黒猫の末裔
BUTAPENN


(3)

 1888年。わたしはロンドンの夜の石畳の上をゆっくりと歩いていた。煙突の群れから野放図に吐き出される煤煙が、ガス灯の明かりをくぐもったものにし、わたしの爛々と光る片目も、漆黒の毛に沈む胸の絞首台の形の模様も、闇というヴェールの下に隠した。
 もうあれから幾歳のときを生きているだろう。
 同じ姿形の黒猫の中に次々と意識を伝えつつ、わたしは人間に対して抱いた原初の恨みを受け継いできた。
 やがて、何世代も経るうちに、わたしには不思議な力が宿り始めた。
 もともと黒猫だけが持っている同族同士の心を伝え合う『感応』の力に、長い歳月が磨きをかけ、わたしはついに他の生物を操る術を覚えたのだ。最初は小汚い排水溝のネズミ。人間に媚を売る犬ども。そして、とうとう万物の霊長と称する人間さえも、意のままにできるようになった。
 わたしはすでに、猫とは呼べない存在、醜悪な怪物と化しているのかもしれなかった。
 それでもよかった。あの糖蜜色の髪をした美しい女性を無残に殺した、人間というさらに醜悪な怪物。それをひとりでも多くこの世から葬り去ることができるなら、わたしはどんな悪魔になってもかまわない。

 濡れた石畳の上で、ふと足を止めた。
 向こうからガラガラと車輪の音も不気味に、一台の馬車がやってくる。
「殺したくない。だが殺さねばならぬのか」
 逡巡する心の声が、わたしの耳まで届く。
「止まれ」
 とわたしは命じた。愚鈍な顔をした御者が、人形のようにぎくしゃくと手綱を引いた。
 黒塗りの馬車の中から、ひとりの身なりのよい紳士が降りてきた。彼もまた、小鳥が羽をひるがえすより早く、わたしの術の虜に成り果てていく。
「誰を殺そうというのか?」
 彼は、重々しい声で答えた。
「卑しき街の娼婦だ。わたしの仕えるやんごとなきお方の、ご令孫であられる若君のおかした不名誉な醜聞をもみ消すため、彼女を始末するようにおおせつかった。だが、仮にも私は医師。たかが娼婦とは言え、罪のない者を殺すことができようか」
「殺せ」
 真っ赤な口を大きく開け、わたしは命じた。
「罪のない者など、この世にはおらぬ。人はみな同じように生まれつき罪深いのだ」
 医師はゆっくりとうなずくと、馬車の中に戻っていく。やがて馬車は走り出した。
 翌日、エリザベスという名前の第三の犠牲者が生まれたことを報じる号外が、ロンドン中の街角で舞っていた。

 大都市ロンドンの場末の街イーストエンドにおいて、わずか2ヶ月のあいだに起こった5人の娼婦連続殺人事件。ロンドン警視庁「スコットランドヤード」は長い間、必死の捜査を続けた。幾人かの容疑者が浮かび上がったが、いずれも犯人と特定する決め手に欠けた。
 その中には、もちろんあの夜の医師、ヴィクトリア女王の御典医、サー・ウィリアム・ガルも含まれていた。もちろん彼が守ろうとした、女王の孫である同性愛者クラレンス公アルバートも捜査線上に浮かび上がったが、いずれも巧妙な工作により容疑者からはずされた。
 また、ロシア皇帝が送り込んだスパイと目される、ロシア人医師アレクザンダー・ペダチェンコが第一容疑者とされた時期もある。
 そして、革のエプロンが遺留品として発見されたことから、当時イーストエンドに宗教迫害を逃れて移民してきたポーランド系ユダヤ人の靴職人や肉屋が疑惑の的となった。そのひとりがコミンスキーという名の男だった。
 警察の内部にも容疑者はいた。当時ヨーロッパやアメリカで広がっていた上流階級の秘密組織『フリーメイソン』のメンバーだった、警察医ルウェリン。
 たびたびの犯行声明、数々の遺留品、そして膨大な捜査網にも関わらず、犯人はついに捕まらなかった。
 それもそのはず。警察は犯人をひとりと決め付けて追求したのだ。だが、真実は違う。
 5人の死体に5人の容疑者。なぜ誰も気づかないのだろう。これは連続殺人ではなく、それぞれが別個の殺人事件だったのだ。
 それではなぜ、ひとつの連続事件のように見えたのか。
 それは、ひとりの舞台監督がいたから。そう、黒猫の末裔であるこのわたしが、ひとりひとりの殺人実行犯に事細かく殺人手順を示し、ひとつの事件へと組み上げた黒幕だったからだ。

 このまま、第6、第7の殺人を続けようとしていたわたしは、結局それを果たせなかった。11月のある日、舗道を歩いていて、事件の続報を社に持ち帰ろうとする新聞記者の乗る馬車に轢き殺されてしまったのだ。
 こうして、イギリス国民を恐怖の底に突き落とした「切り裂きジャック」事件は唐突に、人知れず幕を下ろした。

 一匹の黒猫がビルの外の鉄製の非常階段をゆっくりと登っている。
 漆黒の毛。爛々と光る片目。そして、絞首台の形をした胸の白い模様。
 1963年。わたしはダラスにいた。


   参考サイト: 
http://britannia.cool.ne.jp/index.html 「 Cheeky's Garden 英国党宣言」



(4)

 1963年11月22日。わたしはダラス市内のとある煉瓦色のビルの非常階段をゆっくりと登っていた。
 テキサス教科書倉庫ビルの6階。天井の高い広い部屋にはダンボールがいくつも積み上げてあり、引き上げ窓のそばにはひとりの青年が立っている。
「やあ、猫ちゃん」
 彼は微笑むと、持っていたものを無造作に左手に持ち替え、近寄っていったわたしの首、ちょうど黒毛に白い絞首台の模様のあるあたりを右手でくすぐった。
 わたしが「にゃあ」と鳴くと、彼は微笑みを消して、ふたたび手の中の物をしっかりと両手で握り直した。
 彼の持つもの。それはイタリア製6.8ミリのライフル銃であった。
 青年の名は、リー・ハーベイ・オズワルドと言った。

 これまでの百年余り、世界各地で転生を繰り返してきた黒猫の末裔であるわたしは、今ふたたびアメリカ合衆国に生を受けた。
 人間に強い憎しみを抱き、何世代もかけて人間を意のままに操るすべを手に入れたわたしの目標とは、人間の手により人間を葬り去ることだった。
 だが、しょせんひとりの人間が殺せる数は知れている。進まぬ復讐に、次第にわたしは焦燥に駆られた。
 もっと大量に人間を殺戮する方法を考えなければ。
 そして、それは戦争を起こさせることだと気づいたのだ。第一次、第二次世界大戦に続く、いやそれよりもっと壊滅的な戦争を。
 時おりしも、60年代初頭の米ソの冷戦がまっさかりの時代であった。わたしは首都ワシントンに出没し、ホワイトハウスやペンタゴン、CIAなどの高官たちを操った。
 人の殺意や邪まな心を数倍にも増幅するわたしの「感応」能力は、もちろん以前より格段に発達していた。だが、それがなかったとしても、ほんの少し後押しするだけで、政府高官たちは戦争の準備に喜んで突き進んだだろう。
 ふたつの大戦争を経たばかりなのに、そしていまや「核」というみずからを滅ぼしかねない恐ろしい破壊力を手に入れたというのに、人間というのは何と愚かな生き物だろう。
 ところが、わたしのこの計画に障害が生じた。
 ホワイトハウスの最高指導者の中に、戦争を回避しようとする者が現れたのだ。
 それが、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領だった。

 その前年、キューバでソ連の援助によってミサイル基地が建設されていることが明らかになったとき、ケネディ大統領は、おおかたの者が主張した直接攻撃を避け、海上封鎖という手段を使ってソ連の物資搬入を阻んだ。後世「キューバ危機」と呼ばれた事件である。
 そのとき以来、アメリカのケネディとソ連のフルシチョフのあいだに平和共存への歩み寄りが生まれた。これはわたしにとって、まことに都合の悪いことであった。それは、CIAや軍需産業は言うに及ばず、南北に分かれて争っていたベトナムに軍事介入しようと目論んでいた「彼ら」にも腹立たしいことであったろう。
 ケネディはなんと、2ヶ月前のテレビのインタビューでこう発言したのだ。
「90マイルしか離れていないキューバに対する軍事行動をも正当化できない我々が、9000マイルも離れた東南アジアでの戦争を、いったいどのようにして正当化出来るのだろうか」と。
 ケネディは邪魔だ。
 それが私の結論だった。

 オズワルドはライフル銃に弾をこめながら、窓の外のパレードの様子をちらりと見た。
 彼は教科書倉庫会社に勤めながら、CIAとも密接なかかわりを持っていた。対共産圏スパイとして活動していたこともある男だが、実際にはお人よしの役立たずだった。
 やがて、大統領夫妻を乗せたオープンカーは、予定では通るはずだったメイン通りを反れ、ヒューストン通りの方に曲がってきた。もちろんわたしが働きかけて、計画を変更させたのだ。
 オズワルドは真正面から近づいてくる大統領車を見ると、子どもじみた仕草で窓の外に向けてライフルを構え、何発か撃つ真似をした。そしてダンボールの陰に銃を隠すと、そこからゆうゆうと階段を降りて行った。
 わたしは大きな声で「にゃあ」と鳴くと、その後を追った。
 彼が2階の食堂に入り、自動販売機でコーラを買っていると、警官が飛び込んできた。
「こいつは?」
「うちの職員です」
 いっしょにいた会社のマネージャーが答えたので、警官はさらに奥へ走っていった。もちろん彼も、わたしが呼び寄せたのだ。
 事務所にいた女性が「大変よっ。大統領が撃たれたんですって!」と叫んだが、オズワルドは「ふうん」と答えただけだった。
 階上に向かった警官は、やがて応援を呼び、ビルを捜索し、6階の窓際でオズワルドの置いたライフルを発見するだろう。だが彼は平然としていた。
 たとえ容疑者として捕まっても、調べが進めば、彼の身体からは銃を発砲した硝煙反応が出ないことも、とっくに通り過ぎたパレードをこの位置から狙うには木が邪魔して撃てないことも、大統領を殺した弾が後方からではなく前方から発射されたものであることも、ダラス市警察の調べが進めばわかるはずであった。もしそうならなくても、彼はCIAの圧力によってすぐに釈放されることが決まっていたのだ。
 それが当初から、CIAとオズワルドが交わした約束だった。彼は初動捜査を混乱させる役――、本物の狙撃者に現場の人間たちの目を向けさせないための役割を果たしていたに過ぎないのだから。
 その後、青年は街中に出て行き、劇場の中で逮捕された。そしてダラス警察署に連行され、二日間にわたって取調べを受けた。私はこっそり後をつけて一部始終を見ていた。すぐに釈放されるだろうとたかをくくっていたオズワルドは、自分にまったく身に覚えのない警官殺しという尾ひれまでついていることを知り、次第に青ざめた。彼は呆然としてつぶやいた、「僕は囮だったんだ」と。
 刑務所への護送途中に、彼が大勢のカメラマンの焚くフラッシュの中で、ひとりの暴漢に射殺されたとき、わたしは驚愕したりはしなかった。わたしの指示によるものではないが、予想はしていた。それほどまでに大統領暗殺を行った黒幕たちは、自己保身に熱心だったということだろう。
 ひとりでも多くの人間が滅びるのは喜ぶべきことだったが、わたしは、わたしの首筋をくすぐったときの彼のお人よしの笑顔を思い浮かべ、チクリと心が痛むのを感じた。
 だが、それもわずかな間だった。大混乱する殺人現場。数百人の報道関係者たちが殺到する地下駐車場において、わたしは逃げ遅れ、人間たちの足に蹴り殺されてしまったのだ。
 だが、この身体の死など些細なことに過ぎない。人類を滅亡させるという崇高な悲願のためには。
 ケネディ大統領の死以降、アメリカはベトナム戦争へとまっしぐらに突き進んでいったのだ。

 それからまた数十年が経った。
 わたしの目論見に反し、共産主義勢力は雪崩を起こして瓦解し、東西の冷戦は終結を迎えた。
 戦争の火種はユーゴや中東でくすぶってはいるが、あのキューバ危機のときのような核戦争への脅威は次第に潰えていく。
 わたしは絶望した。このままでは復讐は終わらず、わたしは永久に転生し続けなければならない。この失敗の原因は自分が猫であることだ。猫の短い寿命。移動することも思いのままにならぬ小さな身体。人間を操ることのできる能力にも限りがある。
 人間にならなければ。ついに、わたしはそう決意した。黒猫の末裔であるこの身体を捨て、憎むべき人間の身体を手に入れ、人間となって直接彼らに復讐するのだ。

 漆黒の長い髪。片方の眼を海賊風のアイパッチで隠し、レザージャケットをはだけた胸には絞首台の形をした刺青。大勢の女が恍惚としたまなざしを送ってくる。
 1998年。わたしは東京を人間の男として歩いていた。


   参考サイト: 
http://www.maedafamily.com/index.htm 「JFK 栄光と悲劇」



(5)

 1998年。俺は東京を歩いていた。
 漆黒の長い髪。片方の眼を海賊風のアイパッチで隠し、レザージャケットをはだけた胸には絞首台の形をした刺青。大勢の東洋の女たちが恍惚としたまなざしを送ってくる。
「あれ、ジェイじゃない?」
「まさか、偽者よ。本物が日本に来てたら、もっとニュースで大騒ぎになるわよ」
 彼女らのとまどいを察して、俺は笑った。
 そのためにわざわざ、極秘で来日しているのだ。
 ハラジュクと呼ばれる街のメインストリートに着いた。予定通り、大型のトラックがハザードランプを点滅させながら舗道に横付けしている。
 俺が近づくと、キャビンの銀色に光る外壁が突然三方向に開け放たれた。
 同時に巨大なアンプがドラムやベースの音を流し始める。
 俺は、即席のステージの上にひらりと飛び乗った。
「『ブラック・キャッツ』よ!」
「うそぉ! なんでこんなところに?」
 悲鳴ともつかぬ歓声をあげた男女が、雪崩のように押し寄せてくる。
 メンバーから投げられたマイクをつかむと、俺は歌い始めた。
『信頼に裏切りを
 愛に憎悪を』
「きゃあああっ」
「ジェイィ―ッ」
 俺の歌声は、地を這い、人々にまとわりつき、そして魂を爆発させて空中に四散した。
『慈しみに妬みを
 俺が人生で与えられたものは
 汚物ばかりだった』
 あるいは絶叫、あるいはむせび泣き。そして何人もが、ただ苦痛に顔をゆがめて失神する。
 突然のストリートライブジャックに、ハラジュクの町は異様な興奮に包まれた。

 その夜、ホテルの最上階のスイートで数人の女と戯れていた俺に、従者のひとりが報告した。
「大成功です、ジェイさま」
「英語を解せぬ東洋人にも、俺の歌の力は通用するわけか」
「そのとおりでございます」
「……それで、今日は何人が死んだ?」
「あのライブのあとすぐに、会場近くのビルから3人が飛び降りました。さらに今夜までに、それぞれの場所で数十人が」
 俺は、満足して喉を鳴らした。

 俺の名前、正確に言えばこの身体の名前は、ジェロームと言った。みんなは単にジェイと呼ぶ。元はニューヨークの下町に住む、才能のないロックシンガーだったこの男が、たった二年で世界的なグループ『ブラック・キャッツ』のヴォーカルにのしあがったのは、俺の一族に代々伝わる「感応」の力のおかげだ。
 そう、俺の正体は黒猫。
 ドラッグの打ち過ぎで植物状態となったジェイの身体の中に入り込み、人間として生きている。
 黒猫の末裔として一族の憎悪を受け継いできた俺は、あるときは人間を陰からあやつって人を殺させ、またあるときは戦争を望むように人間どもを巧みに焚きつけた。そうして150年以上も人間に復讐を続けているが、人間の数はいっこうに減らない。そこで究極の手段として、この方法を選んだのだ。
 転生を繰り返すうちにますます強さを増した感応の力を利用して、人間を支配する。歌を通して、絶望と孤独、狂気と憎悪の世界に人々を引きずり落とす。
 俺の歌を聴いた人間どもは、生きる力をなくし、愛することも命を産み出すこともあきらめて、やがてみずからの命を絶つようになった。
 数十年のうちに人間どもは激減し、いつしか滅亡するだろう。
 欧米を中心に活動してきた俺は、アジアへの進出の拠点として日本を選んだ。ここから韓国へ、中国へ、東南アジアへ。部屋の壁に貼られた世界地図に髑髏のマークが増え広がっていく。その前で俺は乾杯してやるのだ。

「東京ドームを来月の3日間おさえろ。金はいくら使ってもかまわん」
「でも、日本の警察がコンサートに介入するという情報があります。欧米での異常な自殺率が『ブラック・キャッツ』のせいだという噂を聞きつけたようです」
「警察の連中は、いつものように俺が洗脳する。おまえは言われたことだけしていろ」
 俺は受話器を叩きつけ、いらいらとVIPルームを出た。どいつもこいつも無能なヤツばかりだ。
 一階のロビーに降りたところで、ひとりの女が行く手に立ちふさがった。
 白人の尼僧。まだ若い。
「『ブラック・キャッツ』のジェイさんですね。聖マリアの恩寵修道会のシスター・カタリナです。いきなりの無礼をお許しください」
 丁寧に、頭を下げる。
「あなたをずっと追いかけてまいりました。私たち修道会は、あなたの歌を聞いた人々に起こった悲惨なできごとについて調べたのです。自殺、殺人、心の病。偶然では片付けられない確率です」
 キッとにらみつけるその眼には、頑なな信仰が宿っている。感応の力すら寄せつけない、俺のもっとも苦手とするもの。
「なぜ、あのような絶望に満ちた詞を歌われるのですか。あなたの声には人を惹きつける力がある。すばらしい神の賜物なのです。どうしてもっと世界に、人々に、希望を与えるような歌を歌ってくださらないのですか」
「人間にはそんな価値はないからだよ」
 俺は、彼女の心のこもった説教をせせら笑った。
「この世界には希望など必要ない。俺の150年間見てきたものは、信頼に裏切りを、愛に憎悪を、慈しみに妬みを返す人間どもの姿ばかりだった。こんな種族はさっさと滅びたほうがいいんだ」
「150年……。あなたはいったい……」
「女を押さえつけろ。それから焼きごてを持ってこい」
 左右に侍っていた従者たちが、ただちに命令に従った。
 俺は上半身に着ていたものを脱ぎ、パンツのジッパーも降ろして、尼僧に近づいた。
「何をなさるのです」
 女はようやく俺のしようとしていることに気づいて、青ざめた。
「わたしは他の修道僧たちといっしょに来ています。それに、警察がホテルの外に」
「それがどうしたんだ。そいつらが助けに来てくれるとでも?」
 俺は低い笑いを漏らした。
「そのうっとうしい服は邪魔だよ。お嬢さん」
 ロビーにいた数百人の客たちは、俺の術にかかり、ぼんやりと見ているだけ。
 男たちに仰向けに転がされ、布に覆われていた彼女の糖蜜色の髪がぱさりと床に落ちる。シスター・カタリナの絶叫が響き渡る中、俺は彼女の左の白い乳房に、絞首台の形の焼きごてを押し当てた。

 東京ドームは今日も満員の観客の熱狂が渦巻いていた。
 楽屋まで伝わる空気の震動を通してそれを感じながらも、俺の憂鬱な気分は晴れることがなかった。
 この二日間、口にイヤな味が広がり、コンサートの成功を祝う美酒にも酔えない。
 東京の数万の人間たちが確実に死に向かっているというのに。
 俺の視界から、あの尼僧が最後に俺を見たときの、悲しげなハシバミ色の瞳が焼きついて離れないのだ。
 彼女はあれからすぐ修道会を辞め、東京の下町の小さな教会でひっそりと暮らし始めたという。
 もう彼女には、俺を告発する手段も気力もないはずだ。すべて思い通りになった。それなのに、なぜ。
 耳にこびりついているのは、彼女が最後につぶやいたことば。
「あなたに神のお慈悲がありますように。主はあなたのために十字架にかかられたのです」
 自分の身体を悪魔の焼印で犯した男に向かって言えることばなのか。
 神の慈悲とはなんだ。人間とはあれほど罪深い醜悪な存在なのに、なお一方でそんなものを信じられるのか。
「ジェイ、時間です」
 うながされて黒いステージ衣装を羽織り、楽屋を出て歩き出す。
 舞台の強烈な黄色い光が前方から、長く暗い廊下に差し込んでいるのを見たとき、俺は驚愕して立ち止まった。
 糖蜜色の髪。
 なぜ忘れていたのだろう。あの女(ひと)のことを。黒猫だった俺をかばって夫に殺され、壁の中に塗り込められたあの細君のことを。
 あのハシバミ色の瞳は。優しい面立ちは。シスター・カタリナは、まるで彼女に生き写しだった。
 気がつくと、いつものようにスポットライトが俺に当たり、手にはマイクを持っていた。
 五万六千の愚かな人間どもが、呪いに満ちた俺の歌を聴こうと身を乗り出している。
『忘れるな、憎悪を』
 第1フレーズをマイクにささやいたとたんに、歓声がとどろきとなって会場を揺るがす。
『忘れるな、破壊を
 忘れるな、絶望を』
 ベースが狂気のように弦をかき鳴らし、ドラムが鼓膜を破らんばかりにスティックを叩きつける。
 観客たちは、自分の人生に起きたすべての悪夢を思い出し、うめき、叫ぶ。
 俺は150年間、彼女の微笑みを奪ったあの男を呪い続けた。
 そして同時に、彼女を一族の復讐のために利用した自分自身をも呪い続けてきた。人間を憎むことで、彼女の思い出から逃げようとしていたのだ。
『忘れるな、忘れてはいけない』
 悲劇をか、復讐をか? そうではない。
『彼女のやさしい微笑を
 握りしめた手の暖かさを』
 観客は静まり返った。
 俺はマイクを持っていた手をだらりと下げ、うつろな片方の目で夜空を見上げた。

 俺は、本当は――彼女を愛してしまったのだ。

 コンサートが終わり、大声を上げて殺到するファンを押しのけつつ、楽屋口から外に出ようとしていた。
 ひとりの日本人少女が、周囲の者が止める間もなく、俺のふところにもぐりこんだ。
「ジェイ、他の女性のことを歌うなんて赦さない!」
 焼けつくような痛みに腹をまさぐると、固いナイフが差し入れられていた。
「他の女性に心を奪われるなんて赦さない! あなたは私のものなんだから」
 狂気の目だった。俺の歌で理性を狂わされた者の目。
 皮肉な運命に声もなく笑いながら、俺はゆっくりと地面に倒れていった。

「シスター・カタリナ、またね〜」
「ハイ、マタ来週ネ」
 質素な服に身を包んだ尼僧は、英会話を習いに来ていた子どもたちを見送ると、裏口の戸を閉めようとした。そしてふと、ゴミ箱のかたわらに隠れるようにしてのぞいている一匹の猫を見つけた。
「あら、可愛い」
 手招きすると、猫はおずおずと近寄る。立ち去ろうとして、また戻ってくる。
 彼女はしゃがみこみ、いとしげに頭を撫でた。
「つやつやしたきれいな黒い毛。どこかの飼い猫かしら。
……でも、なんだか寂しそうな目をしているのね、あなた」
 無邪気な微笑の中に悲しみの影が宿る。手が左胸のあたりにそっと置かれた。
「あなたを見ていると、ひとりの人のことを思い出す。寂しそうな目をしていたわ、彼も。もうこの世にはいないのだけれど」
 黒猫はにゃあと鳴いた。
「慰めてくれるの。ありがとう。おいで、中で温かいミルクをあげるわ」
 猫を腕の中に抱き上げて、扉を閉めようとした尼僧は、ふと驚きの声をあげた。
「あら、あなた首のところに白い模様があるのね。
なんて不思議。だって、なんだか……なんだか、主の十字架のように見えるわ」

                          完