第1章 「微笑む機械」  (5)                  BACK | TOP |  HOME




 私はぼう然とした。セフィロトが私の家を抜け出して、ひとりで研究所に行ったという。
「僕も驚いた。どうやってあそこまで来る気になったのか。
彼の意志ははっきりしている。研究所に帰りたい。ここにずっといたいと自分の口で言った」
「……」
「動物で言う【刷り込み】現象が起きてしまったのだと思う。生まれて最初に見たものを親だと思う、あれだよ。僕がマスターだという認識を頑なに修正しようとしない。
改革型の知能を持つロボットにとって、これはかなり異常なことなんだ。調べたんだが、プログラムにもバグは見つからない。
樹の開発した人工知能は、僕には未知数であることが多いんだ。もうお手上げだよ。
とにかく今日のところは説得して君の家に帰した。だが、もしこの状態が続くようなら、セフィロトの初期化を考えなければならないようだ」
「初期化?」
「もう一度、胡桃ちゃんをマスターとして認識するように、調整し直す」
「それって、今までの記憶は……」
「もちろん、すべて消去される。一からやり直しということになる」
「まったく別人になってしまうってことですね」
「そう感傷的に考えることもないと思うが、答えはイエスだ」
「そんな……」
 私は涙がにじむのを感じた。
「君にとっても、辛い選択になると思う。すまないと思っている。だがこれは君に一番関わる問題だ。何日かかってもいいから、君が決断してくれないか。僕自身の意見を問われれば、初期化を勧める」
「わかりました……」
 憔悴しきった気持ちで、エレベーターに乗った。
 ロボットとは言え、その記憶を完全に消すことは、殺すことと同じではないのか。
 セフィロトは、何回でもリセットして新しくできるただの機械なのか。
 それともすでに、自分の感情と意志を持つひとつの生命体なのか。
 私にはわからなかった。
 自宅のドアを開けた。
 部屋の中は夕焼けに照らされて、茜色に染まっていた。
 セフィロトはやはりソファの上に座ったきり、私のほうを見ようともしない。その濃茶色の髪の毛も白い肌も、黄金色の瞳もすべてが、燃えるような紅に溶けていた。
 それはまるで血を流しているような横顔だった。ロボットにはないはずの血を。
 寂しそう。
 とっさにそう感じた。そんなの私の思い込みに過ぎない。彼に自分の寂しさを投影しているだけ。そう思いなおそうとした。
 でも、彼は本当に寂しそうに見えたのだ。
 まるで、アラタくんと同じ。
 自分の創造主とも生みの親とも言える存在から切り離された者の、孤独。
 ロボットがそんな感情を持つはずがないという私の思い込みを、彼が感じていたとしたら。
 私が知らず知らずのうちに、命令をきかない彼に冷酷なことばを浴びせていたとしたら。
 故障した機械を見るような目で。そうだとしたら、なんとひどいことを私はしてしまったんだろう。
 彼は生まれたての赤ん坊と同じだったのだ。親からのあふれる愛情を受けなければ、子どもは生きていけない。
 私は彼を、受けいれようとも愛そうともしていなかった。
 まぶたが熱い。自分の脈が体中にこだまし、息が苦しくなるのを感じる。
 あわてて、樹の書斎だったところに飛び込んだ。
「樹……樹……」
 ドアを背に、声に出してつぶやいた。涙がぽろぽろ流れ出てくる。
「助けて、樹。私に何も言わないで彼を置いていくなんて、ひどいよ。
どうしたらいいのか教えてくれたっていいじゃない。戻ってきてよ。……私のところに帰って来てよ!」
 嗚咽で震える体を抑えてなんとか落ち着くと、セフィロトの充電装置が置いてあるかたわらを横切って、夫が使っていた机の前に立った。
 樹の座っていた椅子。使っていたペン。彼の手の触れたすべてのもの。
 何かの衝動に突き動かされるような思いで、引き出しをひとつずつ順番に開けた。
 樹の死後、辛すぎて一度もここを見ていない。
 何故今まで気づかなかったのだろう。もしかすると、彼はセフィロトについて何か書き残しているのではないか。
 そうでなくてもいい。何でもいいから彼のもの、何か安心させてくれるものに出会いたかった。
 左隅の小さな引き出しから、一枚の薄い電子カードが見つかった。
 心臓がはねあがる。
「古洞樹より古洞胡桃さまへ。氏名を入力してください」と表面の飾り文字が浮き上がる。
「古洞、胡桃」
 そう発音した途端、別の文字が浮き上がるとともに、夫の吹き込んだ音声が聞こえてきた。
『胡桃。25歳の誕生日、おめでとう』
「樹……」
 思わず叫んだ。
 私の25回目の誕生日はもう2ヶ月も前だった。
『きみがこれを見つけたということは、俺はもうこの世にいないということだね。
すまない、胡桃。俺はいっしょに、この日を祝うことができない。
その代わりに、きみにセフィロトというロボットを遺した。彼は俺と君の子どもの代わりだ。
君は俺たちの子どもが欲しいと何度も言ってくれたのに、俺はその願いをかなえてあげられなかった。
遺伝子に欠陥のある俺は、自分の子どもにその遺伝子を残すことを恐れた。その子もまた短い人生しか生きられない可能性が大きいからだ。
もう二度と、君に愛する者を失う悲しみを味わせたくなかった。
そして、セフィロトを作ることを決意したんだ。
俺はセフィロトを、永遠に君を守る存在としてプログラムした。彼はいつか、自分自身の意志で君を愛するだろう。
どうか、彼を俺のかわりだと思って、いっしょにいてほしい。
セフィロトという木の蔭で、いつまでも幸せに暮らしてほしい』
「いつき……樹!」
 私はその場に泣き崩れた。
 セフィロトが私を受け入れなかったのではない。
 私のほうが、セフィロトを受けいれることを恐れていたのだ。
 もう何も愛したくない。失うことが怖い。
 だから知らぬ間に、彼に心の無い機械に対する視線を向けていたのだ。そんな私の無言の拒絶を彼は感じ取って、どんな思いで見つめていたのだろう。
 私はくしゃくしゃの顔を丁寧にぬぐって、部屋を出るころには、すっかり平静を取り戻していた。
 さくらちゃんにも注意したはず。子どもの前で、保育者が動揺した顔を見せてはいけない。
「セフィロト」
 彫像のように動かなかった彼が、近づく私を大きな瞳で見上げた。
 私は、彼を思い切り抱きしめた。アラタくんに毎日していたことを、私は彼に一度もしていなかったと思い知る。
「もう安心して。こわがらないで、セフィロト。あなたはここにいていいのよ」
 私は彼の頭をなでながら、静かに語りかけた。
「あなたは夫の残したたったひとつの命。最高の宝。樹と私の子どもなの。
あなたと私がともに暮らすことが、死んでしまった樹のいちばんの望みだった。
私はあなたに会うまで、死のうと思っていたの。彼のいない世界で生きていたくなかった。
でも、やっとわかった。あなたの中に樹の夢は生きているのよね。あなたを通して、樹を感じることができる。あなたがいれば、私は生きていくことができる。
だからお願い。ずっと私のそばにいてほしい」
 私は彼の柔らかい頬に唇を押し付けた。
「大好きよ、セフィロト」


 朝の匂いがした。
 いつのまにか居間のソファで眠ってしまったらしい。ゆっくりと気だるい体を動かした。
 何かいつもと違う。空気が心地よく動いている。
 これは、コーヒーの香り。
 がばっと跳ね起きる。
 くらくらと眩暈を起こしかけた私の目には、白いダイニングテーブルのそばに立っているセフィロトが見えた。
 レースのカーテンが揺れる東側の窓から差し込む、透明な朝の光を背中に浴びて、私のお気に入りのカップにゆっくりとコーヒーを注いでいる。
 それは泣きそうなくらい美しく、なつかしい光景だった。
『胡桃、コーヒーが入ったよ』
 と私を呼ぶ樹の声が耳によみがえる。
 セフィロトは私に顔を向けて、微笑んだ。
「コーヒーが入りました。もうお起きになる、時間ですね」
「なぜ……わかったの? 今日はこの時間だってこと。毎日違う時間に出勤しているのに」
「一週間、観察しました。そして、ホームステーションにアクセスして、過去数ヶ月の電力使用データを、解析して、それをもとに、マスターの曜日ごとの起床パターンを、割り出しました」
「セフィロト……」
 彼は、ただソファに座っていたわけじゃなかった。一週間私を見つめて、私を理解しようとしてくれていたのだ。
「どうぞ、セフィと、お呼びください。マスター」
「私を、マスターと呼んでくれるの?」
「はい」
 私は涙を手でぬぐって、思わず笑った。
「でもね。私マスターって柄じゃないから、できたら別の呼び方がいいかしら。と言って、あなたみたいな大きな子にお母さんって呼ばれるのも癪だし。
……うーん、いいのが思いつかないわ」
「では、何とお呼びすれば、いいのでしょう」
 彼は首をかしげて、困ったように言った。
 そう。
 彼は今、困っているのだ。感情のない機械に、人間の側の思い込みで感情を投影しているのではない。
 人格を持った成長するロボット、セフィロト。
「いい呼び方を思いつくまで、『胡桃』と呼んで頂戴。私もあなたをセフィと呼ぶ。それから尊敬語も使わないで。私たちは対等のパートナーだと思っているから」
「わかりました。胡桃」
 彼は突然、私の寝癖のついた長い髪をかきあげると、頬を両手でそっと挟んで唇を当てた。
 額に。鼻に。そして唇に。柔らかく暖かい感触がくすぐったい。
 それだけでも驚いていたのに、続いて、彼の手は……。
「きゃあああっ!!」
 私は悲鳴を上げて、飛び退った。
「な、な、何するの?」
「いけませんでしたか」
 彼は、眉を少しひそめたように見えた。
「女性に対する、親愛の情だと、学びました」
「き、き、キスはまだしも、む、胸、胸は……ッ」
「こうすると、女性はとても喜ぶのだ、と」
「誰がそんなこと、言ったのッ」
「犬槙博士です。自宅でビデオを見ながら、丁寧に解説して、くださいました」
 邪気のない笑顔でセフィロトは釈明する。
「犬槙さあん!!」
 私は、早朝の彼の自宅に、緊急通信を叩き込んだ。
「セフィにこれ以上変なことを教えて、不良にしないでくださいね。ええ、もう金輪際、あなたの元になんか帰しませんとも!」


 このとき、私はまだ想像もしなかった。
 やがて、本当のパートナーとして、セフィロトを見始める自分を。
 男性として彼を愛し始める自分を。


 これから長い時をかけて、私たちの恋が始まるのだ。




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