第2章 「彼のいる風景」  (1)                 BACK | TOP |  HOME




 ぶうん……。
 心地よい機械の振動音がどこかで響いている。
 セフィロトがクリーナーロボをもう動かしているんだなあ。
 あ……、今日はお休み。起きなくていいんだ。
 いい気持ちだ。まぶたの裏が明るいから、天気もよさそう。


 いい香り……。
 挽きたてのコーヒー……。


 はっと私は、今さらのように目を覚ました。
 もう日が高い。8時を越えている。
 8時には起きるとゆうべ言っておいたので、しびれを切らしたセフィロトがコーヒーを淹れているのだろう。
 ロボットの性なのか、彼はけっこう時間に細かいのだ。
 ベッドの中でもぞもぞと手足を動かすと、えいっと跳ね起きる。
 すこし熱めのシャワーを浴びると、ゆったりした部屋着をはおって、寝室のドアを開けた。
 とたんに、ドアの外で立ち往生していたらしいクリーナーロボが、足元につつつと入ってきた。
「オハヨゴザイマス、シツレシマス」
「おはよう。クリン」
 クリン(クリーナーロボに私がつけた愛称だ)は、軽やかな吸気音を立て、円い小さな体を移動させながら隅から隅まで念入りに掃除を始めた。
 ダイニングをそっとのぞき込む。
 セフィロトは待ちくたびれて怒ってないかしら。
 予想に反して、彼は私が入ってきたことも気づいてないようだった。
 背中を向けて、キッチンの出窓の観葉植物に水をやっている。
 植物の大好きな夫・樹(いつき)が買い込んだ鉢は家中にあふれ、水やりはけっこうな大仕事だった。
 彼が亡くなってからというもの、仕事で日中はほとんどいない私は水やりも忘れがちで、葉が茶色に変色していたのを、セフィロトが生き返らせてくれたのだ。
 コンピューターからそれぞれの植物に応じた最適な成育条件のデータを得ると、土の湿度をはかりながら、正確な分量を量った水と肥料を、各々のタイミングでやってくれる。
 家中の観葉植物が見る間に大きくなり、古洞家は彼のおかげでさしずめジャングルのようになってしまった。
 今も水をそそぎながら、ジョウロを持っていないほうの手は、鮮やかな若草色のボストンファーンのちくちくした葉をいとおしげになでている。
 私は、セフィロトを作ったロボット工学博士、犬槙さんのことばを思い出していた。
「セフィロトの人工知能には多くの情報が入っている。だが、それは情報だけで実際に体験して学んだことではないんだ」
 確か犬槙さんは、リンゴを例に出して説明してくれたっけ。
「彼がこれから、ものごとを自律的に判断する知能を発達させるためには、自分で感じる必要がある。たくさんのものに触れさせ、たくさんの場所に連れていって、いろいろな体験をさせてやってほしい」
 セフィロトは今、いろいろなものに無限大の好奇心を持ち、なにもかもを自分の手で触れて確かめようとしている。
 幼児の発達段階に見られる「探索活動」の欲求に似ているなあ、などと保育が職業の私は楽しくなる。
 夢中になっている彼は私に気づかないまま、今度は植物に顔を近づけた。
 すこしの間、話しかけてでもいるように頬をよせていたが、やがて唇を開き、葉の端をぱくりと噛んだ。
 ……か、かわいい。
 まるで、人間の赤ちゃんと同じだ。赤ん坊も何でも口に入れてしまう時期がある。
 私は、あまりの愛しさにめまいさえ感じてしまい、思わず、
「セフィ」
 と呼びかけた。
 彼は振り向いて、うれしそうに微笑んだ。
「おはようございます、胡桃」
 私は彼に近づいて、ぎゅっと抱きしめる。「おはよう、セフィ」
 そして互いの頬に、いつものキス。
 日本人としてはまだめずらしい習慣だったが、私と彼は毎朝そうやって挨拶していた。
 犬槙さんが、何も知らない彼にポルノビデオを見せた挙句、よりによって「こうしてやると、女性は喜ぶ」と、とんでもないことを教えたらしいのだ。
「絶対に、だめだからね。知らない女性に抱きついたり、キスしたらだめ。私にも、だめ」
 苦労して説明して、それでも不服気なセフィロトに、私は朝と夜の挨拶がわりに頬のキスだけを許した。
 まったく、犬槙さんは何を考えているのやら。


 テーブルにはもう、二人分の食器が並べられていた。
 私たちは、いっしょにキッチンに立った。
 彼がパンをオーブンに入れているあいだ、私はレタスとトマトを切ってドレッシングをかける。いちごをガラスの器に盛りつける。
 用意のできた朝食を運んで、ふたりで並んでテーブルについた。
 セフィロトには、ものを食べるという機能はもともとない。
 また、その必要もないのだ。彼の動力はすべて充電式の内蔵電池によっている。
 だから、うちに来た最初の頃、私が食事をしているあいだ、彼はじっとそばに立って見ていた。
 私のひとつひとつの動作を、真剣に観察する。
 私は喉がつまりそうになって、
「セフィ、座って」
 と頼んだ。
 彼は向かいの椅子に腰かけて、まだ相変わらず私をじっと見る。
「セフィ、隣に来てくれないかな」
 それでもやはりそばで何もせずに、食べている私にじっと視線を注いでいるだけなので、なんだか可哀そうになってきた。
 人間にとって、食事は大切な要素だ。その喜びを分かち合えないのは、人間のパートナーとして作られたはずのセフィロトにとっては、悲しいことだろう。
 私は犬槙さんに相談した。
「実は、セフィロトには味覚を感じるセンサーがあるんだよ」
「え。そうなんですか」
「味覚センサー付きの調理機械は前世紀に開発された技術だから、それを応用しただけさ。人間を助けて調理をする可能性もあるからね。味を感ぜずに料理をすることはできない。味見をするために、少量の食物を口に入れて飲み込むパイプもつけているんだ。ただし、ごく微量に限るがね」
 だが、それを消化したり、栄養に転換することはできないのだという。充電装置に入ったときに、パイプに入った食物は電気分解処理して排出されてしまうだけなのだ。
 私はいちごをひとつだけ、セフィロトの皿に乗せた。カップにもコーヒーをすこしだけ注いだ。
「いただきます」
 私がコーヒーカップを持ち上げると、彼も彼も同じようにする。私が一口飲むと、彼もこくりと飲む。
「美味しいよ。セフィってほんとにコーヒーを淹れるのがじょうず」
「そうですか」
「樹もじょうずだったのよ。でも樹だって、こんな味を出したのは年に一回か二回だった」
「水の温度も成分も、豆の焙煎の程度も、そのときによって違います。わたしは計測して、そのときに応じて配合や時間を変えていますから」
「どこで、覚えたの? コーヒーの淹れ方。犬槙さんから教わった?」
「いいえ、もう初めから知っていました。この味を」
「味を知っていた? 初めから?」
「はい。ずっと前から」
 私は首をかしげ、彼はにっこり笑った。ときどき彼は作られたばかりのロボットとは思えないことばを言うときがある。
「このいちごは、糖度が足りず、熟しすぎています」
「そうね。もういちごの季節も終わりかな。明日の宅配はぶどうを注文しようね」
「ぶどう?」
「セフィははじめてだね。ぶどうを食べるの。毎年【すずかけの家】でぶどう狩りに行くんだよ」
 私はそう言ってからダイニングから出窓を通して、目を細めなければならないほどまぶしく輝く青空を見上げた。
「そうだ、今日はせっかくの休みなんだし、ふたりでどこか行こうか?」


「と言って出てきたものの」
 私たちは家を出て、歩きながら相談した。 「どこへ行こう?」
 高層マンションが林立するビル群から、すぐ先に見えるモノレールの駅までは、色とりどりの花壇や木々のある公園が続いている。
 東京ベイエリアのこの一帯は、数十年前に海面上昇を危惧して、大々的に埋め立てをしなおした地域だ。居住・商業スペースは、すべて高層ビルの中に収められ、土のあるところはすべて大規模な緑化を行った。
 二酸化炭素の増加による数々の弊害は、もう地球全体の存続の危機が懸念されるまでに達し、各国政府もようやく、大胆な地球温暖化防止策を取らねばならなくなったのだ。
「そうだ、セフィの服を買いに行こうか?」
「服ですか?」
 不思議そうに彼がたずねた。
「服ならば、まだこれが着られます」
「もっとほかの服も何着か持っておいていいわよ」
「わたしは、人間のように汗や分泌物で服が汚れるということがありません。温度調節のために、季節ごとに着るものを変える必要も感じません」
「そりゃそうだけど」
「服を着る必要もないくらいです」
「それは困る!」
 私は即座に、ぶんぶんと首を振った。
 最初の頃、セフィロトはときどき服を着ずに歩きまわっていることがあったのだ。
 充電装置には、服を脱いで入らなければならない。数時間後充電を終えた彼は、そのまま不自由な服を着るのが面倒くさいのか(面倒くさいと本当に思っているのかどうかは知らない)、素っ裸で私の前に現われたりするのだ。
 小さな子が風呂上りにそのまま家中を走り回る、あの感覚だろう。
 これには、まいった。
 ロボットとは言え、彼には男性の器官も体毛も備わっているのだ。目の保養、じゃなくて、目のやり場に困った。
 これも、固くきつく禁止してある。
「とにかく、その服は犬槙さんのおさがりだから。あなたは彼より背が低いし、体も細いし、ちょっとぶかぶかに見えるのよ。店に行って買い物をするのは、初めてでしょう? いい社会勉強になるわ」
 との私の説得に、
「わかりました」
 と、彼もうなずいた。



     
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