第1章 「微笑む機械」  (4)                    BACK | TOP |  HOME




「犬槙さん。どうしたらいいんですか?」
「セフィロトが「いや」と言ったのかい? ほんとうに」
「嘘をついてどうなるんです」
「だってこの研究所にいるときは、いやだなんてひと言も言ったことがなかったからさ。信じられないよ」
 ディスプレイに映る犬槙さんは、腹が立つほど愉快そうに笑っている。
「人間の意思に逆らうというのは、ロボットにとってはたいした進歩だよ。さっそく、君の家に預けた効果が現われたじゃないか」
「笑い事じゃないですよ。私ゆうべは寝られなかったんだから」
 そう不平を鳴らしながら、私は居間のソファに座っているセフィロトを横目でちらりと見た。
『あなたがそこに立っていたら、話もできない。あなたに付き合って立っていると、私は疲れてしまうから』
 ゆうべ、そう説得してやっとそこに座らせたのだ。
 それから、8時間。彼は頑として動こうとしない。話しかける私の顔を挑戦的に見つめ返すだけだ。
 いや、挑戦的というのは私が勝手に思い込んで当てはめたことばだ。彼にはそんなつもりはないのかもしれない。
 冷静になろう。私が落ち着かなくては。
「とにかく、セフィロトをここに呼んで来てくれないか。一度僕から話してみる」
 私は彼を呼んだ。犬槙さんの名前を口にした途端、彼はすっと立ち上がる。
 ホームステーションの前に立つその後姿を見ながら、私は昨夜さんざん繰り返した彼との会話を思い出していた。
『なぜ、いやなの』
『あなたは、わたしの、マスターではありません』
『でも、犬槙さんの命令は聞いたでしょ。今日からあなたは私といっしょに暮らしなさいって』
『博士の命令どおり、わたしは、ここにいます。でも、あなたの命令は、ききません』
『あなたがここに暮らすということは、私があなたの新しいマスターということでもあるのよ』
『でも、あなたには、わたしのマスターの、資格はありません』
『資格?』
『あなたは、わたしを作ってはいません。わたしを作ったのは、犬槙博士と、古洞博士だけです』
『でも、私は古洞樹の妻だった』
『そのことと、わたしのマスターになることに、何の関係も、ありません』
『セフィ』
『わたしを、その名前で、呼ばないでください。わたしの名は、セフィロトです』
 何の表情も浮かべない顔と抑揚のない声と相対することが、こんなに恐ろしいことだとは思わなかった。
 まるで、私を嘲るような残酷な意志を感じてしまう。
 セフィロトにそんな感情があるはずはない。彼はロボットなのだ。
 それは、私の感情の投影の裏返しにすぎないとわかっていても、彼が完璧な人間の姿である分だけ余計に、私は動揺してしまう。
「胡桃ちゃん」
 モニターの中から、犬槙さんの声がした。
「はい」
「一応、説得はしてみた。彼が納得したかどうかは知らないけどね」
「そんな。無責任です、犬槙さん」
「セフィロトの人工知能を設計したのは、樹だよ。僕には責任取れないな。……あ、悪い、これからデートだから。それじゃ、胡桃ちゃん」
「あ、あ、そんな」
 暗転した画面に向かってあわててイーッとして見せたが、もう遅かった。
 私はおそるおそるセフィロトのほうを見た。
 彼は元通りソファに座ると、じっと私を見返している。
「コーヒー飲みたいな、なんて思ってるんだけど。……淹れてくれる気、ないよね?」
「ありません」
 私は盛大なため息をついた。


「あーあ」
 私は【すずかけの家】の園庭の花壇のれんがに腰かけて、ぼんやりと子どもたちの遊ぶ様を見つめていた。
 この児童施設の名前の由来にもなったすずかけの大樹が、私の頭上で春の風にさわさわと揺れ、みずみずしい気を放っている。
「そう言えば、セフィロトっていうのも木の名前だっけ」
 とつぶやく。
 何かで読んだことがあった。ユダヤ教の神秘主義によると、セフィロトとは天国に生えている生命の木を表わすそうだ。
 広大な宇宙を示すと同時に、人間の体の中の小宇宙をも指し示す象徴としての木。
 この名前をつけたのは私の夫だと、犬槙さんは言っていた。
 自律改革型ロボット、AR8型セフィロト。
 樹はこの名前を通して、彼に何を託したかったのだろう。
 セフィロトはあれから一週間、まったく私の言うことをきかない。
 エネルギー補給が必要になったときに自ら充電装置に入るだけで、あとはソファに座って、私をにらみつけるだけ。
 この充電装置がまた、ばかでかいのだ。犬槙さんの研究所から送られてきたとき、私は度肝をぬかれてしまった。
「こんな大きな装置、どこの部屋にも入りませんよ」
「まあ、我慢してよ。それに、その装置、図体の割には電気を食わないよ。セフィロトの燃料電池は、極限の省エネ設計ってのが、国の開発申請のときのうたい文句なんだ」
 それでも月額五百円、年間六千円の電気代がかかるというのだ。私の年収の十分の一にもなるなんて。
 しかたなく、私は亡き夫の使っていた書斎を片付けて、その機械を運び込んでもらわなければならなかった。もちろんセフィロトはそれを見ていても、指一本動かして手伝おうとはしない。
 樹の匂いがあふれる部屋を整理するのは、辛かった。たとえ彼の遺したセフィロトのためとは言え、彼との思い出を汚してほしくなかった。
 彼がほかのロボットたちと同じように、あきらかに作り物とわかる容姿をしていればよかったのに。そしたら、私は彼を受け入れられたかもしれない。彼はあまりにも人間的すぎる。
 私とセフィロトのあいだには、冷ややかな視線を交し合うだけの冷戦状態とも言える日々が続いていたのだ。
「はああ」
「胡桃先生。そのため息、もう4回目ですね」
 いつのまにか、私の背後に水木園長が立っている。
「子どもたちがあっちで騒ぎを起こして、さくら先生が困っているようですよ。ほら、行ってあげなさい」
「す、すみません」
「胡桃先生」
「はい」
 園長は、白髪交じりの太い眉をすっと下げて、優しく微笑んだ。
「いろんなことがあるかもしれないけど、自分に自信を持ちなさい。何かに立ち向かう前に、自分に負けてはいけませんよ」
「はい」
 庭を走っていくあいだ、園長のことばを思って、つんと鼻の奥が熱くなるのを感じた。
 園長は私の事情を何も知らないはずなのに、ため息だけで私の心を察してくれた。
 教育者として人間として、水木園長を尊敬していた。私は本当にすばらしい人たちに囲まれ、育まれながら毎日生きているのだということを思い知らされる。
 私は? 私はセフィロトにとって、どんな存在なのだろう。
 私は彼に何を与えているのだろう。


「あーああああ」
 私のより3倍は長いため息を出してから、北見さくらはがっくりと首をうなだれた。
「アラタくん、どうして私ではだめなのかなあ」
「そんなことないよ」
「でも、胡桃先輩が来てくれたら、とたんに泣き止むんですもの。私だって、同じくらいアラタくんのこと愛してるのになあ」
「だいじょうぶだって。あの子、まだここへ来て1ヶ月ちょっとでしょう。時間がかかるのよ」
「だって、アラタくんと一緒に来た他の子どもたちは、もうとっくに園の生活に慣れましたよ。あの子だけ、ひとりでぽつんと離れたところから見ていて、何か言うと泣き喚いて。どうしたらいいのかわかりません」
「ときどき、遅い子がいるんだよ」
 向かい合った教務机の向こうから、伊吹織江さんが声をかけた。
 もう10年以上ここに勤めているベテラン保育教師。スタイルのいい魅力的な女性なのに、なぜかちょっと乱暴な男言葉を使う。
「さくらちゃんも保育課程で聞いたことがあると思うけどよ。大抵の施設ではそうだが、うちの園でも3歳までの乳幼児は別棟で、専属のスタッフが個別の保育を行う。なぜかわかるか?」
「はい。えーと、乳幼児は、自分のことだけを見つめてくれる保育者を必要とします。その保育者の視線や語りかけを通して、乳幼児は信頼感と安心感を得、また保育者を観察し真似することによって、言葉の使い方、さらに将来の人間関係の土台を得るからです。この時期に乳幼児が不特定多数の保育者の手で無思慮に保育された場合、その安心感を得ることができず、最悪の場合ことばの遅れや、将来の人間関係に障害を起こすことがあるのです」
「すごい。教科書どおりの丸暗記だね」
「へっへー。半年前に必死で勉強しましたからね」
「バカ。誉めてるんじゃねーよ」
 織江さんは豪快な仕草で、がははと笑った。
「だけど、ときどきその安心感を得られないまま、ここに来る子がいるんだ。保育者との相性が悪かったのか、その子どもの性格なのかは、わからんがな。
そういう子は手こずる。新しい環境に溶け込めずに、元の場所に帰りたがる。離れたところから私たちを観察するんだ。ここは安心できる場所なのかどうか確かめるためにな。
胡桃とさくらが違うところはな、胡桃は朝、アラタに会ったとき、まずぎゅーっと力いっぱい抱きしめるんだ。「本当におまえが大切なんだぞ。おまえはここにいていいんだぞ」ってメッセージを体で示してる」
「ふうん、そうなんだ。簡単なことなんですね」
「そう、簡単なことなんだぜ。でも忘れやすい。子どもはな、口で言ってもダメなときがあるってことだよ」


 自宅の駐車スペースに車を止めたとき、通信が入った。
 私は、車のナビゲーションシステムを、通信画面に切り替えた。
「犬槙さん」
「ごめん。君が家に帰る前に、どうしても話しておきたかったんだ。
……セフィロトが今日、うちの研究所に来た」
「え……?」
「もしかするとセフィロトは、失敗かもしれない」




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