番外編(6) 「悩める妻への処方箋」             BACK | TOP | HOME





 どうしよう。まさか自分たちのことが、こんな噂になっているなんて。
「セフィ先生と胡桃先生って、絶対に『かかあ天下』だよね」
「うん、胡桃先生って、いつも命令してるもんね」
「セフィ先生、尻に敷かれてるよねー」
 【すずかけの家】の七歳児クラスで、ささやかれているのを聞いて、胡桃は頭をかかえこんでしまった。
 セフィロトとの結婚を決めたとき、胡桃は固く心に誓ったはずだった。もうマスター風を吹かすのはやめよう。謙虚で貞淑で、ひたすら夫の顔を立てる妻になろうと。
 けれど、習慣というのは恐ろしい。
 セフィロトが古洞家に来てから二年間のあいだに培ったふたりの力関係は、ちょっとやそっとでは変わりそうにないのだ。
「胡桃、今日の宅配は、栗が届いているはずですよ」
「うわ。この季節に珍しい。じゃあ今晩は栗ごはんにしよっか」
「はい。それでは、わたしが支度をしますから、そのあいだ胡桃はテレビの録画を見ていてくれますか」
 帰りがけにこんな会話を交わす夫婦は、誰がどう見ても、『かかあ天下』なのだろう。
(だいたい、セフィが悪いのよ)
 結婚して二ヶ月が経とうというのに、彼はいまだに胡桃に対する丁寧な言葉づかいを改めようとしない。プログラムの改変は思ったより手間がかかるのだそうだ。
 けれど。やっぱり。
(心のどこかに、私がセフィを育てたという傲慢な思いが残っているんだわ)
 妻が夫に抱くというよりも、母親が息子に抱くような支配的な愛情。これを整理しないと、ふたりは健全な夫婦にはなれないかもしれない。
「セフィ。今日は私がひとりで、ごはんの支度をする。セフィはテレビの録画でも見てて」
 帰宅したとき、決然と宣言した胡桃に、セフィロトは怪訝な顔をした。
「なぜですか。『愛の嵐』は胡桃が見たかった番組でしょう。来週が最終回だから、たまっていた録画を全部今週中に見なければと言ってたのは胡桃じゃありませんか」
「でも、いいの。疲れている夫に帰宅後の時間をゆっくり過ごしてもらうのは、妻の務めなの」
「ロボットは、人間みたいに疲れたりしません。疲れているのは胡桃のほうでしょう」
「でも、セフィが働く分の充電代が節約できるわ。エネルギー削減は全地球的な急務なのよ」
「なんだか胡桃の言っていることは、おかしいです」
 セフィロトは首をかしげた。
「わたしたちは同じ仕事をしているのだから、どちらか都合のいい方が家事をこなせばよいことでしょう。ことさらに胡桃がわたしよりも働かなければならない理由はありません」
「でも、私はそうしたいのよ」
 急に涙ぐんだ声を出した胡桃に、セフィロトは驚いて黙り込んだ。
「私はあなたを支配したくないの。いつも私の命令にあなたが従っているなんてイヤ。もっとセフィには、夫らしく偉そうに威張ってほしいの」


「胡桃先生も、つくづく古風な女だなあ」
 【すずかけの家】の超天才五歳児、木暮アラタは嘆息した。
「でも、その上級生の噂はオレも聞いたことがある。『かかあ天下』なんて、二十世紀の遺物みたいなことば、どこのどいつが使い始めたんだろうな」
「それを聞いて、胡桃は傷ついてしまったんですね。知りませんでした」
 セフィロトも、しみじみと答える。ふたりは昼休みのひととき、葉を落とした藤棚の下に並んで座り、空を見上げていた。
「わたしはそんな噂、気にする必要はないと思うんです。胡桃がわたしのことを大切にしてくれることは、少し観察すればすぐわかることです。支配だなんて、とんでもありません」
「おいおい、どさくさにまぎれて、ノロケかよ」
 アラタくんは、『やってられない』と言わんばかりに、肩をすくめた。
「けど、セフィ、おまえもよくないんだぜ。その言葉づかいじゃあ、主人と召使の関係と思われてもしかたない」
「そうなんですよね」
 セフィロトは肩を落とした。
「わたしも出来る限り、言語プログラムの改変を試みているんです。でも、胡桃を前にすると、なんだかタメ口を利くのが、とても恐ろしいことのような気がして」
「おまえって、つくづく変なロボットだよな。ものごとを割り切って考えられない。自分で作ったプログラムに自分で従えない。いつもふたつの基準のあいだで板ばさみになって悩んでるもんな。人間らしいというか何というか」
 アラタくんは、ぽりぽりと頭をかいた。
「で、オレに何をしろと」
「アラタくんに、ぜひ話し方の模範を示してもらいたいんです。胡桃に対して、いかにも威張っているように」
「どうしてオレが?」
「水木園長や栂野副園長にご指導を頼もうと思ったのですが、おふたりとも、ちっとも威張ってないんです。考えてみれば、【すずかけの家】で一番偉そうなしゃべり方をする才能があるのは、アラタくんじゃありませんか」
「……おい。それって、全然ほめことばになっていないって」


 毎年二月になると、【すずかけの家】の生徒40人と教師たちは、長野県へ二泊三日のスキー合宿に出かける。
 卒業前の最後のお別れ会を兼ねた催しだ。今年は特に、水木園長の退職壮行会も兼ねているから、いつもは隔年交替で参加することになっている教師たちも、今年はほぼ全員が参加した。
「セフィ。携帯用の充電装置は持った?」
「あ、ああ。持ちま……った」
 アラタくんのつきっきりの特訓もあまり功を奏せず、セフィロトの言葉づかいは、およそ直っているとは言いがたい。
「それじゃ、胡桃、行くぞ、ましょう」
「セフィ。……日本語ヘン」
 会話もぎくしゃくして、ふたりでいっしょにいても黙っている時間が増えてしまった。
(こんなことになるのなら、言葉なんかに拘るんじゃなかった)
 胡桃は深く後悔していた。他の人からどう見えるかなんて、たいしたことではなかったのに。
 人間に対する丁寧な言葉づかいは、ロボットにあらかじめ組みこまれているプログラムであり、ロボットの個性なのだ。その個性を否定して、人間の夫らしく振舞ってほしいと願うのは、彼女のわがまま以外の何ものでもない。
 でも、もしかすると。
 胡桃はいつのまにか、前の夫・古洞樹のようなぶっきらぼうな話し方をセフィロトに求めていたのかもしれない。
 無意識のうちに、セフィロトを樹に重ねて見てしまった。
(私は馬鹿だ。セフィだけを愛すると誓ったはずなのに、その誓いを踏みにじるようなことをしたんだわ)
 今晩スキー場で、もしふたりになるチャンスがあったら、ちゃんとあやまろう。バスの中で、胡桃はそう決意していた。


 東京と長野県を結ぶ東信越ハイウェイを使えば、目的地の白馬には約四十分で到着する。
 途中、彼らは松本で下車し、松本城や旧開智学校を見学した。安曇野では、雪に埋もれた道祖神を見たり、わさび園の水車小屋では、年間を通じて摂氏十三度を保つという湧き水に触れて暖かさを確かめたり、本場の信州そばに舌鼓を打った。
 今日から滞在するスキー場に向かったのは、午後二時ごろだった。
「このところぬくかったし、昨日は雨が降ったけん、雪崩に気ぃつけてな」
 途中休憩の駐車場で、全国各地から来たバスのドライバー同士が言い交わしている。
 今年は例年になく早く冬が訪れ、白馬までの道路から見える周囲の山は雪一色に塗り替えられていた。だが、道路の路面は地熱循環システムとロボットによる定期清掃で、きれいに除雪されている。
 一行は何の不安も感じることなく、到着後の初すべりや、今晩のお楽しみ会に思いを馳せていた。
 一番前の座席に座っていたセフィロトが突然、立ち上がって叫んだ。
「停まってください!」
 運転手は、あわててブレーキを踏んだ。
「どうしたんです。何が起こったんですか」
 最後尾の栂野副園長が、バスの通路を猛牛のように突進してきた。
「雪崩の音がします」
「雪崩?」
「何も聞こえない……」
「いや、かすかにバスが揺れてるよ!」
 先生も生徒たちも、耳をすませながら顔を見合わせた。
「収まったようです」
 セフィロトはやや安堵の表情を見せながらも、緊張を解くことはなかった。
「雪崩が起きたのは、この少し先だと思います。ちょっと見てきますから、バスを路肩に停めて、待っていてくださいますか」
「は、はい」
 運転手は、従順にうなずいた。
「椎名先生。わたしが戻ってくるまで、決して子どもたちを外に出さないでください」
「わかった、まかしとけ」
 体育教師は、わざと陽気に答えた。車内に不安な空気が広がる。ベソをかいて、先生に抱きしめられている子もいる。
「では、行ってきます」
「セフィ」
 胡桃の脳裡に、そのとき最悪の予想図がよぎった。崩落現場にひとりで赴いたセフィロトが、ふたたび起こった雪崩の中に巻き込まれて消えてしまう光景を。
 若くして愛する夫を亡くし、筆舌に尽くしがたい悲しみを舐めてきた胡桃は、運命に対して普通の人よりもずっと臆病なのだ。
「セフィ、待って!」
 前の扉を開けてバスを降りるセフィロトのあとを、胡桃は追おうとした。
「胡桃先生」
 セフィロトは振り返って、なだめるように言った。
「バスの中にいてください。雪崩のあった地点はまだ危険です」
「でも、ひとりではもっと危険よ。もうひとり一緒に行動したほうが、四方に気を配れるわ」
「わたしには、そんな必要はありません。ここにいてください」
「じゃあ、行くのをやめて!」
  胡桃は叫んだ。すでに半分、理性をなくしている。
「救助が来るのをいっしょに待てばいいのよ。あなただけが、わざわざ危険な目に会う必要なんかない!」
「無理を言わないでください」
 セフィロトは、いらだちを抑えた険しい表情で答えた。
「わたしはロボットです。人間に危険が及ぶとき、真っ先に行動して危険を回避するのがロボットの役目です。そのための能力も与えられているのです」
「いや! だって、あなたはロボットである前に私のたったひとりの夫なのよ。あなたが行くなら――私もいっしょに行く!」
 次の瞬間、セフィロトは眉をキッと吊り上げた。
「だめだ!」
 雷鳴のような怒鳴り声。
「おまえは、子どもたちといっしょにここにいろ。いいか。絶対に外に出るな!」
 胡桃はびくんと硬直した。「は、はい」
 バスを降りたセフィロトの後ろ姿があっというまに遠ざかっていくのが、曇りかけたフロントガラスから見える。
 バスの中はしばらく、外で雪の降る音が聞こえるほどに、シーンと静まり返っていた。
「……おい、今のセフィ」
 数学の小松先生が生唾を飲み込むと、言った。「なんだか……別人入ってたよな?」
「胡桃先生に向かって、『おまえ』だって」
 子どもたちも、怪訝そうにささやき交わす。
「は、ははは……!」
 アラタくんだけが、座席の上でひっくりかえって大笑いしていた。「セフィのやつ、やろうと思えば、やれるじゃねえか」
「セフィ先生、なんだか、いつもの五割増しでかっこよかったです」
「お、おれ、旦那と離婚して、本気でセフィを胡桃から奪おうかなあ」
 さくら先生と伊吹織江先生が、蕩けたような目つきで手を取り合っている。
 そんな大騒ぎの中、胡桃ひとりが、まるで彫像のように元の場所に立ち尽くしたまま。
 三十分ほどして、セフィロトは無事に戻ってきた。
「もうだいじょうぶです。作業ロボットが応援に来てくれて、道路の雪は全部取り除きました」
 まず水木園長と栂野副園長のもとに行き、報告する。
「念のために、人工衛星の画像も精査しました。白馬までのルートで、雪崩を起こす危険性のある箇所はもうありません」
「ご苦労さまでした。胡桃先生が心配していましたよ」
 水木園長は、いまだに突っ立ったままの胡桃を指し示した。
「セフィ」
 胡桃は夢遊病のようにふらふらと近づくと、セフィロトの手を取った。指先が濡れていて、冷たい。
「氷みたい――」
「あ、除雪ロボットたちの作業を少し手伝っていたんです」
 セフィロトは屈託なく、ほほえんだ。
「ばか……それならそうと、連絡くらい入れてよ」
「すみません、忙しくて、つい忘れていました」
「無事でよかった――」
 力尽きたように、胡桃はセフィロトの胸で泣き崩れた。
「ど、どうしたんですか」
   セフィロトはあわててしまった。
「全然泣くことなんか、胡桃。……だって危険なことなんか何もなかったんですよ?」
 【すずかけの家】の先生も生徒も運転手も、安心のあまり泣き続ける妻と、懸命に慰める夫を、にやにやしながら見つめていた。


 一日目の行事がすべて終わると、教師と子どもたちは、年齢別に男子グループと女子グループに分かれて、それぞれのロッジに戻った。
「さあ、もう寝る時間よ。明日は早いんだから」
 胡桃の担当の六歳児クラスの女の子たちは、きゃあきゃあ笑いながら、屋根裏のベッドで跳んだりはねたりしていた。
 旅行の最初の夜に、早く寝なさいだなんて無理よね。
 ひとり忍び笑いしながら階下で後片付けをしていると、ロッジのドアが、とんとんとノックされた。
「胡桃」
 セフィロトが玄関の外に、申し訳なさそうな顔で立っていた。
「すみません。あ、あの、わたしの荷物の中に、なぜか胡桃の……パ、パンティが」
「うふっ」
 彼女はそれを聞いて、両手で笑いを押さえた。
 もちろん、家を出る前にわざとセフィロトのバッグに押し込んでおいたのだ。そうしないと、真面目な彼のことだから、自分のロッジの子どもたちの世話に追われて、胡桃に会いに来ることなど忘れてしまうに違いない。
「あの……それから」
 セフィロトの瞳は、雪明りを映して、とまどったような淡い金色に光っている。
「みんなにさんざん、からかわれたのですが、わたしが胡桃を『おまえ』と呼んだこと……わたしは全く記憶していないのです」
「そうなの」
「すみません」
「どっちの意味で謝ってるの?」
「え?」
「『おまえ』と呼んだこと? それとも、せっかくの特訓の成功を覚えていないこと?」
「特訓?」
「そうよ、そのためにアラタくんと言葉づかいの特訓をしてたんでしょう」
「やっぱり、ばれていましたか」
「でも、もういいの」
 胡桃は、セフィロトの腕をそっと取った。
 屋根裏から、四つの顔がにゅっとのぞいているのに気がついて、ふたりはあわてて手を離し、くるりと背中合わせになった。
「あー。疲れた。眠くなってきた」
「胡桃せんせい。もう私たち、寝るね」
 女の子たちは、わざとらしい大声を残して、引っ込んでしまった。
 それを見た胡桃とセフィロトは、ちらりと恥ずかしそうに微笑を交わす。
「四歳クラスの男の子たちは?」
「今は、小松先生が見てくれています」
「セフィ。あのね」
 胡桃は、彼の背中から両腕を回した。
「もう、言葉づかいは変えなくていい」
「本当ですか」
「うん、その話し方も含めて、今のあなたをまるごと全部好きになったんだもの。他の人の目を気にする必要なんて、なかったの」
「よかったです」
 セフィロトは、腰に回された胡桃の両手を冷気から守るために、すっぽりと覆った。
「わたしたちは、世界でたった一組のわたしたちらしい夫婦のありかたを、これから作っていけばいいのだと思います。どちらが偉いとか支配しているとか、そんなことは関係なく」
「うん」
「いつもどおりでいいとわかれば、たくさん話したいことがあるんです。この数日、家ではほとんどしゃべれませんでしたから」
「あはは、そうよね」
「とりあえず、時間がないのでひとつだけ」
 セフィロトは身体をねじると、胡桃の耳に唇をつけて、低くささやいた。
「これから二日間、あなたを抱けないのが、とても残念です」
「……セ、セフィ」
 ロッジの中で女の子たちが笑いを殺しながら覗き見しているのはわかっていたけれど、セフィロトはおかまいなく、あわてふためく胡桃に長い長いキスをしかけた。





NEXT | TOP | HOME
Copyright (c) 2003-2008 BUTAPENN.