第一話 闇に潜むもの (3)                   back |  top | home




「ちょっと待ちなさいよっ。あとでいくらでも説明してやるって言ったでしょ!」
 容赦なく引き離そうとする矢上統馬のあとを、弓月詩乃は小走りに追いかける。
「夜叉っていったい、何なの!」
 彼は歩を止め、うんざりした顔で後ろを向いた。
「叫ばなくても、聞こえている。おまえの声は町中に響いてるぞ」
「ふん、伊達に小学校のときから委員長として、クラス全員の点呼やってないわよ」
「鍵さえ手に入れてくれれば、お互い近づかない。その約束だったんじゃないのか」
「ここで逃げるなんて、卑怯よ。高崎くんはうちの高校の大事な一員だったのよ。それなのに、あんなことになっちゃって……」
 詩乃はうなだれた。
「どうしてお祓いなんかしたのか、理由くらい聞かせてくれたっていいでしょ」
 本気で涙ぐんでいる詩乃に、統馬は面食らったように顔をそむけ、長い間口を開かなかった。
 とっぷりと暮れた国道を行き交う車が灯すヘッドライトが、民家の壁ぎわに立ち止まったふたりの影を、魔物のように浮かび上がらせる。
「高崎というのか、あの男子生徒」
 静かな声の調子は、問いかけているのでもなく、ひとりごとでもない。
「うん」
「学校に強い恨みを持っていた。入学すぐからひどいイジメに会っていたのだろう。その霊魂の念が夜叉を引き寄せた」
「夜叉……」
 空を翔る翼を持つ、人を食う魔物。インドではもともと悪神扱いだったが、やがて仏に帰依した仏教の守護者とされるようになった。
 それくらいしか、詩乃の知識はなかった。単なる伝説上の存在だと思っていたのに。
「夜叉には2種類ある。高崎の死霊に取り憑いたのは、『隠形夜叉』だ」
「おんぎょう・やしゃ……?」
「それ自体では姿形を持たない夜叉のことだ。取り憑いた人間を操って悪事の限りを尽くす。現世に対する強い恨みや執着を持った死人の霊魂に取り憑くものもいる。その執着が強ければ強いほど、取り憑いた夜叉はより強大な力を発揮できる」
「高崎くんは恨みをもって死んだから、夜叉に取り憑かれて、自殺した場所でさまよっていたというの?」
「そうだ」
「成仏させるために、お祓いをしたの?」
「俺は、憑いていた夜叉を調伏しただけだ。天界のことはわからん。
……しかし、自らの命を絶った者が、そうたやすく成仏できるとは思えない。長い苦行を受けるか、転生して畜生道に堕ちるか。いずれにせよ、菩薩や如来どもの決めることだ」
 恐ろしいことを平気で言う。
「そう……」
 詩乃は目を夜空に上げた、まるでそこに死者の霊魂がいるかのように。
 ごめん、高崎くん。
 気づいてあげられなくて、辛いままで、寂しいままで逝かせてしまって、ごめんね。
 統馬はそんな彼女の様子を、乾いた目で見つめた。
「もう、得心したか。俺は行くぞ」
「待って」
 詩乃は、あわてて彼の背中に叫んだ。
「なんだ、まだ何か用か」
「もうひとつだけ、聞かせて。……あなたは、誰なの?」


 普通の高校生であるはずがない。あれだけの密教の知識と、この世ならぬものを意のままにする霊力とでも呼べるものを持っている。それに、彼が転校してきたのは5月になってからだ。編入試験のないこの時期に、公立高校に転校してくることは普通ありえないはずなのに。
「矢上くん!」
「俺は……『夜叉追い』だ」
 ふたりの上をまた、車のビームライトの鋭く青い光が無遠慮になめていく。統馬はまぶしさに舌打ちすると、ふたたび歩道を歩き始めた。
「夜叉追い?」
 詩乃も、斜め後ろにつく。
「夜叉を見つけ出し、調伏することを仕事にしている。この学校を調べるよう依頼されて、学生としてもぐりこんだ」
「何のために?」
「今年になってから、この高校で異常に増え続けている非行が明らかになったためだ。登校拒否にいたっては一挙に20人。昨年1年間の5倍に達する。夜叉のしわざではないかと疑った者がいて、俺に調査の命令が来た」
「それは、校長先生から?」
「……もっと上だ。依頼者の名前は言えない」
 詩乃は拳の先を軽く噛んだ。
 思い当たることがたくさんある。確かにこの数ヶ月、学校全体のムードが何かおかしかった。落ち着かずざわざわした雰囲気。先生も生徒も誰もが苛ついていて……。
 はっと顔を上げる。
「まさか、それじゃもしかして」
 統馬は交差点の信号の前で立ち止まり、振り返ってかすかに微笑んだ。
「おまえをあの倉庫に閉じ込めた女生徒三人も、夜叉の妖力の影響を受けていたのだろうな」
「そんな……」
「だからといって、まったくあいつらが無罪というわけでもない。夜叉の影響を受けるということはまぎれもなく、邪まな心は持っているはずだ。表には表われないまま渦巻いていた妬みや憎しみ。それを夜叉につけこまれた」
 詩乃の目から、また涙があふれだした。
 彼女たちの裏切り。陰湿な言動。すべては、夜叉のせいだった。
 でも、それがわかったからと言って、何が解決するだろうか。
 本当は、朋美たちが私をどう思っていてもよかった。表面だけ仲良くしているふりさえできたら。
 だけど、いったん心の真実を見てしまったら、もう二度と友だちには戻れないだろう。
 ぐしっと拳で頬をぬぐって、いつもの気丈さを取り戻した。
「じゃあ、あの夜、倉庫のそばにいたのも調査のため?」
「ここへ来てから二つの事を調べていた。ひとつは1年男子の飛び降り自殺。もうひとつは体育館周辺での幽霊の噂。それを確かめるためにあそこに行き、偶然一部始終を見かけたわけだ」
「倉庫の中にも夜叉が隠れていたの? 中に入って調べたんでしょう?」
「いや、あそこには何もいなかった」
 それはおかしい、と思う。
 あのとき、倉庫に閉じ込められていたとき、背後に感じたおぞましい気配。今考えればあれは確かに、屋上で感じたのと同質のものだった。
 恐怖ゆえの思い違いだったのだろうか。
 確かに何かが聞こえたような気がしたのに。


 そのことを統馬に告げようとした瞬間、彼らは思わず目に痛みを感じるほどの光の洪水の中に叩き込まれた。
「な、なに?」
 手をかざし、やっとのことで薄目を開けて見る。
 行く手を阻むようにしてオートバイの群れが、ヘッドライトをすべてふたりに向けて円陣を組んでいた。
 光る一つ目、その数およそ十数個。
「おらおら。あてつけがましく、イチャイチャしてんじゃねーよ。おふたりさん」
「ボクらにも、おすそわけしてちょーだい」
「ひっひっひ……」
 陰湿な笑い声が端からさざなみのように伝わっていく。
 ひっひっひ。
 ひー。ひー。ひー。
 やがて狂気をはらんだ大合唱となって、暴走族たちは少しずつ円を狭め始めた。
「……やはり、町中に及んでいたか」
「……まさか! こいつらも夜叉に?」
 詩乃の絶叫が終わる前に、すでに統馬は刀を取り出していた。
「弓月、これを持っていろ!」
 刀入れを詩乃に押し付けると、木の鞘のまま正眼に構える。
 それに呼応するかのように一斉に、相手も鉄パイプらしきものをそれぞれ振りかざした。
 詩乃は、統馬の背中とブロック塀のあいだにはさまれ、思わず目をつぶった。
 多勢に無勢。八方塞がり。
 今の状況にどんな代数をあてはめようとも、脱出は不可能という解しか出てはこない。


 鋭くうねるような突風が彼女の長い髪をなぶる。上から下に、左から右に、今度は右から左に。
 何かの砕ける鈍い衝撃音。
 誰かのうめき声。
 何が起こっているのだろう。矢上くんは無事? 目を開けたいが怖くて開けられない。
 やがて、ふわりと浮く感覚。
 腰のあたりに誰かの手が回されている。
 悲鳴を上げようとして、口と目を開いた瞬間。
 国道を照らす照明灯のオレンジ色の光が、ぐいと近づいては遠ざかった。
 ……飛んでいる……?
 眩暈を起こすような光景にまたぎゅっと目を閉じると、固い地面に着地した衝撃。しかしそれは浮遊感にふたたび取って代わられる。
 男たちの怒号とオートバイの爆音が後ろから聞こえた。
 思わず指の先でつかんだものは、固い布だった。たぶん、統馬の黒い制服の袖。
 薄目を開けると、うしろに飛び退る横長のスクリーンに、町の風景が流れていく。
 彼が私を脇に抱きかかえて走っているんだ。
 みぞおちにその加速を感じながら、詩乃は瞼をただ石のように閉じた。


 どさりと、やや乱暴に地面に下ろされた。
 土の匂い。
 はっと上半身を起こして目を開けると、黒々とした大きな木々が最初に見えた。
 そして、その黒さに溶け込むように、統馬の体がゆらりと視界を横切る。
「ここは何処だ? 奴らに追われてわけのわからないまま、こんなところまで来てしまったが」
 詩乃は促されて立ち上がると、ゆっくりあたりを見渡した。
 杉林の真ん中に、百段ほどの真直ぐな石段が続いている。その中間あたりの踊り場に彼らはいる。
「……ここは、学校からだいぶ北の方よ。この石段を上がりきると妙法寺っていうお寺がある」
「そうか。俺はまだこの町の地理に疎いな」
「さっきの暴走族は?」
「全部撒いたはずだ。もっとも、半数は今もさっきの場所から動けないと思うが」
 私を抱きかかえながら、あれだけの人数の追手を振り切って走るなんて。しかも相手はオートバイに乗っていたのだ。
 矢上統馬。いったいこの人はどういう人なのだろう。
「やっぱり、さっきのは夜叉の仕業なの?」
「ああ、だが高崎に憑いていたのとは、比べ物にならないほど上位の夜叉だ。あれほど多人数を一度に操れるとは」
「うちの学校の他にも、まだ夜叉がいるってことなの?」
 石砂利の音を立てて、統馬が眼下の夜景を見下ろす位置に立った。
「この町では去年あたりから急激に犯罪が増え始めたという話を聞いた。本当か?」
「そういえば、痴漢や誘拐騒ぎがこのところ急激に増えてるって回覧板が回ってきてた。それに、以前はこのへんでは暴走族なんて見かけたことがなかったのに……」
「もしそうなら、高校の中の異変よりも先に町全体に異変が起こっていたことになる」
「ええっ?」
「強い妖力を持つ夜叉の庇護の下には、多くの下級夜叉が集まる。高崎に取り憑いたのも、その中の一体なんだろう」
「じゃあ、そのどこかにいる親玉を倒さなければ、いつまでも夜叉が集まってくるってことね」
 統馬はぴくりと肩を揺らし、上を振り仰いだ。
「この上には、寺があると言っていたな……」
「うん、江戸時代から続く古い真言宗のお寺。もともとは神社の境内に建てられた別当寺だったんだって。そう言えば、ここには……」
 詩乃は階段を一歩ずつ上がり始めた。
「昔から、戦国時代の侍の幽霊が出るって言い伝えがあるんだ。なにか関係あるかもしれないよ」
「おい、待て!」
 はじめはゆっくりと、最後には小走りに、彼女は一気に石段を駆け上がった。統馬がそのあとを追う。
 山門わきに白木造りの小さな社務所があったが、窓にはよろい戸がはめてあり、人気はなかった。
 境内は広い。正面の瓦葺の本堂まで一直線の参道。その両脇には玉砂利を敷き詰めた庭。さらにその外側には鬱蒼と茂るクスの木が並んでいる。
「真っ暗ね。街灯くらいつけたらいいのに」
 詩乃が静けさに耐えかねて、つぶやく。
「夜は本来、暗いものだ」
 統馬が背後から答えた。
「俺はむしろ、人工の明かりが嫌いだ。今の世は夜が明るすぎる。まばゆいほどの照明を灯し、暗さから目をそむけようとしている。
本来、生き物は闇が必要なのだ。自身が己の中に闇を持つ存在ゆえに。それを認める勇気を持たぬものほど、闇を恐れ、闇に取り込まれる」
「それ……どういうこと?」
 振り向くと、都会の白夜のごとき空を背に統馬のシルエットが浮かび上がっている。刀を手にしたそのあまりにも鋭利なたたずまいに、詩乃はぶるっと体を震わせた。
「あの連中を見たろう? ひとりになることを恐れ、蟻のように群れる。あふれるほどの光と音をまとおうとする。だから誰よりも先に闇の力に屈してしまった」
「でも、それは……」
 詩乃は恐怖に駆られながらも、地中のマグマのように煮えたぎりながら上がってくることばを吐き出した。
「人間は誰もひとりでは生きられないからよ。ひとりは弱い。弱くて悲しすぎる。
誰だって、闇より光のほうがいいに決まってる。弱いより強いほうがいいに決まってる。さびしいより楽しいほうがいいに決まってる。ひとりより大勢がいいに決まってる!」


 だからひとりぼっちの家に帰ると、真っ先にテレビをつけるのだ。
 友だちなんかじゃないのに、友だちのふりをして笑い合うのだ。
 誰かを哀れむふりをして、自分が哀れであることから目をそむけるのだ。


「あんたなんか……、あんたなんかに何がわかるのよっ! 私たちの気持ちは誰にもわからない!」


 さびしい……。
 いとしい……。
 にくい……。
 体のどこかに
 何かが穴を開けた。


「正体を、……とうとう現わしたな」
「え?」
「俺をここに誘い込む役目を果たしたのが、あの暴走族。そして最後の仕上げを務めたのがおまえだった」
「な、何を言っているの?」
 答えは、刀の鞘を払うなめらかな金属音だった。
 統馬が手首を少し返すと銀色の刀身は、夜露を四方から集めたような微細な光のくずをこぼした。
「矢上くん!」
 彼は氷さながらに微笑むと、詩乃の頭にためらうことなく真剣を振り下ろした。






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