第8章 「再生への序曲」  (1)                 BACK | TOP |  HOME




 ねっとりと粘り気を帯びて、私の体にまとわりつく液体。
 息苦しさに耐えかねて、目を開く。
 するとそれは全て夢で、私は普通に呼吸しており、それでも肺が空気を渇望して大きくあえいでいた。
「胡桃ちゃん」
 焦点を合わせようと試みているうちに、記憶がおぼろげによみがえってくる。
 私を心配そうに見下ろしている犬槙さんを、そして彼の隣に立っているセフィロトを見たとき、私は怒涛のごとき不条理な恐怖に押し流された。
「あ……、あああっ」
 ことばが出てこない。獣のようなうめき声が口から洩れるばかり。
 ただ身をよじって、彼らから顔を隠す。
「セフィロト。……いや、樹」
 犬槙さんの低い、苛立ちを抑えた響きの声がした。
「胡桃ちゃんはまだ錯乱している。おまえはしばらく席をはずしてくれないか。僕がすべてを説明するから」
「……わかった」
 ドアが開閉するヒュンという音がした。
 ややあって、誰かの手が私の腕に触れた。
「いやあっ。……っめてっ。ああぅ……」
「わかった、わかったよ、触らないから。胡桃ちゃん、落ち着いて」
 小さな子をなだめる口調でそう言って、犬槙さんはやがて私のそばを離れていった。
 ゆっくりと顔を上げる。
 そこは研究室の隣の仮眠用の小部屋で、私はベッド兼用のソファに寝かされていたのだった。
 犬槙さんは、隣のユーティリティからコーヒーのカップを持って戻ってくる。
「飲んで。胡桃ちゃん」
 テーブルの上に湯気の立つカップを置くと、そのまま犬槙さんは部屋の反対の隅まで行って、椅子に座った。
 長い時間をかけて、私はうずくまっていた身体を動かし、カップを両手で抱えてすすり始めた。自分の体がおずおずと、現実の次元に降り立ってゆくのを感じる。
「驚いただろうね」
 私が熱い液体を喉に流し込むのを見ながら、彼は静かに口を開いた。
「きみには初めから説明しなきゃいけない。がまんして聞いてほしいんだ。いやならすぐやめるから」
 私は返事のかわりに、力なくうなずいた。
「セフィロトの開発には、長い歳月がかかった。僕が主にハードウェアを、樹が人工知能のプログラミングを担当したのは知っているとおりだ。
樹の人工知能理論の目標は、人間の心の働きを完璧に真似ることだった」
 まるで自動人形みたいに、ただ先を促すために、もう一度うなずいた。
「心の構造を氷山にたとえ、意識・無意識・前意識に分けるとしたフロイトの説は今はすたれているようだが、樹はかなりそれに近い考え方をしていた。精神を多層構造として見ることは、脳の生物学的形態とも一致している、とね。
【人工知能多層化理論】と樹はそれを呼んでいた。そしてロボットの人工知能の中を何層かに分けた。
表層の知識・思考の可変プログラム。
その下に、「人を殺すな」という戒めに代表される絶対禁忌や、自発的行動プランの源泉となる感情プログラムを配した。
だが、それだけでも人間らしい人工知能に育つには不十分と考えた樹は、他に存在したことのなかった究極のプログラムを作り上げた。それが【人格移植プログラム】だった」
「人格……移植……」
 私がようやく口をきいたことで、犬槙さんはやつれた顔に少し笑みを浮かべた。
「ひとりの人間の過去の記憶や経験を、人工知能のいちばん底に組み込むことによって、全体に整合性を持たせる。
いわばひとつの人格としての人工知能。そして、それを入れる容器としてふさわしい、人間と寸分違わぬ動きを再現することのできる肉体。
それが、AR8型開発における僕と樹のテーマとなった。
そして、もう薄々わかったと思うけど、その【人格移植プログラム】の実験体となったのが、……樹自身だった」
 犬槙さんは上を仰ぎながら深い、深い吐息をついた。
「僕には、まるであいつが自分自身の生命を、セフィロトに注入しているように見えたよ。
樹は、自分の思考、感覚、感情、記憶、すべてのものを丹念に克明にプログラムし続けた。最後はそれこそ眠る間も惜しんで、命を削って。まるで死という運命に抗っているようだった。朽ちていく自分を永遠に形に残すことで。
観葉植物の趣味も。コーヒーの淹れ方も。声の出し方。キスのしかた。
そして、胡桃ちゃん、きみの記憶も、きみに対する愛情も、……すべてだ」
 私は気の遠くなるような心地で、この一年間のセフィロトとの日々を瞼の裏に思い浮かべていた。
 最初に彼の声を聞いたとき、樹だと思ったこと。
 【すずかけの家】で大木の下に立ったとき、セフィロトがなつかしいと言ったこと。
「あれはすべて、樹だったの……」
 涙があふれた。
 オルゴールを握りしめながら「胡桃、ごめん」と謝ったこと。「死にたくない」と私の肩で震えていたこと。あれはすべて樹が言っていたことだったの?
「違う」
 犬槙さんは、静かに首を横に振った。
「本来なら、【人格移植プログラム】は最深層にあって表面には出てこないものだ。
樹もいたずらに自分の姿を思い起こさせて、きみを困惑させるつもりなどなかった。だから僕もそのことを決してきみに打ち明けるつもりはなかった。
ただ僕たちは、きみに樹の自慢のおいしいコーヒーを、いつまでも飲ませてあげたかっただけなんだ。きみが生きる気力を失わないように、一生のあいだそっと支えてあげる存在。セフィロトをそんなロボットに作り上げることが樹の望みだったのだと思う。
第一たとえどんなに望んだとしても、たとえどんな優秀なプログラムを組んでも、人ひとりの意識をまるごと移植できるようなものは出来はしない。所詮それは、人格の断片情報にすぎない。セフィロトの中に本物の樹がいるわけではないんだ」
「それなら、なぜ……」
 セフィロトを樹と呼んだの?
「信じられないことが起きたんだ。本来深層にあるべき【人格移植プログラム】が、意識の表層に出てしまった。
銃に撃たれたことによる故障が原因で、偶然に外部との遮断が起きた。あのとき、セフィロトは自分のプログラムをすべて書き換えてしまったんだ。深層の樹の情報が核となる新しい意識を作り出してしまった。
今、彼は自分を樹だと思い込んでいる」
「どうして……どうしてセフィはそんなことを」
「この二週間、カプセルに横たわるセフィロトの内部に直接呼びかけ続けた。でも返って来た答えは一度だけ。
……『古洞博士ニ、ナリタイ。ソシテ、胡桃ニ、愛シテホシイ』」
「ああ……」
 それはセフィロトが最後に言い残そうとしたことばだった。
『もし、願いが本当にかなえられるとしたら、古洞博士が生き返ることを願いますか?』
 初詣で、そう寂しそうに問いかけた彼。
 彼は、樹になることを心から願ったのだ。そして、自分を消してしまった。
「うそよ……、そんな」
 そんなことが。
「本当なんだ」
 犬槙さんが、答える。
「だから、今までいた、僕たちの知っているセフィロトは、もうどこにもいないんだ。
彼を今の呪縛から解放する道は、初期化しか残されていない」
 そうだとしたら、セフィロトを殺したのは私だ。
「それともきみは、自分を樹だと思い込むあのロボットを、手元に置きたいと思うか?」
「ううっ」
 犬槙さんのそのことばがあまりにも残酷に響いて、私はこらえていた嗚咽を吐き出した。
 セフィロトはもういない。
 ひとつの命を、私の頑なな心が壊してしまった。
「会わせて……」
 私は、よろめきながらソファから立ち上がった。
「彼に会って、それから決めさせてください」
「わかった。そのかわり僕も同席する。いいね」
「はい……」
 私たちは、彼が待っている研究室へのドアをくぐった。




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