第4章「想い出はタンパク質のせいですか」

(2)

「どこですか」
「主教会、東京復活大聖堂。時刻は一時間後」
「もしかして、ニコライ堂のことですか。神田の」
 一時間あるなら、秋葉原から神田駿河台まで歩けないことはない。普通なら余裕で行ける。けれど、陽光に痛み苛まれているご主人さまにとっては、過酷な旅路だ。
 しかも、そこが終点であるという保証はない。
 ニコライ堂に行ったら、また「○○へ行け」というメモが貼りつけてある。あげく、東京をぐるぐるたらい回しされて……。誘拐事件を扱った刑事ドラマで、よくあるやつ。
 あわてて、携帯を取り出したが、来栖さんに連絡がつかない。まだ駐車場を探して、うろうろしているんだろうか。
 なんだか、変。
 だいたい、そもそもは天羽侯爵のお屋敷に行くという話だったはずなのに、いつのまにか秋葉原のビルの空き室を指定された。もし急に変更があったなら、電話一本で済む話なのに、わざわざメモで次の行き先を指定される。
「くそ、ルイのやつ」
 つぶやいたご主人さまの顔を見上げると、口元が怒りにゆがんでいた。瞳が燐光を帯びたように見えた。
「あの日と同じ道をたどらせるつもりか」
「あの日?」
「行くぞ」
 ニコライ堂まで歩いて? 無理だ。来栖さんになんとか連絡を取って、もしダメなら、歩行者天国エリアを抜けたところで、タクシーを呼ぶとか。
 エレベータのボタンを押し、ドアの開くのを待ちかねるように乗り込んだ。
 その瞬間、体の片側に急激な重みを感じた。
 ご主人さまの体が力を失い、私に倒れかかっているのだ。
 とっさに両腕を伸ばし、脇の下に当てて支えようとしたが、バランスを崩して、背中がエレベータの壁に押しつけられる。
「ご主人さま!」
 叫んだが、返事はない。
 停まってしまった狭いエレベータの中で、私たちは壁にもたれて、じっと抱き合う格好になった。
「だ、だい……じょうぶ……ですか?」
 私は半泣きだった。
 やっぱり、無理をなさっていらしたのだ。百年間血を吸っていない、弱った体での外出。しかも真昼間の陽光を浴びて市街を歩くのは、ご主人さまにとって、あまりにも無理難題だったのだ。
 ひどいよ、ルイさま。そんなご主人さまを、まるでゲームみたいに連れまわすなんて。あんまりだ。
 ご主人さまの体が、ようやく身じろぎを始めた。意識を取り戻されたんだ。支えていた私の腕が少し軽くなった。
 でも、まだ私から離れようとはなさらない。肩で息をしておられる。ご自分の足で立つのがやっとという状態。
 私は、ご主人さまの頬にかかっている髪に手を触れ、壊れ物に触るように、そっとかきあげた。
「お願いです。私の血を飲んでください」
 レオンさまは間近から、焦点の定まらない瞳で私を見た。
「ご主人さまがご自分の意志で、血を採らないと決めたのはよく知っています。でも、これは緊急事態です。人間だって大けがをしたら、輸血をするじゃないですか! ……ルイさまも血が足りないとき、貴柳神父はそうしていました」
 私は、あのときの光景を思い出していた。血を吸われるのは、生命エネルギーを失うこと。苦痛に顔をゆがめながら、それでも貴柳神父は耐えていた。明らかにククラとは違い、自分の意志で命を差し出していた。
「私だって、そばで黙って見ていることなんかできないです。キバが痛くても我慢します。重症の貧血になっても、すぐに鉄分と葉酸たっぷりの食事で取り返します」
 ぞわりと体が冷たくなる。銀色の冷気。ご主人さまの全身から、人ならぬ者の獣じみた邪気が染み出てくる。紅く染まり始めた目が、まっすぐに私の首筋を見つめているのを、痛いほど感じる。
 背筋に悪寒が走った。視線だけで、体をえぐられそう。ご主人さまは、それほどに血を渇望しておられるのだ。
 これだけ飢餓がはげしいと、途中で止められないかもしれない。一滴残らず吸い尽くされてしまうまで。
 怖い。
 でも、それでも、私はご主人さまを信じる。
「どうぞ、ガブッとやっちゃってください」
 レオンさまは長い沈黙のあと、深々と息をついた。
 背筋を伸ばし、ぐったりと反対側の壁によりかかると、うめくようにおっしゃった。
「……そなたは、ルイにいつのまに会ったのだ」
「あ、あの。一昨日です。ご主人さまがお休みでいらっしゃる間に」
 顎を持ち上げ、エレベータの低い天井を睨みつけられる。
「なるほど。そういうことか」
「え?」
「あいつの魂胆が見えた。なぜ、こんな茶番をしかけてきたか」
「え、どういう」
 そのとき、エレベータが動き出した。誰かが下の階でボタンを押したのだ。
 扉が開き、男性三人が待っていた。「降りるの降りないの」という顔で睨まれたので、その迫力に押されて、私はあわててご主人さまの袖を引き、エレベータから降りた。
 外に出ると、ありえない光景が広がっていた。
「いってらっしゃいませ、ご主人さまー」
 ずらりと整列する、愛らしいメイド服の少女たち。それに応えて先ほどの三人組が、ひらひら手を振りながらエレベータに乗り込んだ。
 そう言えば、このフロアはメイド喫茶だったっけ。
 あわてて、回れ右をしようとしたときはすでに遅く、扉は閉まっていた。そして、ご主人さまがうなだれて目をつぶっておられるのに気づいた。やはり疲れ切っておられるのだ。
 だとしたら、この偶然は、天の恵みかもしれない。
 メイド喫茶であろうと何だろうと、喫茶店である以上、椅子に座って紅茶くらい飲めるはず。
「ご主人さま、入りましょう」
 主のコートの袖をひっぱりつつ、店内に入ると、
「おかえりなさいませ、ご主人さまー」
 という黄色い声。なんだか、わけがわからなくなってきた。
 中に入ったときのご主人さまの驚いた顔は、今でも忘れられない。
 ショッキングピンクの壁にハートのオブジェ。座る椅子までハート模様だ。
 がっしりとした長身のお体を、ハートの椅子に押し込め、クマのぬいぐるみを背景に座っておられる図は、まさに抱腹絶倒もの。
「なんだ、ここは」
「秋葉原名物、メイドカフェです」
「メイドカフェ……」
 青ざめた不健康そうな顔でつぶやかれると、「冥土カフェ」にしか聞こえない。
「お待たせしました」
 ポニーテールの女の子のひとりが、注文した紅茶を持ってきてくれる。きちんと床に膝をついて給仕するのは、さすがだ。
「それでは、おいしくなる魔法をかけさせていただきます」
 頭から抜けるような声で、彼女は胸をぷるぷる揺らしながら、両腕を回した。
「おいしくなーれ。おいしくなーれ。きゅんきゅん。――さあ、ごいっしょに」
「……」
 一方のご主人さまは、鳩が豆鉄砲食らったみたいに呆然と、ただ彼女を見つめるだけ。
「い、いっしょに唱和しないといけない決まりみたいですよ。きゅんきゅんって」
「それでは、もう一度。おいしくなーれ、おいしくなーれ。きゅんきゅん」
「ご主人さまっ、きゅんきゅん」
「……きゅ」
 その時点で、私の腹筋はすでに崩壊していた。

 太陽の光が射し込まない場所で休んだおかげか、ご主人さまは少し生気を取り戻されたようだった。
 女の子たちはその間、ダンスを披露してくれたり、熱いおしぼりをくれたり、特製ケーキをサービスしてくれたり(全部私の腹に納まったけど)、いたれりつくせりの張り切りようだった。やっぱり超美形の外国人男性は得だよね。
「記念にお写真を撮らせていただきまーす」
「あ、遠慮します。この方吸血鬼ですから、写真に写りません」
「うふふふー。お連れさまったら、ご冗談ばっかり」
 帰りには、また一列に並んで、「いってらっしゃいませ、ご主人さまあ」の大合唱。
 いかにメイド喫茶と言えど、ふだんからご主人さまと呼ばれている「本物の」ご主人さまをもてなしたのは、初めてだったろうな。
 エレベータに乗り込んだとたん、レオンさまは深い吐息をつかれた。ずっと我慢していらしたと見える。
「ね、長生きはするものでしょう?」
 と慰めると、じろりとにらまれた。おおっと、かなり怒っていらっしゃる。
「そなたは、心底楽しんでおったな」
「あれ、ご主人さまは楽しくありませんでした? ギャルに囲まれて、心なしか血色も良いみたいですよ」
 と言い返しながらも、こみあげる笑いで、思わず声が震える。
「私もこれから毎日、さっきの魔法の呪文を唱えることにしますね。おいしくなーれ、きゅんきゅんっ」
「……二度とそなたの出すものは食べぬ」
 憎まれ口とは裏腹に、ご主人さまの口元がゆるんでいるのがわかった。
 よかった。少しは、なごんでくださったみたいだ。
「さ、英気を養ったことだし、出発しますか」
 拳をにぎりしめて、気合を入れる。エレベータを降りると、ビルの外は容赦ない陽光があふれていた。
 来栖さんには、相変わらず連絡がつかない。とりあえずは、中央通りを横切って西に進むしかない。
 午後の都会は、コンクリートの照り返しで真っ白の世界だ。一歩を踏み出したとき、私は自然にご主人さまの腕に手をからめた。
「エスコートします。私につかまってください」
 答えの代わりに、ご主人さまはぐいと腕を引いた。気がつくと、私は逆に体ごと引き寄せられていた。
「きゃーっ、わーっ」
「つくづく、そなたといると退屈せぬな」
 ご主人さまの腕の中でじたばたする。これじゃ反対だ。逆に私の重みがご主人さまにのしかかっている。
「は、放してください」
「このほうが、歩きやすい」
 肩を抱き寄せる手に、ますます力がこもる。
 そう言えば、さっきよりも足取りが軽い。私は、杖代わりにちょうどいいんだろうか。
 回りの視線が痛い。ぴたりと寄り添う私たちは、まるで恋人同士に見えているに違いない。
 『恋人同士』。そう考えたとたん、気が遠くなった。今日一日で一生分の幸福を使い果たしそうだ。残りの人生、もう先がない。
 ご主人さまのぬくもりと、かすかなバラの香りを感じながら、何も考えないようにして、ひたすら足を動かす。
 高架に沿って歩いているうちに、昌平橋の薄緑色の鉄橋が見えてきた。
 昌平橋の歩道を使って神田川を渡るとき、ご主人さまの視線が川面に注がれているのに気づいた。
「何か、なつかしい景色がありますか」
「いや」
 やはり、ないだろうな。明治時代の神田川は、コンクリートの護岸も、両側にそびえたつ高層ビルもなく、ただのなだらかな緑の土手だったのかもしれない。
 せっけんをカタカタ鳴らして横丁の風呂屋に行く風景だって、もうとっくに昭和とともに、どこかに行ってしまった。
 この百年で、日本という国はものすごく変わってしまったんだ。
「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」
「なんだ、それは」
「さあ、もう少しがんばりましょうって気合です」
 中央線が走る煉瓦造りのガード下をくぐる。もう、来栖さんに電話することなんて、頭の中からふっとんでいた。
 ご主人さまに肩を抱かれて進む一歩一歩が、とてもいとおしくて、ずっと、この時間が終わらなければよいと思う。
 もちろん、そうはいかない。
 二時までに、ニコライ堂に着かなければならないのだ。ビルの谷間の狭い路地に折れて、まっすぐ進むと、もうすぐ見えてくるはず。
 そこで何が待っているかは、わからないけれど。私はご主人さまの行かれるところなら、どこまでだってお伴する。
 大きな街路樹の向こうにギリシア正教の御堂が見えてきたとき、ご主人さまはふと立ち止まり、空を仰いだ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
「ご存じだったんですか。方丈記、かものちょーめー!」
「だてに長生きはしておらぬ」
 ああ、道理でいつも本を読んでいらっしゃるもの。あの中には日本の古典も混じっていたのか。ご主人さまの日本語の発音が、日本人もびっくりなほど完璧なのも、不思議じゃない。
 鴨長明を漢字で書ける自信もない私なんか及びもつかないほど、ご主人さまは日本の文化も熟知していらっしゃるのだ。
「たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる。高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり」
 聞いていると、肌が泡立ってきた。高層都市の真ん中で低くつぶやかれる言葉は、ずしりと重く響く。
「いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり」
 乾いたビル風が、街路樹の葉を散らし、往来する通行人たちの髪を乱す。
「朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける……だが、その泡にさえなれぬのだ、俺たちは」
 いつのまにかご主人さまは私から手を離し、ひとりで先に進んでいく。道路を渡り、ニコライ堂のほうへ。
「死ぬことも生み出すこともなく、やがて川の流れをせき止め、回りのものをすべて破壊し尽くす」
「ご主人さま」
 駆け寄ろうとした私に、耳を聾するばかりの音が降り注いできた。
 思わず、耳を押さえた。けれど多分、耳から聞こえてくる音じゃなかった。
 全身を震わせるような、大地全部が共鳴しているような。それでいて、回りの通行人は誰も聞こえていないのが、よくわかる。
 聞こえているのは、私ひとり。ご主人さまのそばにいる私だけ。
 これは、ご主人さまの頭に流れている光景だからだ。
 聖歌隊のさんび、そして香炉の香り。

『主よ、なんじの眠りししもべの幸いなる眠りに永遠の安息を与え、彼に永遠の記憶をなしたまえ』
『永遠の記憶、永遠の記憶、永遠の記憶』

 おそるおそる顔を上げると、ご主人さまはニコライ堂のドーム屋根を見つめておられた。
 痛みに耐えるような表情を見て、私は理解した。ローゼマリーさまの埋葬式が、ここで行われたんだ。
 愛する奥方さまのことを思い出しておられるのに、私なんかが邪魔しちゃいけない。
 そっと離れようとしたとき、ぐいと引き寄せられた。
「このほうが歩きやすいと言っただろう」
 私の肩に手をかけ、ご主人さまは、確かな足取りで歩き始めた。
 一歩、また一歩。
 ニコライ堂の正面の階段のところに、天羽ルイ侯爵と貴柳司祭、そして来栖さんが待っていた。
 来栖さんは階段を降りてくると、ご主人さまの前で深く、深く腰を折った。
「おゆるしくださいませ、伯爵さま」
 まるで、首を差し出しているみたいだ。
「うそを申したな」
「はい。にせの住所をお教えしました」
「ルイの指図か」
「ふふ、そうよ」
 凄絶な美貌を冷たく固めた天羽ルイ侯爵が、降りてこられた。黒いロングドレスが足を運ぶたびに、優雅な体の線をきわだたせる。
「あなたに、ここまで自分の足で歩いてきてもらうため」
 ルイさまは、ご主人さまの隣によりかかっている私に視線を移した。「ともに歩く人が自分のそばにいることに気づかせるため」
 口元に、やさしい微笑みが浮かぶ。
「わたしたちは、長く生き過ぎた。生き過ぎて、ちりのように降り積もる後悔に、身動きもできなくなってしまった。全てを忘れて、新しい人生を始めることができたら、どんなにいいか」
「リュドミラ」
 ご主人さまは、低く問いかけた。「そこまで策を弄して、俺になにを望む」
「立ち上がって。もう一度、あなたにわたしたちを率いてほしいの、一族の長として」
「何を今さら」
「あいつが頂点にいる限り、世界の崩壊は避けられない。あいつを止められるのは、あなただけよ、レオニード」
 ルイさまのことをリュドミラと呼んだり、レオンさまのことをレオニードと呼んだり、あれえ、レオニードって敵の名前じゃなかったのとか、大混乱の私にも、ただひとつわかることがある。
 ――目の前で交わされている会話は、世界の命運をかけたやりとりだということを。





web拍手 by FC2