丸は、ふうっと鼻から息を吹き出して、少し怒ったように言った。
「あのノガルって人、案外弱そうだったじゃないか。ぼくときみとで、あんな奴やっつけちゃえばいいんだよ」
「太郎丸さん。あなたは外見で人を判断しているわ。ノガル・アンガスがどんなに危険な妖魔か、あなたには判っていない」
 禁じられたホムンクルスの術をつかって現れた妖魔について、王女の知っていることはほとんど無かった。それだけに、どんな危険が美子や太郎丸を襲うのか、予測がつかないのである。たとえアスリアが、十二年くらいしか生きてなくて、この世界やティトスのこと、魔法のことなどなにも判っていないにしても、ここの人たちが巻き込まれるのは確実なのだ。放っておくことは彼女には出来ない。
「妖魔はおそろしい種族なの、それだけは確かよ。詳しいことは知らないけど、とにかく油断しちゃダメ」
 太郎丸は、にこにこ笑って言った。
「だけど、あいつ、ぼくが噛みついたら逃げてったよ。また噛みついてやればいいじゃないか」
「ダメよ。今度はどんな手を使うか、判らないのよ。あなたたちを巻き込みたくない」
太郎丸は、あいかわらずにこにこして、
「それじゃ、あいつらの思惑通りじゃないか」
「――」
 アスリアはきょとんとなった。
「どういうこと?」
「いいかい」
 太郎丸は、立上がって、まるで名探偵が謎解きをする瞬間のようにもったいぶって話し始めた。右手をあごのところに持って行っている。考え深そうな演出をしているつもりらしい。こういう場面でなければ、結構ギャグな物腰である。
「こういう会話がされていることくらい、あいつらには判っているはずじゃないか。テレビアニメや戦隊もののパターンだもの、なんかこう、敵にとって予測がつきやすいんだよね。もう少し、ひねりがほしいところだよ」
「――そうなの?」
 アスリアは目を丸くした。テレビアニメだの戦隊ものだの、よく判らない言葉が出てきているが、それよりもひねりのない作戦という言葉には、驚くと言うよりあきれるようなのんきさを感じてしまう。
「そんな作戦では、この先あの妖魔と戦っていけるはずがない。せっかくお父さんの仇を取れるチャンスなのに、逃げるなんて卑怯だと思わないかい」
 太郎丸は言ってのけた。
 アスリアは、少し微笑した。
「私が逃げる以外に、なにか方法があるって言うの」
「さあ、わかんないな。ないかもしれない」
 太郎丸は、きっぱりと言った。
「だけど、なんとかなる」
 その自信はどこから来るのか。アスリアは、あっけにとられて、根拠のない自信に裏打ちされている太郎丸の顔をじっと見つめた。
「いいかい」
 太郎丸は噛んで含めるように、
「きみが異世界から来たことを、美子さんは知らない。だけど、きみを助けてあげた、それだけであいつらにとっては美子さんを敵視する根拠になるだろう。きみがいなくなっても、美子さんの危険は去らないどころか、どこかにかくまったと思われて、拷問されるかも知れない。きみが美子さんと一緒に、あの妖魔と戦わなくちゃ」
 それは一理あるのだが、
「どうやって」
「さてそれだ」
 太郎丸は、打てば響くように答えた。
「妖魔について、何か知ってることはないのかい。どんな小さなことでもいいんだけど」
 アスリアは、頭をひねった。
「魔王軍についてなら、少しは……」
「魔王軍?」
「兄ぎみのサミュエルが、私を相手に剣の稽古をしてきたことがあったの」
 アスリアは、懐かしそうに言った。
「私はサルデス国一のレイピア使いだから、相手をしてあげるかわりに、今、敵はどんな連中なのか教えてって言ったの。父ぎみは全然教えてくれなかったけど、私、結構おてんばだったし」
 太郎丸はそれを聞いて、ちょっと笑った。
「おてんばっていうのは、そういう所で使う言葉じゃないような気がするけど、まあ、そうだね」
「魔王軍の弱点まではわからなかったけれど、魔将軍たちの名前は教えてくれたわ。ハガキム、ラミル、ゲハジっていうらしいの。それに今度判った、ルギドが個人的に使っている妖魔のノガル・アンガス。異世界に渡ってきても、毒を体内に宿さない体質だから、今度来るときも、あいつが来るに決まってるわ」
「魔将軍も、毒が怖くてここにこないのか」
「それもいつまで続くかしら……。妖魔はこころを読めるっていうから、私が解毒薬を飲んだことは、相手に知られてるに違いないわ。すでに、MF動物病院の人たちをマインド・コントロールして、解毒薬を手に入れるてるかもしれない」
 次に魔王軍がなにをするか。それを思うと背筋がぞっとするアスリアである。

(06)  猫の会議

 太郎丸の言うことは当たっている。アスリアは、悲しく思った。逃げ出してもおそらく、美子は残酷に殺されてしまうだろう。このままではだめだ。
「私は、どうしたらいいの?」
 アスリアは太郎丸に問いかけた。
「テレビで見たけど、猫は夜中に会議を開くんだってね。一度、出たらいいよ」
 太郎丸は助言した。
 そういうわけで、アスリアは、月の煌々と照り渡る、キョウチクトウの林に出向いていた。マイケルに会うためである。
キョウチクトウの林のそばは、今はあの『演歌』大音声がない。もう夜中の二時ぐらいだから当然だろう。太郎丸は心配してついてきてくれた。
 キョウチクトウの林では、すでに猫たちが集まって、今日の晩ご飯がなんだったか、というどうでもいい話で盛り上がっている。
「あれっ。アスリアちゃーん。どしたのー」
 マイケルが、のんきな声をはりあげた。
 その場の猫たち――ざっとみて十匹はいるだろう、月明かりに眸を青白く光らせて、こちらを眺めている姿は、どう表現を軟らかくしたところで、『新人歓迎』という雰囲気ではなかった。それに、ほんとうに彼らは猫なのだろうか。それぞれに、美しい服を着て、優雅に横になっている。ある者はティトス界では珍しいビロードを着ていた。頭のところに薄灰色の斑点がついた帽子をかぶっている男もいる。冬の真っ最中なので、みんな厚着をしているのだろう。それにしても、みんな上等な毛皮をしている。金持ちに飼われているのだろうか。
 アスリアは、三年後に社交界デビューするはずだったので、この地球とサルデスの社交界がどう違うのか、よく判っていなかった。乳母に教わったとおり、そっと頭を下げ、優雅に腰をかがめて、
「みなさん初めまして。アスリア・デ・ラ・ルシリアと申します」
 一礼した。会議に参加した猫の一人は、――アスリアには、黒い短い髪をちりちりに巻いて、灰色のスエードの服を着、意地悪そうに唇を歪めているおばさんに見える――立上がってこう言った。
「あんたが、ここに面倒を持ち込んだ張本人だね。あんたのおかげで、うちの旦那がひどく怯えてる。さっさと異世界に帰んな!」
 アスリアは、おもわず一歩退いた。
 深窓の令嬢である彼女は、面罵されたことがない。そもそも罵倒されるという状況に会ったことがなかったのだ。
「チュチュおばさん、なにもそこまで言わなくても」
太郎丸がとりなそうと口を挟んだが、
「これくらい言わないと、この厚かましい女には判りっこないんだよ!」
 意地悪おばさんが、きっぱり言い切った。 アスリアは、ちょっと考えてしまったが、
「女と認めてくださってありがとうございます」
 まずは、丁寧に礼をした。
「おっしゃるように、私のせいで、ここの人たちにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。そのことについては、言い訳することはいたしません」
「そうさ、あたりまえだわね」
 チュチュおばさんは、うなるように言った。
「そんなにいじめたものでもあるまい」
 老猫カイが、諭すように口を開いた。
「何を言おうとあたしの自由だろ」
 チュチュおばさんは、そっけなく言った。
「あのお、少しはアスリアさんの話を、聞いてあげてください」
 太郎丸は、おずおずと口を開いた。
「言い訳するつもりなら、お断り」
 ぴしゃりとチュチュおばさんは言った。
 それまで、ずっと黙っていた大きな男が、あくびをかみ殺した声で言った。
「アスリアちゃんとやらには悪いんだけどさあ、あたしら、あんたに協力する義務はないんだよね」
 がやがや。十匹の猫たちは、それぞれに頷き合っている。
「――義務はあると思います」
 アスリアは、必死で声をあげた。
「人間が奴隷化されたら、だれがあなたたちにエサをくれるんですか。それに魔王軍は、猫が大好きだと聞いてます。残らず食べられちゃいますよ」
「本当に?」
 目をむいてチュチュおばさんは言った。
「魔王軍って、なに。そもそも、アスリアちゃんは、どうして命を狙われてるの」
 ひとり、会話についていけないマイケルが、説明を求めた。
 アスリアは、息を吸い込んだ。
「事情を説明いたします。異次元の国サルデスで平和に暮らしていた私たちを、いきなり魔王軍が襲ってきたのです。兄と父王は殺され、【三人の偉大な魔法使い】の一人によって、私は猫に変えられました。そしてその魔法使いによって向こうの世界を脱出し、一番安全と思われている世界に、移送させられたんだと思います。ノガルが来たから、もう安全とは言えませんけれども」
「どうして魔王軍は、きみの命を狙ってるんだ」
 太郎丸は、不思議でならないらしい。
「それより、どうしてあなたにノガルの魔法が効かないのかが不思議です」
 アスリアは応じた。
「魔王軍は、人間を奴隷化するだけでなく、食料にするつもりです。猫のみなさん、私たちを助けてください」
 しかし、その演説を聴いても、一同の反応は鈍かった。
「人間がいなくったって、あたしらはなんとかやっていけるんじゃないのかねえ」
 先ほどの、大きな男が、顔をなで回しながらそう言った。
「ネズミをつかまえたり、雀やカモの子を食べたりさぁ」
「そうそう。キャットフードなんかより、生の肉の方が美味しいんじゃないの」
 チュチュおばさんも賛同する。
「でも、あったかいこたつや、ストーブなどはどうなるでしょう」
 アスリアは、必死になって言った。
「ここの人間を助けていただければ、お返しはきっといたします」
「世間知らずはこれだから困る」
 したり顔で大きな男は言った。
「あんたは異世界の王女かもしれんが、この世界ではなんの力も持ってやしない。俺たちの自由な時間を割いてまで、人間を助けるなんてばからしい」
 アスリアは、唇を噛みしめた。
「自由、自由ってさっきからなんですか」
 アスリアは、震える唇で言った。
「あなたたちは、自分さえよければそれでいいんですか」
「もう、よそう」
 太郎丸は、そっとアスリアの袖を引っ張った。
「いくら言っても、判るはずはないんだよ。他人のために働いたことなんか、彼らには一度もないんだから」
 そういう太郎丸の誇らしげな表情には、やりがいのある仕事を任された、プロの気品のようなものが浮かんでいる。
「あーあー、帰れ帰れ」
 大きな男は、めんどうくさそうに言った。
「他人のためになにかをするのなんて、考えただけでぞっとするね。俺たちは自由だ。なにをするのも勝手だろうが」
 アスリアは、目をこらしたまま、言った。
「――あなたたち、わたしを試しているんでしょう」
 はっと息を呑んで、太郎丸はアスリアを見つめた。思いも寄らない言葉であった。
「へー」
 大きな男はくすっと笑った。
「なんでそう思うんだ?」
アスリアは、顔をあげた。
「父ぎみは、亡くなる前にこう言いました。
『信じる気持ちがすべてを変える』って。だからわたしはあなたたちを信じます。これから、魔王軍と戦おうというわたしの勇気を、あなたたちが試してるんだって」
 大きな男は立上がった。口元は嘲るようにつりあがり、攻撃的な目つきで、しかも威嚇のために片手を振り上げている。犬歯がちらりと見えた。
「偉そうなことを言うじゃねえか。勇気だぁ? そんなものがおまえさんに、あるとでもいうのかい」
 太郎丸は、すっと身を乗り出すと、アスリアを背後にかばった。
「アスリアくん、耳をふさいだほうたいいみたいだね」
「ええっと」
 アスリアは、戸惑ったように言った。
「どうしてです? この人、自己紹介してくれるのかもしれないじゃないですか」
「こいつ、天然ボケだな」
 大男は爆笑して言った。
「悪かった、意地悪なこと言って。人間どもを思うとおりに動かす、あんな不気味なヤツを見て、みんな、ちょっとビビってるんだよ」
「みんな?」
 チュチュおばさんは、不機嫌につぶやいた。
「ありがとう、協力してくださるんですね」
 アスリアは無邪気な口調で華やいだ声を出した。
「どうかな。俺たちにとっては、人間がどうなろうと知ったこっちゃないんだけど」
 弁慶が言うと、今まで黙っていた年寄り猫が、おもむろに立上がって言った。
「みなのもの。それでは、評決をとろうではないか」
「ええーっ」
 十匹の猫たちは、声を張り上げた。そして、そんな面倒なことするの、とか、俺たちには関係のない話じゃないかとか、口々に言って反対している。
「評決って?」
 アスリアは、太郎丸に訊ねた。
「色々意見を出し合ったから、こんどは多数決で物事を決めていこうっていうことだよ。これだけ反対意見が多いから、きみの味方になってくれる人がいるかどうかは微妙なところだね」
 太郎丸が教えた。
「みんなで意見を出し合う、ですか」
 初めて聞く言葉だってので、アスリアは少し感銘を受けたように、猫たちを眺めた。
「色んな人のアイデアを出し合うのって、面白そうですね。素敵なアイデアも出るでしょうし、そうなったら自分たちのやることに方向性が出てきやすいんじゃありませんか」
「アイデアが出過ぎて、なかなか話がきまらないんだよね」
 太郎丸はあくびをかみ殺した。
「飽きっぽい人には、退屈きわまりないやり方だよ」
「そうなんですか」
 アスリアは、考え深げにうなずいた。
 人間を助けることが、彼らのためにもなるということを伝えれば、きっと猫たちも助けてくれる。なんとかしなくては。
「とにかく、あの妖魔のマインド・コントロールを打ち破れば、この人たちも戦いに参加してくれるんじゃないかしら」
「それはそうかもしれないけど、どうやってMF動物病院の人々を正気に戻すつもりなんだい。なにか方法を考えているのかな」
 太郎丸は、大人びた口調で言った。
「なにかって……」
 アスリアは、困惑してしまった。
「みたところ、きみには強運がついて回っているようだけど、ほかに特技や特殊技能ががあるようには見えないよ。王女という高貴な血筋のほかに、たとえば、先祖が魔女の使い魔だったとか、悪魔と交流があるとか、超能力を持ってるとか、そういう特殊な才能があるというわけでもなさそうだしね」
太郎丸は、おだやかに言った。
「意志あるところに道ありって言うでしょう」
 アスリアはおぼつかなげに言った。
「他人がなにかを決めるのを待っているだけなんて、王女としてあるまじき行動だわ。なにか行動しなくては」
「そうか」
 太郎丸は、ちょこんと首を振った。
「たしかにそれはそうだけど、もうちょっと考えてから行動しなくちゃ。無謀と勇気を取り違えてはいけない。お父さんもきっと、無茶だと言って止めると思うよ」
 好きな人が、自分のために一生懸命説得してくれる。そのことだけで、アスリアは充分すぎる気がした。この先自分が殺される羽目になったとしても、彼がこうして気にかけてくれるのなら、それでいいとまで思った。
 そのとき、マイケルがふらりと現れて言った。
「アスリアちゃーん。ぼくたち、結局魔王軍と戦うことにしたよー。よかったねえ」
振り返ると、マイケルの背後に老人が立っていた。 彼は言った。
「協力はしよう。ただし、条件がある」

「遠い昔――わしがまだ子供だった頃、おじいさんから聞いた話がある。先祖代々伝わっている伝説でな」
「どんな伝説ですか」
「数ある異世界の中には、猫の天国という世界があるという。そこでは、またたびは食べ放題、こたつやストーブは独占し放題だとか。
 人間どもを助けたら、そこへわしらを連れていって欲しい」
 アスリアは、じっと老人を眺めた。
「――しかし、毒はどうなるのです」
「もちろん、解毒薬を持って行くに決まっとる。おぬしが用意するのだ」
「……」
 アスリアは肩を落とした。それしか方法がなさそうだ。
「判りました。それでは、サルデス王国の唯一の王位継承者として、あなたがたを、猫の天国に連れていくことを誓います」
「うむ。頼むぞ」
 そのやりとりを、不満そうに見ている猫がいた。
チュチュおばさんであった。

(7) ゲハジとハガシム

ゲハジは、動悸を抑えるのに必死だった。こんなものは怖くない。妖魔でさえ行き来しているのだ。死霊使いが怖がってどうする。
 しかし、異世界「地球」に通じる魔法陣の中で、ゲハジは恐怖にうちふるえていた。異世界移動にともなう毒が怖いのではない――ゲハジは自分に言い聞かせた――この任務を失敗させる可能性を考えてしまうから、それで体が震えるのだ。そうに決まってる。
「解毒薬は、MF動物病院の人々が持っています。私も同行させていただきますので、比較的簡単に手に入ると思います」
 ノガルが言うと、ルギドは指先を突っ立てて叫んだ。
「差し出口を叩くな!」
 ノガルは再びため息をついて、契約主であるルギドを振りあおいだ。ルギドは完璧に、ノガルを悩ませるのが楽しくてならないらしい。なにかいい案を出せば、
「そのくらいわたしにも思いついたわ」
 と言うし、失敗すれば
「おぬしのような無能な妖魔はおらぬ」
 とかさにかかってくる。ルギドほど扱いにくい契約者もいなかった。
 ハガシムは、先ほどからにやにやしている。彼は、ゲハジが怯えていることに気付いていたので、久々に優位に立てると思ったのである。頭の良さではゲハジに負けるが、度胸の点ではハガシムに勝てるものはいなかった。そしてもちろん、ノガルがルギドにいびられているのも楽しみの一つだ。ハガシムは、久々にストレスが発散されるのを感じた。
「MF動物病院の人々は、ノガルの言うなりです。異世界では心強い味方のはず。連れていったほうがよろしいのではありませんか」
 ジョカルがそっとフォローしている。
 ルギドは赤い瞳でジョカルをじろりと見つめたが、しかたなさそうに頷いて、
「よかろう。だが、ゲハジよ、こいつが足手まといになるようなら、さっさとティトス界に追い出すのだ」
「御意」
 ゲハジは一礼した。
 呪文の詠唱が終わった。魔法陣がぼおっと青白く光る。異世界渡りの準備ができたのだ。
「今度こそ、アスリアを残虐に殺して見せまする」
 その声と同時に、ゲハジとノガルは魔法陣から消えていた。

 MF動物病院の人々にとっては、今日はそれほど忙しい日ではなかった。ストレスでグルーミングし続け、毛が抜けて禿げになった猫とか、飼い主に耳を噛まれた犬とか、変わったところでは捨てられたイグアナの足が、折れていたので連れてきたというのもあった。コウ先生と勇馬先生は、てきぱきと仕事をこなしている。
 その病院のすぐ前に、虹色のフラクタル模様が渦巻きのように広がった。ノガルとゲハジが現れたのだ。
「うっ、うぐっ」
 ゲハジは、腹を押さえてうずくまった。
「げ、解毒薬を……」
「すぐお持ちします」
 ノガルはゲハジを、煉瓦の花壇に座らせて、自分は病院の中に入っていった。そして、ちょっと気圧されたように、耳を噛まれた犬の面倒をみている病院の人々を眺めた。
 ――こんなときに邪魔するのは、やはり気が進まないが、ゲハジの命がかかってる。しかたあるまい。
「すみません――」
 ノガルは声をかけた。
「いらっしゃい」
 羊子が現れて、たちまち顔を曇らせた。
「あの猫、また引き取りに来られたんですか?」
「ええ、まあ」
 ノガルははっきりしない口調で言った。
「美子ちゃんがかわいそうだわ。どうして、あの子にあげないんですか」
 羊子は、眉を寄せて怒ったように言った。
「あげたいのは山々なんですが」
 ノガルは、落ち着いた口調でじっと羊子を見つめた。
「わたしにも契約というものがありましてね」
 羊子は、吸い込まれるように、ノガルを見つめた。ノガルは平気で見つめ返す。すでにマインド・コントロールしておいたのだから、彼女に異論があっても結局は彼の思い通りにするしかないのだ。
「それより、ねこいらずの解毒薬をいただきたいのです」
 ノガルは言った。
「またあの猫、毒を飲んだの?」
 羊子はかぶりを振った。
「あなたには参るわね。判ったわ、それじゃ取ってくるから」
 羊子はぶつくさ言いながら、奥に引っ込んで、それからすぐ戻ってきて言った。
「ちょうどこれでお薬が切れちゃったわ。今度入荷するのは三週間後だから、また用があったら三週間後にね」
 お金いらないから、と錠剤とペットボトルの水を渡してくれる。実に素直な性格だな、とノガルは思った。
 キョウチクトウの林に戻ると、ゲハジは地面に食べ物ばかりではなく胃液まで吐いて、真っ青な顔で横たわっていた。
「さ、これを」
 ゲハジに錠剤と水を飲ませて、彼はため息ついた。契約を早く終わらせて、兄の行方をさがさねばならないのだが、かわいそうな女の子の命を奪うという任務は、自然と辛くなる。そんなことのために契約を交わしたわけではなかった。しかし、約束は約束だ。違反すれば、兄を捜し出す手段は、もはやない。
「た、助かった」
 ゲハジは、しゃがれ声で言うと、膝をついて起きあがった。いや、起きあがろうとした。腹がつかえて体が起こせない。
「もう少し、ゆっくりしていたらどうです」
 ノガルは言ったが、
「そんな時間はない。アスリアの居所をつきとめて、できるだけ残酷な方法で、殺してしまわねばならんのだ」
 ゲハジはでっぷりしたお腹を揺らして、両手をついた。どうしても立てないらしい。
「おまえ、先に行け。美子から、例の情報を聞き出しておくんだぞ」
 判りました、と言うとノガルは、後も振り返らずにその場を立ち去った。

 美子の家には、太郎丸がいる。顔を覚えられているので、うかうかと訪問することはできないだろうと思い、ノガルは窓から中を覗き込んだ。美子の家は、南側に大きなアルミサッシのある一軒家で、どこにでもありそうな、普通の家だ。
 美子は車いすの上で、アスリアに頬をつけて、にこにこ笑っているところだ。
「家族が増えるのって素敵!」
 ――あの子もかわいそうに……。
 不憫に思ったが、こころを鬼にすることにした。
 アスリアをかばう美子にも、苦しんでもらおう……ルギドはそう言ったのである。

(8) 死霊使いの陰謀(パート1)

 太郎丸は、今昼寝をしている途中らしい。美子はしきりとアスリアに、
「今日は、外に出歩いてネズミとかつかまえてくる?」
 とか、
「お姉ちゃんの職場に行っちゃ駄目よ。病院は普通、動物は不可なんだから」
 とか言っている。
 ノガルはこつこつ、と窓を叩いた。美子が振り返って、ノガルに気付いた。
 そして、凍り付いたようにその眸を見つめている。ノガルは、自分が彼女の心を操っていたことを思い出して、ため息をついた。苦しませるのは好きではないので、このままアスリアを渡すよう説得したかった。だが、口に出したのはこういう言葉だけだ。
「美子さん、窓を開けて」
 犬はまだ眠っている。昨日夜更かししたのだろう。ノガルはじっと美子を見つめてもう一度、静かに言った。
「美子さん、開けてください」
 美子は、ノガルを見つめながら、ゆっくりと頷いた。車いすをぎこちなく動かすと、窓のそばに近づき、がたがたと窓を開けた。
「どうしたの。こんなところから顔を出すなんて、泥棒みたいね」
 くすくす笑っている。アスリアは、毛を逆立てて警戒した。
「大丈夫。今はあなたを殺すつもりはありません。いつでもできますからね」
 ノガルは、アスリアにだけ聞こえる小さな声で言った。それから改めて、美子のほうに向き直ると、
「美子さん、お父様は、どこで行方不明になられたのですか」
 美子は、眉を寄せた。
「もう、捜索も打ち切られてるから、聞いても無駄だと思うけど」
「わたしの質問に答えなさい」
 ノガルは青い眸に力を込めた。美子は思わず身震いした。
 アスリアには判っている。今、美子さんのこころの中に、なにか異質なものが入り込んできたことを。その「なにか」が寒気を発しているのだ。その異質なものは、美子さんの弱い部分を優しく愛撫し、従えとささやいている……。その声に、抵抗することは誰にも出来ない。太郎丸は別だが。
 美子はすでに、疑問を持ったり、いぶかしがったりする気持ちを失っている。アスリアはぞっとして、再び尻尾の毛が全部逆立つのを感じた。美子は、平坦な口調で言った。
「ここから五十分くらいいった、新潟の山の中にあるわ。地図取ってくる」
 車いすをえっちらおっちら動かして、ライディング・ディスクのほうに向かう美子の膝からひらりと飛び降りると、アスリアは言った。
「どういうつもりなの」
「あのコはわたしのいいなりです。あなたにはどうすることもできない」
 ノガルは言った。
「解放して、って言っても、無理なんでしょうね」
「わたしも契約に縛られてる身なので……」
 ノガルがぼそぼそと言っていると、美子が戻ってきて言った。
「この地図判りにくいけど、上越新幹線の近くで三十分で行けるところって言ったら、新潟のタクシーでもすぐわかるから」
「タクシー」
ノガルは言いかけて、
「ああ、判りました。御用車ですな」
 アスリアは、反発を感じた。妖魔については、【偉大なる魔法使い】に習ったことがあるのだ。彼らは心が読めるのだと。
「――あなた心が読めるんだったら、わざわざ美子さんに個人的なことを、質問することないでしょ! さっさと墓なり地獄なりに行けばいいじゃないの」
「内親王殿下。わたしは表層意識しか読めないんですよ。わたしは相手のこころの、その時、その瞬間に浮かんだ思考しか読めないんです。ごくたまに深層心理を読み取って、コントロールに使うこともありますが。ああ、ありがとうございます」
 地図をさしだす美子に礼を言うと、ノガルはじっと美子を見つめた。
「地図は後でお返しします」
「判ったわ」
 そのまま窓を閉めて、ノガルは立ち去った。
アスリアは、太郎丸を振り返った。眠っていると思っていたのが、いまは目を開いている。ずっと狸寝入りをして、会話を聞いていたのだ。窓は太郎丸が吠えついても、届かない高さにある。烈しく吠えつく性格ではなかったので、ひとまずおとなしく会話を聞いていたのだろう。
「どうするつもりなのかな」
 太郎丸は、不思議そうにつぶやいている。
「ノガルは危険な男よ。美子さんになにかしかけてくるつもりなんだわ――なにしろ、異世界渡りでたった一人、毒など平気な男なんだし」
 アスリアはイラただしさのあまり自分の背中をグルーミングしてしまった。そうしておいてからはっとなった。私は猫という現実になじみはじめている。猫という事実を受け入れ始めている。
 王女としての自分より、猫としての自分の方が、しっくり感じられてしまう。
 敵を倒すよりも、今、美子さんの飼い猫でいることの方が、私には大切。
 堕ちたものだわ。ルギドはそこまで考えて、私を猫にしたのだろうか。だとしたら、なんという悪知恵の持ち主だろう! そのうえ美子さんまでコントロールして。私にはどうすることもできないのかしら。
「老猫カイのところへ行ってくるわ」
 アスリアは、にこにこと笑って自分を抱きしめてくれる美子から、身をふりほどいて太郎丸に言った。
「気をつけて……」
 太郎丸は、心配そうに見送ってくれた。

話を聞くと、老猫はしかつめらしく言った。
「その妖魔の話は、わしも聞いたことがある」
「えっ、それはいつ、どこで……」
 マイケルは、珍しいことに、烈しい好奇心で訊ねた。
「わしのひいおじいさんの子供のころというから、だいたい百年前か。魔女の使い魔と名乗る雄猫とそのひいおじいさんとが、話をしたことがあったそうじゃ。その使い魔のご主人の魔女がは、三百年前――つまり、今から言うと四百年前に、妖魔を呼び出す儀式をしたのだそうじゃ。その際に使った宝石が、えーと、なんじゃったかな、えん……えんなんとかとか」
「エンチャント・ジュエル!」
 アスリアは、はじかれたように飛び上がった。
「私が人間に戻れる力を持つ、唯一の宝石です!」
「へえ〜」
 マイケルは、かりかりと頬を掻きながら、
「それって、動物を人間に出来るの?」
「さあ、それはなんとも言えんがの」
 カイはなぞめいた笑みを浮かべた。
「そのエンチャント・ジュエルというのは、どういう働きをするんでしょうか」
 アスリアは丁寧に訊ねた。
「知らんが、ノガル・アンガスといえば妖魔のなかでも、ぬきんでた才能を持っているということを聞いたことがある。気をつけほうがいいじゃろう。すぐ美子さんのところに戻ったほうがいい」
 その言葉を聞くなり、アスリアは、あの
 ――危険、危険、危険!
 という予知の警告を、頭の中で響くのを聞いた。アスリアは、内臓がねじれるような思いで美子の家の方に向き直った。
「あ、話はまだ終わってないんじゃ……」
 マイケルの、のんきな声を背後に聞きながら、彼女は駆けだしていた――美子の家に向かって。

 彼女がいつも開いている窓の中に入ると同時に、来客を告げるベルの音がした。
「だれか来ることになってるの」
 アスリアは、緊張した声で太郎丸に言った。警告の声は、頭痛がするほどになっている。
「あけてくれ、パパだよ!」
 ドアの向こうで声が響いた。
 美子はぱっと顔を輝かせた。
「――パパ!」
 そのまま、車いすを押して、玄関に向かおうとするので、太郎丸が前に立ちふさがって叫んだ。
「美子さん、ダメだ! あなたの父ぎみは、亡くなった筈でしょう?」
 しかし、美子にはその声は、犬の吠え声にしか聞こえない。
「開けてくれ、美子。パパに顔を見せてくれ」
 優しい口調だ。美子は太郎丸に命じて、扉を開けようとした。だが、太郎丸は命令を無視して、ダメです、ダメですと叫ぶだけである。しびれをきかせて、美子は自分で扉を開けた。
 扉の向こうには、一人の男が立っている。グレーの背広に、横に撫で付けた黒い髪。ちょっと小太りの、ハンサムな顔だ。
「お父さん!]
美子は叫んで、彼の胸に抱きついた。
「そ、そんな筈はありません」
 太郎丸は、すっかりうろたえて、父親の周りを、ふらりと歩き回り、上から下まで検分した。
「息をしていない」
 太郎丸は、ぞっとしたようにつぶやいた。
「体温も感じられない。この人、生きてるのかな」
 その声と同時に、父親は後ろを振り向いて言った。
「雪の中で立往生していたパパを、この人が街中まで案内してくれたんだ。それで戻ってくることが出来たんだ。心配駆けてご免よ。
 そうそう、この人の、名前はゲハジ……としか名乗ってくれないんだよ」
 ゲハジは、背後から現れた。小錦のように太り、シミだらけの顔はぎとぎと脂にまみれ、吐く息は死魚のようだ。わずかにのこっている髪の毛はぱさぱさと広がっており、目はぎょりとしていて、率直に言ってハンサムとはとても言えなかった。
「よお、アスリア」
 玄関に現れたその「ゲハジ」は、アスリアを見るなり、抜け残っている歯をむき出しにして笑った。
「ルギドさまが、よろしく言ってたぜ」
 アスリアは、息が詰まるほど驚いた。
「ルギド!」
「そうさ。魔王ルギド。聞いたことあるだろ」
 アスリアは、一歩退いた。ゲハジ。この男は、もしかして、「あの」死霊使いゲハジなのだろうか。死人を一時的に生き返らせ、自由にコントロールする魔力を持った、頭の切れる魔将軍――。
 だとしたら、この「父親」というのは。
 美子が、ゲハジを奇妙な目つきで見ている。「おにいさん、猫としゃべってる」
 おにいさん、という雰囲気ではない。むしろビール樽のお化けという方が当たっているのではないか、とアスリアは思ったが、口には出さない。
「美子。いいかい、時間がない。聞きなさい。パパはね、もうここには帰ってこれないんだよ」
 父親は、悲しそうに言った。
「え、どうして」
 美子は手を合わせた。
「勝手に死んだことにしちゃったから、それで怒ってるの? 生きてるって信じてなかったから、それでつむじを曲げてるの? だとしたら、ほんとうにごめんなさい。何度でも謝るわ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「いや、美子。そうじゃない。パパはもう、死んでるんだ。きみの家にずっと住むことはできない」
 父は、おだやかに言った。美子はすっと息を吸い込み、驚きで目を見張った。
「このゲハジさんの力を借りて、一時的にこの世に存在してるだけなんだ。お前にお別れと、お願いを言いに来たんだ」
「お別れ……」
 美子は、わっと泣き出した。
「そんなの、そんなのないわ! 帰ってきたと思ってたのに、お別れなんてしたくない!」「泣かないで」
 父親は、優しく美子の頭をなでた。
「死は新しい世界への扉だ。お前も時期が来たら、いずれはこの世界からお別れをしなくてはならなくなる。悲しまないで。向こうの世界でまた会えるから……」
 美子はひとしきり泣きじゃくり、父親の宥めも、諭しも、思いやりも拒否していたが、やがて事実を受け入れ、静かになった。
「お父さん。時間だ」
 ゲハジは冷たく言った。
「美子」
 父親は、そっと冷たい指で、美子の手に触れた。
「私からのお願いだ。この白い猫は、棄てなさい。この猫がいると、きみは不幸になる。この猫のことが気掛かりで、パパはあの世から戻ってきたんだよ」
 アスリアは、雷に打たれたように、ぴんと尻尾を立てた。ゲハジは、おおっぴらににやにや笑っている。美子の目は、今までにないくらい大きくなっていた。
「モンテンギュントが……?」
「本当の名前は、アスリア・デ・ラ・ルシリア」
 ゲハジは言った。
「主人を必ず不幸にする、怖ろしい猫なのだよ」
「ウソだ!」
 太郎丸は、はじかれたように叫んだ。
「アスリアちゃんは、そんなコじゃない!」
 アスリアは、がんがんなる頭を抱えて、床に力なく横たわった。
 美子に心理的圧力を加える。成功しても失敗しても、美子は傷つくだろう。大事な父親からの遺言を、ずっと悩み続けるのだ。
 なんて卑劣な。アスリアは、はじめてルギドに烈しい怒りを感じた。

(9)につづく