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       黒猫の末裔


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(5)

 1998年。俺は東京を歩いていた。
 漆黒の長い髪。片方の眼を海賊風のアイパッチで隠し、レザージャケットをはだけた胸には絞首台の形をした刺青。大勢の東洋の女たちが恍惚としたまなざしを送ってくる。
「あれ、ジェイじゃない?」
「まさか、偽者よ。本物が日本に来てたら、もっとニュースで大騒ぎになるわよ」
 彼女らのとまどいを察して、俺は笑った。
 そのためにわざわざ、極秘で来日しているのだ。
 ハラジュクと呼ばれる街のメインストリートに着いた。予定通り、大型のトラックがハザードランプを点滅させながら舗道に横付けしている。
 俺が近づくと、キャビンの銀色に光る外壁が突然三方向に開け放たれた。
 同時に巨大なアンプがドラムやベースの音を流し始める。
 俺は、即席のステージの上にひらりと飛び乗った。
「『ブラック・キャッツ』よ!」
「うそぉ! なんでこんなところに?」
 悲鳴ともつかぬ歓声をあげた男女が、殺到してくる。
 メンバーから投げられたマイクをつかむと、俺は歌い始めた。
『信頼に裏切りを
 愛に憎悪を』
「きゃあああっ」
「ジェイィ―ッ」
 俺の歌声は、地を這い、人々にまとわりつき、そして魂を爆発させて空中に四散した。
『慈しみに妬みを
 俺が人生で与えられたものは
 汚物ばかりだった』
 あるいは絶叫、あるいはむせび泣き。そして何人もが、ただ苦痛に顔をゆがめて失神する。
 突然のストリートライブジャックに、ハラジュクの町は異様な興奮に包まれた。


 その夜、ホテルの最上階のスイートで数人の女と戯れていた俺に、従者のひとりが報告した。
「大成功です、ジェイさま」
「英語を解せぬ東洋人にも、俺の歌の力は通用するわけか」
「そのとおりでございます」
「……それで、今日は何人が死んだ?」
「あのライブのあとすぐに、会場近くのビルから3人が飛び降りました。さらに今夜までに、それぞれの場所で数十人が」
 俺は、満足して喉を鳴らした。


 俺の名前、正確に言えばこの身体の名前は、ジェロームと言った。みんなは単にジェイと呼ぶ。元はニューヨークの下町に住む、才能のないロックシンガーだったこの男が、たった二年で世界的なグループ『ブラック・キャッツ』のヴォーカルにのしあがったのは、俺の一族に代々伝わる「感応」の力のおかげだ。
 そう、俺の正体は黒猫。
 ドラッグの打ち過ぎで植物状態となったジェイの身体の中に入り込み、人間として生きている。
 黒猫の末裔として一族の憎悪を受け継いできた俺は、あるときは人間を陰からあやつって人を殺させ、またあるときは戦争を望むように人間どもを巧みに焚きつけた。そうして150年以上も人間に復讐を続けているが、人間の数はいっこうに減らない。そこで選んだのが、この究極の手段だった。
 転生を繰り返すうちにますます強さを増した感応の力を利用して、人間を支配する。歌を通して、絶望と孤独、狂気と憎悪の世界に人々を引きずり落とす。
 俺の歌を聴いた人間どもは、生きる力をなくし、愛することも命を産み出すこともあきらめて、やがてみずからの命を絶つようになった。
 数十年のうちに人間どもは激減し、いつしか滅亡するだろう。
 欧米を中心に活動してきた俺は、アジアへの進出の拠点として日本を選んだ。ここから韓国へ、中国へ、東南アジアへ。部屋の壁に貼られた世界地図に髑髏のマークが増え広がっていく。その前で俺は乾杯してやるのだ。


「東京ドームを来月の3日間おさえろ。金はいくら使ってもかまわん」
「でも、日本の警察がコンサートに介入するという情報があります。欧米での異常な自殺率が『ブラック・キャッツ』のせいだという噂を聞きつけたようです」
「警察の連中は、いつものように俺が洗脳する。おまえは言われたことだけしていろ」
 俺は受話器を叩きつけ、いらいらとVIPルームを出た。どいつもこいつも無能なヤツばかりだ。
 一階のロビーに降りたところで、ひとりの女が行く手に立ちふさがった。
 白人の尼僧。まだ若い。
「『ブラック・キャッツ』のジェイさんですね。聖マリアの恩寵修道会のシスター・カタリナです。いきなりの無礼をお許しください」
 丁寧に、頭を下げる。
「あなたをずっと追いかけてまいりました。私たち修道会は、あなたの歌を聞いた人々に起こった悲惨なできごとについて調べたのです。自殺、殺人、心の病。偶然では片付けられない確率です」
 キッとにらみつけるその眼には、頑なな信仰が宿っている。感応の力すら寄せつけない、俺のもっとも苦手とするもの。
「なぜ、あのような絶望に満ちた詞を歌われるのですか。あなたの声には人を惹きつける力がある。すばらしい神の賜物なのです。どうしてもっと世界に、人々に、希望を与えるような歌を歌ってくださらないのですか」
「人間にはそんな価値はないからだよ」
 俺は、彼女の心のこもった説教をせせら笑った。
「この世界には希望など必要ない。俺の150年間見てきたものは、信頼に裏切りを、愛に憎悪を、慈しみに妬みを返す人間どもの姿ばかりだった。こんな種族はさっさと滅びたほうがいいんだ」
「150年……。あなたはいったい……」
「女を押さえつけろ。それから焼きごてを持ってこい」
 左右に侍っていた従者たちが、ただちに命令に従った。
 俺は上半身に着ていたものを脱ぎ、パンツのジッパーも降ろして、尼僧に近づいた。
「何をなさるのです」
 女はようやく俺のしようとしていることに気づいて、青ざめた。
「わたしは他の修道僧たちといっしょに来ています。それに、警察がホテルの外に」
「それがどうしたんだ。そいつらが助けに来てくれるとでも?」
 俺は低い笑いを漏らした。
「そのうっとうしい服は邪魔だよ。お嬢さん」
 ロビーにいた数百人の客たちは、俺の術にかかり、ぼんやりと見ているだけ。
 男たちに仰向けに転がされ、布に覆われていた彼女の糖蜜色の髪がぱさりと床に落ちる。シスター・カタリナの絶叫が響き渡る中、俺は彼女の左の白い乳房に、絞首台の形の焼きごてを押し当てた。


 東京ドームは今日も満員の観客の熱狂が渦巻いていた。
 楽屋まで伝わる空気の震動を通してそれを感じながらも、俺の憂鬱な気分は晴れることがなかった。
 この二日間、口にイヤな味が広がり、コンサートの成功を祝う美酒にも酔えない。
 東京の数万の人間たちが確実に死に向かっているというのに。
 俺の視界から、あの尼僧が最後に俺を見たときの、悲しげなハシバミ色の瞳が焼きついて離れないのだ。
 彼女はあれからすぐ修道会を辞め、東京の下町の小さな教会でひっそりと暮らし始めたという。
 もう彼女には、俺を告発する手段も気力もないはずだ。すべて思い通りになった。それなのに、なぜ。
 耳にこびりついているのは、彼女が最後につぶやいたことば。
「あなたに神のお慈悲がありますように。主はあなたのために十字架にかかられたのです」
 自分の身体を悪魔の焼印で犯した男に向かって言えることばなのか。
 神の慈悲とはなんだ。人間とはあれほど罪深い醜悪な存在なのに、なお一方でそんなものを信じられるのか。
「ジェイ、時間です」
 うながされて黒いステージ衣装を羽織り、楽屋を出て歩き出す。
 舞台の強烈な黄色い光が前方から、長く暗い廊下に差し込んでいるのを見たとき、俺は驚愕して立ち止まった。
 糖蜜色の髪。
 なぜ忘れていたのだろう。あの女(ひと)のことを。黒猫だった俺をかばって夫に殺され、壁の中に塗り込められたあの細君のことを。あのハシバミ色の瞳は。優しい面立ちは。
 シスター・カタリナは、まるで彼女に生き写しだった。
 気がつくと、いつものようにスポットライトが俺に当たり、手にはマイクを持っていた。
 五万六千の愚かな人間どもが、呪いに満ちた俺の歌を聴こうと身を乗り出している。
『忘れるな、憎悪を』
 第1フレーズをマイクにささやいたとたんに、歓声がとどろきとなって会場を揺るがす。
『忘れるな、破壊を
 忘れるな、絶望を』
 ベースが狂気のように弦をかき鳴らし、ドラムが鼓膜を破らんばかりにスティックを叩きつける。
 観客たちは、自分の人生に起きたすべての悪夢を思い出し、うめき、叫ぶ。
 俺は150年間、彼女の微笑みを奪ったあの男を呪い続けた。
 そして同時に、彼女を一族の復讐のために利用した自分自身をも呪い続けてきた。人間を憎むことで、彼女の思い出から逃げようとしていたのだ。
『忘れるな、忘れてはいけない』
 悲劇をか、復讐をか? そうではない。
『彼女のやさしい微笑を
 握りしめた手の暖かさを』
 観客は静まり返った。
 俺はマイクを持っていた手をだらりと下げ、うつろな片方の目で夜空を見上げた。


 俺は、本当は――彼女を愛してしまったのだ。


 コンサートが終わり、大声を上げて殺到するファンを押しのけつつ、楽屋口から外に出ようとしていた。
 ひとりの日本人少女が、周囲の者が止める間もなく、俺のふところにもぐりこんだ。
「ジェイ、他の女性のことを歌うなんて赦さない!」
 焼けつくような痛みに腹をまさぐると、固いナイフが差し入れられていた。
「他の女性に心を奪われるなんて赦さない! あなたは私のものなんだから」
 狂気の目だった。俺の歌で理性を狂わされた者の目。
 皮肉な運命に声もなく笑いながら、俺はゆっくりと地面に倒れていった。


「シスター・カタリナ、またね〜」
「ハイ、マタ来週ネ」
 質素な服に身を包んだ尼僧は、英会話を習いに来ていた子どもたちを見送ると、教会の裏口の戸を閉めようとした。そしてふと、ゴミ箱のかたわらに隠れるようにしてのぞいている一匹の猫を見つけた。
「あら、可愛い」
 手招きすると、猫はおずおずと近寄る。立ち去ろうとして、また戻ってくる。
 彼女はしゃがみこみ、いとしげに頭を撫でた。
「つやつやしたきれいな黒い毛。どこかの飼い猫かしら。
……でも、なんだか寂しそうな目をしているのね、あなた」
 シスターの無邪気な微笑の中に悲しみの影が宿る。手が左胸のあたりにそっと置かれた。
「あなたを見ていると、ひとりの人のことを思い出す。寂しそうな目をしていたわ、彼も。もうこの世にはいないのだけれど」
 黒猫はにゃあと鳴いた。
「慰めてくれるの。ありがとう。おいで、中で温かいミルクをあげるわ」
 猫を腕の中に抱き上げて、扉を閉めようとした尼僧は、ふと驚きの声をあげた。
「あら、あなた首のところに白い模様があるのね。
なんて不思議。だって、なんだか……なんだか、主の十字架のように見えるわ」


                          了







背景は、モノクロ写真のフリーランドからお借りしました。






「吾輩ハねこまつり」に連載したお話です。ポーの「黒猫」を題材にした第1・2話と最終話のあいだの150年間に、ほんとうはもう少し多くのエピソードを入れたかったのですが、残念ながら題材が収集できず、挫折してしまいました。
もし19世紀中頃から20世紀末までの歴史的事件・災害で、よい題材をご存知の方がおられましたら、今からでもBUTAPENNの代わりに書いてみませんか?(すでに他力本願)


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