第一話 闇に潜むもの (2)                   back |  top | home




 翌日、詩乃と朋美たち三人は職員室に呼び出された。
 体育館の倉庫の扉が開け放たれたままになっており、南京錠も粉々に砕かれていたのを警備員が発見したからだ。
 倉庫の鍵を借り出した朋美たちが委員長に頼まれただけだと主張したせいで、詩乃も彼らと一緒に担任教師に詰問されるはめになった。
「わかりません、どうしてこんなことになったのか。球技大会の用具を倉庫に返したあと、鍵はきちんとかけて職員室に戻しに来ました。それからあとのことは本当に知らないんです」
 うなだれる三人のかたわらで、詩乃はいつものように、はきはきと言葉を紡ぎ出していた。
「でも、鍵をお返しするとき、きちんと先生方に声をかけなかったのは私のミスです。どうもすみませんでした」
 彼女は教師たちの絶大な信頼を受けているし、鍵を持ち出した者が錠前を壊すはずがないという単純な論理から、四人はあっさりと放免された。
「朋美、ユキ、理恵」
 一礼をして職員室のドアを閉めたあと、あわてて顔をそむけた友人たちに詩乃は声をかけた。
「昨日のことは、私忘れるから。そっちもそのつもりでいて」
 ひとりが暗く濁った瞳でちらりと見返したが、それきり連れ立って逃げるごとくに去ってしまった。
「弱虫」
 突然、地の底から湧いたような低い声に、心臓がとびはねる。
 振り向くと、廊下の壁ぎわの暗がりに矢上統馬が腕組みをして立っていた。冷笑をうかべて彼女を見る。
「弱虫……ですって?」
「自分を一晩閉じ込めようとした奴らに、ゲンコツはおろか文句のひとつも言ってやることもできない。何もなかったことにして万事を丸くおさめる。それがあんたの平和的解決法ってやつか」
「か、関係ない。あなたには」
 図星をさされて、詩乃の掌にじっとりと汗がにじみ始めた。
 そうだ。私は怖かったのだ。
 彼女たちの仕返しが怖いのではない。面倒見がよくて明るいクラスのまとめ役であるはずの自分が、実は誰からも仲間はずれにされている孤独な委員長であることを、先生にも誰にも知られたくなかったのだ。
「関係ない?」
 彼は詩乃に歩み寄ると、がしっと両手を壁について、彼女を腕の檻の中に閉じ込めた。
 その軽蔑とも憐れみともつかぬ間近な視線に、背筋がざわざわと鳴った。
「窮地から救ってやった俺のことを、『関係ない』で片付けるつもりか」
「助けてくれたことには、感謝してる。でも、でも……じゃあ、あなただって、どうしてあんな時間に学校の裏手にいたの? つい通りかかるようなところじゃないはずよ。
おまけに私を家に帰したあと、あそこで一体何をしていたの? あなたが倉庫を開け放しにしたりしなければ」
 詩乃は無性に腹を立てていた。クラスで孤立している転校生に、まるで大きな秘密を知っているように振舞われることに。
 同類だからおまえの本当の心がわかる、とでも言いたげに振舞われることに。
「それに、どうやって南京錠を粉々に砕くことができたの? あれは鉄で、どんなにしたってあんな風には」
「おまえは俺のことを何も知らないし、俺もおまえのことを何も知らない」
 統馬は詩乃をさえぎって、ことばをかぶせた。
「そっちがそういうことにしたいなら、俺にも好都合だ。……ただ、ひとつだけおまえの力を借りたい。助けてやった礼にそれくらいしてくれてもいいだろう。それが終わればおまえにもう近づかないと約束する」
 いつのまにか笑みを消している。
 圧倒的な威圧感。
 たとえ何者であろうと、自分に逆らう者を粉々にせずにはおかぬ冷酷さ。あの砕かれた錠前のように。
 詩乃は、その闇の底のような瞳から目をそらすことができず、震えながら問うた。
「……何をすればいいの」
「屋上の鍵を、こっそり職員室から持ち出してほしい。委員長のおまえならできるはずだ」


 放課後。
 夕映えが人気のない階段の踊り場をまぶしく照らす頃、詩乃は統馬を背後に従えて屋上へ昇り、扉に鍵をさしこんでいた。
「……この鍵を持ってくるの苦労したんだからね、いくら私でも。体育館倉庫のことがあったばかりだし」
「そうだろうな」
「特にこの鍵は、先生たちに厳重に見張られているみたい。5月のあの事件以来……」
 禁句をしゃべった愚かさに口をつぐむ詩乃のわきをすりぬけて、統馬が代わりに扉を開け放った。
 夕暮れの微風がふたりの体をすっとかすめた。
 乾燥した初夏の風はさわやかなはずなのに、なぜか詩乃には空気がぬめりを帯びているように感じられた。
 ここには何か、絶叫したくなる禍々しさが満ちている。
「確かに、いるな……」
 彼は肩に背負っていた長い袋を手に持ち替えると、かたわらの詩乃が邪魔だという意志をあらわに睨めつけた。
「おまえはもう、いい。先に帰れ」
「冗談じゃない、あなたの用事が終わるまで私もここにいるわ。だってこの鍵をこないだみたいにめちゃめちゃに壊されたら、また私の責任になるもの」
「必要もないのにそんなことはしない。鍵はちゃんと俺が返しておく」
「それも困るの。鍵を借りたのは私なんだから、人任せにはできないの」
「……堅苦しい女だな」
 詩乃はぐっとことばに詰まる。
 自分でもわかっていた。子どもの頃からあまりにも杓子定規で、それゆえ関わる人を疲れさせてしまうことを。
 だからどこでも親しい友人ができなかった。そしていつのまにか、人のいやがる仕事を進んで引き受けるようになったのだ。みんなの世話をして、うわべだけでも感謝されて、そうして輪の中に入っているふりをすれば、誰も彼女がひとりであることは気づかない。
「しかたがない」
 返事がないのに業を煮やしたのか、統馬はふたたび背中を向けた。
「終わるまで、そこらへんで静かにしていろ」
 屋上の中央付近まで進み出ると、片膝をついて丈の長い袋を灰色のコンクリートの上に置いた。
 ジッパーを開けると、中から出てきたのは木刀だった。
 詩乃は、沈黙を命ぜられたにも関わらず、思わず大声を上げた。
「ゴルフ道具じゃなかったの?」
「は?」
 彼は明らかに面食らった顔をして振り向いた。「ゴルフ?」
「だって、その入れ物……、ゴルフのクラブ用だよ」
 たっぷり数秒の沈黙のあと、彼は口ごもって言った。
「道理で、このあいだ知らねえおっさんに道で、『ハンディはいくつだ』と訊かれたわけだ……」
「クラブケースだって知らないで使ってたの?」
「ごみ置き場に捨ててあったのを拾ってきただけだ。寸法やら何やらの按配が、この刀にちょうどよかった」
「だって見ればわかるでしょ、メーカーのロゴ大きく入ってるじゃん!」
「す、少しヘンだとは思ったのだが」
「だから、私てっきり、あんたが屋上でパットの練習がしたいもんだと……。あ、あはは」
 詩乃は今までの緊張が一気にゆるんだ反動で、笑いを止めることができなかった。
 目を白黒させている統馬が、今までとはまるで別人のように可愛く見えたからである。
「笑うな!」
 照れ隠しに怒鳴ると彼は、まだ笑い続けている詩乃を無視してふたたびしゃがみこんだ。
 ナイロン製のクラブケースからは、木刀のほかに鉄の棒が何本か出てきた。
 そして小さな白い石。蝋石(ろうせき)か何かだろう。
 それを手に、灰色の床に何やら文字のようなものを書き付けはじめた。
 50センチおきくらいに、横3列縦3列に、計九つ。
 漢字にも見えるが、まったく読めない。
 最後にそれを囲む円が描かれたとき、詩乃は叫んだ。
「それって、……曼荼羅(まんだら)じゃない!」


 春の校外学習で青山の美術館見学に行ったとき、2メートル四方もの巨大な曼荼羅の絵画に圧倒されたことがある。詩乃はそのときの配布資料作りも一手に引き受けたので、曼荼羅についていろいろ調べたのだ。
 美術館で見たのは「金剛界曼荼羅」と呼ばれるもので、9つの仕切りの中に1061体もの仏像が描かれていたのだが、曼荼羅の中には、仏の姿を直接描かず、梵字(サンスクリット文字)だけで表わす「法曼荼羅」というものもあるらしい。
 矢上統馬が屋上の床に描いていたのは、この法曼荼羅だったのだ。


 彼は詩乃の叫びには答えず、さらに円形の曼荼羅を囲む正方形を描くように、四隅に鉄の棒を配置した。先に金属製の環といくつか小環がついている。錫杖と呼ばれるものだろう。
 まるで羊羹に刺す楊枝のように、4本の錫杖はコンクリートの中にたやすく打ち込まれ、風に吹かれてチリチリと高い音を立てた。
「ナウマクサンマンダ ボダナンハラチビエイ ソワカ」
 背を向けたままの統馬の声が、その錫杖の音に合わせ、謡うように低く流れ始める。
「矢上くん、あなたってもしかすると修験者か何かなの」
 詩乃はふたたび我を忘れて、問いかけを始めた。
「何かを祓うために来たの。それって、まさかこの間ここから飛び降りた……」
「うるさい、気が散る」
 彼は、呻くように言った。
「質問ならあとでいくらでも答えてやる。今は黙っていろ」
 しかしその叱責を受けるまでもなく、詩乃は口をつぐんで数歩後退せざるを得なかった。
 曼荼羅の上空に、ざわざわと目に見えぬ何かが集まり始めたからである。
 それはあたかも黒煙が空気口に向かって殺到しているような、そんな異様な気配だった。
 悪寒がびちびちと皮膚を粟立たせる。
 統馬は両手を手首で交差させ、指を曲げて左右対称の印を形作る。
 もはや彼の体は、何者をも寄せ付けない気に満ちている。
「オン バザラヤキシャ ウン」
 鋭い声を上げると、床に置いてあった木刀をすばやく拾い上げた。
 いや、それは木刀ではなかった。
 木刀に似せた木のさやから放たれたのは、正真正銘の刀。銀色にまばゆく輝く細身の真剣だったのだ。
 統馬はそれをいきなり右から左に袈裟懸けに振り下ろした。
 もう一度、今度は左から右に。さらに真正面に上から下へ。
 何も知らぬ詩乃の目には、藍色の夕空を背景にした美しい剣舞のようにしか見えなかった。
 あたりにバチバチと火花が散った。
 刀印を受けたその暗黒不定形のものは、苦しげに身をよじったかと思うと、集まったときのフィルムを逆回ししたごとくに、一気に四散した。
「ふうっ」
 押し殺したため息が聞こえ、彼は片手で最後の印を結ぶと、両腕をだらりと体の脇に垂らした。
「終わったの……」
 おそるおそるの問いかけに、統馬は少しく疲労をにじませた表情でふりむいた。
「ああ」
「今のは……」
「見えたのか」
「見えたというか……、何かを感じた」
 眼の前の転校生に今までにはなかった畏敬を感じつつ、詩乃は数歩進み出た。
「今のは、なんだったの?」
「ここから飛び降り自殺した男子生徒の霊」
「高崎くんの?」
 統馬は、首をめぐらせて薄闇の天空を仰いだ。
「……それからその霊にとり憑いた、夜叉だ」
   



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