第1章 「微笑む機械」  (3)                    BACK | TOP |  HOME




 ぽかんと口を開けている私の顔を見て、部屋に入ってきた犬槙さんは、思わず笑い出した。
「相当、びっくりしたみたいだね」
 びっくりしたなんてもんじゃない。
 私は三ヶ月前、あれほど精巧に作られたセフィロトを見たはずなのに、心のどこかで、ロボットのどこかぎくしゃくしたイメージを捨てきれていなかった。
 あのときの無感情に見開かれていた金色の瞳は、まるで生命のない人形だった。
 それなのに、今眼の前に、青い無地のシャツと綿のスラックスを着て立っているセフィロトは、どこを見ても人間の青年。
 まっすぐな視線は、親しみをこめて私に向けられているとさえ感じる。
 頬をゆるませる柔らかなほほえみ。プログラムされた機械がこれほど人間らしい表情を浮かべることができるなんて。
「すごいだろう」
「すごい、です」
 得意げな犬槙さんの問いに、驚きのあまりこんなおうむ返しの答えしかできない私のほうが、彼よりもよほどロボットに見えたことだろう。
「犬槙博士」
 セフィロトは、長身の主(あるじ)を振り返った。
「お客様に、何か飲み物を、お出ししますか?」
「ああ、頼む。適当に持ってきてくれ」
「はい、わかりました」
 歩き去る彼の後姿を見て、私はため息をついた。機械を感じさせるぎこちなさは何もない。
 話す言葉の文節の区切りに、ほんのわずかな淀みがあるような気がするが、気に障るほどではない。むしろ語尾まで美しく発音している好感のほうが大きい。
 それにしても。
「樹がしゃべってるみたいだった……」
「セフィロトが?」
「ええ。最初に話しかけられたとき」
「声紋合成のサンプリングには、樹の声は使わなかったぞ。おかしいな」
 と独り言を言いながら、犬槙さんは自分も椅子に腰かけた。
「三ヶ月でやっとここまで来た。樹のいない分、人工知能の最終調整にかなり手間取ったけれど、当初の設計どおりの反応を示すまでにこぎつけた」
「素晴らしいと思います。彼が街を歩いていても、ほとんど違和感なく人間として受け入れられそう」
「でも、まだこれで完成ってわけじゃないんだ」
「まだ? あんなに表情豊かだし、それに自分から進んで行動しているようにさえ見えるのに」
「あれは、まだ初期設定の範囲を超えない。想定された状況に想定された行動をする。ただ、自発的に行っているように見えるだけだ。
……前にも言ったことがあると思うが、セフィロトは」
 犬槙さんは、指を一本上に向かって突き立てた。
「自律改革型ロボットなんだよ」


「自律……?」
「自分で自分のルールを決めることができるということだ。自分が何をなすべきかを自分で判断して、行動する。
セフィロトの人工知能は、経験によって成長を続けている。人間の神経細胞を模した非ノイマン型ニューラル・ネットワーク方式の脳なんだよ。
このアイディア自体は遥か20世紀の昔からあったものだ。だが、僕たちはそれを巨大なコンピューターではなく、一個体の中に納めることに成功した」
 私が話を理解していることを確認すると、彼はうなずいて続けた。
「樹と僕はこの研究所で知り合ったときから、ずっと一致した意見を持っていたんだ。
コンピューターがどんなに優れた演算処理能力を持つとしても、人間のような身体を持たない限り、人間と理解しあうことはできない、人類が長年夢見ていたように、真に人間の友になることはできない、とね。
僕たちはセフィロトにその夢を託した。人間と同じ体。同じ目線で歩きまわり、立ち止まり、考えることで学習する。人間と同じ体験をすることで同じ感情と意志を持つことができるんだ」
「同じ感情と意志……」
 私はめまいが起きそうな感覚に襲われた。夫とその親友が長年取り組んできた、極限の可能性。
 人間に似せたロボットに、人間に似せた行動をさせることで満足するのではなく。
 人間と同じように考え、感じ、感情を持つロボット。
 樹は何という途方もない夢を残したまま、彼方の世界に旅立ってしまったのだろう。
「お待たせしました」
 物思いにふけっていた私は、その声で現実に引き戻された。
 セフィロトがいつのまにか私の前に立っていて、机にコーヒーを置くところだった。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 彼は続いて、犬槙さんの前にもカップを置いた。
 来客に飲み物を出すことを犬槙さんは命令したが、自分は欲しいと言わなかった。これはセフィロト自身の判断なのだろうか。
「おいしい」
 私は一口飲んで、思わず声をあげた。豊かな芳香と適度な酸味。申し分のないコーヒーだった。
「セフィロト、コーヒーを淹れるのがとても上手ね」
「ありがとう、ございます」
 彼は嬉しそうに微笑んだ。
 嬉しそう? なぜそう思ったのだろう。彼は誉められて嬉しいと感じているのだろうか。この微笑みもプログラムの一部?
 犬槙さんのことばを聞いて、少し拒否反応を起こしてしまっている自分を感じた。
「実は、胡桃ちゃん」
 カップをことりとソーサーの上に置くと、犬槙さんはあらたまった声を出した。
「今日来てもらったのは、頼みたいことがあるんだ」
「なんでしょう」
 次に彼の口をついて出たことばに、私はわが耳を疑った。
「セフィロトを今日から、君の家で預かってほしい」


「セフィロトを、私が預かるんですか?」
 私はうろたえて、またおうむ返し状態に陥った。
「でも、私にはロボットに対する何の知識もないし……。もし突然の故障とかが起きたら」
「だから初期設定は、すべて終わったと言ったろう。エネルギーが必要になれば、彼は自分から充電装置に入ることができる。簡単な調整や修理すら自分でできるんだ。何か問題があれば僕に連絡してくれればいいし、危険なことは何もないよ」
「でも……。私のところに来るより、犬槙さんのそばにいたほうがいろいろな知識を吸収することができます。そのほうがセフィロトにとってはいいのではないかしら」
「ここにいても、もう彼は何も学ぶことはないんだよ」
 犬槙さんは、低い優しい声で諭すように続けた。
「セフィロトの人工知能には、もうこの端末コンピューターに入っている程度の知識はすべて組み込まれている。
ただ、彼にはその知識を環境と結びつける体験がないんだ」
「それは、どういうことですか?」
「たとえば、彼は【りんご】というものがどういうものかを知らない。確かに彼の中には、【りんご】の古今東西のあらゆる種類、原産地や今年の収穫量、味覚実験についてのすべてのデータが入っている。でも、手にりんごを握ったことも、それを人間が食べてどう楽しむかということも、彼は知らない。
そして、残念ながら僕には、その体験をさせてあげるだけの生活臭がない。
長いあいだ、一人身だからね。研究所に泊り込むことも多い。
花一輪飾ってない殺風景な家に連れて帰っても、何も彼に見せるものがないんだ。食事はすべて宅配で、料理の素材を見せることもできないしね」
「そうでしょうね」
「それに僕も、相手が女性ならともかく、男相手にすることもないしね」
 と、愉快そうに笑う。
「結局朝から晩までビデオを見て過ごさせてしまったよ」
 私はあきれてものが言えない。
 犬槙さんのビデオの中身なんて、だいたい想像がつく。そんなものをセフィロトに見せるなんて。
「君のところなら、きっと僕よりもずっと情操教育上いいと思うんだ。なによりも、君は教育の専門家だからね」
「専門家……というほどではないですけど」
「君の女性らしい感性をいっぱい注いでやってほしいんだ。まさにそういうものを通して、彼は感情を学ぶのだからね。
幼い子どもを育てるのはなんといっても、「母親」の表現豊かな愛情だろう」


 彼の巧みな説得に、私の心は大きく揺れ動いていた。
 確かに、保育士としての体験から言うならば、犬槙さんのような若い独身男性の元に無垢なセフィロトを置くのは、あまり良いことではないような気がする。犬槙さんにしても自分の生活だけで手一杯で、とても彼の面倒を見る余裕はないだろう。
 何よりもセフィロトは、樹が私のために残してくれたロボットなのだ。私が彼の成長に責任を持つのは当然なのかもしれない。
 でも、こんなに精巧なロボットを預かるのは、正直こわい。荷が勝ちすぎる。
 その迷いを察したように、犬槙さんは畳み掛ける。
「樹も、君とセフィロトがともにいることを望んでいると思うのだけどな」
 そのひとことが、私の決意を促した。
「わかりました」
 私は大きくうなずく。
「今日から、私の家でいっしょに暮らします」
「話を聞いていたね。セフィロト」
 犬槙さんは、そばでじっと立っている彼を見上げて、言った。
「はい」
「君は今晩から、胡桃さんの家で暮らす。彼女のところでたくさんのことを学んでくれ」
「それは、犬槙博士の、ご命令ですか?」
「そうだ」
「わかりました。ご命令どおりに、いたします」
 セフィロトは、無表情にそう答えた。
 無表情。そう見えたのだ。
 そのとき私は、彼の内部にひそかに生まれたものに気づかなかった。


 私が彼を助手席に乗せて自宅に帰ったのは、もう夜遅くになっていた。
 犬槙博士からくどくどと初歩的な注意を受けていたのだ。
「たとえば、まちがってもシャワーを浴びせないこと。生活防水設計にはなっているが、なんといっても彼の内部はニューロンチップが埋め込まれているんだからね。風呂やプールは厳禁だ。皮膚についた埃やよごれは、充電時に電解処理されることになっている」
 最後まであたふたと同じようなことばを繰り返す彼に、なんだかんだ言ってセフィロトと別れるのが寂しいのかなと思うと、思わず笑いがこぼれた。
 引越しとはいえ、セフィロトには私物はまったくなかった。身ひとつでの移動だ。
「さあ、入って。ここが私の家よ」
 玄関に彼を招じ入れるとき、私はどんな顔をしていいかわからなかった。せいいっぱい作り笑いをしながら、彼に言った。
「これから、私たちはここでいっしょに暮らすの。よろしく、ね」
 セフィロトは、返事を返さなかった。
 そう言えば、ここに来るあいだじゅう、彼がほとんど私の語りかけに無言を通したことを思い出した。
「どうしたの。疲れちゃった? ロボットでも疲れるってことあるのかな」
 私は照明を少し落として、自動開閉ブラインドを開けた。地上15階から東京ベイを望む、樹の自慢だった夜景を見つめるのが、私がいつも帰宅後に真っ先にすること。
「そう言えば、セフィロトって名前は、呼ぶには少し長すぎるね。ずっと考えてたんだけど、セフィ、そう呼んでいいかな?」
 それでも答えが返ってこないのに私はいぶかしくなって、彼に振り向いた。
 セフィロトはまだリビングの入り口のそばに突っ立ったまま、私を見つめ返していた。
 暗がりに光る、金色の瞳。喜びも悲しみも何も感じさせない冷たい瞳。
 私は、ふいに恐怖にとらわれた。
「セフィ?」
 私は、取り繕うような明るい声を出そうとした。
「こっちに来て。キッチンを見せるわ。もし良かったら、またあなたにコーヒーを入れてほしいの。私、あんなに美味しいコーヒーを飲んだのは、久しぶりだったのよ」
 彼はようやく結んでいた唇を開いた。そして、そのことばは私を凍りつかせるに十分だった。
「いやです」




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