クリフォト


終章 「ダアト(知識)」               BACK | TOP | HOME





「クリフォトから、メールが届きましたよ」
「ほんとにっ」
 思わず朝食の席から立ち上がった胡桃は、コーヒーカップを倒しそうになった。
「よかった。もう半年も音沙汰がないから、どうしたかと思っていたのよ。……ねえ、何て書いてあるの?」
 ホームステーションの前に座ったセフィロトは、【エリイ】に直接アクセスせず、モニターに表示させた長文メールを一語ずつ味わうように読んでいる。
「【サテライト】での任務がひと段落ついたようですね。これで他の【サテライト】建設や火星移民への足がかりができました」
「よかった。無事に大役を果たし終えたのね」
 セフィロトは途中で驚きの声を上げ、残りの文章にすばやく目を走らせた。
「次は、二年後に出発する【火星調査移民団】への参加が決まったそうです」
「火星?」
 胡桃はぽかんと口を開けた。「火星って……あの火星?」
「そうです。太陽系の第四惑星のことです」
「ようやくクリュス平原に火星ベースメントが完成したばかりなのに、もう移民団が?」
「この数年で、宇宙航行技術は格段に進歩しました。新しく開発されたラムジェットエンジンのおかげで、火星まで片道たった二ヶ月で結ぶことができるようになったんです」
「二ヶ月……それでも、十分長い時間だわ」
 胡桃は顔を曇らせた。「どれくらいで、クリフは地球に帰ってこれるの?」
 セフィロトは、きゅっと頬を引きしめた。
「もしかすると、帰ってこないつもりかもしれません」
「帰ってこないって?」
「人間にとって苛酷な環境の火星での滞在は、精神的にも二年から三年が限度だと言われています。移民団も次々と交替要員と入れ替わることになるでしょう。そんな中で、最初からすべての実務を把握している存在が必要です。ロボットならば、長期間の低重力にも低気圧にも耐え、空気のない屋外での活動も自在ですから――クリフォトは、これからずっと火星にとどまり続けるつもりなのだと思います」
「そんな……」
 胡桃の目の縁に、たちまち涙が膨れ上がる。「【すずかけの家】にときどきは帰ってくるって……約束したのに」
「危険な場所で、人間の命を助ける仕事に就きたいと、あいつは言っていました」
 セフィロトは悲しみを堪えながら、わざと明るく言った。「その望みどおりになったんですよ。喜んであげなきゃ」
「……うん」
「そう言えば、今の時刻は西南西の仰角13度に火星がきれいに見えますよ」
 セフィロトは胡桃の肩を抱き、バルコニーに出た。
 東京湾に夕陽が沈みきったところだった。そして水平線近くに、ゆらめくように強く輝くマイナス2等星。
 人間の目には、ただの明るい星にしか見えない点も、セフィロトの視覚には、赤い惑星の姿として模様まではっきり映る。
 あの星の上に、たくさんの人間やロボットたちが移住する。力を合わせて原野を切り拓いて、徐々に命があふれる大地へと変えていくのだ。
 その途方もない未来図は、マスターを失ったクリフォトにとって、生きる力となるだろう。ロボットである己を最大限に生かす任務を得ることによって。
「これからは星空を見上げるたびに、【すずかけの家】の生徒たちと、クリフォトの話をしましょう。子どもたちにとって、宇宙はより身近な場所となるはずです。そのうちの何人かが、クリフに会いに火星に行きたいと言ってくれるかもしれませんね」
 胡桃は嗚咽を飲み込みながら、こっくりとうなずいた。
「私も、樹を亡くした後、ずっと自殺することを考えていた――リウ博士のように」
「はい」
「ひとつ間違えば、あなたを残して私も死んでしまったかもしれない。クリフォトの運命は、あなたの運命だったかもしれないの」
「ええ。わかっています」
 セフィロトは、藍色に染まっていく夏の夜空を、あこがれるように見上げた。
「クリフォト――わたしの弟」
 きみがこれから火星において、たくさんの人々との出会いを経験するように。
 笑うことを。泣くことを。怒ることを。そして、愛することを、もっともっと学んでくれるように。
 きみの誕生にまつわる悲劇を、リウ博士と結衣の愛情を永遠に記憶し、つなげていくことが、きみの使命なのだから。
 きみの未来が幸多いものとなるように、【すずかけの家】のみんなといっしょに、いつも祈っている。
「セフィ」
 胡桃が、セフィロトの胸にそっと頭をもたせかけた。
「はい。胡桃」
「クリフォトが生まれてくれて、本当によかった――あなたのためにも」
「わたしのために?」
「私や犬槙さんは、いつか死ぬ。ひとりぼっちになったとき、あなたに弟と呼べる存在がいることは、どんなにか心強いでしょう」
 胡桃の体に回されたセフィロトの手に、少し力がこもった。
「そんな悲しい未来は考えたくはありませんけれど……確かにそうですね」
「シーダもいてくれるけれど、やっぱり女性にあなたのことをお願いするのは、ちょっと癪にさわるもの」
 と胡桃は、半分拗ねたような笑い声で言った。
「わかりました」
 セフィロトは、笑みを返した。
「百年くらい先になったら、誰でも自由に、もっと短時間で火星まで行けるようになるでしょう。そのときは、【すずかけの家】の休みを利用して、ときどきクリフォトに会いに行くことにします」
「いいなあ。私もいっしょに行きたい」
「では、がんばって長生きしてください。このあいだ120歳でフラメンコを踊るおばあさんが、テレビに出ていましたよ」
 茶化した言葉とは裏腹に、セフィロトは胡桃を抱き寄せると、切羽つまったキスを落とした。
「お願いです。胡桃。一分でも一秒でも長く生きてください」
「うん」
「それだけたくさんのあなたとの思い出が作れるように。そうすれば、あなたを失った後も、わたしは生きていけます」
「……セフィ」
 不思議だと思う。
 古洞博士はみずからの短命におびえながら、永遠の生命への願いを託してロボットを創った。
 そして彼が創ったロボットは永遠の生命を持ち、やがて確実に来る愛する者の死におびえながらも、同時に真正面から受け止めようとしている。
 命とは、決して自分の自由にならないからこそ尊いのだ。たとえ、試験管で思いのままに命を生み出せると錯覚しても。たとえ、自分の命を絶つことを自分で選び取るように見えても。
 その果てにあるものを、人は決して支配することがない。そう知ることこそが人間の叡知。
「セフィ。泣いてるの?」
「今のこの時が、とても幸せだと思えて――」
 赤い星の下で、恋人たちは刹那の抱擁に永遠の重みを込めた。




             了    


使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。
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