セフィロトの樹の下で番外編 クリフォト


第10章 「ケテル(王冠)」               BACK | TOP | HOME





 新園舎は、予定よりやや遅れたものの無事に完成し、9月初めに盛大に開かれた落成式には、たくさんの卒業生や関係者が集まってきた。
「式次第が百部も足りない? 百人もいったい、どこから湧いて出たんですか。二階席にまだ補助椅子を並べていない? ああっ。どうしましょう」
 主催者のコサージュをスーツの胸元につけているセフィロトは、朝からあたふたと休む暇もなかった。
「式次第など、ふたりに一枚で十分だ。椅子が足りなければ、立ち見させればいいじゃないか」
 隣のクリフォトは、氷のように冷静だ。
「そんなこと言うけど、【すずかけの家】創立以来の大切な落成式に……ああ」
 セフィロトは、がっくりと座り込んだ。「疲れた。充電したい」
「今度エネルギー切れで停止しても、もう俺は運ばないからな」
「あなたたちを見てると、どちらが副園長かわからないわね」
 そばで見ていた胡桃が楽しそうに、ころころと笑っている。
 【テルマ】の中でリウ博士の擬似体に会ってから、クリフォトは不完全だったすべてのプログラムを修復し、設計どおりの本来の姿に戻った。
 相変わらず話し方はぶっきらぼうなままだが、顔には表情が生まれ、複雑な感情、好奇心、自発的な判断や行動を示すようになった。
 それは、豊かな秋の収穫の時期がいきなり到来したかのような、爆発的な成長だった。


 来賓たちが、新園舎の大ホールに続々と入場してきた。水木元園長ほか錚々たる教育省のお偉方。歴代の園長や退職した保育教師たち。40歳過ぎの中年から、卒業したばかりの9歳までの卒業生たち。
 科学省の柏局長も、何故か招待されて、貴賓席にしゃちこばって座っていた。本当は犬槙博士と武藤と木田も招待したのだが、犬槙博士は、AR9型の試作がようやく佳境に入っているらしく、武藤はすでに刑務所に戻されていた(だが今度の功績で出所はかなり早まるらしい)。
 木田は、招待状を受け取ったとたん、あわてて突き返してきた。
「じ、辞退します。僕はあの施設にはどうもトラウマがありまして」
 セフィロトは首をかしげた。
「木田さん。わたしに対する言葉遣いが、このところやたらに丁寧ですね」
 壇上に上がった栂野健園長は、何度も咳払いすると、数百人の来賓を前に、朗々すぎる声で挨拶した。
「【すずかけの家】は、人工子宮による人工授精児のための日本で最初の養育施設として2102年に創立されました。
そのとき入園した【第1ロット世代】は、七人。そして今日に至るまで卒業生は実に1602人を数え、全国十数か所の施設と合わせると、社会に送り出した生徒たちは二万人を越えます。初期の卒業生たちはすでに今、壮年層として社会の中核を担っています。
中には、日本政府の中枢として、あるいは最先端科学や芸術やスポーツの旗手として、誰でも名前を知っている人たちも含まれます。しかし、その名を挙げることは控えたいと思います。たとえ名もなき働きをしている人であっても、同じように尊い、社会の担い手なのですから」
 園長は汗を拭き、コップの水を口に含んだ。
「残念ながら、卒業生中十九人が、すでにこの世の人ではありません。彼らのことを、わたくしたち教師は決して忘れないでしょう。その中には、あの悲劇的な【第12ロット世代】の三人も含まれています。
そのためか、こういう形で命を産み出すことには、今でもときどき根強い反対や疑問の声が上がることがあります。だが、21世紀から歯止めの利かない少子高齢社会に突入した日本は、他に有効な政策を取ることができませんでした」
 園長はいったん口を切り、会衆を見渡した。
「……実はわたくしは、教育省からこの【すずかけの家】に派遣されて来るまで、内心は政府のこの政策に反対の立場でした。子どもたちは家庭が育てるべきであると、固く信じておったのです」
 会衆は、しんと静まり返る。
「ですが、園長として勤務するうちに、考えは変わりました。【すずかけの家】の保育教師たちの、昼夜を分かたぬ献身的な姿勢に心を打たれたのです。彼らは、自分の子どもと同じように、いや、それ以上に生徒たちを愛していたのです」
 長く、力強い拍手が湧き起こる。
「【すずかけの家】を卒業した子どもたちは、世界一幸せな【家庭】で育てられた子どもたちです。卒業生は、誇りを持って生きてください!
『子どもたちは、社会が育てる』
日本社会にこの基本合意があるかぎり、【すずかけの家】はいつまでも存続し、教師たちは献身を尽くして、子どもたちを育み続け、愛し続けるでしょう」


 ふたたび、平凡で平穏な日常が戻ってきた。
「クリフ先生」
 伊吹織江先生が、自然菜園から手招きした。
「三時間目の7歳児クラスの理科の授業は、あんたがやってくれないか」
「俺が?」
「単元は、『植物の構造と各器官の働き』だ。指導目標については、きちんと理解できているな」
 伊吹先生は、傍らのセフィロトに向かって片目をつぶって見せる。
 クラスの子どもたちが集まってきて、目を輝かせながらクリフォトを見つめている。
「き、今日は――」
 クリフォトは、しどろもどろの説明を始めた。「植物が、水を吸収するには……植物細胞の吸収力は、細胞内液と細胞外液の浸透圧の差から、さらに膨圧を……」
「はい、クリフ先生」
 エリヤが元気よく手を上げた。「むずかしくて、何を言ってるかわかりません」
 クラスメートたちが、どっと笑った。
「根から茎への水分の移動について、まず話したらどうだ」
 こっそり、伊吹先生が後ろから耳打ちした。「できるだけ易しくな」
 クリフォトは少し落ち着き、説明を続けた。
「根から吸収した水分は、導管を通って運ばれ、光合成によって生じた養分は、師管を通って運ばれる」
「ドウカン? シカン?」
「それって、どんなの?」
「どんなのって、コンピュータで顕微鏡写真を見ろ」
「ここには本物があるんだぞ」
 伊吹先生は笑いながら、クリフォトに道具を手渡す。「ちょうど、そこにトウモロコシが生えているじゃないか」
 子どもたちは、彼の回りにぎゅうぎゅう押し合いながら集まった。
 クリフォトはトウモロコシの茎を取ると、ロボットならではの正確無比な手つきで、カッターを使ってごく薄い輪切りを作り、その切片をスライドガラスの上に乗せた。理科観察用のプレパラートキットは、特殊染料でたちまち標本を美しい青色に染め、全員から見えるように拡大映像を浮き上がらせる。
「わあ、見えた」
「宇宙人の顔だぁ」
「目玉のように見えるのが導管、その外側が師管だ。これらを合わせて維管束と呼ぶ」
「そっちのは?」
「茎を縦に切った断面だ。トウモロコシは単子葉植物に分類され、維管束は……」
 急に説明が途切れたので、子どもたちが顔を上げると、クリフォトは魅入られたように、その映像を見つめていた。
「きれいだ……」
 感極まった声でうめく。「こんなにきれいなものが、この世界にあるなんて……」
 子どもたちは、シンと静まりかえった。
「本当だ」
「きれいだね」
 いつもはひとときもじっとしていない子どもたちが、顔を寄せ合ってプレパラートをうっとり見つめている。
 セフィロトはその様子を見てにっこり笑った。


 10月になると、【すずかけの家】恒例・紅葉狩りハイキングが行なわれた。
 今年の目的地は、群馬県の赤城山だった。目の覚めるような黄金と赤紅の中、大沼をぐるりと回り、湿原の木道をごとごと歩き、渓流伝いに岩場を進む。
「こういうとき、ロボットに生まれたことを悔しく思うんだ」
 落差50メートル、盛大な水煙を上げる不動の滝を見上げながら、少し離れた岩に腰かけたセフィロトは溜め息をついた。
「そりゃ無理すれば近づけないことはないけれど。おまけに、今晩だって温泉に入れないんだよ。人生の楽しみをひとつ損した気分にならないかい?」
「おまえの考えることは、理解不能だ」
 呆れたようにクリフォトが答える。「俺はいつまで経っても、そういう人間くさい考えには慣れそうもない」
「それでいいんだよ。わたしたちは、それぞれ別の個性を持っているのだから」
 ふたりは岩に並んで腰掛けながら、滝壺できゃあきゃあ騒いでいる子どもたちをじっと見つめた。
「ユイはとても活発な女性だった。特に泳ぐのが得意だった」
 クリフォトは、笑いを含みながら話し始める。
「そうか。同じ【第12ロット世代】でも、古洞博士とは全然違うんだね」
「夜の月明かりの下でプールで泳ぐ彼女を、いつもリウ博士はプールサイドで眺めていた。ある夜泳いでいたら、近くの草むらからカエルが飛び込んできて、ユイの悲鳴が聞こえてきてね。リウ博士は泳げないのにプールに飛び込んで、大騒ぎになったことがある」
「リウ博士は、とてもユイを愛していたんだね」
「映画やテレビで恋愛ものを見るときは、リウ博士は必ず途中で寝てしまう。後でユイがあらすじを話すんだ。身振り手振りをまじえながら、涙まで流して。リウ博士はそれを見るのが、とても好きだった」
 この頃クリフォトは、リウ博士と結衣のことをよく話すようになった。セフィロトはただ、じっと聞いている。そういうときのクリフォトの顔は、たまらなく幸せそうだった。
 会話がしばらく途切れたあと、クリフォトは言った。
「セフィロト。話がある」
「なんだい」
「俺は、【すずかけの家】を出ようと思う」
「どうして!」
 思わず、振り向く。彼のことばは寝耳に水だった。
「ここが嫌なわけじゃない。でも、俺のすべきことが、ここにはないように思えるんだ」
「きみの――すべきこと?」
「ああ。俺はロボットとして与えられた能力を最大限に生かす仕事に就きたいんだ。それが、俺が生まれた意味だと思う」
「……」
 セフィロトは引き止める言葉を失った。それほど、クリフォトの声は晴れやかだったのだ。
「まだ何かはわからないんだ。しばらく科学省に行って、いろいろ捜してみようかと思う。柏局長とは、もう話をつけてある。宇宙かどこか危険を伴う場所で、人間の命を守るような仕事があればいい。それが、自分の命を捨ててしまったリウ博士が罪をつぐなうために、俺に望んでいることだという気がする」
「クリフ……」
 セフィロトは、彼の口元に浮かぶ笑みをまぶしげに見つめた。
「もう、きみには会えなくなるのか」
「わからないな。行く場所次第だ」
「せっかく、弟ができたと思っていたのに」
「セフィロト」
 彼は立ち上がって、セフィロトの髪を撫でた。「泣くなよ」
「涙が出るんだから、しかたがないだろう」
 セフィロトは、クリフォトの手のぬくもりの下で身を震わせた。
「きみを愛しているよ。クリフォト」
「ああ。わかってる、兄貴」
 クリフォトは微笑んだ。「ときどきは会いに来る。【すずかけの家】は、俺の【ホーム】だから」


 年の終わり、クリスマス会も兼ねたクリフォトの送別会が行なわれた。
 この数ヶ月、科学省との間を行き来しながら、クリフォトは【すずかけの家】の子どもたちと、最後の宝石のような時間を過ごした。
 ラクロスやホッケー、サッカーやドッジボールに至るまで、いろいろなスポーツを率先し、ありとあらゆる悪戯の音頭を取り、集団脱走を指揮しては教師たちをあわてさせた。
 そのあまりの楽しさに、秋には大学に戻るはずのアラタでさえ、滞在を延ばしたくらいだ。
「別れの会で絶対に泣いたらダメですよ」
 セフィロトは前もって、子どもたちと固い約束を交わした。悲しい別れにしたくない。笑って送り出そうと。
 年が明ければ、クリフォトは宇宙に飛び立ち、地球軌道のラグランジュポイントに建設中の【サテライト】での任務に就くことが決まっている。
 4歳児たちは、誕生日パーティでかぶるような王冠を金紙で作って、クリフォトにかぶせた。
 5歳児たちは大きな似顔絵を描いて、壁に貼った。
 6歳児たちは、ホールの飾りつけを指揮した。大きなクリスマスツリーに加えて、惑星や星雲の雄大なホログラムが天井いっぱいに広がった。
 8歳児たちは、手作りのお菓子や音響を担当した。
 そして7歳児たちは、最初から最後までクリフォトのそばから離れなかった。送別のスピーチにはタク、カイリ、エリヤの三人が立った。
「クリフ。いっぱい迷惑かけて、ごめん」
「クリフといっしょに暮らした半年間、楽しかったよ」
「オレたち、クリフと友だちになれてよかった」
 泣かないと約束したので必死でがまんしたが、聞いている教師も生徒たちも目は真っ赤だった。
 最後に、クリフォトが挨拶に壇上に立った。途方に暮れたように部屋を見回す。
「短い間だったけど、世話になった」
 何度もつっかえたように言葉を切る。「俺は……」
 それっきり顔を上げない。みんな、さすがに訝しくなり彼をじっと観察して、驚いた。うつむいて隠しているが、クリフォトの目にいっぱいの涙がたまっていたのだ。
 とうとう堪えきれなくなって、何人もの生徒たちが泣き出した。
「やれやれ、せっかく泣かないで送り出そうと約束したのに」
 セフィロトは壇上の彼に近づいて、頭をぽんぽんと愛おしそうに叩いた。
「でも同じAR8型なのに、どうしてだろう。きみのほうが、わたしよりずっと泣き方が上手だ」
「バカ。そんなことは……あたりまえだ」





使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。
独立行政法人「情報処理推進機構」の「教育用画像素材集」で、トウモロコシの維管束の顕微鏡写真をお借りしました。よろしければどうぞ。  トウモロコシの維管束  縦に切った断面


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