川、滔々と流れ



02



 父はテオドラと、皇帝の縁組にふさわしい壮麗な結婚式を挙げた。翌年には新しい宮殿も完成し、居を移すことになった。だが、その直後、父はただちにガリアに遠征することになった。
 ガリア駐留軍の司令官が、ローマに対して謀反を起こしたのである。戦乱はまたたくまにブリタニアにまで及んだ。


「まあ、奥さま。何をなさっておいでです」
 侍女のミレラは豆むきをしている女主人から、かごを取り上げた。「こんなものは奴隷の仕事ではありませんか」
「だって、暇なんだもの」
 ふくれっ面でヘレナは答えた。「父の宿屋を切り盛りしていたころがなつかしいわ。毎日がてんてこまいで、自分の部屋さえ旅人に貸してしまって、馬小屋で寝ていたのよ」
 奴隷の少女の隙を見て、ヘレナはひょいと手を伸ばし、また豆を剥き始める。「やっぱり私には、皇妃は無理ね。きれいな服を着て玉座に座っている毎日なんて、息がつまってしまう」
「何をおっしゃるんです」
 ミレラは、またひょいとかごを取り上げた。
「ご主人さまは、奥さまのもとにきっと戻っていらっしゃいます。ほら。新しいお后さまのご懐妊の噂はちっとも聞こえてこないじゃありませんか。きっとお床もともにせずに、旅立たれたに違いありませんよ」
 ミレラのその言葉は毎日のように繰り返され、まるで呪文のようだ。ヘレナは心の中に芽を出し始めた甘い夢を、あわてて振り払った。
「あの人は、どうしているのかしら」
「カラウシウス将軍の軍団をみごとに打ち破ったのもつかのま、今度は蛮族が反乱を起こしたと聞きますわ」
 ミレラはぶるりと体を震わせた。「一難去ってまた一難、いったいこの国はどうなるのでしょう」
「ガリアはもう寒いだろうに。この豆のスープを食べさせてあげたい」
 手の中に持っていた豆の鞘の産毛を、ヘレナはいとおしそうに撫でた。
 見るもの触れるものが、夫の思い出につながる。
 まだ結婚する前だった。ヘレナは戦場に赴いた恋人のもとに食事を届けようと、無謀にもパンと豆のスープの入った甕をかかえて城壁の外へと走ったのだ。門番兵に見とがめられて、すんでのところでフラウィウスが救ってくれなければ、強姦され、溝に落とされていたに違いない。
『あんたは、まるで暴れ馬だ』
 彼の悲鳴に似た叱責が、今でも耳朶を震わせているようだ。『こんな暴れ馬は、普通の男じゃ御せない』
 ええ、そう。あなた以外の男なんて。あなたでなければ。
 じわりと浮かんだ目じりの涙を、ヘレナは欠伸をしたふりをして袖でぬぐいとった。

 満月が、噴水の上に銀の屑をまき散らしているように見える。
 眠りに見放されてしまったヘレナは、寝衣の上に毛織の肩掛けを羽織って中庭に出た。
「あの月は、たぶんガリアも同じ」
 唇をほんのわずか動かして、ヘレナは目を閉じた。
 こうしていると、隣に彼が立っているような気がする。想像するだけで、身体の片側がほんのり温かくなる。
 同じ月を見上げて、明るいなとつぶやく。今夜は哨戒兵の任務も楽だな、と。
 同じ月を見上げて、明るいわねとつぶやく。まるで焼き上がったばかりのワイン入りケーキのようね、と。
 考えていることはまるで違うのに、不思議と互いが分かり合えた。
 死ぬまでずっと、隣を歩めると思っていた。
 すぐ近くに馬のいななきが聞こえた。がさりと木の葉がこすれる音がして、ヘレナははっと身を固くした。男の影が木立の中に動いている。
「ヘレナ」
 頭がおかしくなったのだと思った。恋焦がれすぎて、とうとう幻が見えるようになったのだと。
「ヘレナ」
「……あなた」
 ヘレナは、震えだした。
 月の光の中で、フラウィウスはやつれ果て、疲れているように見えた。ガリアから帰ってきたばかりなのだろう。鎧のまま、軍装も解かず。
 宮殿には寄らずに、まっすぐに彼女のもとへ。
「あなた」
 おかえりなさい。あなた。
 お疲れでしょう。すぐにお風呂を沸かさせますわ。
 お腹もすいているでしょう。豆のスープも、すぐに温めます。
 お留守のあいだに、たくさんのことがありましたのよ。楽しいことも悲しいことも。ああ、もう一晩話しても、話しきれないくらい。
 あなた。だから。
 軍靴が土を踏みしめる、ざくざくという音がした。
「こちらへ来ないで!」
 ヘレナは両腕をひろげて叫んだ。黒い影が立ち止まった。
「来ないでちょうだい。私とあなたのいる場所には、深い淵が横たわっています。ここは、あなたの帰るところではありません」
 吐く息が熱い。苦しい。
「あなたと私は別の人生を歩み始めたの。今あなたの隣を歩んでいるのは、テオドラさまです」
 夫は、何も答えなかった。
「テオドラさまと睦まじく寄り添い、子をお産みなさいませ。それが、あなたの務め。この国を豊かで平和な、争いのない国にするために、あなたは副帝になられたのではなかったのですか」
「……ヘレナ」
「身を切るような思いをして別れたことは、無駄だったのですか。この国をふたたびの戦乱に陥れて、それでもあなたは平気なのですか!」
 月の光以外の音は、どこにも聞こえなかった。
「どの舟に乗ろうと、同じ川を下り、いずれ同じ海に流れ入るもの」
 ヘレナは毅然と夫に背中を向け、目を閉じた。
 身体は離れていても、心はいつかあなたと同じ海にたどりつきます。それがわたしの定め。わたしの喜び。
 長い、長い時間が経った。目を開けると、黒い影はどこにもいなくなっていた。
「ねえ、あなた」
 ヘレナは、涙がにじむまま、夜空を見上げた。「月が明るいわ」


「なぜ……」
 私は拳を震わせた。「なぜ、母上はそんなことを」
「そのときは、わからなかったのだ。余はヘレナに拒絶された絶望を胸にかかえて、宮殿に戻った。腹いせのつもりで、テオドラを抱いた。それ以降は、見違えるように優しくしてやったものだ」
 だが、改めてそうしてみると、テオドラは実に良い妻だった。口にださなくても、望むものを準備してくれ、くつろげるように取り計らってくれた。
「誰もが仲睦まじい夫婦だとほめそやすほどに、余とテオドラとはうまく行った。だからこそ、次々と六人の子を生すことができたのだ」
 だが、父はあとから真実を知ったのだという。宮殿で寝室係として務めていた奴隷頭のクロノスが、老齢で引退するときに、隠していたことを打ち明けてくれたのだ。
 『ヘレナさまは、テオドラさまにあなたを託されたのです』と。わざと部屋にニコメディアの壺を置いておき、テオドラの心を試した。彼女がそれをどう扱うかをクロノスに見張らせたのだ。
 テオドラは、それが前妻ヘレナの残した壺だと知るや、侍女に命じて割らせたのだという。
『テオドラさまは、夫の心を得たいと心から願っていらっしゃるのね。だから、私は安心してテオドラさまに夫のことを委ねようと思います』
 母は微笑みながら、クロノスにそう話したという。それ以来、母は父の様子をクロノスからこと細かく聞き出し、父の体調に合わせて、好みそうな食事や身の回りのものを逐一クロノスに伝えた。クロノスは指示されたものを準備して、テオドラの侍女にひそかに渡した。
「余とテオドラの相性が合うのも当然のことだった。ヘレナがずっと陰から心を尽くしていてくれたのだ。姿は現わさなくとも、ヘレナはいつも余のそばにいた。テオドラを通して、余を慈しんでくれたのだ」
 父の唇が、嗚咽のために歪んだ。
「そうとも知らず、余はヘレナに見限られたと思いこんでいた。真実を知ったとき、しばらく悩んだのだ。ヘレナのところに戻るべきか。だが、ここまで来てしまった以上……もう、この道を進むしか方法はない。引き返すことは、ヘレナの思いを無にすることになる」
 父は震える唇を噛みしめ、天を仰ぐようなしぐさで、古い砦の天井を見つめた。
「いまや皇帝たる余の手に、多くの命が握られている。ガイウス。おまえならわかってくれるだろう。もう、それを捨てるわけにはいかぬのだ」
「わからない。わかってたまるものか」
 私はそう叫んで、奥歯をぎりぎりと噛みしめた。「母を……母の人生をあなたは踏みにじった」
――そして、私から、父を奪い取ったのだ。


 それから一年して、ピクト人討伐の途中で父は病に倒れ、ブリタニアのエボラクムで没した。西の正帝になって、わずか二年目。まるで、重荷をすべて手放したかのような、あっけない死だった。嫡男であるわたしが、枕元で父の最期を看取った。
 息を引き取る間際、父の唇がかすかに動いた。
「長い旅だった」
 思い違いかもしれない。だが、私にはそう聞こえたのだ。父の乗った舟は、やっと海へと着いたのだろうか。
 私は、ただちに軍団の推挙を受けて、西の正帝になることを宣言した。父のもとにはすでに正式な副帝がいたので、わたしの宣言は、皇位継承のさだめに真っ向から刃向かうものだった。
 長く苦しい権力争いが続いた。
 その過程の中で、私自身も政略結婚を強いられ、自分の妻を離縁したことは、あまりにも痛烈な皮肉だった。それでも、何としても、私は皇帝にならねばならなかったのだ。
 五十二歳のとき、ついに東西を統一し、ローマ帝国のただひとりの皇帝となった。四つに分かれていたローマ帝国を再びひとつにまとめ上げたことで、私は長く歴史に名を留めることになろう。
 ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス。それが私の名前だ。
 ガリアに戻った後、私は母の信じるキリスト教を信奉するようになった。多くの反対を押し切って、キリスト教を公認することも決定した。
 私を決して捨てることのない天なる永遠の父を、私は求めてやまない。
 反対する者たちは、私がローマの精神を踏みにじったと陰口を叩いている。ローマ皇帝みずからが、ローマ帝国を壊そうとしていると非難するのだ。
 そうかもしれない。どのみち、キリストの御国はこの世のものではない。何百年も続く大きな帝国を壊した先に何があるのか、見てみたい気もする。
 それでも、滔々と流れる川の上を、人々は進み続け、やがて時が来れば大海にたどりつくだろう。
   




               終

  綿子さま主催企画「Other's plot plan 2」にて、
プロット部門に提出した自プロットの作品です。