第2章 「彼のいる風景」  (2)                 BACK | TOP |  HOME




「モノレールに乗ったのは、2度目だったわね」
 IDカードを改札機にかざしながら、尋ねる。彼はIDカードがないので、切符を買った。
「はい」
「よく、ひとりで乗れたね。切符の買い方も何も知らないはずだったのに」
 彼は一度、私の家を脱走したことがあるのだ。自分の生まれた応用科学研究所へ、彼を作った犬槙さんを慕ってひとりで訪ねて行った。
「あのときは」
 彼はちょっと得意そうに見える笑いをうかべた。
「改札機に特殊な電気信号を流しました。そのままでここを通れるように」
「えっ? じゃあ、不正乗車?」
「不正なのですか?」
「そうだよ。やだあ、セフィ。切符を買わないで乗るって悪いことだよ」
 セフィロトは何でも知っているようでも、善悪の区別がまだついていない。もちろん、人間を傷つけたり、物を壊してはいけないという最低限の禁忌はインプットされているようだが。
 気をつけなければ。
 なにしろ、セフィロトは【自律改革型】ロボットなのだ。平たく言えば、自分の法律は自分で決めるということ。
 これって育て方を間違えれば、とんでもないことになりかねない。
 ちょっとお説教をしているうちに、二駅先の目的地に着いた。
 そこは海を見晴らせ、地中海の島を模した階段の多い町並みにギリシア風の白い建物の連なる、ちょっと洒落たショッピングモール。私の住むところから一番近い大規模な商業スペースだった。
「ああ、いい気持ちだねえ」
 私は潮風の吹き抜ける、緑陰のプロムナードを通りながら、大きな伸びをした。
「気持ちがいい、とはどういう感覚ですか?」
 彼は、私の歩幅に合わせておとなしく隣を歩いている。放っておくと横道にそれて、あちらこちらのものを触って観察したがるので、私から離れないことが外出の条件だ。
「え、今日みたいにいいお天気で、さわやかなことよ」
「湿度が低く、体感温度が適度であることですか?」
「うーん、それに何と言うか、広々としてて海が見えて」
「開放的な空間で、景色を楽しむことですか?」
「それに1日のんびりと過ごせるからかなあ」
「仕事が休みで、時間的にゆとりがあるということですか?」
「あのね。セフィ」
 私は苦笑しながら答えた。
「いちいち、そんなこと人間は考えながら暮らしてないわよ。いい気持ちはいい気持ち。そう感じているだけなの」
「人間の感情は、とてもむずかしいです」
 彼はちょっと唇を噛んだ。私が何かに満足していないときによくする表情、らしい。
 彼はこわいほど私の仕草や心の動きを読んで、それをコピーしようとする。
 もう慣れたけど、最初はうかつなことはできないと、緊張して暮らしたものだ。
「あ、あそこに入ってみましょう」
 私たちは、モールの中の一軒の店を選んで入った。
 広いフロアには、ティーン向けの衣類がそろっていて、その服を着てポーズをとって歩き回っているモデルのホログラフィーがあちこちに映し出される。色とりどりの楽しげなディスプレイにセフィロトは目を奪われている。
 ファッションは繰り返すというが、今の流行りは20世紀末の亜流であるらしい。
 私は彼の目の色に合わせた明るい薄茶色のタンクトップと、濃い同系色のデニムのパンツを選んだ。ついでに肩にはおるチェックのシャツも。
 店員が近寄ってきて、「3D映像で確認なさいますか?」と聞く。
 サイズ合わせの必要はない。セフィロトがすでに計測済みだ。
「いいえ、これで大丈夫です。中で着替えていっていいですか?」
 店から外に出たとき、私は抑えていた笑いをほどいた。
「店の人、セフィのことを完全に人間だと思ってたよね」
「そうですね」
「それに、ぽーっと見とれてたみたい。……ほら、向こうを歩いてくる女の子ふたりも、あなたのこと見てる」
 初夏らしく、すらりとした白い腕をむきだしにしたセフィロトは、とても格好がいい。
「なぜ、わたしは見られているのですか?」
 立ち止まって、とまどったように自分の姿を見つめる。
「それは、セフィが素敵だから」
「素敵?」
「魅力的な男の子だっていうことよ」
「胡桃は、どう思っているのですか?」
「え? そりゃあ同じよ。その服を着たセフィは素敵だよ」
 セフィロトはやっと納得したという笑顔をうかべた。
「胡桃にそう思われるのが、うれしいです」
 私は心臓を撃ちぬかれたみたいにドキンとして、ものが言えなくなった。
 自分の顔が赤くなるのを感じる。
「胡桃? 今、体表温度が0.3度上昇しました」
「あ、あ、暑いねえ、なんだか今日は暑い」
 ぱたぱたとあおぐ真似をしてごまかした。
「そうだ、セフィ、あそこの売店で売ってるソフトクリーム買ってきてくれないかな。ひとつだけ。種類はなんでもいいよ。まかせる」
「ソフトクリームですか?」
「はい、これマネーカード。使ったことないでしょ。残高まだ60円くらいあるから」
 彼を使いにやると、私は木陰の白いガーデンチェアに座りこむ。
 まだドキドキしている。私はああいう剥き出しの好意の台詞をぶつけられるのに、慣れていないのだ。
 夫だった樹はそういうことを何も言わない人だった。
 いつも私に背中を見せてずんずん先に歩いていってしまって、見失った私が途方に暮れて捜していると、戻って来て何も言わずに後ろから肩を包んでくれる。そんな愛情の表わし方をする人だった。
 ぶっきらぼうで、意地っ張りで、屈折して、どうしてこんな人を好きになったのかとよく思ったものだった。
 世界でただひとり、愛した男性。
 私は、抜けるような初夏の青空を仰いだ。
 5ヶ月前、彼が死んで、私ももう生きていけないと思った。
 まさかこんなふうに、楽しいと感じる時間がふたたび与えられるとは思っていなかった。
 樹が遺したセフィロトがそばを歩いていてくれるから、私は生きていける。
 じわりと目に涙があふれるのを感じ、私はあわててセフィロトのほうを見た。
 売店は混んでいたらしく、ちょうど彼の番が来たばかりだった。
 売り子はメタリックな外観をした汎用式の人間型ロボットで、手早く注文をさばいている。
 高齢化による労働人口の大幅な減少は、21世紀末から日本全体の産業を停滞させるまでに加速した。
 そのため、外国に例を見ないほど急激にロボットが普及し、店のレジ、清掃、交通整理など、日本の街のあちこちで彼らを見かけないところはなくなった。
 セフィロトは大きなソフトクリームを手に、私のところに戻ってきた。
「うわあ。おいしそう」
「モカ味だそうです。これが一日で一番売れると、言っていました」
「あの売り子ロボと話ししたの?」
「はい、ロボット用の汎用言語を電気信号に変換して。少しだけ大きくしてくれるよう頼んだら、大きくしてくれました」
「セ、セフィ。ちゃんとお金払ったよね?」
「それは、だいじょうぶです。不正はしていません」
 私はそれを聞いて、ふうっと安堵のため息をついた。
「便利なんだね、ロボット同士って」
「【彼】の人工知能は、真っ暗な穴みたいでした」
 目を伏せて、小さな声で彼はつぶやいた。
「ソフトクリームを売ることに何の意味があるのか、何も考えていない。意識が閉じている。
……クリンもそうです。同じロボット同士なのに、わたしには彼らの心が理解できない」
 寂しそうに言う。
 それは、セフィロト。あなたが特別なんだよ。心のあるロボットは世界であなただけ。
 そう言おうとしたことばを飲み込んだ。それを口に出すと、彼はこの世界でまったく孤独になってしまうような気がした。
「セフィ。少し食べてみて」
 私はテーブル越しに、食べかけのソフトクリームを差し出した。
「持っててあげるから、こうやって、舌でべろんと舐めるの」
 彼は言われたとおり、ピンク色の舌を出して、なめらかな表面をすくいとった。
 その仕草があまりに可愛いので、思わずもう一度リクエストしてしまう。
「どう?」
「かなり温度が低いですね。それに糖度が高すぎます。人間の味覚は低温で麻痺しますから、これくらいの糖度が必要なのですね」
「セフィ」
 呆れて私は言った。「人間はそんなことは言わないわよ。もし私だったら、どう言うと思う?」
 彼はちょっと考えて答えた。
「……『冷たくて、甘―い』」
「正解」
 私たちは、にっこり笑い合った。
「このマネーカード返します」
「あ、ありがと」
 バッグを開けてカードを入れるとき、サイドポケットの中を見て、一瞬手が止まった。
「どうしたのですか?」
 セフィロトのいぶかしむ声に、私は顔を上げた。
「セフィ。これ安全なところで処分してくれないかな。もういらないから」
 彼に厳重に密閉した小さな容器を渡す。
「これは……」
「シアン化合物」
「人間に、毒なのではありませんか?」
「うん、だからもういらないの。セフィ。あなたのおかげで、もうそれは必要ないの」
 明るい声で言おうとしたが、語尾が涙で震えた。


 樹。
 私は、あなたのところへはまだ行かない。
 それで、いいんだよね。


 セフィロトはそんな私を見て首をかしげたが、それ以上何も言わなかった。


 私たちは、プロムナードから浜辺に通じる階段を降りて行った。
 潮の香りを運ぶ風が、吹きすぎてゆく。
 私が生まれた頃にくらべて、このあたりもずっと海がきれいになった。
 淡い紅に染まり始めた空の下、白い波頭を立てながら、海は人が最初に母親の胎内で聞くのと同じ音を奏でる。
 セフィロトの柔らかい髪の毛が風にもつれて、額や眉をなでている。彼は目を細めながら言った。
「いい気持ちです」
「いい気持ちだって感じられたのね。よかった」
 私は彼の隣に立って、そっと手を握る。
「セフィにとって、いい気持ちってどんなもの?」
 今度は彼は即答した。
「胡桃のそばにいて、同じものを見ることです」


 私はまた心臓がノックアウトされて、へたへたと砂の上に座り込みそうになった。

       



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