黒猫の末裔
BUTAPENN


(1)

 ボストン出身の雑誌編集者エドガー・アラン・ポーの手によって、ある死刑囚の告白手記が「黒猫」という題で「フィラデルフィア・サタデー・イヴニング・ポスト」誌1843年8月19日号の一面に掲載されたことは、多くの人の知るところである。
 だが、あれは心のねじくれた犯罪者の一方的な自己弁明に過ぎぬ。もう一方の当事者たるわたしが口を閉ざしたままでは、真実という名の溶けやすい砂糖菓子は、永遠にその姿を消してしまうだろう。
 当事者――。そう、わたしこそは、壁の中に死体とともに塗りこめられた、あの有名な黒猫なのである。

 すべての事情を説明するためには、わたしが喧騒の酒場の片隅で、酒樽の上に寝そべっていたあの日のことから始めるのがよいだろう。
 わたしはそれまで、どこにでもいる普通の黒い猫だった。「黒猫は魔女の化身」という広く一般に流布する迷信のため、子猫の時分に飼い主から捨てられたわたしは、あちこちの酒場の裏戸や窓からもぐりこみ、シガーの煙る屋内の暖かさと床に落ちた大小の食べかすによって一息つくのが、長年の習慣となっていた。
 ところがある日、とある酒場にいた折に、たちまち口論が始まり、酔客のひとりの投げたグラスが割れて、わたしに当たり、その傷のために左眼を二度と開くことができなくなってしまった。
 それ自体は不幸なできごとであったが、結果はまことに幸運だったというほかない。酒場の主人は気のいい男で、片目を失ったわたしに良心の呵責を感じたのか、それ以来、酒場に住み着くことを黙認してくれたのだ。
 私はラム酒の大樽の上に陣取り、毎日を過ごしていた。暖かい居場所と台所の屑を与えられ、身体もまるまると肥え太った。
 それで終わったのなら、わたしは平凡だが満足な余生を送った猫となり、こうして世界中で記憶せらるることもなかっただろう。
 ところがある日、わたしの全身を激痛がかけ巡ったのだ。
 それは、なんと言うべきだろう。日食のもたらす闇が春のうららかな草原を覆うがごとき、足元で一瞬のうちにぽっかりと地獄に続く大穴が穿たれたごとき、そんな恐怖と絶望、狂気と孤独。
 わが黒猫の一族が「魔女の化身」と忌み嫌われるには、あながち理由がないわけではない。我々には、不思議な力があるのだ。それは「感応」と呼ばれ、一族のひとりが自分の思いを同族の誰かに事細かに伝達することができる能力。
 日常の平穏な時は、それらの能力は使われずじまいになることが多いが、筆舌に尽くしがたい経験であればあるほど、それは圧倒的な現実となり、とめどなき奔流となる。
 そのときわたしが味わったのが、その力であった。同じ町に住む左目を失った黒猫同士が、互いの魂を共鳴し共振させたといえば、この不思議な作用がおわかりいただけるだろうか。
 わたしに伝わってきたのは、死を目前とした同族の苦悶のうめきだった。それも、ひとりの男の手によって残虐の限りを尽くされた死である。わたしの全身の毛は逆立ち、あまりの苦しさに酒場の床にのたうちまわり、開いている方の目から涙がぽろぽろと流れ出た。
 そして残ったのは、脳髄を血の一色に塗り替えられたような、不条理への憤り。
 そう、まさに不条理だ。
 なぜ、己(おれ)が殺されなければならぬ。なぜ、己を殺した人間が罰せられもせずに、のうのうと生き続けることができる。
 なぜ、人間は万物の霊長と称しながら、何の咎もない生き物をかくも気まぐれにかくも無残に殺すことができる。
 死の使いの訪れた後も消えることのない哀れな同族の怨念を、わたしは深く、深く胸に刻みつけた。
 そのためだろうか。もともとわたしの胸には、黒に一点の白絵の具を落としたごとき斑点模様があった。それがそのとき以来、成長を始めたのだ。
 数日もすると、それは絞首台の縄の形としか言いようのないものになっていった。

 ある夜、ひとりの男が酒場のドアをくぐって入ってきたとき、わたしの直感が告げた。あの男だ。あれが、わが同胞を木に吊るしたのだ。
 男は弱々しく善良そうな風貌にもかかわらず、いかにも酒の魔力に取り憑かれた目をしていた。その濁った目が、店隅のラム酒樽の上にいるわたしの上で焦点を合わせたとき、明らかな驚愕に見開いた。自分が数ヶ月前に殺した猫とうりふたつの黒猫。
 男はふらふらとわたしのもとに歩み寄ってきたので、わたしは喉からごろごろと機嫌のよい音を立て、柔らかい毛並みを彼の手の甲に擦りつけてみせた。
 彼は酒場の主人に、これは誰の猫なのか、買い取りたいのがと訊ねた。
 このいまいましくも狡い男は、罪の意識をまぎらわすための方策を思いついたのだ。死んだ黒猫にそっくりなわたしを飼って可愛がることで、猫を殺したことはないと自らを信じ込ませようとしたのだ。酒場の主人は、そんな猫は知らないとそっけなく答えた。もちろんそう言わせたのは、このわたしだった。
 男が酒場から家に戻るときには、わたしはぴったりと後を追い、ときおり立ち止まっては振り返る男に媚を売るような鳴き声を上げた。男はそのたびに目を細めてわたしの頭を撫でた。
 計画どおり、わたしはその日から男の家で飼われることになった。

 このとき誰が知ろうか。わが黒猫の一族の、人間に対する数十世代に及ぶ復讐は、まだ始まったばかりだった。

           参考文献: E・A・ポー「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社



(2)

 男の家に着いたとき、わたしは何年も馴染んだ飼い猫のごとく、暖炉前の肘掛け椅子にぴょんと飛び乗り、椅子の腕で安らいでみせた。
 男の細君はわたしをひとめ見て、たいそう喜んだようだった。
 数月前まで住んでいた家では、――女はわたしの背中をゆっくり撫ぜながらそう話しかけた――、犬や猿や金魚、たくさんの動物を飼っていたのよ。そしておまえにそっくりな年老いたプルートォという名前の黒猫も。
 その家は、突然の火事で焼けてしまい、動物たちもいなくなったと女は悲しそうに言った。もちろんその火事とは、悲惨な死を遂げた我が同胞が、神の御前で男の罪状をつまびらかに述べ、正しい審きが下されたことによるものだろうとわたしは確信する。
 したがって彼ら夫婦は今、あばら家としか呼べないような粗末な家に住んでいたが、そのわびしさの中で、細君の糖蜜のような髪、内面からでる麗しさはいっそう輝きを放っていた。
 彼女は、つつましい食料庫の中身が許すかぎりのせいいっぱいのご馳走をもって、わたしを歓待してくれた。
 そしてその夜は、ぼろ布を細く撚り合わせて編んだラグをわたしの寝床として用意してくれたのだ。なんとそれは、生まれて初めて味わう暖かい夜だったろう。
 翌日も彼女は、じゃれつくわたしをお気に入りの玩具のように可愛がった。
「あら、おまえって、よく見たら片目がないのね。本当にプルートォのようだわ」
 それを聞いたとたん、それまで肘掛け椅子の上で微笑みすら浮かべてわたしたちを見ていた男の表情が、さっと変わった。
 すごい剣幕で近づくと、まじまじとわたしを見て、喉の奥から苦悶のうめきを上げた。
 酒場の煤けたランプの明かりの中でも、田舎の暗い夜道でも、わたしの損なわれた目のことは、今の今まで気づかなかったに違いない。
 男はその瞬間から明らかにわたしを避け始めた。
 わたしに慈愛をそそぐことで自分の罪を帳消しにしたいという男の目論見は、無残にも砕かれたのだ。亡き猫にうりふたつなわたしを手元に置くことは、ますます自分の罪を思い出させる破目になったのだ。
 男がわたしを遠ざけようとすればするほど、わたしはわざと男を好いているふりをして、すり寄った。座っていれば膝によじ登り、歩けばその足元にまとわりつくという几帳面さで、男から片時も離れなかった。
 男はだんだんと、精神を弱らせていった。特に、日ごとに成長を続ける、いまやはっきりと絞首台を連想させる私の胸の白毛に気づいてからは、恐怖に怯えた目でわたしを見るようになった。
 男は、その苛立ちをアルコールで晴らし、アルコールのもたらす悪しき害毒を、細君に対する癇癪としてぶつけていた。
 心根の優しい抵抗もできぬ女を、口をきわめて罵倒し、ものを投げつける。
 おお、それは、なんと忌まわしい、目をそむけるような光景であったことか。たおやかな天使が酷薄な悪魔のもとにおいて虐げられているとしか言えぬ光景。わたしは一族から受け継いだ復讐心を、いよいよ自らのものとして募らせた。
 夜中に寝台の上にのぼると、呪いをこめた熱い息を男の顔にふきかけ、最後の砦である安らかな眠りさえ奪ったのだった。

 台所の奥の床板の一部を跳ね上げると、このぼろ家には不釣合いなほど広く頑丈な地下室が設えられていた。
 嵐の前触れのような雲のたれこめる薄暗いある日、男とその細君は、用事のためふたりで地下への階段を降りていった。
 わたしは、どこか楽しい場所へ連れて行ってもらえる期待に胸はずませる幼児のように、男の後ろから足元に組みついた。そして、もろともに階段から転げ落ちる寸前となった。
 案の定、男は怒り狂った。地下室の壁に無造作に立てかけてあった斧を掴んで、わたしの脳天にふりかざした。
「あなた!」
 とっさに細君が悲鳴をあげ、その細い腕で男の手をとめようとした。
「邪魔をするな!」
 悪鬼のように目を吊り上げた男は、その怒りのおもむくまま、その斧を振り下ろす先を自分の妻の身体と定めてしまった。
 哀れな女はその糖蜜のような髪を血に染め、声もあげずにその場に崩れ落ちて、事切れた。
 男はわずか数秒のあいだは呆然としていたが、その後の行動は迅速で緻密だった。
 飾りだけの暖炉になっている壁のでっぱりに目をつけ、その部分の煉瓦を取り外すと、裏のせまい空洞に死体を立たせるようにして押し込んだ。そして元通りに煉瓦を積むと、慎重に漆喰を塗りなおしたのだった。
 それから男は家中わたしを探し回った。ミュウミュウという鳴き真似をしながら、天井裏から庭まで探し回った。見つけたら、すぐさま心置きなくわたしを殺すつもりだったのだろう。
 わたしはどこにも見つかるはずがなかった。この真っ暗な穴の中 ――たった今、自分が慎重に工作した壁のその後ろ―― まさに細君の遺体とともにわたしは壁に塗りこめられていたのだから!
 彼が必死に作業をしているあいだ、わたしは素早くもぐりこんだのだ。埃及(えじぷと)の女王の墓に殉死する忠臣のごとくに、死体のかたわらに寄り添っていた。彼女はなんと、女王のように美しかったことだろう。傷口にこびりついた血が髪を汚し、ハシバミ色の瞳はもう開くことはなく、その愛らしい唇は二度とわたしを呼ぶことはなかったが。
 ほどなく、生ける者たちの騒ぎが地下の穴倉まで聞こえてくるようになった。
 以前奉公していた黒人の召使の女が律儀にも、ときどき落ちぶれたこの家を訪れるのだが、「奥様がいない」と騒ぎ出したのだ。多くの足音がどやどやと家中の床を踏み鳴らし、家具を動かし、ひとりの女性の行方を示すものがありはしないかと捜索を始めた。数日すると、地下室にも数人の警官らしき一隊が降りてきた。
 彼らは丹念に地下室を調べたが、男の偽装はまことに巧みで、警察官と言えども壁に塗りこめられた死体を発見することは、とうとうできなかった。
 男は得意満面だった。狂気じみた、というより何かに取り憑かれたような有頂天の声音で、階段を上がろうとしている警官にしきりにしゃべりかけた。
「もう、お帰りですか、皆さん。無駄骨だったようで残念でしたな。次にここにいらっしゃるときは、もっと楽しいご用件だと嬉しいですな。そして、もう少し礼儀を重んじられるように願いたいものです。
……ところで皆さん、専門家の目から見て、どうです? この家はたいそう頑丈にできているでしょう?」
 そうして、煉瓦の壁をがんと固いもので叩く音が聞こえた。まさしく死体とわたしのいる真正面の壁を。
 わたしはそれまで、空気の通り道のない狭い穴の中で、死体の吐き出すアンモニアと二酸化炭素に朦朧とし、ほとんど死にかかっていたのだ。だが、そのガンという大きな音で、はっきりと、これ以上ないくらい鮮明に意識を取り戻した。
 わたしは、ありったけの力をふりしぼって、鳴き声を上げた。最初は弱々しく、しかし次第に大きく、強く、高く、小さな体のすべてを共鳴させて、長々と鳴き続けた。
『ワタシタチハ、ココニ、イル』と。
 たちまち男たちの怒号が湧き起こり、数分のうちにまぶしいほどのランプの明かりとともに、煉瓦を取り除く何本もの腕が現れた。
 わたしは彼女の遺体の頭の上に乗ると、ひときわ大きく真っ赤な口を開けて鳴いた。まるで、女王の入城を告げ知らせる喇叭手のように。
 地下室の隅では、呆けた顔で座り込んだあの殺人犯が、わたしを地獄の悪魔でも見るような恐怖の眼差しで、ただ見つめていた。

 数ヶ月後。わたしは墓の前にたたずんでいた。
 妻殺しの罪であの男は逮捕され、ポーという男が週刊紙に発表したとおり、その半年後に絞首台に送られた。同胞の恨みを晴らしたわたしは、重い病のためまもなく永い眠りにつこうとしている。
 眠りにつける、はずだった。
 だが、目を閉じようとするたびに、瞼の裏が燃えさかる火となってわたしを苦しめるのだ。
 美しい、糖蜜のような髪をした女性だった。一族の復讐の使命を身に帯びながらも、彼女の手で背中を撫ぜられる日々はなんと安らかで幸せに満ちていたことか。それを、あの非情な男が粉々に打ち砕いた。
 そしてわたしは、彼女が夫に殺されることを知りながら、敢えてそれを復讐のために利用したのだ!
 落ち葉がはらはらと、彼女の眠る墓を隠さんと舞い落ちる。
 わたしはそれを払いのけながら、天を突く叫びを上げた。地を這ううめきを漏らした。
 罪なき生命を、いともたやすく殺める人間たち。わたしに愛することと失うことを教えた、罪深き人間たち。
 彼らはこの世界に存在すべきではないのだ。
 行き場のない憎悪が、体から抜け出し、空中をぐるぐるとうねりだす。
 わが一族たちよ。黒猫の末裔よ。この怒りを、この哀しみを、この憎悪を受け取ってくれ。
 わたしは力尽きて、墓の冷たい石の上に身を横たえた。
 落ち葉はやがて、墓とともにわたしの体さえも埋め尽くした。


 石畳の上を、一匹の猫がゆっくりと歩んでいる。
 漆黒の毛。爛々と光る片目。そして、絞首台の形をした胸の白い模様。

 1888年。わたしはロンドンにいた。

参考文献: エドガー・アラン・ポー「黒猫・黄金虫」  新潮文庫、新潮社

(3)につづく