羊飼いの見た夢



01



「決闘だ」
「受けて立つ」
 教室の前の扉と最後尾の窓。対角線で交わされた会話は、二年B組を興奮のるつぼに陥れた。
「ねえ、聞いてる、ユキヤ。小城くんと桜庭くんが、決闘だって」
「……へ?」
 女友だちに片方の髪かざりを引っ張られて、有希夜はまぬけな声を出して顔を上げた。
 ようやく周囲の騒ぎに気づいたのか、夢の中にたゆたっていた薄茶色の瞳が、焦点を結ぶ。
「オギ……くん」
「何言ってるのよ、小城くんでしょ。一学期から三回連続あんたの隣の席の」
「サクラバ……くん」
「桜庭くんだよ。のっぽでメガネでクラス委員の」
 友人が必死にフォローしているのには、理由がある。そもそも有希夜という少女は、三秒あれば異世界に行けるという超能力の持ち主。その超能力は、体育の授業中だろうと試験中であろうと、ところかまわず発動される。そのあいだ、何も見えず何も聞こえていない。現実世界に対する認識もレベル1に落ちてしまうのだ。つまり、いわゆる「ここはどこ、わたしは誰」状態。
 今まで彼女の視線の先にあったのは、窓の外。校庭をゆっくりと横切っている一匹の黒猫。
「あの黒猫は――」
「有希夜!」
 有希夜は我に返って、教室を見回す。「あ、ふたりは?」
「体育館の裏に走っていった。ほら、私たちも行くよ!」


「急げ」
「わかってる」
 長身の桜庭に遅れまいと、小城はぎりっと奥歯を噛みしめて、足を運ぶ。「今度こそ、勝ったと思ったのに」
「三学期連続で、有希夜の隣の席を射止めたことか」
「あれは、偶然だ」
「どこが偶然だ。三回目の席替えで、おまえ、黒田をJリーグのチケットで釣ったくせに」
 苦々しい笑みを浮かべて、桜庭は振り返った。「狡いな。いつも、おまえは必ず有希夜の近くのポジションを占める」
「いつも? いつもって何だ。言いがかりはよせ」
 ふたりは、体育館と塀にはさまれた狭い空き地で向き合った。西部劇の決闘の間合いで。
 クラスメイトたちは遠巻きに立って、やじを飛ばしてくる。どちらかと言えば、「やめろ」よりも「やれー」のほうが多い。
 有希夜はその後ろから、はらはらと手を揉みながら、なりゆきを見つめていた。その心配そうな眼差しは、ふたりの上に交互に、均等に注がれる。
 消しゴムを忘れて困っていたら、そっぽを向きながら、さりげなく机の端に置いてくれた小城くん。
 先生の板書が写しきれない私を見かねて、黒板消しを持った日直を『あ、あとで俺がやっとく』と止めてくれた桜庭くん。
 運動会のリレーの練習で、バトンを渡すとき足がもつれて、捻挫をさせてしまったとき、保健室で「諸橋は別に悪くないから。悪いのはオレだから」と、ぶっきらぼうにつぶやいた小城くん。
 図書当番でたくさんの本を四階まで運ぶとき、階段の踊り場で立ち止まって、「諸橋の髪は、ふわふわタンポポの綿毛みたいだなあ」とお日様のように笑った桜庭くん。
 交互に、均等に。
「くそっ」
 小城は拳をかたく握りしめて、桜庭に殴りかかった。
 きゃあっという女生徒の悲鳴。はやしたてる男子生徒の歓声。そして――。


 畔道の脇で日向ぼっこをしていた黒猫は、実は某国の王子だ。
 しなやかな動きで悠然と歩くさまは、気品さえ漂う。
 彼がこの異世界に来た使命は、人間の社会について知り、王としての気構えを学ぶことだが、残念ながらひとりの老人に餌付けされてしまい、すっかり堕落した。
 「おいで」と、その老人の孫である少女が、彼に手を伸ばした。「おまえの毛は、つやつやして本当にきれいね」
 背中を撫でられる気持ちよさに、ごろごろと喉を慣らしながら、王子は記憶の壺の底をかきまぜ、過去の自分に思いを馳せる。
 毎朝、夜が明けぬうちから起き出して、日課を欠かさなかった。森の中を走り回り、木の根で爪を研いで、家庭教師を相手に戦いの鍛錬を――
「オギ殿下」
 聞き覚えのある声に、はっと顔を上げると、白い毛皮の細面の猫がこちらを睨んで近づいてきた。
「クラバ」
 王子の家庭教師役を務めていた大臣だ。
「情けないお姿よ。ご自分の使命をお忘れになられたか」
「使命?」
「やはり、そう。魔女の呪いによって記憶を封じられたのですね」
 白猫は悔しげに、地面に爪を立てた。「あなたは、わが猫の世界を滅びから救うために、この異世界に隠されている七つのクリスタルを集めるはずでしたのに」
「なん……だと?」
「あれが、あなたを惑わした魔女か」
 キッと睨みつける。「わたしが成敗いたしましょう」
「ま、待て。クラバ!」
 少女はうなり声を上げる闖入者に向かって、にこりと笑った。「まあ、真っ白でかわいい猫ちゃん」
 数日後。
「で、クラバ。そなたは何をしに来たのだ」
「なんでしたかねえ」
「この世界に隠されている七つのクリスタルはどうなったのだ」
 縁側で空のツナ缶をぺろぺろ舐めながら、眠たげに白猫は答えた。「いい気持ちすぎて、思考力がなくなってしまいました」
 自分の一番気に入りのひなたぼっこ場所を取られた黒猫王子は、いらいらと彼の回りをのし歩く。
 オギひとりのものだったはずの水皿もキャットフードも、少女の膝の上の特等席も、すべてがクラバと共有となってしまった。
「おまえたちはまるで、オセロのコマみたい」
 目を細めて、交互に二匹をなでてくれる――交互に、均等に。気に入らない。実に気に入らない。
 だが、その苛立ちが、突然王子を正気に返らせた。
「クラバ。わたしたちは、もっと大切なことを忘れているのではないか」
「大切なこと?」
「有希夜だ。有希夜とわたしたちの関係だ」
 ちょうどそのとき、少女が縁側に出てきた。胸には読み終わったばかりの本が抱かれている。うっとりと遠くを見ながら、その唇から言葉が漏れた。「倉庫……」
 居眠りしていた白猫大臣が、むくっと起き上がり、背伸びをしたかと思うと、いきなり跳躍した。黒猫王子も負けじと追いかける。
 本能としか言いようがない。二匹の猫は肉球で相手をなぐり、爪でひっかき、尻尾の鞭を相手にバシバシ浴びせながら、少女の膝の上を争った。
 少女が、どちらの猫を拾い上げて膝に乗せるかで、すべては決まると思っているかのように。そして――。


 有希夜は窮地に陥っていた。
 ありえないほど近くに桜庭課長の顔がある。壁についた両手が有希夜の自由を完全に奪っている。これが、いわゆる「壁ドン」というものなのだろう。
「あ、あの桜庭課長」
「なんだい。諸橋くん」
「あの、その、私、模造紙を取りに来たんです」
「そうだね。倉庫にはたっぷり模造紙のストックがある。先月、決済のはんこを押したのはこの僕だ」
「はい。そして、毎月、総務課の壁に『今月の目標』を貼るようにと命じたのは、課長です」
「そう、きみは、書道二段だと聞いたからね」
「でも、これでは動けません」
「動けるじゃないか。真正面の僕の胸に飛び込むことなら」
 そのとき突然、カギをかけておいたはずの倉庫の扉が開いた。
「桜庭課長、部長がお呼びです」
「なんだ、いったい」
「課長が引き出しの奥にこっそり隠していたN電気の交渉失敗の報告書を、僕が代わりに提出しておきました」
「な、なんてことをしてくれたんだ、きみは」
 桜庭がすっとんで行ったあと、床にへたりこんでいる有希夜を小城はじっと見つめた。
「立てる?」
「う、うん」
 手を差し出す。
 同期で入社したときから、ずっと小城は総務課で有希夜の隣の席だった。社内で一番親しく、なんでも話せるのは自分だと思いこんでいた。
 わが社最強の独身エリート、桜庭課長に目をつけられただなんて。とんびにあぶらげとは、このことだ。
 また、やつに横から有希夜を奪われてしまう。
「また?」
 自販機コーナーで、ぐったりとコーヒーを飲んでいる桜庭を見つけ、小城は近づいた。「なんとか部長のお説教はやり過ごしたようですね」
「どうするつもりだ。きみへの借りは積もり積もって、定年退社までには返せんぞ」
「それよりも」
 ネクタイの結び目を緩めながら、小城は窓の外を見つめた。
「もう、これで何回目でしょう?」
「なに?」
「僕たちは、もう何度も同じことを繰り返していると思いませんか。世界は変わっても――同じ人間関係を」
 桜庭は空のスチール缶をゆっくりと握りつぶした。
「やっと気づいたか」
「なんなんです、これは」
「わからん、ただひとつわかっていることは」
 向こうから、ぼんやりした表情の諸橋有希夜が歩いてくる。「強化魔法……」
「有希夜が妄想を始めると、僕たちの世界が変わるということだ」
 

  綿子さま主催企画「Other's plot plan 2」にて、
恵陽様からいただいたプロットで書かせていただいた作品です。