第4章「想い出はタンパク質のせいですか」

(1)



 私は、人の名前を覚えるのが苦手だ。特に外国人のカタカナ名。
 だから、この屋敷にご奉公に上がった最初は、レオン・ニコラエヴィチ・ミハイロフだとか、イアニス・ゲオルギウ・ヴァラスとか言われて、死ぬほど苦労した。ちなみに、海外のミステリー小説なんかは、登場人物の一覧表がないと読めない。
 そんな私でも、すぐにわかったことがある。
 『レオニード』は、たぶんロシア名であること。そして、ご主人さまの『レオン』という名前と、とてもよく似ていること――。
「もう、歴史の歯車を止めることはできません」
 来栖さんは、なおも悲痛な声で訴えた。「あなたがお立ちくださらなければ……この国もやがて」
 『やがて』? そんなところで言葉を切らないでくださいよ。
 日本は、やがて破産するんですか沈没するんですか爆発するんですか。どうなるんです、来栖さん。
 ご主人さまは、右手をワインで濡らしたまま、席を立ち上がられた。
 うなだれておられるので、私の角度から表情は見えない。真っ黒な長い髪が青白い頬にかかり、まるで、海の底に沈んでいる人のように見えた。
「……行く」
「はい?」
「今からルイのところに行く。支度をせよ」

 それは、歴史的瞬間だった。
 だって、百年のあいだ、この館の敷地から一歩も外へ出なかったご主人さまが、外出するとおっしゃったのだ。ポツダム宣言より、二・二六事件より前からの引きこもりを破ろうというのだ。大事件でなくてなんだろうか。
「承知しました。それではさっそくお支度を」
 それなのに来栖さんは、まるで日課の散歩とでも言わんばかりに、冷静に一礼した。
「あ、それから」
 あたふたして、ふたりの間に視線を往復させている私に、来栖さんは言った。
「榴果さん、あなたもついてきてください。わたしはハンドルを握りますので、車の乗り降りのお手伝いをするのは、あなたのお役目です」
「え、わ、私がですか」
「もし、伯爵さまが途中で動けなくなったら、担いで行ってくださいよ」
 からかうような口調に、レオンさまはイヤな顔をなさった。
「ルイに連絡は、もうついているのか」
「ここに戻る途中で、一応の打診はしておきました」
 当然のように、すまし顔で執事は答える。「お答えは、『待っている』とのことでした。ただし、病院の夜勤が入っているので、面会は明日の午後一時から四時の間までにしてほしいそうです」
「え、それって」
 私はすーっと青ざめた。それじゃあ、ご主人さまは昼の日中に外を出歩かなきゃならない!
「しかも、なんとも間の悪いことに明日は日曜日です」
「え、ということは?」
「その時間はちょうど、ホコテンなんですよ」
「ホコテン?」
「つまり、中央通りには車を乗り入れることはできません。万世橋の手前でお降ろししますので、そこから歩いていただかなければなりません」
「ま、まさか、その場所って」
 来栖さんは、意味ありげな薄い笑みを見せた。「秋葉原のど真ん中なんです」
 思わず、ご主人さまの表情をうかがってしまう。
 きっとご主人さまの脳裏に浮かんでいるのは、瓦屋根のしもたやが立ち並ぶ、明治時代ののどかな下町なのだろう。
 まさか、今の秋葉原が、大型電気店が立ち並ぶ高層ビルのあいだをたくさんの若者やら外国人観光客やらが練り歩く、熱気にあふれた日本屈指のハイテク文化の発信基地になっているだなんて、誰が思うだろう。
 しかも、そんな人ごみを、午後の日差しを浴びながら、車なしで歩いて行かなきゃならないなんて。
「ちょっと、待ってください」
 部屋を出て行く来栖さんを追いかけた。
「私も、お支度を手伝います」
「たいしたことはしませんよ。外出用のコートに軽くブラシをかけるくらいで」
「そんな軽装備でいいんですか。ご主人さまが太陽の真下を歩くんですよ。しかもアキバで」
 私は興奮して、言いつのった。「対ショック対閃光防御のゴーグルくらい装着なさらないと、ダメなんじゃないですか」
「いっそのこと、ダースベイダーのマスクという手もありますね」
 廊下を歩きながら、ふたりで言いたい放題だ。

 さっそく私たちは、ご主人さまの外出の用意を整えた。
 帽子は、UVカットのつば広帽から、カウボーイみたいなテンガロンハット、しぶいハンチング、かわいいキャスケットと、それをかぶっているご主人さまの姿を想像してキュンキュンしながら買い集めたが、結局、来栖さんの手によって全部ボツになって、無難な中折れ帽に落ち着いた。
 手は革の手袋、首にはストールを巻き、軽い黒のコートを羽織っていただく。
 翌日の夜明け、いつもならおやすみのお茶を飲む時刻に、カフェインたっぷりの濃いコーヒーをお入れした。固く鎧戸が降りた室内とは言え、太陽が空にある時刻にご主人さまが起きていらっしゃるのを見るのは初めてだ。
 昼前に、来栖さんの手によってお支度が始まった。
 軽食とお茶を乗せた盆を手に私がお部屋に入ると、来栖さんが持ち込んだ細長い姿見の前にご主人さまが立っていらした。
 白いプリーツシャツの襟に黒いベルベットのリボンタイを結び、ウェストには黒のカマーバンド。ブラックフォーマルのスラックスの腰から脚にかけての線は、ありえないほど長くて美しい。
 丁寧にくしけずられた髪は背中に垂らされている。
「榴果さん?」
「ごめんなさい……鼻血が出そうです」
 私はお盆をテーブルに置くと、よろよろと壁に背中をついて、両手で鼻を押さえた。
「ムダに出す血があるなら、伯爵さまに差し上げますよ」
 本気ともとれる冗談を口にしながら、来栖さんはご主人さまの背中から上着をかけ、あっという間に袖を通してしまった。主従の息の合った優雅な所作に、思わずため息がもれる。
「で、あなたは、侯爵家を訪れるのに、そんな服で行くのですか」
「そんな服で悪かったですね」
 さすがの私も、いつものコック服で行こうとは思わない。自分の持っている中で一番上等なワンピースを着てきたのだ。
 そりゃ、一般ピープルの上等など、たかが知れてるけれど、『そんな服』呼ばわりされる筋合いはない。
「こんなこともあろうかと思って、ちゃんと用意しておきました」
 来栖さんは、私が一生お付き合いはないだろうと思っていた高級ブティックの紙袋を突き出した。「これに着替えてください」
「わあっ、服だけでなく、おそろいの帽子や靴まである。これは私を借金で一生がんじがらめにしようという執事の陰謀ですか」
「これしきのことで、なにをおおげさな。経費で落としますから心配無用です」
 自室に戻って着替えると、これ以上望めないほど、ぴったりと体に合っていた。腹の立つことに、体のスリーサイズから靴のサイズまで、私は来栖さんにすべて調べあげられているらしい。
 濃いブルーの、フリルを多用したフェミニンなドレス。およそ私らしくない。これを着て、これからご主人さまといっしょに街を闊歩するのだ。
 恥ずかしさでいっぱいになりながら、おずおずと階下に降りると、来栖さんが玄関に向かうところだった。執事は普段から服装をぴしっと決めているから、外出に特別の準備など必要ない。
「榴果さん、車を回してきますので、もう少ししたら、伯爵さまを門のところまでお連れしてください」
「わかりました」
「そのドレス――とてもお似合いですよ」
「そんな皮肉げな薄笑い浮かべて、ほめられても、ぜんっぜん説得力ありません」
「残念ながら、真顔であなたを見るほどの余裕は、今のわたしにはありません」
 思わずバランスを失ってよろける私を残して、来栖さんはさっさと出て行った。
 何、今のセリフ。どういう意味。
 百年ぶりの外出を控えて来栖さんも、とても緊張してるんだということだけはわかる。私だけじゃなく。
 きっと、ご主人さまだって同じだろうと思う。私は深呼吸してから、お部屋をノックした。
「そろそろ時間です」
「ああ」
 レオンさまは、私になど目もくれずに、悠然と落ち着きはらって部屋を出て行かれる。軽く羽織っただけの黒いコートのすそが、その優雅な足さばきに合わせて、ひるがえった。
 玄関の扉をご自分で開け、ためらうことなく足を進める。夜の庭は幾度となく、ごいっしょに散歩したが、昼間の庭を歩くのは初めてだ。ざわざわと木々が鳴り騒いで、この館の主を驚いたように迎えた。
 前にも言ったとおり、ミハイロフ家の館の敷地内にいるかぎり、季節を感じることはない。不思議なことだが、広い庭は冬の酷寒も夏の炎暑も及ばず、いつも静かで、ほの暗く、ひんやりと涼しい。
 けれど、庭を抜けて敷地の境界までようやくたどりついたとき、魔法は途切れた。
 鉄製の門を開けたとたん、容赦なく暴力的な太陽が照りつけてきた。
 初夏のさわやかな陽光のはずなのに、まるで針のように痛みをともなって、容赦なく肌を刺す。眼球がえぐりとられそうなほどの、まぶしさ。息ができないほど全身を真綿のように包む白い閃光。
 陽に当たることが、こんなにも恐ろしいなんて、今まで感じたこともなかった。
 両手で顔を覆い、背中を海老のように折り曲げて、うずくまりそうになるのを、ようやく堪えた。
 そのとき、ぽんと頭に皮手袋の感触。
 おそるおそる指の間から覗くと、ご主人さまの瞳が、帽子のかげから私をじっと見下ろしていた。
「ご主人さま……、だ、だいじょうぶ……ですか」
「そなたのほうが、よほど大丈夫ではないように見えるが」
 素っ気なく答えて、道の向こうに視線を移される。胴長の黒いリムジンが猛スピードで走ってきて、門の前にキュッと音を立てて横付けした。
 来栖さんが左側の運転席から降りてきて、すばやく後部座席の扉を開けた。
 ご主人さまが乗り込むのを見届けて、私は助手席に収まった。
 陽光が遮断された車内。ほうっと長いため息をつく。
「私ったら、どうしちゃったんだろう」
「伯爵さまのおそばにいて、あまりにも気を配っていたために、一時的に、感覚が同調してしまったのではないでしょうか」
 来栖さんは、こともなげに言う。
「どうして、そんな現象が」
「さあ、愛の力というやつでしょう」
 私は、「げっ」と叫んだ。「私の言うセリフがないじゃないですか」
 来栖さんはハンドルをあやつりながら、笑いをこらえきれぬように肩をふるわせた。私もつられて、ふきだしてしまった。
 ご主人さまは、そしらぬ顔をして、目を閉じておられる。
 来栖さんのジョークのおかげで、さっきまでの悲壮感が消し飛び、いつものなごやかなムードに戻っている。
 窓の外を見ると、眠っているような街並みに、うららかな日射しが降り注いでいた。
 ほっと胸をなでおろす。一時はどうなるかと思った。
 私までが、太陽を恐れてどうする。今からご主人さまをお守りするのは、私だけだというのに。
 車は首都高速横羽線に乗り、首都方面へとひた走る。
 大師ジャンクションを通り過ぎ、いよいよ東京。両側にビルが林立する中を、灰色の蛇のように、どこまでも伸び続ける高速道路。高架や橋の下を通り抜け、トンネルをくぐり抜けるたびに光と陰が入れ替わる。
 ご主人さまは、めまぐるしい都会の景色のうつりかわりを、どんなふうに感じておられるのだろう。
 高層ビルの森を縫ってのろのろと走り、ようやく首都高速を降りて、片側四車線の大通りを行き、交差点でいくつか曲がったあと――私は、いつのまにか、うとうとしていたらしい。
「着きました」
 車が停まっていたのは、どこかの有料駐車場の入り口だった。「やはり、どこも満車で停めることができません。ここからは榴果さん、お願いします」
「どこですか、ここ」
「そこの交差点が万世橋です。左に曲がって高架をくぐってください」
 来栖さんは、一枚の紙を差し出した。「これが、指定された場所です」
 住所といっしょに、簡単な地図が描かれてある。中央通りが川のような二本線で表わされていて、その東側に面してバツ印。
「こんなビル街の真ん中に、お住まいなんですか。ルイさまは」
「いえ、会談の場所というだけで、お屋敷は別の場所にあります」
「え、どうして」
「ほら、早く降りてください。約束の時間に一秒でも遅れてはなりませんよ」
 遮光フィルムを張った車窓ごしに見上げると、真昼の白っぽい太陽の下で、色鮮やかな万世橋の交差点が一瞬、モノリスに囲まれた果てしない墓場に見えた。
 運転席にいたはずの来栖さんが、もう後部ドアを開け、深々と頭を下げている。私もあわてて、その横に並んだ。
 ビル街を渡ってきた乾いた風が、車から降りてこられたご主人さまの長い髪を揺らした。
 おそろしいほどの存在感に、歩道を歩いていた女性の幾人かが、はっと息を飲んだのがわかった。
「ご主人さま、出発しますよ」
 私たちは人の波に乗って、歩行者天国のエリアへと入って行った。
 さすがに、すごい人手だった。ざっと見渡したところ、パフォーマンスや露店はないが、あちこちの店の呼び込みの声がスピーカーを通して流れてくる。
 ご主人さまの様子をちらりとうかがったけれど、帽子の陰になって表情がよく見えない。「だいじょうぶですか」と訊きたいが、我慢した。そんな問いかけに返事する暇があったら、全神経を集中なさって、前に進むことだけを考えていたいだろう。
 吸血鬼にとって、陽の光は天敵。太陽を浴びても、決して真っ白な灰になるわけじゃないけれど、苦しいことには変わりない。
一族の人は、『太陽や昼、信仰、つまり光が象徴するすべてのものに対する恐怖』を持っておられると来栖さんは言っていた。ご主人さまは今、その恐怖に必死で耐えていらっしゃるのだ。
 ようやく総武本線の高架下に来て、日が遮られた。ほっと一息つくと、メイド姿の少女たちが、ビラを配ろうとわらわらとご主人さまに群がってきた。
 危険だ! この方は道を歩いているだけで、庭園灯が虫を吸い寄せるみたいに女性を吸い寄せてしまうのだ。
「はいはい。どいてどいて。ご主人さまに手を触れないでくださいねー」
 ポニーテールの少女たちは、「なんだ、同業者か」という目で私を見て、口をとがらして離れていった。
 私はメイドじゃなくて、コックなんだけどなあ。
 そんな騒ぎのさなかも、レオンさまはまったく無関心なそぶりで行く手を見ておられた。
「何をしている。行くぞ」
「あ、はい」
 メイドたちのため息を背に、私はあわてて後を追いかける。
 太陽に照らされた中央通りは、まるで果てしない大河のように見えた。一歩一歩踏みしめ、いつご主人さまがふらついても支えられるように注意をはらい、住所を書いたメモを手にようやく目指すビルについた。
 間口の狭いテナントビルの最上階。
 こんなところに、ルイ侯爵さまが待っておられるのか。一族の方々の会談場所には、全然似合わない。
 エレベータに乗り込み、ボタンを押すと、ふわりと浮遊感。
 ご主人さまは驚いて……ない。さすがにエレベータに乗ったことはあるよね。
 最上階で降りると、プレートも何もない扉がぽつんと待っていた。
 中には人の気配もない。そう言えば、エレベータ内の案内プレートも、この階は空白だった。
「まさか、空き室?」
 がちゃがちゃとノブを回そうとしたが、カギがかかっている。その拍子に、一枚の紙がはらりと落ちた。ドアのすきまにはさんであったのだろう。
 床から拾い上げた私は、首をひねった。さっぱり読めない。22年の人生で、顔文字でしか使った覚えのないキリル文字。
「ご主人さま。読めません」
 渡した文面に目を走らせたとたん、ご主人さまの眉が険しくなった。
「どうしたんです?」
「待ち合わせ場所を変えるとある」



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