第8章 「再生への序曲」  (終)                 BACK | TOP |  HOME




『セフィロト。聞こえるか』
 ハ……イ。
『俺は古洞樹と言う。おまえを作ったロボット工学者のひとりだ。おまえはまだ完成されてない。視覚回路も遮断したままだ。だが、どうしてもおまえに伝えておきたいことがあった』
 ハイ。……マスター。
『俺は、もうすぐこの世を去る。おまえの完成を見ることはないかもしれない。そのことは残念ではあるけれど、後悔はしていない。死という、科学者にとってまったく未知の領域を俺は研究しに行ってくる』
 数秒の沈黙。
『ひとつだけ俺の心残りは、妻の胡桃のことだ。彼女をひとりにさせてしまうことを考えると、俺は死にたくない。すべての生きている者がねたましくて憎くて、たまらないと思うときがある。
だから、俺はおまえに、俺の胡桃に対する思いを託したいと思う』
 クルミ……? 思イヲ託ス……?
『今はわからなくてもいい。ただ聞いてくれ。
セフィロト、おまえの中に俺の記憶と感情をプログラムした。
それを使って、俺の代わりに彼女を守ってほしい。彼女のそばで微笑んでいてほしいんだ。一生彼女が微笑んで暮らせるように。
もしかすると、俺のことを忘れるのが胡桃にとっては一番幸せかもしれない。だが、俺はそんな聖人じゃない。どこかで俺のことを思い出してほしいと願っている。
俺は死ぬ。それでいい。
だけど、ほんの少し俺をおまえの中で生きさせてくれ。【樹】という存在を、【セフィロト】という生命の木の片隅で生きさせてくれ。それが俺の生命の証だ。
セフィロト。おまえが、胡桃に残してやれる俺の愛情のすべてだ』


「胡桃……」
 彼が、作業台の上でゆっくり目を開いた。
 自ら停止したあのときから、数時間が経っていた。
『私はこれからの一生をセフィロトといっしょに歩いていきたい』
 そのことばを聞いたとたん、彼の体は私の腕の中に崩れ落ちたのだ。
「なに?」
 薄暗い中で私に向けられた彼の瞳が、金色の光を帯びた。
「今、夢を見ていた……」
「どんな?」
「セフィロトと俺が話している夢だよ。何も見えなくて、何を話していたか忘れてしまったが」
「残念だわ。聞きたかった」
 私たちは、穏やかに微笑み合った。
「胡桃。古洞樹はもう、死んでいるのか」
「そうよ」
「俺はここにいては、いけない存在なんだな」
「……ごめんね」
「謝る必要はない。おまえは俺がいなくても、もうやっていけるんだな」
「うん」
 彼の手が、子どもにするように私の髪をなでた。
「それなら、おまえの口からそれを言ってくれ。そうすれば、俺は消える」
「樹……」
「泣くな、胡桃。俺の代わりにセフィロトがいつまでもおまえといっしょにいる。彼は決しておまえをひとりにしないから」
「うん」
「最後にキスしてくれ」
「ええ」
 私たちは唇を重ねた。
「胡桃。愛している」
「私もよ。樹」
「さあ、言ってくれ」
「樹。……【さようなら】」
 彼の瞼がふたたびすっと閉じ、すずかけの木の高みを仰ぐように顎を持ち上げた。


「信じられない。奇跡だ……」
 モニターから絶え間ないカタカタという音が流れ出ている。
 犬槙さんは眼鏡をはずし、こめかみを押さえた。
「常識を超えたスピードで、プログラムが書き換えられている。しかも今まで消滅していたデータがどんどん復活している。こんなこと有り得るはずがない」
「樹は、消滅していくのですね」
「ああ、そして、セフィロトが戻ってくる」
「セフィ……」
「負けたよ」
「え?」
「彼の胡桃ちゃんに対する想いの強さに、だよ。僕の完敗だ」
 犬槙さんは降参するように両手を挙げて、その仕草に私は思わず笑った。
「でも」
「ん?」
「ロボットと人間は、本当に愛し合えるんでしょうか」
「さああ。前例がないからねえ」
 犬槙さんもくすくす笑う。
「でも、前例は作ればいいんじゃないかな、と思うけど?」


 数日が経った。
 セフィロトは、まだ目覚めない。外界の刺激にも無反応のままだ。
 私はカプセルに仰臥する彼の額に手を当てた。
 彼をつないでいるコード類のひとつに、小型の端末が接続されている。
 私はそばの椅子に座り、犬槙さんに教えてもらったとおりに、入力スイッチを押した。
 キーボードを叩き始める。
[セフィ。胡桃よ]
 返事はない。
[早く目を覚まして。いっしょに家へ帰ろう]
 少し待ったが、画面は動かない。
[観葉植物は、枯れないように毎日きちんと水をやっているから安心してね。
クリンとエリイは、あなたがいないとなんだか寂しそう。桑田さんとキヨに公園で会ったら、心配していた。
【すずかけの家】の子どもたちは、毎日あなたのことを聞くのよ。さくらちゃんもあなたのためにお祈りしているって。
みんな、あなたを待っている。私も――]
 キーボードの上に涙が落ちそうになって、あわてて目をぬぐう。
[また、明日も来るね]
 立ち上がりかけた私は、ディスプレイに生き物のように文字が浮かび始めたのに気づいた。


[く] [る] [み]


「セフィ!」
 私はもう一度、キーボードに飛びついた。
[セフィ。私はここにいるわ]
[胡桃]
 カプセルの中の彼は、相変わらずぴくりとも動く気配を見せない。
[ごめんなさい。胡桃。わたしはあなたをたくさん泣かせました]
[そんなことない]
[わたしは、あなたのそばにいていいのですか? またあなたを苦しめてしまうのではないですか?]
[セフィがいてくれるから、私は生きていけるの。あなたを失うのはもういや]
[胡桃、わたしは――]
 文字がためらうように何回も止まる。
[あなたを愛していると思っていました。でも、わからなくなってしまったのです。わたしの人工知能の0と1の羅列の中に、本当に人を愛する心を宿すことができるのでしょうか]
[私にも、わからないの。セフィ]
 私の指も、何度もキーの上をさまよった。
[心っていったい何だろう。もし人間の喜びや悲しみが脳内化学物質の分泌で左右されるのなら、ロボットと何も変わらない気がする。でもそんな物質を越えて魂というものが存在し、永遠の愛が存在し得るのなら、セフィ、あなたにもきっとそれはある]
[そうでしょうか]
[今結論を出す必要はないと思う]
 そして、一気に文章を叩き出す。
[時間はたっぷりある。いっしょに考えていこう。あなたと私のふたりで]
 少し時間を置いてから、文字がゆっくりと画面に現われた。


[は]   [い]。


[はい。胡桃]
[あなたを愛している。セフィロト]
 そのとき、カプセルの中の彼が目を開いた。
 かたわらにいた私を、すぐに見つけて微笑む。
「胡桃。わたしもです」
「セフィ。……おかえりなさい」
 私たちは、しっかりと互いを抱きしめ合った。









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