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ムスクの香りの女(後編)

前編




 会社から車で5分。城西のコンドミニアムの窓からは、海が見えた。
 黒々とした東京湾の沖に時折またたく、寂しげな灯り。
「飲むか」
 振り返ると、白いバスローブを羽織った城西の手にはすでに、形の違うグラスがふたつ満たされている。
「はい」
 毛足の長いじゅうたんを踏む彼の素足は、まるで少年のようだ。
 グラスを渡すと、空いたほうの手を彼女の背中に回す。
 彼の身体からはボディシャンプーの清潔な匂いがした。ついさっきまであったムスクの芳香はもうそこにはない。
 だが、今でもその甘い力強さが、こびりついて離れないような錯覚がした。
 かおりはワインをゆっくりと喉に伝わせた。
 顔を上げるとその視線の先に、コニャックを美味うまそうに飲みながら、じっと彼女を見つめている男がいた。
 夜の海と同じ色の瞳。目をそらせない。
 息ができないほどの恍惚感にからだが震える。
「社長……」
「ここでは、その呼び方はやめろ」
「暁人さん」
 城西は彼女からグラスを取り上げると、ピアニストのように長い両指を、彼女の髪の毛に差し入れた。
「あっ……」
 全身を走リ抜ける電流に、かおりは思わず自分から顎を上げる。
 そこに彼の唇がかぶさった。
 むさぼるようなその口づけに、彼女の両手は当惑しながら虚空をさまよい、そして彼の腰にあったバスローブのひもを見つけて、きつく握りしめた。
「いや……」
 すべてが溶けていきそうな頭の中で、かろうじて形になった言葉を声にする。
 何がいやなのだろう。
 水月涼子を抱いたかもしれない、その腕に抱かれることが、か。
 たとえ城西のどんな裏切りにあったとしても、きっと許してしまう自分自身が、か。
「お願い……です」
「何が、だ」
 低い声で尋ねはするが、彼の手はひとときも休まず、彼女の髪を首を背中を愛撫する。
 足が浮いているように感覚をなくし、体の芯が熱くほてりだす。
 命に代えてもそばにいたいと願った男に、こうして包まれている。
 これ以上、何を望むというのか。
 秘書である自分が誰よりも知っている。水月家との縁組がはかりしれない利益を会社にもたらすことを。
 妻の座なんか、いらない。彼が社長としての職務を全うできるなら、そして彼が幸せになれるなら、それでいい。
 それなのに――。
 城西は、ふたりの体を静かにベッドに横たえた。
 彼女のローブの前がはだけられた。
「いやああっ!」
 かおりはのけぞって、絶叫した。「やめてっ。やめてください!」
 彼は、ベッドに膝をつきながら、驚いたように彼女を見下ろしている。
 その視線を痛いほど感じながら、ローブの前を掻き合わせて睫毛を伏せた。
「どうしたと言うんだ」
「私……社長のためでしたら、どんなことでも平気でした。たとえ、あなたが別の方を妻になさっても、 秘書としてあなたのもとで働けるだけで、それで一生生きていけると。
でも、今気づきました。私はもっともっと欲深い、いやな女です」
 かおりは、喉に熱くかぶさるものを飲み込み、息をととのえる。一番激情をこめたことばを、城西のもとで5年間まとい慣れてきたオブラートで包む。
「私は、あなたのすべてがいただけないのなら、おそばにいることはできません」
 目の淵にあふれたしずくを手の甲でぬぐった。
 次に顔を上げたときは、能面のような顔のひとりの秘書に戻ろう。
 そう決意した瞬間、城西の有無を言わせぬ腕が彼女の全身を縛った。
「すまない」
 その息が、かおりの柔らかい髪を震わせた。
「ちゃんと、最初に話しておけばよかった。きみに無用な心配をさせてしまった」
「社長……」
「今夜、水月家の令嬢との縁談を、正式に断ってきた」
「え……?」
「彼女も了解してくれた。俺がきみと結婚する意志は変わらない」
「でも、……でも、それでは、なぜ今夜、いったい……」
 幼い少女のように言葉をつまらせるかおりの、珍しくうろたえきった声音に、城西は思わず笑みをこぼした。
「いったい、こんな時間まで何をしていたかって?」
 彼女は頬を真っ赤に染めてうなずく。
「そうだな。バーで酒を飲んだあと、いっしょに食事をした。会社の経営のことや、今のファッション業界の話。そんなことを話したかな」
「……」
「それから、ホテルの彼女の部屋に行った」
「え……」
「早合点するな。送っていっただけだ。部屋の前の廊下で別れた」
「でも。それではなぜ、あの……」
 かおりは納得がいかずに、小さく叫んだ。
「あのネクタイは……」
「ネクタイ?」
「それに香水の匂い……」
 彼はいとおしげに、彼女のせつなく訴えかける瞳をじっと見つめた。
「そういえば、食事のときにうっかりして、ネクタイにソースをはねてしまった。しみになるといけないと、彼女が急いでバッグの中にあったウェットティッシュで拭いてくれたんだ。きっとそのときにいっしょに香りが移ったんだろう」
「そうだったんですか……」
「納得が行ったか?」
「はい……もうしわけありません。私……」
 かおりの閉じたまぶたから、はらはらと涙が零れ落ちた。
「私、あなたを疑いました。ごめんなさい。……恥ずかしいです。こんな気持ちはじめてで、不安で苦しくて」
「もう、黙れ」
 城西は、彼女の唇を口づけでふさいだ。
「俺はお預けを食らって、さっきからずっと我慢しているんだ」
 肩があらわにされ、城西の舌が首筋から腕の表面をゆっくりと這っていく。
 最後に彼は、かおりの左手の指を宝物のように口に含んだ。
「ああ……」
 思わず、吐息が洩れた。
 やがて、薬指にひんやりとしたものが押し付けられた。
「え?」
 びっくりして目を開いたかおりの指にあったものは、大きな赤い宝石をはめた指輪だった。
「婚約指輪だけは自分で選べと言ったのは、きみだ」
「暁人さん……」
「彼女と別れたあと、閉店間際のジュエリーショップに無理矢理飛び込んで、その場でサイズを直させた。一時間以上かかったが」
「ありがとう……ございます」
 かおりは、堪えきれず城西の腕の中で泣きじゃくる。
「いいんですか、本当に。……本当に、私なんかで」
「きみ以外の誰がいると言うんだ」
「うれしい……」


「こんな寛大なオファーを蹴る人を見たことがないわ」
 城西の脳裡にいつしか、数時間前にホテルで別れた水月涼子の冷たい美貌と、そのとき交わされた会話が浮かんだ。
「水月商事の次期社長の椅子も、男としての自由も、望むままにしてあげようというのに」
「そんなものに興味はありません」
 彼は首を左右に振った。
「さっきあなたがおっしゃったとおりです。わたしの両親はそれぞれ愛人を持ちながら、表向き夫婦として暮らしていた。きっとあなたの家庭も同じなのでしょう。
だが、わたしはそんな彼らを殺したいほど憎んでいた。自分の築く家庭をそんなふうにするつもりはありません」
 そして、静かに付け加える。「わたしが妻と呼ぶ女性は、彼女だけです」
「そう」
 愉快そうな含み笑いの奥から出る、ことばは刺々しい。「あなたはやっぱり愚かな男だわ。わたしの目が曇っていたようね」
「残念ながら、そのとおりです」
「せめて最後に、キスしてくださるかしら?」
 彼は、力を抜いてしなだれかかってきた涼子を支えて、口づけした。
 熱い吐息が互いの顔にかかり、ムスクの香りが空気を甘く燃え立たせる。
「ひとつ聞いていい? ……もし、私が彼女よりも先にあなたに会っていたら、好きになってくれた?」
「そうかもしれません」
 涼子から腕をほどこうとしたとき、彼女は城西のネクタイの結び目に指を差し入れて、するりと引っ張った。
「やっぱりアルマーニね」
 彼女はその絹に頬を押し当てる。
「賭けをしましょう。もし私がこのネクタイを結んでさしあげたら、果たしてあなたの愛する彼女は結び目が違うことに気づくかしら? あなたが思っている通りの優秀な秘書ならば、きっと気づくわね」
「その賭けならば、勝ってみせます」
「だけどそのとき、あなたは彼女にどんなすてきな言い訳をするのかしら? 見ものだわ」
 黙って目をそむけた城西にからだを押し付け、彼女は襟に腕を回した。
「ふられた女の、ささやかな復讐よ」


 自分の体の下に白く光るかおりの柔らかい裸身を見つめ、彼はそのときの涼子の瞳を思い出した。
 魂の深い領域に同じただれを持つ者の瞳。
「暁人さん……」
「かおり」
 愛する女の名前を呼びながら、しかし夜の暗闇の中で彼はかすかに、幻想のようなムスクの芳香をかいでいた。




 




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