第4章「想い出はタンパク質のせいですか」

(3)

 それまで背景に甘んじていた貴柳司祭が、すっと進み出た。
「御堂の前で、こんな不穏な話題を立ち話するわけにもいきません。そろそろ行きましょうか」
 ガウンをひるがえして、先頭を切って歩き始める。
 確かに、吸血鬼一族の会談なんてものを、ギリシア正教の教会の中でするわけには行かないよね。
 ルイさま、そしてご主人さまが後に続く。歩く順番が決まっているらしい。使用人の私たちは一番最後。
「来栖さん」
 なんだか、なつかしい。来栖さんの顔を見るのは、もう何年ぶりかのような気がする。
「ローゼマリーさまのご葬儀は、このニコライ堂で営まれたんですか?」
「祖父からは、そう聞いています」
「やっぱり。私、見たんです」
「見た?」
 もう一度、青いドームを肩越しに見上げる。
「見たというか、感じたというか。ご主人さまの思い出が流れ込んでくるみたいな」
 来栖さんは、しばらく無言だった。
「今朝から、あなたは伯爵さまの感情に共鳴することが多いようですね」
「あ、そう言えば」
「生命エネルギーの交換が始まったのかもしれません」
「また、そんな新しい重要単語を。こう次々と出てきたら暗記しきれないじゃありませんか」
 歩を進めると、突如として鬱蒼とした森に取り囲まれる。
 神田のど真ん中に、こんな場所があるなんて聞いたことがない。グーグルアースにも、きっと写っていないだろう。
 ミハイロフ伯爵家と同じ。この中は周囲とは隔絶されて、結界みたいなもので守られているのだ。
 いきなり目の前が開け、純和風のお屋敷があった。古色蒼然とした瓦屋根に漆喰の壁。すごいなと思って眺めていたら、その建物全体が門になっていて、主屋や土蔵はまだその向こうにあった。ご主人さまの洋館もりっぱだけれど、これは規模が違う。
「あんまり広くて、中を歩くだけでも大変でね」
 ルイさまは、茫然としている私に、いたずらっぽく話しかけた。「夜勤明けのときなんかは、帰るのが面倒くさくなって、ついユウトの教会に泊まってしまう」
「ルイ!」
「あはは」
 ルイさまは、大きな木造門にはめられた丸い鉄の鋲を長い指でふわりと撫でた。
「この屋敷は、わたしを養子にしてくださった天羽子爵の所有だったの」
 子爵? 侯爵じゃないんですかと訊きそうになって、思い当たった。「侯爵」は、ルイさまの一族の中での序列。「子爵」というのは、日本の爵位のことなんだ。日本も戦前は君主制だったから、爵位なんてものがあった。
「天羽子爵さまは……ルイさまが、その、人間ではないことを知っていて、養子に?」
 ルイさまは寂しそうに、微笑んだ。
「忠孝はわたしたち吸血鬼の――敵だったのよ」
 そうつぶやいた声がとても寂しそうで、思わず美貌の横顔を盗み見る。
 たぶん、きっとたぶん。
 ルイさまは、天羽忠孝子爵と愛し合っておられたんだ。敵だったと言っていたけど、この方は、どんな敵だって和らがせることのできる人だもの。
 でも、相手は死すべき人間。結婚ではなく、養子という形を取ったのかもしれない。
 ルイさまは、何百年の生涯のあいだに、いったいどれだけの男性を虜にしてきたんだろう――なんて考えていると、むっつりした表情の貴柳神父と目が合って、あわてて逸らした。
 そうか。神父にとって、天羽子爵の思い出は、聞きたくない話なんだろうな。私が、ご主人さまからローゼマリーさまのことを聞くのがつらいように。
 同類相憐れむで、つい、がっしりと握手を交わしたくなってしまう。
 お屋敷の中には、人の気配は全くなかった。これだけ大きくて由緒ある建物だから、執事か、せめて世話をする人がいるのだろうと思ったのに。
 まさかルイさまは、髪の毛をうしろでまとめてジーパン履いて、長い廊下の拭き掃除なんかもご自分でなさるのだろうか。
 そんな想像をしていたら、玄関の前でくるりと振り向いたのは、今までと別人だった。
「ミハイロフ伯爵」
 女王のような威厳で立つと、ルイさまはドレスのスリットからナイフを取り出す。
 ターコイズ飾りの碧いさやから放たれた刀身は、黒と金のしま模様で、なんとも妖しい光を放っていた。見ているだけで吸い込まれそうだ。
 ご主人さまは、しばらく直立不動の姿勢で、そのナイフをにらみつけていたが、やがて片膝を折り、床につけた。
 イアニスさまが、最初にお屋敷を訪れたときに行われた儀式。
 一族の人たちのあいだには厳然たる階級があり、下位の人が上位の人のもとを訪れる場合は、面会の許しを得るために、必ずこの儀式を受けなければならないそうだ。
 頻繁に会っている場合は省略されるらしく、イアニスさまがそれ以降、模造剣を当てられている姿は見たことがないけれど。
 けれど、今回の面会は百年ぶり。伯爵であるレオンさまは、侯爵であるルイさまに、膝をかがめなければならない。
 ルイさまは、美しく研ぎ澄まされたナイフをご主人さまの肩に当てた。刃先の鋭い輝きに、思わずぞっとする。少しでも首筋に触れれば、頸動脈が切れてしまいそう。
 おまえの生殺与奪の権をにぎっているのは、目の前にいるわたしだと、上位が下位に宣言する意味があるのだろう。
 ゆっくりと名残を惜しむように、ルイさまはナイフを元のさやに戻した。
「どうぞ。お入りなさい」
 さっさときびすを返すと、ルイさまは長い黒光りのする廊下を歩き始めた。
「ルカさん」
 私だけ、ルイさまに引き止められた。ご主人さまたちは、そのまま貴柳神父に先導され、離れへと向かっていく。
「あなたを厨房に案内するわ。おいしいお茶を淹れてくれないかしら」
 ルイさまは、形のよい唇をすぼめた。「うちの家には、執事も料理人もいないのよ。病院との往復で、ほとんど寝に帰るだけだから」
 連れて行かれたのは、大正時代のカフェを思い出させるような食堂だった。磨き上げたナラ材の床、窓のステンドグラスの色彩が美しい。そして扉の向こうは、清潔なタイル張りの厨房だった。
 そして、レトロな冷蔵庫には、たくさんの食材が整頓して並べられている。この周到さは来栖さんの入れ知恵に違いない。
「そんなに、あわてなくていいわよ」
「でも、ルイさまは今夜は夜勤があって急いでいらっしゃるんじゃ」
「うそよ」
 あっさりと否定し、妖艶な女侯爵は、少女のように片目をつぶった。「夜勤はミワちゃんに代わってもらった。こういうときのために、日ごろ恩を売ってるんだもの」
 私は、くすりと笑った。「ルイさまって、言動がすごく今風ですよね。しゃべってても全然違和感ないし」
「ありがとう」
「化石みたいなご主人さまとは大違い」
「あの子はね」
 寂しそうな顔になる。「たくさんの忘れられないものを、背負いすぎてしまったの」
「何百年分の記憶を背負うって、どんな気分なんでしょう。私には想像もできません」
「たぶん、人間と同じよ。ときどき重すぎて、これ以上先に進みたくないことはあるけれど」
「都合のよいことだけ覚えてて、イヤなことは全部忘れられたらいいのに」
「そういうのに効く食べものはないの?」
「ミョウガを食べると物忘れするって言うけど、これはただの迷信ですし」
 ルイさまとべちゃくちゃおしゃべりしながら、午後のお茶を調えた。青の文様が入った、しびれるくらい素敵な有田焼のティーセットを漆塗りのお盆に乗せて、離れに向かう。
 和洋折衷の応接室はカーテンが引かれて、薄暗かった。来栖さんが入ってきた私たちを見て、指を口に当てた。
「伯爵さまは、お休みです」
 見ると、ひとりがけのソファに座ったまま、ご主人さまは手足を伸ばし、深い眠りに陥っていらっしゃる。
 百年ぶりに炎天下の街を歩き回り、よほど疲れておられたんだな。
 私たちはご主人さまを残して、そっと隣の続き部屋に移った。
「本題に入るのは、やはり夜になりますね」
「ちょうどいいわ。それならイアニスも呼びましょう」
 連絡のために貴柳司祭が部屋を出て行ったあと、ルイさまは感慨深げにつぶやいた。「これで、日本にいる一族のすべてが一堂に会することになる」

 陽がとっぷりと暮れてから、イアニス・ヴァラス子爵さまがルイさまのお屋敷を訪れた。
「あいつが、ここに来たって本当か!」
 いつものツンツン立った髪の毛が、心なしか倒れていて、あわてて飛んできたものと見える。
「ええ、しかも昼の日中にね」
「信じられねえ。何が起こったんだ」
「レオニードが、日本に向かってるの」
「ああ、それは聞いた。けど」
「レオンの中で、止まっていた時がようやく動き始めたのよ」
 ルイさまとイアニスさまは、ずいぶん親しげなご様子で、まるで姉と弟みたいに見えるのには驚いた。
 刀を触れる儀式もなかった。イアニスさまは、すでに何度もここを訪れているのかもしれない。
「これで全員がそろったわ。ルカ、大人数になっちゃったけど、だいじょうぶ?」
「もちろんです」
「なんだよ、ここでも、おまえの作った食事を食うのか」
 イアニスさまは顔をしかめていたが、「そうだ」と指を鳴らした。「ついでだ。マユも呼んでやろうぜ」
 そう言えば、週末には必ずうちに泊まりにくるマユは、今日は会えないと言ったら、しょげていたっけ。
 七人の大晩餐会。一族の方々が百年ぶりに顔を合わせる夜。
 いったい何が起こるのだろう。私はわくわくしながら、厨房で腕をふるった。
 夜の九時から、晩餐が始まった。
 マユは、来栖さんが迎えに行ってくれて、なんとか間に合ったし、ご主人さまも、少し寝起きが不機嫌そうなご様子だったけれど、ちゃんと時間どおりに席についてくださった。
 全員、タキシードとイブニングドレス。貴柳神父は、緑色の祭服。美形の方々の正装は、それはそれは、まばゆいばかりに豪華だ。
 ちゃんと私のために、ぴしっと糊のきいたコックコートまで準備されている。まったく来栖さんの機転の良さには、舌を巻くしかない。
 その来栖さんが、食前酒を注いで回る。さすがに、これだけの人数だと私ひとりでは手が回らないので、今夜は、給仕に徹してくれることになっているのだ。
「前菜の、ブルゴーニュ風あさりのココット焼きでございます」
 まるでタコ焼きみたいに、六つの穴の開いた陶器のココット皿がひとりひとりに配られる。
「ブイヨンで軽く煮込んだあさりを、ガーリックバター、香味野菜とともに詰めて、オーブンで焼いたものです。普通はエスカルゴを用いますが、今日は訳あって、あさりを使っています」
 マユが、ぱちぱちと手を叩く。「わあ、ルカさん、いつもの『今夜のコンセプトは』が始まるの?」
「え、なんなの。いつも、そういう前置きがあるの?」
「そう。それが、やたら長くって、うぜえのなんのって」
 ルイさまやイアニスさまも加わって、食卓はすごくにぎやか。
 とても楽しい晩餐になりそうだ。なんだか、張り切ってしまう。
 スープは、煮干しとかつお節でたっぷり出汁を取り、味噌を加えたもの。つまり、じゃぱにーず『味噌汁』。
 天羽侯爵家の厨房には、みごとな漆塗りのお椀がそろっていたので、思わず味噌汁が作りたくなってしまった。こんなふうに、器に触発されてレシピが決まることもあるのだ。
「わあ、おいしい」
「日本に住める幸せを感じるわね」
 マユとルイさまは、大喜びだ。
「それではご期待に応えて、申し上げます」
 パンとサラダが出されたところで、私は食卓の前で一礼した。
「今日のお料理のコンセプトは、『記憶』です」
「記憶?」
「はい、私たちの脳は、神経細胞、英語ではニューロンというものでできています。その数、なんと数百億から千億ともいわれています。どんどん死滅する一方で、海馬というところで増殖も行われています。それらが新しいネットワークを作ることで、記憶することができるんです」
「それは、人間の話だろう」
 イアニスさまは、あくびまじりに言う。「俺たちには成長も死滅もない。関係ねえよ」
「いいえ、一族の方々も同じだと思います。そうでなければ、新しいことを記憶できません。そして」
 私は、ご主人さまの顔を見た。「古いことを忘れることもできません」
 レオンさまは、まだ眠気さめやらぬ不機嫌な顔で、私のことばを黙殺なさった。
「古い記憶を消し、新しい記憶と入れ替えるためには、海馬が活発に神経細胞を生み出す必要があります。そのために必要な栄養素は、ビタミンB12。先ほど召し上がったアサリやシジミなどの貝類。レバーに多く含まれています」
「だから、前菜のココットに、エスカルゴの代わりにアサリが使われてたんですね」
 とマユ。
「はい。それに味噌汁の出汁に使ったかつお節や煮干しの中にも、たっぷりのビタミンB12が入っています。
味噌に含まれる大豆レシチンも、神経細胞のために大切な栄養素です。
そして、今お出ししたシーザーサラダにたっぷりふりかけたパルメザンチーズも、今日のメインの仔羊の肉も、脳機能に必要なカルニチン、メチオニンなどのアミノ酸が豊富に含まれている食材です」
「すごいわ、ルカ」
 ルイさまが感嘆したように言う。「これだけ考え抜かれた食事を毎日いただいたら、元気になれそう」
「俺たちにはムダだよ。どうせ、人間の食い物から、栄養を摂れないんだから」
 イアニスさまは、気だるそうにワインをがぶ飲みしている。
「そうでしょうか」
 私は、きまじめに問いかけた。「もし、本当に食物から何の影響もないのなら、アルコールだって酔っぱらえないはずです。でも、ご主人さまも子爵さまも、お酒を召し上がっておられる」
「……む」
 イアニスさまは、今はじめて気がついたかのように、グラスのルビー色の液体を見つめた。
「一族の方々が、お酒を召し上がって酔えるということは、アルコールが血液に吸収されるということです。それなら、食物の栄養だって、吸収されるのはゼロではないはず。たとえわずかでも空腹が満たされ、身体が元気になり、おいしかった、食べてよかったと思ってくださるような料理が作れるようになりたいんです」
 食卓が、しんと静まり返った。
 し、しまった。夢中になって演説ぶったものだから、すっかり座がしらけてしまった。
「す、すみません。すぐに仔羊のソテーをお持ちします」
「待って、ルカさん」
 ルイさまが、ナプキンをテーブルに置いて、立ち上がった。
「ありがとう。そこまで考えてくれて。レオンはどうせ、ひとこともお礼を言ってないだろうから、代わりにお礼を言います」
 深々と頭を下げる侯爵さまに、気が動転してしまう。
「や、やめてください。喜んで食べていただけるだけで、いいんです」
「でも、残酷なようだけど、言っておくわ。人間の食べ物は、わたしたちにとって何の役にも立たない」
「え?」
「人間の血だけなの。そのほかは1キロカロリーだって栄養にはならない」
「そんな……」
「私は看護師。病院の施設を使って調べたのよ。自分の血液を」
 ルイさまは、さびしそうに笑った。
「ブドウ糖やビタミンの栄養点滴をしたあとでも、私の血液には何の変化もなかった。細胞内のミトコンドリアが……ううん、くわしい説明は省くけど、私たちの体は、食物の栄養を取り入れても、それを使ってエネルギーを作り出す仕組みがないの」
「そんな……」
 ううん、覚悟はしていた。でも、考えないようにしていただけ。
 たとえ、1パーセントでも栄養になってくれれば、なんて都合のいいことを期待していたけど、1パーセントどころか、ゼロだったんだ。
 私がいくら腕をふるって料理を作っても、まるでムダだってことを思い知らされる。
「それでも、知っていてほしいの。あなたの料理には、力がある」
 私の落胆を察して、ルイさまは慈しみの眼差しで、まっすぐに私を見つめた。
「今日、あなたの作った味噌汁をいただいて、私が日本に来たときのことを思い出していた。忠孝と出会って、最初は憎み合い、そして愛し合うようになって、はじめて一緒に朝を過ごしたときの味噌汁の味を――思い出していた」
 美しい紫の瞳に、涙が光っている。
「ねえ、レオン。過去と向き合わずに逃げてばかりいたから、忘れられないのよ。ちゃんと悲しんで、悔やんでおかなかったから、未来に進めないのよ」
 ご主人さまの無表情の横顔に、一滴の動揺が、波紋のようにゆっくりと広がっていった。
 メインディッシュとデザートが終わり、食後のリキュールが回されたとき、天羽ルイ侯爵がふたたび立ち上がった。
「一族に連なる者と、おのおの縁ある者たち」
 おごそかな呼びかけは、まるで定められた式文のようだ。
「今宵わが館に集まっていただいたのは、レオニード大公が日本に向かっているという知らせが届いたため。大公の到着までに、われわれは態度を決しなければならない――服従か、反抗か」
 唾を飲み込む音が、部屋中に響きわたったような気がして、私は思わず首をすくめる。
「反抗は不可能ではないのですか」
 貴柳神父が、落ち着いた声で問うた。
 ルイさまは、恋人にうっすらとほほ笑むと、居合わせた人々に次々と視線を移した。
 そして、最後にひとりの人に焦点を定める。
「可能です――彼さえ、その気になってくれれば」
 その視線の先にいたのは、私のご主人さまだった。
「そのためには、レオン、あなたの宣言が絶対に必要です――一族の長の正統継承者、真のレオニード大公は自分であり、あちらがニセものであると」





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