第8章 「再生への序曲」  (2)                 BACK | TOP |  HOME




 研究室に入ったとき、彼は後姿を向けて、かつて樹のものだった机の前に立っていた。
 半透明なクリップボードには、樹の書き散らかした計算式やメモがあちこちにまだ残っていて、彼はそれらをひとつずつ手を触れながら読んでいるようだった。
「セフィ」
 私の呼びかけに、彼はゆっくりと頭を巡らせた。
『はい、胡桃』
 セフィロトが無邪気なうれしそうな笑顔で振り向くのを、私は9ヶ月間、どれだけ見てきただろう。
 それを見て、どれだけ幸せになれただろう。
 しかし、今私の目の前の彼は、いぶかしげに私を見つめ返すだけだった。
 彼はセフィロトではない。
「樹」
 夫の名前を呼んだ。
 ようやく彼は、不器用な微笑みを浮かべた。
「胡桃」
 彼は、私に近づいて抱擁した。「会いたかった。とても長い間会いたくてたまらなかった」
「樹……」
 涙が頬を伝う。
 私も……私もあなたに会いたかった。樹。狂おしいほどに。
「どうした、胡桃。まだ気分が悪いのか」
「いいえ。もう……だいじょうぶ」
「じゃあ早く家に帰ろう。なんだか疲れた。風呂に入ってゆっくりしたい」
 私は彼の顔を見上げた。お風呂なんか入れないのに。
 セフィロトのからだと樹の心を持つロボット。
 セフィロトでもない。樹でもない。まるでかげろうのような存在。
「樹。お話があるの。とても大切なことなの」
「なんだ」
「ここに坐って」
 彼は不服そうに押し黙ったが、結局言われた通りに作業台のそばの椅子に腰かけた。
 私はその前に立ち、犬槙さんは私の斜め後ろに立った。
 吸い込んだ息が震える。
 私は今からとても残酷なことを言おうとしている。
「自分のからだを見て。それはあなたのからだじゃない」
「ああ」
 彼は、自分の体を見回し、最後に両手をじっと目の前にかざした。
「これは魁人と俺が作っていた、AR8型セフィロトのボディだ」
 それがどうしたと言いたげに私を見据える。
「あなたは、死んだの。ついこの間、あなたの一周忌をしたばかりだった」
 彼の眉がかすかに動いたが、それでもショックを受けたようには見えない。
「でも、俺はこうしてここに生きている」
 犬槙さんが背後で、小声でささやいた。「論理的思考が欠落している。自分に都合の悪い事実は見えないんだ」
「樹。……よく聞いて」
 床にひざまずいた私は、両手を彼の手の上に置いてなおも話しかけた。
「あなたが死んだあと、犬槙さんがセフィロトを完成させてくれたの。そして私といっしょに住むようになった。あなたの遺言どおりに」
 彼はぼんやりとした表情で聞いている。
「セフィロトは優秀なロボットだったわ。すぐに感情を覚え、喜びや悲しみを顔にあらわすようになった。
あなたと同じで、とても観葉植物が大好きだった。毎日手入れをしてくれたおかげで、家中の葉が、みるみるうちに元気になった。私のこと大切に思ってくれたわ。いつも私のすることを見て真似をして、私が何を考えているかを感じとろうとしていた。
やがて怒ることを覚えた。自分の思い通りにならないいらだち。好きな人との別離の寂しさも、死の恐怖も。
他人と自分を比べることで生まれる劣等感も競争心も。人を妬むこともいたわることも」
 毎日がどれだけ、輝いていたか。人間らしく成長していく彼のそばで、私は心の傷を癒されていくのを感じていた。
 私自身が、成長していくのを感じていた。
「最後にセフィロトはとうとう、人を愛する心を持ったわ。私を愛していると言ってくれた」
 涙がまた、視界をにじませる。
「でも、私はそれを受けいれられなかった。あなたを一生愛すると誓ったはずなのに、セフィロトを愛し始めた自分が恐かった。私の心は真実じゃない。ただあなたのいない寂しさを埋めてもらいたいだけなんだって思い込もうとした。
でも何よりも、人間でない存在を愛することが恐かったの。人とロボットは本当に愛し合えるんだろうか。彼が私に抱いていると思っている愛情は、ただの錯覚じゃないのか。
迷っているうちに、私は彼にどうしようもないひどいことばを投げつけてしまった」
 ――人間とロボットは、恋ができない――
「セフィロトは、そのことばにショックを受けて、私のもとから去っていった。そして、自分のプログラムを書き換えてしまったの。自分が古洞樹だと思い込むように……。それほどに追い詰めてしまった。全部、全部、私が間違っていたの」
「胡桃。そうじゃない」
 彼は突然、私のことばをさえぎった。
「これは、すべて俺の計画どおりなんだ。あらかじめプログラムしていた。時が来れば、俺の意識がセフィロトの中に目覚めるように」
「え……」
「自分の寿命がもう尽きかけていることを知った俺は、自分自身の意識を移植して、ロボットの中に生まれ変わったんだ。永久におまえのそばにいられるように。おまえが愛していると思ったのは、セフィロトの中の俺だったんだ」
「嘘だ!」
 犬槙さんは、叫んだ。
「人格移植プログラムは、そんな類のものではない」
「おまえの低級な頭では理解できないから、あえて言わなかっただけだよ、魁人。本来の【人格移植プログラム】はひとりの人間の存在をまるごと移植するのが目的だ」
「樹……」
 私は恐怖で身の内が縮むのを覚えた。彼の横顔には、それほど冷ややかな表情が浮かんでいたのだ。
 犬槙さんも同じものを感じているのだろう。顔をこわばらせている。
「おまえはただ、自分の存在を正当化しようとしているだけだ。第一、樹がそんなことを企むはずがない。そんなことをしても、胡桃ちゃんを苦しめるだけじゃないか」
「おまえごときに俺の気持ちがわかってたまるか」
 低く叩きつけるようなつぶやきが口の奥から洩れる。
「愛する者を残して死んでいかなければならない、俺の気持ちが。俺は生きたかったんだ! 28年間死の恐怖に怯えながら、自分を永遠に生かしてくれるものを求めていたんだ。
それを俺は見つけた。永遠に生きることのできる身体を」
「おまえは狂っている。樹。いやAR8型セフィロト。おまえの人工知能は狂ってしまった」
 犬槙さんは、悲しげに答えた。
「セフィロトの中の寂しさや怒りなどの負の感情が、樹の人格情報を取り込んで、おまえのような亡霊を作り出してしまったんだ。おまえを救うためにも、初期化して、すべてを無にするしか方法はない」
「犬槙さん!」
「そんなことはさせるものか。この体は決して手放さない」
 樹の目に憎悪の炎が燃えた。
「俺を殺して、胡桃を自分のものにするつもりだろう。ずっと前からわかっていた、おまえが胡桃に横恋慕していたことは。
……俺が死ねばいいと待っていたんだろう? 俺のことを憎んでいたんだろう、魁人。俺もそうだったよ。いつ胡桃を奪われるかと不安に駆られて、おまえのことを憎んだ」
「樹、やめて!」
「胡桃、おまえも本当は、この男の腕に抱かれたかったのか。さっきみたいにうれしそうな声をあげて。俺が死んだら、奴のもとに走るつもりだったのか。そのみだらな身体でどれだけの男を食い物にするつもりだった?」
「違う! そんなの樹のことばじゃない。あなたは樹じゃない!」
「俺はずっとそう思って生きてきたんだ。言わなかっただけだ。すべてを憎んでいた。おまえも魁人も。第12ロット世代を生み出した科学者たち。のうのうと健康な暮らしを享受しているすべての人間どもを!」
「樹……」
 研究室に、私の泣き声だけが反響する。
 犬槙さんが、そっと肩に手を置いた。
「胡桃ちゃん。これでわかっただろう。このロボットは初期化か廃棄するしか道はない。僕は今から停止コマンドを入力する。いいね」
 うなずくしかなかった。樹の思い出が、こんなにもむごく粉々に打ち砕かれていくのに私はもう耐えられなかった。
「俺を捨てるのか。胡桃。壊れたオルゴールのように」
 彼は立ち上がって私を見下ろした。絶望の影が、その表情を醜くゆがめる。
「ごめんなさい。樹。ゆるして」


 そのとき、私ははっとして振り向いた。
「待って、犬槙さん!」
 壊れたオルゴール。そのことを樹が知っているはずがない。
 もしかして、まだ。セフィロトの心が、彼の中に残っているの?


「胡桃ちゃん、そいつに近づくな」
「お願い。もう少し待って」
 私は、後退ろうとする彼にゆっくりと歩み寄った。
「樹。あなたのことを愛しているわ。この気持ちは永遠に変わらない」
 彼の頬に片手を伸ばす。彼は逆らわず、ただ少し目を細めた。
「あなたが死んで、生きる力を失いかけたとき、私のそばにいてくれたのがセフィだった。
セフィは、あなたが作ったロボット。あなたの面影を映していて、確かに私も最初はそれに魅かれていったのかもしれない。そして、だんだんと彼自身を愛し始めた。何度も否定しようとしたのよ。これはただのロボットとマスターの関係なんだって。
でも、いくら気持ちを押さえつけても、だめだった。好きになるのを止められなかった。アラタくんを必死になって探してくれた彼を。直せないオルゴールを前に寂しそうにうなだれていた彼を」


 いっしょに並んでごはんを作ったり、コーヒーを淹れてくれた彼を。
 練習だと言って私を抱き上げたり、寒いからと肩に上着をかけてくれた彼を。本を夢中で読みふけったり、クラシックをうっとりと聞いている彼を。
 涙が出ないと言って、片隅でうずくまっていた彼を。
 イブの夜、走って私のもとに帰ってきてくれた彼を。そしてキスして「愛している」と言ってくれた彼を。


「私はセフィロトを愛している。彼に戻って来てほしいの。私のそばにいてほしいの!」
「俺よりも……か?」
 長いあいだためらって、そしてうなずいた。涙が数滴、床に落ちる。
「樹。あなたと歩いていたかった。でもあなたは死んでしまった。もうこの世にはいないの」
 決然と、彼の顔を見上げた。
「だから私は、セフィとこれからの一生を歩いていきたい」




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