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Chapter 22
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グウェンドーレンは、ときおり心を落ち着ける必要を感じると、森の中をひとりで歩いた。 幼い頃から一国の王女として、自分の感情をおもてに出すことを、厳しく戒められて育った。 王族が感情を少しでもあらわにすれば、それに多くの者が振り回される。だから、喜びも悲しみも、彼らの口からは薄紙に包まれて出てくる。 憎しみや愛情でさえも、相手にそれと悟られぬよう内に秘めて処理する訓練を、彼女は受けてきた。 だが兄のように慕ってきたアシュレイといるときは、素顔に戻れた。 王宮の庭で実の兄サミュエルと、その乳兄弟アシュレイを追いかけて遊んでいた、幼い少女の頃――。 それから10年の月日が流れ、彼への気持ちが淡い恋心に変わってからも、彼女はいつも周りにはそれと悟られぬよう、心からの笑顔を彼だけに見せていた。 だが、今は違う。 今のグウェンドーレンは、心の中に秘めたこれほどに重い痛みを、アシュレイに告げることができない。 すべての肉親を、突然失ってしまった喪失感だけではない。 ただひとり生き残ったサルデス王女として何をなせばいいのか。地に吸い込まれていくような、未来への不安。 それらを覆い隠して、気丈にふるまってしまう。言えば、アシュレイが自分を責めることがわかっているから。 彼女は足を止めた。 森の木々の中、大きな木の墓標がある。 それは、アシュレイたちの仲間だった、ゼダと呼ばれる翼を持つ魔物の墓であると聞いた。 その前にひとつの人影があった。あの、銀髪の魔族だ。 かつて彼女の父ルシャン王を眼の前で弑(しい)し、そしてふたたび、母と兄、数万のサルデス国民を滅ぼした魔族。 この3ヶ月間、彼女は一度も彼に近づいて、言葉を交わしたことがなかった。 彼が昔、剣士リュートと呼ばれていた人間であったことも、今回の虐殺が、魔王に操られた結果であることも、聞いて承知はしていた。 だが、彼に会えば、心乱れずにはすまないだろう。それがいやだった。 それにしても、なんと美しい男だろう。 グウェンドーレンは木の陰から、たたずむ彼の横顔をじっと見つめて、ひとり考えた。 この世ならぬ者の美しさ。太古の昔から時を越えて居る者の存在感。 しかし、同時に泡のごとく今にも消えてしまいそうなはかなさ。 葉を落とした枝がざわめき合い、楡の木の精霊のように静かに立つ男の、銀色に光る髪と衣服のひだが揺れはじめる。 木立のあいだを渡りぬけてきた突風が、墓に立てかけていた彼の杖を倒した。 彫像のようだった彼の手が、ぴくりと動いた。 彼女は凍った落ち葉をそっと踏みしだき彼の元に近づくと、もの言わぬまま、彼の包帯をした右手に杖を握らせた。 「ありがとう。グウェンドーレン王女」 その言葉に、彼女は息を呑んだ。「わかるのですか? 見えなくても」 「これでも剣士だ。誰が近くにいるのかは、気配でわかる」 「……それでは、わたくしが懐の短剣をとりだして、あなたの胸に突き立てようとしていることも?」 ルギドは、ふっと笑った。 「それは、嘘だ」 「わたくしは、あなたを赦すことができませんでした。長い間、愛する父上を殺した悪魔として憎んできました」 「……」 「でも今は、逆にあなたに許しを請わなければなりません。わたくしの母と兄が犯したむごい仕打ちを、あなたの目や身体を奪ったことを、……どうぞお赦しください」 「あれは、アブドゥールの魔術によるものだ。誰が悪いのでもない」 「でも、まったく邪心のかけらもない者に、果たして邪悪な術といえど、効くはずがありましょうか」 グウェンドーレンは、感情を押し殺す代価として、自らの手にきつく爪を食い込ませた。 「母と兄は、正義が許す範囲を超えてあなたを憎みました。あなたばかりではなく、家族と同じだったアシュレイまでも。 ほんの少しの妬み。たぶんそれは、自分よりも、自分の息子よりも、勇者であるアシュレイに人々の賞賛が集まることへの、はじめはほんの針の先ほどの……」 声がかすかに揺らぐ。 「人間は、なんと愚かで強欲な存在でしょう。あの優しかった母上と兄上があれほど醜い罪のとりこになってしまわれた。 そして、わたくしにもきっと同じ思いがひそんでいます。 私はあなたが憎い。そして、あなたを友と頼り、自分の命をかけてまであなたを救おうとしたアシュレイにさえ、わたくしは素直になることができないのです」 「王女よ、やめなさい」 驚いて目を上げた。瞼を閉じたままのルギドの顔は、まっすぐ彼女の手元に向けられている。 「自分を傷つけてはいけない。それは何の解決にもならない」 はっとして、血の滲み出す手の甲から、おずおずと爪を離す。 「貴女は正しい。人はおのれ自身が罪を犯しながら、人の罪を赦すことができない存在だ。憎しみを受けると、それ以上のものを報復せずにはおかない。そしてさらに、新たなる憎しみを生み出す」 「……」 「王女だからといって、それから自由になることはできないのだ。自分の心を偽れば偽るほど、心は深い谷に沈み、高みに上がることはできない」 「なぜ、私の心の中がわかるのですか?」 ルギドは微笑んだ。 「貴女と同じように悩み続けている友を見てきた。……勇者としてすべての負の感情を押し殺すことを自分に強いて苦しんできた友を」 「ああ、わたくしは」 王女は、せめて嗚咽を洩らすまいと両手で口をおおった。 「アシュレイを愛しています! でも彼の選んだ道は、魔族であるあなたとともに生き、祖国を見放すことだった。サルデス王女としてのわたくしの立場とは決して相容れない。わたくしと彼は、ともに歩むことはできないのです」 「……」 「わたくしは、アローテさんの看病をしながら、ときどき心底ねたましいのです。彼女がうらやましい。あんなに素直に愛する人のために泣けることを、……狂うほど激しく人を愛せることを」 彼女は強く首を振った。「ごめんなさい! なんてひどいことをわたくしは……」 震える肩をルギドはそっと両腕に抱き取った。 「グウェンドーレン、今のことばをもう一度、アシュレイの胸の中で言うがよい」 「え……?」 「サルデスなどという国はいっそ潰して、新しくすべてを作り直せ。 すべての古い因習も、身分も、過去の憎しみもすべて壊して、王女といえどもひとりの女として生きられる国に……」 「それはどういうことですか?」 「そして、一万年間続いてきた人間と魔族との憎悪と報復の歴史に終止符を打ってほしい。貴女なら、アシュレイとともにそのような国が築けるはずだ」 「ルギド。あなたは、魔族と人間が共存する国を作れというのですか? そんなことが可能なのでしょうか」 彼は目を閉じたまま、梢の先にある天空を、まぶしげに仰いだ。 「俺のいたはるか昔、そんな世界があった。もし再現されれば、その国は、【新ティトス帝国】――そう呼ばれよう」 「アローテをユツビ村につれて帰ろうと思う」 ギュスターヴが合同の夕食の席で、うなだれたまま切り出した。 この3ヶ月のあいだに彼の頬はこけ、灰色の瞳から生気が失われている。美しい艶のある自慢の黒髪も櫛をいれられている気配がない。 「アローテは、ほとんど食事をとってくれない。この数日は特に、一日中臥せったきりだ。このままじゃ、死んじまう」 気力でことばをつないでいる。 「じいちゃんとも相談した。まだ馬車に乗る体力があるあいだに、ここを発つ。 ユツビ村は俺たちの故郷だし、村人もみんな家族みたいなもんだ。アローテの気分も変わるかもしれねえ。心の病に効く魔法も何か見つけられるかもしれない」 ルギドが口を開いた。 「その前に、一度俺をアローテに会わせてくれないか?」 「だめだ!」 ギュスターヴは、椅子を蹴って立ち上がると、きっとルギドをにらみつけた。 「おまえには、絶対に会わせない……! もし、そんなことをしたら、アローテの心は完全にぶっ壊れちまうかもしれねえ」 アシュレイが助け舟を出した。「だけど、ギュス。もしルギドが生きていることを知ったら、アローテも……」 「そうじゃない。アローテが狂ったのがなぜだかわかるか、ルギド? あの王宮前広場で死刑台に行こうとするおまえを見たとき、彼女ははっきりと知ったんだ。ふたたびおまえに見捨てられたことを。 おまえはいったい今までに何回、アローテを遺してひとりで死のうとしやがったんだ。 おまえは、自分の苦しみから逃げることしか考えてない。もし本当にアローテを愛してたら、絶対にそんなことできるはずない。 ……俺は一生おまえを赦さん! 絶対に」 「ギュス、やめろ」 アシュレイは彼のローブの袖を必死に引き戻した。「ルギドの気持ちを考えてやれ」 「おまえを好きでいるかぎり、絶対にアローテは幸せになれねえ」 目の淵に涙をにじませながら、ギュスターヴは悔しげに吐き捨てた。 「これから一生、俺がアローテのそばにいる。幸せにしてみせる。おまえなんかには、もう譲らない……」 「わかった」 ルギドは力なくつぶやいた。「彼女はおまえにまかせよう」 「ルギド……」 ギュスターヴは、アシュレイに向き直ると、深々と頭を下げた。 「アッシュ、すまん。俺とアローテはもう、ここで終わりだ。仲間から抜けさせてくれ」 「ああ。……来週にでも、ユツビ村まで送っていくよ」 「いや、明日馬車が迎えに来る手はずになっている」 「明日……。そんなに早く」 グウェンドーレンもジルも、ことばを失ってただ座っている。 「せっかくみんないっしょだったのに。家族みたいに仲良く暮らしてたのに……」 リグが、わっと泣き伏した。 「どうして、バラバラにならなきゃいけないの?」 雪雲の合間の薄日が差し入って、深い森の奥までやわらかに照らし出している。 ギュスターヴは小屋を出ると、最後の荷物を馬車に放り込んで、見送りに出てきた仲間たちに振り向いた。 「アローテは?」 「薬が効いてるらしく、馬車の中でよく眠ってる」 不貞腐れた態度で答えた彼は、しばらく地面を見下ろしていたが、いきなりアシュレイに抱きついて、大声で泣き始めた。 「アッシュ……」 「元気でな。ギュス」 「う……」 「また会える。助けが必要になったら、いつでも呼び出しをかけるからな」 「……うん」 小さな子どものように、ギュスターヴは拳で涙をぬぐった。 「こらっ、ギュス!」 ジルが両手を腰にあてた。「男がそんなに泣いて、どうするんだ!」 「そうよ、魔導士はいつも冷静でいろって自分で言ったんでしょ」 「そうだったな。すまん」 リグのことばに、ギュスターヴはようやくにっこり笑うと、ひざまずいてふたりの背中に両手を回した。 「俺のかわりにアシュレイやルギドの面倒をみてくれよ。頼む」 「頼まれなくたって、わかってるよ!」 「ああ、そうだな」 彼は立ち上がると、ルギドの正面に立った。 何度もことばを飲み込んだあと、 「じゃあな」 「ああ」 そっけないことばの応酬。 それきり彼はうしろを振り向かずに荷台に乗り込むと、馬車は森の径を北の国境めざして走り去った。 馬車の轍の音が、羽虫の音と区別がつかなくなるまで見送ってから、アシュレイはルギドに振り向いた。 「ルギド、話がある」 「なんだ」 「僕はグウェンとともに、サルデスに戻ろうと思う」 強い決意を秘めた声だった。 「祖国をこのまま放ってはおけない。アブドゥールがいなくなったにせよ、魔王軍の残党はまだあちらこちらの村や要害を占領しているらしい。そして、中枢を失ったサルデス軍と民衆の混乱も、想像に難くない」 「そうだろうな」 「グウェンドーレン王女はただひとりの王室の後継者として、民をまとめあげねばならない。そして、僕は少しでも、その力になりたいんだ」 王女が進み出た。 「ルギド、あなたにもお願いいたします。どうぞ一緒にいらして、わたくしたちを助けてください。あなたの力と知恵がわたくしたちには必要です」 「サルデスの民は、俺を決して受け入れまい」 「人々の誤解はわたくしが解きます。決してあのような迫害は起こさせませんから」 「俺は……行けない」 「ルギド」 「王女よ、俺は前に言ったではないか。憎しみはどんな策を弄しても、人の心から消えるものではない。理屈ではないのだ。 もし、民の憎しみをあえて押さえつけようとするのなら、それは専制だ。新たな恐怖政治が、魔王軍の支配に取って代わるだけだ」 「……」 「俺はもう剣を握ることすらできない。目で敵の姿を見ることも、足を踏み込むことも……」 ルギドは首を振った。 「もう、おまえの力にはなれない。アシュレイ」 「ルギド……」 「それに、行く先はもう決めてある。俺はガルガッティア城に行こうと思う」 「ガルガッティア城? サキニ大陸の?」 「あそこの地下で、ジョカルは畏王の肉体を発見したと言っていた。5年間魔導の研究をあそこでしたとも。畏王を封印する魔法について、もし何かがわかるとすれば、あそこしかないだろう」 「ひとりで大丈夫か? あそこは地の祠(ほこら)同様、地脈のエネルギーが地表近くに突き出ていて、おまえにとっては危険なところになる」 「大丈夫だ。畏王は当分俺に降臨しようとはしないはずだ。俺ももう、やすやすとおのれを明け渡しはしない」 「それならいいが……」 「ああ! もう」 黙っていたジルが、たまりかねて叫んだ。「ふたりとも、絶対俺たちのことを忘れてるだろう」 「ジル?」 「何が『ひとりで大丈夫か?』、だよ。ルギドをひとりでなんか行かせるわけないだろう。ルギドもまったく何考えてんだよ。その目でいったい何をどうやって調べるっていうんだ?」 「ついて……来る気か?」 とまどった声が、問い返した。 「あたりまえだろ。魔王軍が襲ってきたら、俺のこの剣でやっつける。歩くときは杖代わりになる。見たものはどんなことでも教えてやる。な、リグ。おまえも同じ気持ちだろ」 「あたしは」 リグは、しかめ面で考え込んでいるふりをする。「アローテにはギュスがついてるし、グウェン様はアッシュが守ってくれるものね。やっぱりこの中でいちばん頼りないのは、ルギドかな」 「よし、決まった!」 兄妹は、魔族の長衣の袖を、両側から鷲づかみにした。 「今日から俺たちふたりが、ゼダの代わりにこいつの使い魔になる!」 絶句しているルギドに、アシュレイはグウェンドーレンと顔を見合わせて吹き出した。 「そうか。最強のふたりがついているなら安心だな。僕たちも心置きなく、サルデスに戻れるよ」 「……うれしそうだな。アシュレイ」 灰色の雲が低く垂れ込める冬空の下、国境の森の入り口で、旅装を整えた二組の若者たちが、今それぞれの道へ向かおうとしていた。 「ローダは、今サルデスで外界とつながっている唯一の町だ。それだけに、魔族の侵入に対する警戒も厳しい。気をつけろよ、ルギド」 「ああ、わかった」 アシュレイは行く気に逸る馬の首を軽く叩くと、空を見上げた。 「とうとうまた、離れ離れになってしまったな」 「……」 「よかったのか、アローテのことは。……なぜギュスの言いなりになった?」 「あいつの言うとおりだった」 ルギドは、目を閉じたままで穏やかな笑みをうかべた。 「俺はアローテに何もしてやれなかった。これからも何もしてやれない。いつも争いに巻き込まれ、人々の憎しみを受け、ひと時の平和もなく。 ともにいても、俺はアローテを傷つけるばかりだった」 「それで、いいのか?」 「ギュスターヴのほうが、彼女を幸せにできる」 「ルギド……おまえ」 「アシュレイ」 彼は、真顔に戻った。「覚えておけ。俺はおまえを主として誓った。魔族の忠誠は絶対だ。時が来れば、必ずおまえのもとに戻る」 「うん」 アシュレイは固く抱擁した。「必ずまた会おう。わが友よ」 彼らは別れた。 ルギドとジルとリグは東の港町ローダへと向かう街道を。 アシュレイとグウェンドーレンは、南の王都への大路を。 それは4人の戦士たちが最初に出会ったときから数えて5年目にあたる3643年天馬月。春まだ遠い日のことだった。 |
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