第2章 「彼のいる風景」  (5)                 BACK | TOP |  HOME




 【すずかけの家】では、1日があっという間に過ぎる。
 お昼の給食も子どもたちといっしょに食べたセフィロトは、もうすっかり園の一員としてとけこんでいた。
「セフィったら、もう食べないの?」
「好き嫌いをすると、大きくなれないよ」
 少量しか食べ物を摂取できない彼に、子どもたちが心配してくれる。
「あの、セフィはまだ日本の食べ物に慣れてないの」
 私はあわてて、困っている彼の前からトレイをとりあげた。
「それに、ショウくん、好き嫌いしたらいけないってわかってるみたいだから、今度ピーマンが出たら、たくさんよそってあげるね」
「ちぇッ。くるみ先生の意地悪」
「さあ、みんな、外へ遊びに行こう」
 夏の日差しは日増しにきつくなってきたが、子どもたちは元気に戸外に飛び出した。
 鮮やかな緑の芝生のグラウンドの上でころげまわって遊んだあと、
「『全員サッカー』、しよう!」
 と、みんなが集まってきた。
「上級生はミッドフィールダー、中級生はフォワード、下級生はディフェンスだぞ」
「セフィはキーパーをやってね」
 仲間に入れようと、彼の手を引っぱりながら子どもたちが言う。
「キーパー、ですか?」
「ゴールキーパー。ゴールにボールが入らないように、守るんだよ」
「でも、あの……」
「だいじょうぶ、教えてあげるよ」
 彼らがわいわいと園庭の中央で楽しそうに相談しているのを、教師たちもそばに立って見ていた。
 その一瞬、時が止まった。
 アラタくんがどこからか駆け寄って来て、いきなりセフィロトのふくらはぎのあたりを、後ろから思い切り蹴飛ばしたのだ。
 みんな、唖然として動けなかった。
「アラタくん!」
 我に返ったさくらちゃんの怒鳴り声が響く。
 アラタくんは、キッと私たちをにらむとそのまま一目散に駆け出した。
 さくらちゃんがあとを追いかける。
 私はセフィロトのもとに走りよった。
「だいじょうぶか? セフィ」
 織江さんが、心配そうに気づかってくれている。
「だいじょうぶです。何ともありません」
「すまない。アラタはあんなひどいことをする子じゃないんだが」
「……わたしが、悪いのです」
「え?」
 セフィロトは目を伏せて、悲しそうな表情を浮かべていた。
「わたしはさっき、アラタくんにサッカーを教えてくださいと頼みました。でも今は、他の子どもたちとサッカーをしようとしていた。わたしはアラタくんに嘘をついたのです。これは誰かのためではない、悪い嘘です。だから、彼は怒ったのです」
「セフィ……」
 彼は、私のほうをせつなげな瞳で見つめた。
「胡桃。わたしはどうすればよいのでしょう」
 私は安心させるために、彼の手を握った。
「さくらちゃんがあとを追ったわ。私たちにまかせて」


 だが、昼休みが終わるころ、さくらちゃんは真っ赤な顔をして戻ってきた。
「アラタくんがどこにもいないんです」
 さんざん走り回って、息をきらして職員室にもどってきた彼女は、顔が汗と涙にまみれている。
「以前暮らしていた乳幼児棟のほうは?」
「行ってみたけど、いませんでした」
「では、ネームタグの発信電波の位置を調べてみましょう」
「それが、もうやってみたんですけど、何の反応もないんです。もしかしてアラタくん、タグをはずして捨てたか、壊してしまったのかもしれません」
 水木園長が、落ち着きなさいと、うろたえる彼女をなだめる。
「【すずかけの家】の園内からは出られないのですから、危険はありませんよ」
「でも、ここは広いから隠れるところはいっぱいあります。もうアラタくんは戻ってきたくないと思っているかもしれない。私、わたし……」
 さくらちゃんは、わっと泣き伏す。
「アラタくんを大きな声で怒鳴ってしまったんです。『人を蹴っ飛ばすなんて、悪い子だ』って。つい……。アラタくんは私をぶって、泣きながら行ってしまったんです。私、どうしよう。アラタくんになんてひどいことを……」
 そのとき、私の後ろに隠れるようにしていたセフィロトが、すっと立ち上がった。
「この施設のホスト・コンピューターはどこですか?」
「セフィ?」
「事務室だが」
「案内してください」
 彼の瞳の決然とした光に、みな息を呑んだ。
 水木園長に連れられて、セフィロトと私は事務室に入った。
「ドアを閉めてください」
 低く命じる彼の声に、私はおそるおそる従った。
「どうするの、セフィ?」
「これで、アラタくんを捜します」
「コンピューターで?」
 ホストコンピューターの前に立ったセフィロトは、口を少し開いて、まぶたを半分伏せ、恍惚としたような表情を浮かべた。
 とたんに、ディスプレイの画面が変わり、見たこともない速度で文字がびっしりと上へと流れ始める。
 彼の目は朝日のようなまばゆい金色に変わり、やわらかな茶色の髪は静電気の風を受けて、さわさわとなびいた。
 水木園長と私は声も出せずに、その光景を見つめていた。
 文字の濁流は3分近く続いた。時折、人工衛星の映像らしきものがちかちかと挿入される。
 あとでわかったことなのだが、彼は日本の上空にある静止衛星のコンピューターに、【すずかけの家】のホストコンピューターから侵入し、園内をズームアップさせて赤外線映像を撮らせていたのだ。
「わかりました」
 彼は、元通りの穏やかな顔で私たちにふりむいた。
「アラタくんの居場所が?」
「はい、彼はここの森の北端、……大きな木の上にいます」


 私とセフィロトは、彼が示した現場へと急いでいた。
「ありがとう、セフィ。アラタくんを捜してくれて」
 【すずかけの家】の森を並んで歩く。
「きのうの小鳥と同じです。いなくなったものは、元の場所に戻してあげなくては」
「え?」
「アラタくんを見て、思い出したのです。わたしが最初に胡桃に出会ったときのこと」
 彼は立ち止まって、にっこりと笑った。
「胡桃がわたしに「ここにいてほしい」と言ってくれたとき、わたしの中で特別なプログラムが動き始めました。それは連鎖反応を起こして、すべての可変領域に及んで行きました。
そんなことは作られて初めてでした。そのときはわかりませんでしたが、何かを「感じる」という経験だったのだと思います。あとでそれが「うれしい」という感情だとわかりました。
胡桃に必要とされているということが、わたしにはとてもうれしかった」
「セフィ」
「アラタくんにも、きっと同じ経験があればいいと思うのです」
 私はそれを聞いて、ようやく理解した。
 セフィロトの記憶の中で、私と最初に会ったのはあのときだったということを。私が閉じていた心を開き、樹と私の大切な存在として彼を抱きしめたあの日、彼の内部ですべてのプログラムが書き換えられていったのだろう。
 人間と同じ心を持つようにと。
 自律改革型ロボットAR8型セフィロト。
 彼の心の小宇宙の中で、これまでもそしてこれからも、どれほどの奇跡が起こってゆくのか、私はその一端を垣間見たばかりだった。
「アラタくんは、この木の上です」
 彼は一本の楡の木を指差した。
 鬱蒼と生い茂る木の枝の向こう、それほど高くないところにアラタくんのオレンジのトレーナーが見えた。
「あぶないから、胡桃はここで待っていてください。わたしが行ってきます」
「気をつけて」
 セフィロトは、私の目の前で木をずんずんと登っていく。
「木を登るというのは、おもしろいのですね」
 後退ろうとするアラタくんに、彼は微笑みかけた。
「じっとしていてください。それ以上後ろに行くと落ちてしまいます」
「く、来るな……」
 彼は、アラタくんから決して目を離さないようにそっと枝を伝って近づいた。
「アラタくん、サッカーを教えてくれるという約束はどうなったのですか?」
「……」
「ゴールキーパーはむずかしかったです。ボールを一度も止められませんでした」
「お、大人のくせに」
「わたしは、アラタくんよりずっとずっと、何も知らないのです」
「ヘンなの!」
「戻って来てください。わたしには、アラタくんが必要です」
 セフィロトが彼をぎゅっと腕の中に抱きしめるのが、地面の上から見えた。


 ほてった肌にひんやりと優しい涼風が吹くころ。
 アラタくんが無事に戻ってきたのを見たさくらちゃんの大泣きも、少し遅れて始まった午後の授業も、すべてが終わって、【すずかけの家】は明るい子どもたちの歓声が響く、平穏な姿を取り戻していた。
「胡桃先生」
 職員室の机の前に座っている私を、水木園長が笑いじわを深くしてのぞきこんだ。
「今日は、ほんとうにセフィを連れてきてくれて、ありがとう。おかげで助かりました」
「いいえ、こちらこそ。騒ぎを作ってしまって、すみませんでした」
「アラタくんの手を引いてセフィが帰ってきたとき、私は樹くんを思い出したのですよ」
「樹を……?」
「思えば樹くんも、アラタくんみたいに手のかかる子でしたからねえ。頭が良すぎて、僕たち大人の建前や嘘が見えてしまったのでしょうね」
 園長先生は、遠い思い出を懐かしむように、視線をはずした。
「あの樹くんの作ったセフィが、アラタくんの心を一番よく理解できたというのが、僕にはなんだかとても嬉しかったですよ」


「セフィ。待たせてごめん」
「胡桃」
 木陰の花壇のところに座って子どもたちを見ていたセフィロトは、ゆっくりと立ち上がった。
「だいじょうぶ? なんだか疲れてるみたいに見える」
「今日はエネルギーを使いすぎました。今電力節約モードに切り替えたところです。2時間以内に充電装置に入らなければなりません」
「じゃあ、早く家に帰ろう。私も引継ぎが終わったから」
「またここへ来てもいいですか?」
 彼は心配そうにたずねた。
「アラタくんに、次に来たときサッカーを教えてもらう約束をしました。来られないと、嘘をついたことになってしまいます」
「そうね。嘘はいけないから、じゃあ来週連れてきてあげる」
「ありがとうございます」
 彼は、抱きしめたくなるほど無邪気な笑みをうかべた。
「それはそうと胡桃。不思議な発見をしました」
「何?」
 彼は私の手を引っぱると、園庭の隅にある大きなすずかけの木の下に導いた。
「なぜか、この木のそばに立つと、とてもいい気持ちになれるのです。なんだかとてもうれしいような、でも少しだけ悲しいような……。何故でしょうか?」
 そう言って梢を見上げる彼。
 一幅の絵のようなその光景を、私はぼう然として見つめた。
『胡桃、俺はこの木の下に立つと、ふるさとに帰ったみたいでほっとするんだ』
 片手を幹にかけて、梢を懐かしそうに見上げる夫の姿が彼と重なる。
 柔らかい樹の声が、セフィロトの透き通った声に重なる。
 思わず、涙があふれた。
「胡桃。泣いているのですか?」
「う、ううん。違うよ。ただ木漏れ日が目に入って、まぶしかっただけ」
 私はあわてて、ひらひらと手を振って否定した。
「胡桃。嘘をつきましたね」
 顔をしかめて、彼がにらむ。「嘘はいけないのですよ」
「そ、そういえば、セフィ」
 私はなんとか話題を変えようと、涙をぬぐいながら、思いついたことを言った。
「さっき、きのう小鳥がどうとか言ってたけど、あれは何のこと?」
「……あ……」


 セフィロトは今日、「嘘は必ずばれる」ということを最後に学んだ。
         



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