川、滔々と流れ



01



 父に再びまみえたのは、私がもう三十歳を過ぎてからだった。
 そのとき、帝国は蛮族の相次ぐ侵入にさらされており、国境の防衛は機能していなかった。打ち寄せる海の波に少しずつ岸壁を削り取られるように、人も土地もすべてが活力をなくしていたのである。
 父は西の正帝となってまもなく、自身の管轄のひとつである辺境の属州ブリタニアに軍団を率いて渡り、ピクト人討伐に赴くところだった。
 このとき父は、五十六歳。以前よりもずっと老いた父の背中は、馬上でゆらゆらと陽炎のように見えた。
 北部は蛮族の侵入によって乱れているとは言え、ロンディニウム近辺の道は、よく保たれていた。軍団は順調に距離を稼ぎ、十日目には砦の町に入った。川から上ってくる冷たい霧にあたりは包まれ、森も家並みも黒々と、まるで死人たちの墓だった。
 百年前に建てられた砦の石はかび臭い匂いがした。だが驚いたことに、父と私に宛がわれた将校宿舎には、まだ床暖房が機能していた。ローマ帝国の栄華が保たれていたころ、人々はどんな希望に燃えて、この砦を建てたのだろうか。
「ガイウス」
 食事が終わり、自室に引き取ろうとした私を父が呼び止めた。
「少し、話さないか」
「陛下にお話し申し上げることなど、何もありませんが」
 冷たく試すように、私は父の目を睨んだ。父は笑いを含みながら、扉を開けて中に入った。しかたなく、私も続いた。
「何年ぶりだろうな」
 マントの留め金をはずしながら、父帝はさばけた口調を装った。
「おいとましたのは、十八のときです」
「そうか」
 マントを木の椅子にかけ、父は大儀そうに腰をおろした。「ニコメディアでの軍務はどうだった。周辺の平和は保たれているか」
「今は平和ですが、他民族たちの侵入は散発的に起きています。どんなに砂をすくっても、手から砂がこぼれ落ちるようなもの」
「そうか」
 父は、無精髭の生えた頬を撫でながら、視線を泳がせた。次の言葉を言おうかどうか迷っているように。
「ヘレナとは会ったか」
「母君には、この討伐に来る前、短いあいだですがお目にかかりました」
「息災であったか」
「広大なローマ帝国の西半分を受け継がれた方ともあろうものが、小さなことを気になさるのですな」
 意に反して笑いがにじみ出てくる。
「余を恨んでおるのだろうな」
「わたくしが、ですか?」
 怒りのあまり、立っていた膝が震えた。「わたくしの気持ちなど、どうでもよい。あなたに捨てられた母上が、どれほどの辛酸を舐めたか、あなたは想像したことがありますか」
「……しかたなかったのだ」
「は! 副帝の座を目の前にぶらさげられて、よだれが止まらなかったということですか! 正帝のご令嬢はさぞ良い味だったのでしょうな。十三年のあいだに、六人もの子をなしたのですから」
 私の声は、胸壁の上の見張り兵にまで届いていたに違いない。だが、私は自分が止められなかった。
「ガイウス」
 父は、とうとう立ち上がった。背後に掲げられたローマの神聖な軍旗、金色の鷲はろうそくの光を浴びて神々しく光り、あたかも父の肩が背負っているように見えた。
 嫡男とは言え、私は先妻の息子だ。今は、皇帝とただの軍団将校という関係に過ぎない。殺されはしまいが、父のそばからは永久に遠ざけられるだろう。悔いはない。この言葉を言うために、私はブリタニアまでついてきたのだから。
「おまえは、ヘレナのことを、そんなふうに思っていたのだな」
 意外なことばに、私は伏せていた目を上げた。
「おまえに、本当のことを教えよう。少し余の話を聞いてくれないか」
 驚いたことに、父の顔には今まで見たこともないような優しい笑みが浮かんでいた。
 それはまるで、旅人が夕焼けの中に、灯のともった我が家に帰りついたときのよう。
 大海原を飛ぶ渡り鳥が、たったひとつの岩場を見つけたときのよう。
 追憶の中に憩っているような父の表情を、私は死ぬ瞬間まで忘れまい。


「離縁してもらいたい」
 帰宅していきなり切り出した夫に、目をぱちぱちと瞬かせながら、ヘレナは庭から摘んできた花をテーブルにそっと置いた。高く結い上げた髪には、木の葉が一枚、髪飾りのようにくっついている。
「フラウィウス。それは、何のご冗談ですの」
「冗談ではないのだ」
 低くうめくように、軍装のまま夫は答えた。遠征先から戻り、休む暇なく宮殿に上がり、皇帝ディオクレティアヌスに謁見したばかりだった。
 「まあ、お座り」と妻をうながすと、ヘレナはつつましく両手をそろえて夫の隣に座った。
「陛下は、ついに帝国を四つに分割する決意をなされた」
 教養があまりあるとは言えない妻に、フラウィウスは噛んで含めるように説明する。「そうすれば、どこで戦が起きても、迅速に対処することができる」
「素晴らしいお考えですわ。家も小さいほうが掃除が行き届きます」
「西と東の正帝を、それぞれひとりずつの副帝が補佐する形を取るのだ。正帝が死ねば副帝がすぐに後を継ぐ。まつりごとも滞らず、継承権争いが起きることもない」
「皇帝の座をめぐっての内輪もめがなくなるのですね」
「ああ、そうだよ。そして、陛下は今日、マクシミアヌスどのを西の正帝に、わたしを西の副帝に任命なさることに決めたのだ」
「あ……あなたが『カエサル』と呼ばれると?」
 妻は狼狽のあまり、悲鳴を上げて立ち上がった。「まあ、まあ。どうしましょう。あなたの着るものがないわ。良い服をたくさんあつらえなきゃ。お客さまも大勢お見えになるわね。うちの掃除も――」
「ヘレナ。落ち着きなさい」
 ようやく我を取り戻した妻は、ぼんやりと宙を見つめたまま元通りに座った。「ああ」と声が漏れる。
「ようやく、わかりましたわ。あなたの言葉の意味が。副帝になられるあなたには、貧しい宿屋の娘などではふさわしくないということなのね」
「そうではない。おまえが悪いのではないのだ」
 フラウィウスは腕を伸ばして、妻の身体を引き寄せた。「マクシミアヌスどのの養女テオドラを娶るようにとの、陛下の思し召しなのだ。そうすることで、四人の皇帝が互いに強い絆を持って、結束を保つことができる。正帝が座を降りるときも、娘婿である副帝が代わりに治めることになる」
「ええ。夫婦や親子ほど強い絆はありませんものね」
「ローマ帝国は、この数十年乱れに乱れてきた。新しい皇帝が立ってもすぐに廃され、軍団がそれぞれ新しい皇帝を立てて争い合う。もうそんな内乱を終わりにしようと、陛下は考えられたのだ」
「ええ、わかります。ご立派なお考えですわ」
「わたしの父は農民だ。こんな卑しい出身のたたき上げの軍人を、陛下は重用し、副帝にまで登りつめさせてくださった。陛下を裏切ることなどできない」
「ええ、あなた」
 妻の腰に回された手に力がこもる。ヘレナは夫の肩に頭をもたせかけ、たくましい腕に顔を押しつけた。
 天窓から射しこむ光が、壁の壁画をくっきりと浮かび上がらせていた。やがて陽が翳り、夕闇が訪れるまで、ふたりはそうしていた。
「覚えていらっしゃいますか。私たちが最初に出会ったときのことを」
 かすれて音にならない声で、ヘレナがささやいた。
「ああ、もちろん」
「ニコメディアの町はいつも大勢の商人でにぎわっていましたわね。宿屋も、いつも夕方はてんてこまいで」
「ああ、わたしはいつも腹をすかせた若造のローマ将校だった」
「私はあのとき、たったの十六でしたのよ。いきなり押し倒されるなんて」
「腹をすかせていたと言ったろう」
 ふたりは、ひそやかに笑った。
「急いで支度をして、ガイウスとともにこの家を出ます」
「すまない。新しい家はすぐに用意させる」
「短いけれど、楽しい人生でしたわ」
「何を早まったことを言っている」
 フラウィウスは怒ったように言った。「離縁は形だけだ。ヘレナ。おまえに対するわたしの愛情に変わりはない。毎晩だっておまえのところに通う」
「でも、新しい奥方さまがお怒りになりますわ」
「バレないように、うまくやるさ」
「まあ、私の知っているあなたは、そんな器用な人でしたか?」
 ヘレナはひとさし指で涙をぬぐった。
「ええ、ローマ皇帝におなりになるのでしたわね。それでは、器用さも学ばなければ」


 思えば、それは、私が十七になったばかりのときだった。身分も地位もない若者が野心に燃えてローマ軍に入団するのが、そのころだ。未来は希望で満ちていた。


「父さんと母さんが離縁?」
 新兵の訓練から戻ってきたガイウスは、奴隷頭の持ってきた皿をひったくるようにして食べ始めた矢先、思いもかけぬ知らせに喉をつまらせるところだった。
「何かの冗談だろう? クロノス」
「恐れながら、本当だと存じます」
 初老の奴隷頭は、人間らしい感情を見せずに答えた。「奴隷たちは総出で、引っ越しの荷物をまとめているところですから」
「じ……冗談じゃない!」
 ガイウスは、水の杯を叩きつけて、食堂を飛び出した。
 父フラウィウスは外出しており、母ヘレナだけが部屋にいて、あれこれを忙しく動き回っていた。
「母さん」
「まあ、おかえりなさい。ガイウス」
 母は、いつもの屈託ない微笑で息子を迎えた。「悪いけど、急いで荷造りしてちょうだい。時間がないの。急なお引越しなのよ」
「ま、まさか。本当なのか。母さん。父さんと離縁だなんて」
「ええ、本当ですよ」
 大きな掛け布を畳みながら、こともなげに答える。「お父上は、新しい奥方をお迎えになるの。私たちは別の家に住むことになりました」
「なんで……なんで!」
 つかみかからんばかりの剣幕の息子に、ヘレナは困ったようにため息をついた。「父上はローマの西の副帝になられることが決まったのよ。そのご出世に、私たちは邪魔なのです」
「邪魔……」
 邪魔。母さんとおれは、邪魔。
 ガイウスの目の前の光景が視界から退き、色を失った絵のように平板になった。
「母さんは……それで、納得したのか」
「もちろんですよ」
 明るい声が返ってきたが、顔はあちらを向いたままだった。
「父上の長い夢が……夢でしかなかったはずの皇帝の座がすぐ目の前にあるのですよ。副帝はいずれは正帝を継ぐ立場。わたしごときに、何の不満がありましょう」
「母さんは、それでいいのか」
「だから、いいと」
 ガイウスは、肩に手を置き、無理やり母を振り向かせた。
 その薄緑の瞳には、涙がいっぱい溜まっている。
「父さんを……説得してくる」
「ガイウス!」
「殴ってでも、思い直させる!」


 今考えても、笑ってしまう。私はなんという子どもだったのだろう。
 地位も身分もない十七歳の若造ごときに、とうとう父の運命を変えることはできなかった。それどころか、翌年になると、私自身が出仕することになった。皇帝ディオクレティアヌスのニコメディアの宮廷に近衛兵のひとりとして召し出されたのだ。
 つまりは、態のいい人質だった。
 忸怩たる思いをかかえ、東方へ旅立った私の心の奥底には、母への慕情と父への憎悪が泥のように積もり、岩のように凝り固まっていった。


 息子のガイウスも去り、ヘレナは数名の気心の知れた奴隷だけを伴って、新しい家にひとりで暮らすことになった。
 だが、明るく働き者で、ひとときもじっとしていないヘレナの回りには、知人や近隣の人々が集うようになった。いつも笑いが絶えず、寂しさとは無縁の毎日だった。
「ただいま戻りました。奥さま」
 侍女として仕えているミレラが戻ってきたのを、ヘレナは急いで出迎えた。
「おかえり。誰にも気づかれずにクロノスに会えた?」
「はい。ぬかりはありません」
 ミレラはにんまりと笑った。奴隷頭のクロノスとひそかにやりとりをして、夫の様子を知らせてもらっているのだ。
「旦那さまは、やはりお元気がないそうです」
 奴隷の少女は、興奮に頬を赤く染めて報告した。「やはり、ご主人さまは奥さまでなければ、ダメなんですよ。あと一週間か二週間待てば、きっとお屋敷よりもこちらに足が向くようになります」
「それで、もうひとつのほうは?」
 ヘレナは家を去るとき、ひとつだけ仕掛けを残していた。
 女主人の部屋を引き払うとき、壁を塗り替えさせ、調度も一新して、前の住人の痕跡を残さぬように気をつけたが、ひとつだけ小さな置物をわざと忘れた。それは、ニコメディアから持ってきた青い絵つけの壺だった。非常に高価なもので、実用にも耐える美しくりっぱな壺だった。
 新しい女主人には、この壺がニコメディア産であることをさりげなく教えるように、クロノスに頼んでおいた。
「壺はどうなったの」
「テオドラさまが、割るようにお言いつけになったそうです……見たくもないと」
 顔を曇らせて報告する少女に、ヘレナはわが意を得たりとほほえんだ。
「……合格だわ」

  綿子さま主催企画「Other's plot plan 2」にて、
プロット部門に提出した自プロットの作品です。