第十話  命恋うるもの(終)                   back |  top | home




 「久下心霊調査事務所」のドアが開くと、とたんに中から「いらっしゃい」と元気な声がかかる。
「やっぱり龍二くんだったか」
 詩乃が腰に手を当てて、入り口で待ち構えて立っていた。薄茶色のスーツにハイヒール、肩までの髪を金色のバレッタでまとめている。
「『やっぱり』ということは、そろそろ俺に会えるという予感がしてたんだ」
 十年一日のごとく、長髪を馬のしっぽのように輪ゴムでくくっただけの矢萩龍二が、眠そうな顔で事務所に入ってきた。
「違うわよ。デート資金が足りないから給料前借りさせてくれって、そろそろ泣きついてくる頃だと思ったの」
「あ。バレてたか」
「デートなんてしてる暇あるの? 来年は、大学院卒業でしょ。真剣に就職活動しないと、今の稼ぎじゃ食べていけないわよ」
「そう思うんなら、ここの給料上げてくれよ。こんなに危険な思いさせられてるのに、絶対、割りに合わねえ」
「危険な思いするのは調伏に失敗するからでしょ。もうちょっと夜叉追いの実力を磨いてから言ってくれる?」
「ちぇっ。ちぇーっ」
 不貞腐れて、龍二はソファに座り込む。詩乃が奥の台所にお茶を沸かしに行ったあと、
「言われちゃいましたね」
 デスクから、久下が苦笑しながら近寄ってきた。
 三十も後半になって、さすがに脱色するのは止めたものの、茶髪をツンツンに立てた相変わらずの派手な出で立ちは、とても僧侶に見えない。
「一言もないや。こないだの埼玉の事件は、ほんとに不覚を取ったからな」
「ひやりとしましたけど、結果オーライだからよかったですよ」
「夜叉八将がいなくなって、少しは夜叉が減るかと思ったけど、一向に減る気配ないよな」
「将がいなくても、下級夜叉は残っています。統率が取れていないからか、妙な動きをする夜叉がこのところ増えましたね」
「依頼がひっきりなしで、忙しいのはいいけどさ」
 龍二は事務所を見回して、しみじみと言った。
「統馬も草薙もいなくなった此処なんか想像もできなかったのに。それなりに慣れちまうもんだな」
 久下は「はい」という返事の代わりに、何度も眼をしばたく。
「詩乃さんが、その分明るくふるまってくれるからですよ。最初はとても無理をしていたのだと思います。でも、彼女は本当に強くなりました」
「そうだよな」
 口をつぐんでしまった龍二を見つめて、久下はくすくすと笑った。
「そう言えば、聞きましたよ。また詩乃さんにプロポーズして、玉砕したんですって?」
「ああ」
「何回目です?」
「80回……くらいかな。忘れちまった」
「懲りないですねえ。返事は決まってるのに」
「儀式みたいなもんだよ。俺にとっては」
 龍二は拳を口元に当てて、照れくさそうにうつむいている。
「詩乃ちゃんの気持ちが揺らいでいないことがわかれば、それで安心する。……ずるいよな、俺も。本当は彼女の一生を引き受けてやる、くらいの覚悟で言わなきゃならないセリフなのに」
「龍二くんは、まだあのことで苦しんでいるのですね」
 久下は、いたましげに彼を見つめた。
「男として絶対にやってはならないことを、しちまったからな」
「そうやって背負う荷物は重いけれど、いつか人生の宝となります」
「そういうクサいセリフを自然に吐けるところなんて、つくづくあんたって、金太郎飴みたいにどこを切っても坊さんだよな」
「元は、腐り果てた人斬りだったんですけどね」
「お待たせ」
 詩乃がお盆を持って戻ってきた。
 玉露の豊かな香りを立ち昇らせる湯呑みと、桜餅の菓子皿をそれぞれの前に置く。
 座ろうとすると、折悪しく電話がかかってきて、詩乃は小走りにデスクに向かった。
「もしもし……、あ、古館さん?」
 なじみの客に、親しげに挨拶する。
「はい、2月から春休みです。……違いますよ、この春で大学三年ですよ。いつまでも人を子どもみたいに。……はい、ちゃんとわかってます。明日の九時ですよね。……いいえ、久下さんは別の依頼が入ってるので、私ひとりです。……え? だいじょうぶです。はい、ちゃんと気をつけますから。いつもお仕事入れてくださって、ありがとうございます」
「古館って、『全賃協』の古館?」
 受話器を置いて戻ってきた詩乃に、龍二が尋ねた。
「そうよ」
「あいつの持ってくる仕事は、家の除霊とか、厄介なのが多くねえ? 詩乃ひとりでいけるのか?」
「だいじょうぶよ。私のほうが龍二くんよりも、ずっと腕は確かだから」
「ちぇーっ」
 聞いていた久下は、腹を抱えて大笑いした。
「僕や龍二くんがいなくても何とかなりますが、詩乃さんがいないと、もうこの事務所は一日だって回っていかないですよ」
 またチャイムが鳴って、ドアが開く。きれいな白髪とふくよかな笑顔。鷹泉孝子だった。
「あら、孝子さん」
「おひさ〜。やっと時間がとれたから、遊びに来たわよ」
 と、和菓子の包みを差し出す。
「あっ。いい匂い。桜餅だ」
「なんだ、もう買ってあったの?」
「はい、でも幾つでもウェルカムですよ。季節ですから」
「そうね。今日は特に暖かくて、週末あたり土手の桜も満開になりそうよ」
 孝子を交えて、事務所の中はますます賑やかなお茶会となった。
「もう、三年になるのね」
 とりとめない会話がひと段落したとき、ふと誰ともなく言い出したことばに、一同は忙しく口に運んでいた手を止めた。それぞれが思い思いの方向に視線をたゆたわせる。
「三年なんて、考えたらあっというまだったわね」
「孝子さんは、本当にこの三年間、忙しかったですからね」
「政治の混乱と空白は、あとで何倍ものツケが帰ってくるものなのよ」
 孝子は、あの頃より少し増えた目尻の皺を、そっと指の腹で撫でた。
「でも、人間の弱さと醜さが形をとって表われたあの二日間は、無駄ではなかったわ。特に上に立つ人間がそれを身をもって知ることは大切。大変だったけど、きっとこの国はよい国になる。……そう信じてるわ」
「私も、信じます」
 詩乃はそれだけ言って、唇をきゅっと結んだ。
 統馬があれだけの犠牲を払って守った国なのだから。その場にいた誰もが、心の中でそうつぶやいているだろう。
「詩乃さん」
 孝子が言った。
「はい」
「統馬がいつかあなたのもとに帰ってくると、本当に今でも信じている? 半ばあきらめてるということはない?」
 それは、この三年間訊こうとして訊けなかった疑問だった。この午後、その禁句が自然と口をついて出たのは、生命の春が使う魔法のいたずらだったのだろうか。
 詩乃は、力むこともなく穏やかに微笑んだ。
「はい、信じてます」
「どうして、それほど信じられるのかなと不思議なのよ。統馬は結局ひとこともあなたに、真実を打ち明けぬまま行ってしまったのでしょう。……昔からそう。いつだって彼は何も言ってくれなかった」
 孝子は少女の頃に戻ったように、むくれて少し唇を突き出してみせた。
「いわば裏切られたんじゃないの。待っていろなんて一方的に言われて、腹が立たない?」
(孝子さん、詩乃さんをいじめていますね)
 と心のうちで久下は苦笑した。それだけ孝子も、詩乃を頼っているのだ。詩乃のゆるぎない強さを確かめたい。確かめれば、また自分も明日から頑張れる。
「「待て」とは、誰にでも言えることばではありませんよ」
 と久下はさりげなく援護する。
「統馬は自分が調伏されなければならないことを知っていた。だから誰にも心を許さなかったのです。
――誰にもね。ただ詩乃さんだけには、待てと言うことができた。それだけ統馬は詩乃さんを愛しているのだと思いますね」
「そうかなあ。俺なら、好きな女だからこそ、絶対に泣かせることはしないと思うぜ」
 龍二はふてくされたように反論する。「帰るあてのない旅に出るのなら、待つなというほうが、よほど相手のためだ。今のままじゃ、詩乃ちゃんは生殺しだよ」
 「私もそう思うのよ」と孝子は力をこめて、詩乃に問いかける。
「それなのに、あなたはこの三年間、ひとことも泣き言を言わなかった。さびしがって涙を見せることもなかった。不思議でしたよ。どうして、そんなにたやすく運命を受け入れられたのか」
「……私が泣けば、統馬くんはもっと辛いと思ったんです」
 詩乃は一語一語を噛みしめるように、答える。
「行きたくて行くわけではないのに。ただでさえ辛い道が、ますます辛くなってしまう。そう思うと泣けなかった。今でも泣けないんです」
 目を閉じると、久下の真言を受けていたときの半遮羅の苦悶の表情が、瞼の裏に浮かんでくる。
 調伏とはあれだけの苦しみをともなうものだということを、統馬は自分の夜叉追いとしての体験から身をもって知っていたはずだ。それなのになお、その道を受け止めた。避けてはいけない道から、逃げようとはしなかった。
「私、統馬くんにふさわしい女性になりたい。めそめそと自分をあわれみながら生きる人生に、逃げたくないんです」
 そう言って静かに微笑む詩乃は、さながら菩薩像のように美しかった。
「それに私、確信してるんです。統馬くんは、私たちが一番彼を必要としているときに帰ってくるって」
「必要と……?」
「はい。彼がまだ帰ってこないということは、私にはまだ自分ができることが、もっともっとあるんだなって。だからせいいっぱい毎日を過ごして、少しでも成長したいんです。
大学で学んで、真言を覚えて、夜叉追いの修行をして、仲間と助け合って……。努力して、自分のできることを悔いなくやりとげて、それでももう、どうしようもなく会いたくてたまらなくなったとき、統馬くんは戻ってきてくれる。
……そう信じているんです」
 事務所は、深い沈黙で満たされた。
「負けたわ。結局、最後まで統馬を信頼しきれたのは、詩乃さんだけだったということなのね」
 孝子は降参のしるしに両手を挙げてみせた。 「私はダメ。統馬がいないと、もうどうしようもなく会いたくてたまらない」
 控えめにつぶやき、はっと気づいたときは目の前の桜餅のように赤くなった。
「僕も、そろそろ限界ですかねえ」
 久下もつられたように、白状する。
「俺はどうでもいいけど、まあ、いてくれたほうが楽しい気はするな」
 龍二が言うのは、もちろん詩乃のためだ。
「2年D組の同窓会でも、いつも訊かれるんですよ。統馬くんはいつ帰ってくるのって」
 詩乃は、また無理に無理を重ねて楽しげに笑った。
「長い修行の旅に出ていることにしてあるんですけど。みんなとても会いたがってて」
「卒業してから2年経つのに、しょっちゅう集まってますよね。2Dのクラスは」
「生死をともにした仲間たちですもの。会うと必ず、満賢に閉じ込められた校舎から脱出したときの話で大騒ぎになるんです。俺はあのときこうした、私はこうだったって。……まるで兵隊時代の話で盛り上がるおじいさんたちみたいに。とても楽しくって」
 にぎやかにしゃべっていた詩乃は、不意に口をつぐんだ。
 ほかの三人は、はっとして彼女の顔を見つめた。
「楽しいのに……早く帰って来ればいいのに。みんな待ってるのに……統馬くんのことを」
「詩乃ちゃん」
「私も本当は、もうダメ。会いたくて、会いたくてたまらないよ……」
 詩乃はうなだれ、二三度、喉のつまったような音をたてたかと思うと、わっと泣き崩れた。
「詩乃さん……」
 張りつめていたものが、一気に崩れたのだろう。
 慰めたくても、慰めのことばすら思いつかない。三人は助けを求めるかのように、知らず知らずのうちにドアのほうを見つめた。
 だが数秒も経たないうちに、軽い吐息とともにそれぞれ目を伏せた。
 詩乃はようやく泣き止むと、テーブルのティッシュで涙を丁寧にぬぐった。そして、気持ちを切り替えるためか、てきぱきとテーブルの上を片付け始めた。
「お茶、熱いの入れてくるね」
「詩乃ちゃん、手伝うわ」
「お願いします。どうしましょう、二杯目は、ほうじ茶がいいで……」
 かちゃんと湯呑みがころがる。
 詩乃は呆けたような顔をして、ドアを見ていた。
 かすかに震える声。「まさか……。ほんとに?」
 一同、それを合図にいっせいに振り返る。
「どういうこと?」
「わからない……」
 彼らは今度こそ、1ミリたりともドアから目を逸らさなかった。
「統馬が……」
「帰ってきた?」
 もし視線が刃であるならば、「久下心霊調査事務所」のドアはぼろぼろと形なく崩れ落ちていただろう。
 そして、ドアが開いた。


 ドアから現われた男を、四人は言葉もなく、ただ茫然と見つめていた。
「なんだ。もう知っていたのか」
 待ち受けるように立っている彼らに、男は戸惑ったようだった。
「おまえが連絡していたのか、今日戻ることを」
「するわけないじゃろう。天界にはケータイもないんじゃからな」
 男が肩に背負っていた細長い袋から、白い輝くような毛並みの狐がぬっと顔を出した。
「ナギちゃん!」
 詩乃は悲鳴に似た歓声を上げた。「どうして……?」
「地獄でさんざ苦労して、かつての刀工を探し出して、天叢雲を修理してもらったんじゃ。心配をかけたのう、詩乃どの」
 男の肩の上にちょこんと乗った草薙は、尻尾を勢いよく振り回して、にんまりしている。
「それよりも、ほら、ちゃんとよく見てみなされ。こやつが誰だかわかるか?」
 草薙の問いに、一同の視線は男の顔にもう一度矢のように注がれた。
 稽古着に似たすりきれた藍色の着物。髪はぼさぼさで、顎にはうっすらと無精ひげを生やしている。そして、着物のはだけた襟からのぞく胸はたくましく、そして背が高い。――そこに立つのは大人の男性だった。
 まぎれもなく矢上統馬。だが、明らかに三年前と比べて成長している。四百年間ずっと17歳のままで年を取らなかった彼ではない。
 そして、それが意味することは、ただひとつ。
「統馬……。人間に戻れたのですね」
 久下のかすれた声に、統馬はしごく真面目な表情を浮かべてうなずいた。
「いったい、今までどこにいたんです」
「天界の中の、水精宮というところにしばらくいた。その前の二年間は……地獄にいた」
「地獄でもたもたしていたところに、金剛夜叉明王さまをはじめとする明王さまたちのお力によって、天界に引き上げてもらったのじゃよ」
「もたもたなど、しておらん。俺は人を探していただけだ」
「誠太郎と信野をな。心配なのはわかるが、結局は会えずじまいじゃった。この方向音痴め」
「どうでもいいけどよ」
 相変わらずの口論をはじめた統馬と草薙に、龍二が割って入った。
「だいたい、そんなに早く人間に戻ってたのなら、なんでさっさと帰ってこなかったんだ」
「それが……いろいろあった」
「いろいろって、何だ?」
「いろいろは、いろいろだ」
「それもありますが」
 久下も、統馬の先ほどのことばを問いただした。
「水精宮と言えば、須弥山第四層、毘沙門天のおわすところ……そこに滞在したということは、それでは……」
「ええい、わたしが説明しよう」
 一向に要領を得た話ができない統馬の代わりに、草薙が話し始めた。
「久下の察したとおりじゃ。毘沙門天は帝釈天さまによって反逆の罪を赦され、須弥山の牢をお出ましになられて、水精宮に戻られた」
「ほんとなの」
 と詩乃が感極まって、口を両手でおおった。「吉祥天さま、さぞかしお喜びだったでしょう」
「うむ。おふたりは千年ぶりに仲むつまじく暮らしておられるぞ。じゃが……」
 草薙は、ふと顔を曇らせた。
「なんだよ、また何かあったのか?」
「また一大事が持ち上がってな。新たな反乱が企てられたのじゃ」
「反乱?」
 孝子が叫んだ。「また毘沙門天が反乱を起こしたの?」
「いやいや、今度は毘沙門天の子どもたちなのじゃ」
 草薙は髭をひっぱりながら、話す。
「五人の御子の名は、最勝・独健・那咤・常見・善賦師という。彼らはこう主張した。父毘沙門天がなしたことは、そもそも反逆にはあらず。天界と地上界の大改革であったと。それを、お咎めを赦されたとは言え、名誉を汚されたまま水精宮に軟禁のごとく押し込められているのはけしからんと、帝釈天さまや須弥山の上層部を声高に告発しはじめたのじゃ」
「……」
「彼らの言動に怒られたのは、むしろ毘沙門天のほうでな。何も知らぬこわっぱのくせに生意気な、と、言わば壮大な親子げんかが始まってしまったのじゃよ。
そして、つい先般、五人は処分を恐れて天界を逃げ出し、地上にて夜叉どもを操り、謀反を企てているというわけなのじゃ」
 持ち前の茶化した調子とは言え、ことの深刻さは草薙のことばの端々から読み取れる。
「そういえば、このところ夜叉どもが変な動きをしていやがるんだ。その五人が、引っ掻き回していたのか」
 龍二が苛立たしげにつぶやく。
 遠い天界での善と悪の戦いの成り行きに、運命をゆだねるしかない人間の無力さ。彼ならずとも、やり場のない怒りが沸いてくるのは当然だろう。
「吉祥天さま、それじゃあんまりかわいそう……」
 詩乃は、浅からぬ縁(えにし)の天女の身を案じて、すっかり涙ぐんでいる。
 草薙は詩乃のことばに、うなずいた。
「彼らを止めてくれと、統馬は吉祥天と毘沙門天直々に頼まれたのじゃ。天部の御仏たちも、統馬が地上の騒乱を鎮めることを条件に、夜叉の将として犯した数々の罪を赦してくだされた。皮肉なことだが、だからこそ統馬はこれほど早く地上に戻ることができたとも言える」
 草薙は、落ち込む皆の気を引き立てるように、明るく付け加えた。
「禍福は糾(あざな)える縄のごとし。幸と不幸は裏表となって撚り合わされておる。すべての事に、目に見える以上の深い御仏のご配慮があるのじゃて」
 しかし、しばらくは誰もが無言だった。
 夜叉八将との戦いが終わったばかりだというのに、天界と地上はふたたび混沌の中に投げ込まれたのだ。夜叉が人間たちを苦しめ、人間の身勝手な欲望が夜叉に力を与えるという、暗黒の図式が地上にふたたび描かれる。
「また長い戦いになる」
 統馬がよく通る声で、その場の沈黙を裂いた。
「五太子は、毘沙門天に劣るとは言え、それに近い霊力を身につけている。だが、今の俺にはもう、夜叉の将の力はない」
 彼はゆっくりと一同を見渡した。将軍が自軍を閲兵するときのように。みな知らず知らずのうちに背筋を正した。
「俺ひとりでは無理だ。みんなの力が必要だ」
 彼のことばを受けて、いっせいにうなずいた。彼らの目に、次第に光が戻り始めた。互いの様子をちらりとうかがって、頬を緩め、あわてて唇をきゅっと引き締める。
「孝子」
「はい」
 老女はふくよかな口元を、にっこり微笑ませた。
「中央のことは、まかせてください。政治家や官僚に呼びかけて、必ず夜叉の策略に負けない国を作ってみせます。たとえどんなに道は遠くとも」
「龍二」
「別に、俺は今までどおりだよ」
 彼は肩をすくめた。
「深遠な理想はどうでもいい。とりあえず目の前にいる夜叉は、やっつける。それでいいなら、ついていってやるぜ」
 次いで、統馬は久下にじっと目を注いだ。「久下」
「はい」
「この戦いが終わるまで、おまえにはもう少し力を貸してもらわねばならん。二百二十年もつきあってもらったのに、悪いな」
「いいえ」
 久下は目元をぬぐうと、破顔一笑した。もう来なくていいとは言われなかった。自分はまだ統馬に必要とされている。あふれでる喜びを抑えることができない。
「いつまでも、お供しますよ。戦いが終わるまでいつまでも。転生には慣れていますから」
「それから」
 統馬は最後に、ようやく詩乃に目を留めた。
 だが、またすぐに逸らす。そして何度も口を開きかけるが、そのたびにことばが見つからずに閉じてしまう。
「統馬くん」
 詩乃が先に、うるんだ声で呼びかけた。
「詩乃、俺は……」
 結局、ことばになったのはこれだけだった。三年間どれだけ彼が詩乃を想っていたかを、いったいどんなことばが伝えられるだろうか。
 回りの者たちは咳払いなどしながら、じりじりして待っている。
 統馬を愛していた者も、詩乃を愛していた者も、落ち着かないのだ。ふたりが収まるところに収まってくれなければ、気持ちが先に進めない。
 ところが、そんな思いをこめた食い入るような視線が、ますますこの不器用な男を追いつめる。
 ようやく言うべきことを思い定めたらしく、統馬は顔を上げた。
 詩乃を見つめ、見つめ、ただ見つめているうちに、彼の目の縁がうっすらと赤くなった。硬い表情が次第にほぐされていく。そしてその口元に、四百年浮かべたことがないであろう明るい色の微笑みが浮かんだ。
「俺は矢上家の当主として、家を再興せねばならん。父の霊からも、そう命じられている」
「はい」
 詩乃はまるで判決を聞く者のように慎ましやかに、両手を体の前にそろえて聞いている。
「それに、この戦いはまた何十年、何百年とかかるだろう。人間に戻った俺の、たかだか数十年の寿命では足りない。矢上一族代々にわたる戦いとなる」
「はい」
「矢上の名を継ぐ者をひとりでも多く増やさねばならぬ。そのために、詩乃、おまえの助けが必要なのだ」
「は……?」
 うなずこうとして、そのことばの意味することに気づき、詩乃はみるみる満面に朱をそそいだ。
 統馬は詩乃の手をぐいと握った。
「わかったか。わかったのだったら、行くぞ」
「え……、どこへ?」
「だから、矢上家の再興だ!」
 ドアがバタンと開き、風のようにふたりの姿がその向こうに消えたあと、部屋に立ち尽くしていた三人と一匹は、ようやく我に返った。
「な、なんなんだーっ、あれは!」
「あれでも、プロポーズ?」
「やれやれ、期待はしとらんかったが」
「統馬には、あれでもせいいっぱいでしょう」
 久下が頭を掻きながら、ソファに崩れ落ちた。「なんだかんだ言って、体よく逃げられちゃいましたか。もっと楽しみたかったのに」
「はああ」
 龍二も脱力して久下の隣に座って、桜餅を口に放り込む。
「まだ夕方だぜ。あのふたり、今夜は長い夜になりそうだな」
「うふ、うふふ……」
 それを聞いた孝子は、笑いが止まらなくなった。「うまく行くといいわね、矢上家の再興」
「そうですね」
 彼らはふたたび、それぞれの方向を選んで、視線をたゆたわせた。すりガラスの小窓から忍び入ってくる春の夕べの気配が、あたりをもの悲しく染めている。
「草薙」
 久下が、長年の親友の尻尾をふわりと撫でた。
「なんじゃ」
「何か話してくれませんか。昔話してくれたような、とても長い話を」
 久下は訴えかけるような瞳で草薙を見ている。それは孝子も、龍二も同じだった。
 ひとつの戦いが終わり、また新たな戦いが始まる。その歓喜にも苦痛にも似たはざまの時を、彼らはもてあましているのだ。
 そして統馬と詩乃が結ばれることを心から祝福しつつも、大切な仲間を失ってしまったような不思議な寂しさにさいなまれ、人恋しくてたまらないのだ。
 草薙は鋼でできた剣ではあるけれども、そんな彼らの気持ちがよくわかった。
「ふふん、しかたない。それでは、統馬とともに過ごした地獄と天界での日々のことでも、話してやるとするかのう」
 胸をそらし、ヒゲをぴんと伸ばした白狐は、彼らに向かって楽しげな笑みを見せた。
「手に汗握る波乱万丈の物語ぞ。今宵は一睡もできぬと、お覚悟めされよ」
 





                                 完
 




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