「お待たせして申し訳ありません」
彼の声に、ロビーのソファに座っていた女が、すっと立ち上がる。 光沢のあるスーツは、イタリアの一流ブランドのものだろう。豊満な胸を強調したライン。丈の短い裾からすらりとした脚が覗く。そして……。 城西の目は、一瞬その女の顔に釘付けになった。およそ女性の容姿というものに心を奪われた覚えのない彼にとって、それは初めての経験だった。 「城西暁人です。はじめまして、水月さん」 「涼子ですわ、城西さん。……もっとも、断わった見合いの相手の名前などに興味はおありはないでしょうけど」 握手をするとき、彼女は艶やかな唇を一度きつく結んでから、ゆっくりと緩めて笑った。仕草の妖艶さを十分計算し尽くした微笑だった。 「いらして。無理を言って来ていただいたのだから、今日は私がご馳走します」 最上階のカクテルバーのカウンター席で、注文したベルモット・ハーフを、涼子は少し掲げてみせた。 「再会を祝して」 着ている服に合わせた銀のマニキュア。美しい指に挟まれた琥珀色の液体が、ゆらりと糸のような影を交差させる。 「再会?」 「覚えていらっしゃらないの? 去年、大久保工業の創立記念パーティでお会いしたわ」 「それは……、申し訳ありません」 「と言っても、父の横でほんのひとこと言葉を交わしただけ。それにあなたは私のことなどろくにご覧になってもいなかったもの。だから、今晩お呼びしたのは、もう一度近くからじっくりと見たかったの」 と、城西にぐいと顔を近づける。 「水月商事の一人娘との縁談を断る、バカな男の顔を」 長い睫毛の下から刺すように自分を見つめる黒い瞳に、落ち着いて視線を返しながら、彼は静かに答えた。 「ご満足ですか?」 涼子は元通りに体を真直ぐに起こすと、カクテルを口に含んだ。 「逃した魚は大きく見えるって、本当かしら」 「ご気分を害されたのなら、謝ります。しかし、この件に関してはお父上に……」 「いい、ネクタイね」 彼女は遮るようにことばをかぶせて、彼の胸元を見た。 「アルマーニ?」 「ブランドは知りません。秘書が買い置いたものを締めてきただけですから」 「優秀な秘書のようね。スーツの色に完璧に合っているわ」 「そう伝えておきましょう」 「その方と城西さんとは、どういうご関係?」 探るような、笑いをかすかに含んだ声。 城西は眉根をわずかに寄せた。 涼子がすべてを知っているのは明らかだった。 「結婚するつもりです」 「おめでとう、お幸せに」 「彼女には、これから苦労をかけることになると思っています」 「今の祝福を文字通りに受け取らないで頂戴。むしろ反対の意味よ」 涼子は、肩にかかったウェーブのある髪をふわりと掻きあげた。 その拍子に、麝香の香りが花びらのように舞った。 「城西さん。あなたは子どもの頃からお父さまから帝王学を叩き込まれたとお聞きしましたわ。そんな方が自らに与えられた義務を忘れ、結婚の意味を夢見る少女のように考えておられるとは」 「愚かだと思いますか」 「社長としては愚かな行為だと思いますわ。私には想像もできない」 「確かに」 城西は手の中のブランディーを静かに回した。 「わが社は、健全な状態にあるとはいえません。父の代からのバブルのつけである保有株式の含み損が本業の収益を食ってしまう。 取締役たちが、水月商事との「縁組」という前時代的な話を持ち出したことを、あながち笑うわけにはいかないでしょう」 「では何故」 「だからと言ってその話に乗るのは、男として癪だとは思いませんか?」 彼の冷たい微笑みに、涼子も同じ微笑を返す。 「たとえ、会社を犠牲にしても?」 「そんなことはさせません」 「子どものような方ね」 「自分でもそう思います」 「あなたは大切なことを忘れているわ。男としての意地を貫くとき、不幸になってしまうのは他でもなく、あなたの愛する女性であることを」 彼女は、自分のことばが隣の男の意識に染みとおるまで待った。 「考えてもごらんなさい。彼女のこれからの人生を。社長夫人としての不自由で、隔離された、そして侮蔑の視線に耐えなければならない毎日を」 反応を返さない城西の横顔を見て、くくと笑う。 「自分の身分に相応しい本妻を迎える。そして互いに愛人を持ち、私生活は別物。あなたも私もそんな親の姿を見て育ってきたのではないかしら?」 彼女は上半身をよじって、少しうるんだ瞳で城西を見上げた。 「私なら、あなたの妻に相応しいわ」 熱っぽいまなざしが互いにからみあう。 この女は。 城西は、魅入られたように彼女から目が離せなかった。 今まで出会った誰よりも俺に似ている。何も信じない。おのれがすべての拠り所である人生。 「誤解しないで」 涼子は、甘くささやいた。 「縁談を断られて、腹いせに仕返しをしようとしている箱入り娘だなんて思わないことね。ただ、優秀な遺伝子を残すことが私の水月家の一人娘としての義務なの」 「わたしと結婚することによって……?」 「そう」 彼女は、ひんやりとした指を、カウンターの上に置かれた彼の手の上に重ねた。 「取引をしない?」 古関かおりは、灯りの消えた秘書室の中でひとり座っていた。 机の上には、水月涼子の華やかな私生活を特集したファッション雑誌の切り抜きが何枚も置かれている。 アメリカの大学出身の才女。28歳という若さで水月グループの子会社をまかされ、業績を上げているという。 美しい女性だ。知的で自信にあふれた微笑。 城西の隣に立つに相応しい人。 なによりも、彼女との結婚によってこの会社は、水月商事という堅固な後ろ盾を得るだろう。 彼は私のために、重役たちの前で何度も苦境に立った。社長として選ぶ道は明白だというのに、彼はその運命に抗った。 私の存在が彼を苦しめる。 涼子から突然の呼び出しを受けて、彼が出かけてからもう4時間になる。 もし……もし、彼女が彼との結婚を本気で望んでいるとしたなら。 私は身を引くべきではないのだろうか? エレベーターがこの階に到着したことを知らせる、くぐもったベルの音がした。 かおりは立ち上がって服装を整えると、社長室のドアをノックした。 「まだ、いたのか」 背中を見せて立っていた城西は、まっすぐに机の上のメモに目を落としながら、言う。 「S物産の白井常務から、至急連絡をとのお電話がありましたので……」 「この時間だ。明日の朝一番に電話する」 「わかりました」 「このまま帰宅する」 城西は、かおりの横をすりぬけるとき、短く低く命じた。 「もう遅い。……今夜はうちに泊まっていけ」 「はい」 秘書室に戻って、コンピュータの電源を切り、自分のハンドバッグとコートを取るあいだも、かおりの心臓の鼓動は静まらなかった。 彼女のそばを通った城西の体からは、ほのかにオリエンタルノートの香水が香った。 ゲランのシャリマー。 そして、彼のネクタイは明らかに、4時間前に出かけたときとは違う結び目をしていたのだ。 ―― 後編に続く ―― このお話は競作「らばーず」に参加した「待宵草」の続編です。 この作品で使用している写真素材は「RainRain」よりいただきました。 |