第一話 闇に潜むもの (4)                   back |  top | home




 詩乃は目を開けた。
 閉じても開けても同じ闇。最初は何も見えない。
「きゃああっ」
 はじかれたように飛び起きた。視線を動かした先に、彼女を斬った男が胡坐をかいていたのだ。
「相変わらずけたたましい女だ。気をつけないと、下に落ちるぞ」
 とっさに体を支えるためについた掌に、木の床の固い感触。
 彼女の寝かされていた場所は寺の本堂の回廊で、すぐ後ろが十段ほどの木の段になっていた。
「だ、騙したのね。あんたなんか、信じるんじゃなかった。そのせいで私は、死、死んで、……あれ?」
 頭に手をやる。痛くない。血ひとつ出ていない。
 確かに、真上から刀を振り下ろされたはずだった。その前に意識を失ってしまったけれど。
 今頃まっぷたつにされていてもおかしくないのに。
 統馬はあきれたような吐息をつき、後ろ手に刀を鞘のまま掴むと、ぐいっと彼女の前にかざした。
「これは普通の剣ではない。鞘から抜いたところで大根一本切れないナマクラだ。斬れるのはただ夜叉のみ」
「え?」
「霊剣・天叢雲という」
「あめのむらくも……」
「説明もせずに斬りつけたのは悪かった。だが、奴は巧妙に隠れていたため、わずかに姿を見せたあの瞬間しか調伏するチャンスはなかった」
「調伏って。あの、誰を」
「おまえに取り憑いていた夜叉を、だ」
「……」
 混乱のあまり、正常な思考ができない。
「あの体育館倉庫に閉じ込められたとき、憑かれたのだろう」
「うそよっ。嘘。私は……」
「憑かれたことは感じていなかっただろうな。何の痛みも感覚もない。
ただ、心の一点にほんの小さな穴をうがたれて、忍び入られる。次第に精神を乗っ取られる。
幽霊の噂は本当だった。それまで死霊に取り憑いていた夜叉が、夜叉追いである俺の目を逃れるために、その場にいたおまえに乗り移った。そしてある目的のために上位の夜叉に使役されていた」
「ある目的って……」
 詩乃は震えながらも、とっさに思いついた真実を口にした。
「まさか、あなたをここにおびきよせること……。その手伝いを私がしたっていうのね」
 統馬は彼女をじっと見つめた。その顔にはじめて翳りといえるものが宿った。
「恥じることはない。人は誰しも闇を心に抱えていると言ったろう。それに」
 立ち上がり、あたりを見渡す。
「そのほうが俺には好都合だったからな。おかげでこんなに早く、敵の真っ只中に飛び込むことができた」
 詩乃もあわてて身を起こす。
 夜の底に沈む境内には相変わらず死の静寂が漂うだけ。統馬が見つめているらしきものは何も見えない。


「クサナギ」
 統馬は持っていたクラブケースを開けて、あたかも中に誰か存在するように呼びかけながら、小さな塊を取り出した。
「これを握っていろ」
 と彼女に差し出す。
 何の説明もせずにそれだけ言い置くと、刀を腰に帯び、階段を降り始めた。
「矢上くん……」
 詩乃は、言い知れぬ不安に臓物が焦がされるような痛みを感じた。
『心配か』
 突然、間近から聞こえた声に飛び上がる。
 いや、それは声とは呼べないものかもしれない。耳を通してではなく、心に響いてきた。そうとしか言い表わせない感覚だったのだ。
『案ずることはない。わたしの作る結界の中にいるかぎり、夜叉はそなたに手出しができぬ』
 あわてて見下ろすと、統馬から渡された塊がかすかに光を放っている。
 その塊、直径20センチほどの平たい金属のドーナツ盤。外側に等間隔の突起がある。
 中央から外円に向かって放射線上に輻(スポーク)状の棒が延びており、全体像はちょうど棘のある車輪のようだった。
 その車輪が語りかけているのだ。あまりのことに、詩乃が答えることばを失っていると、
『はて、わが念話、そなたにはまだ慣れぬとみえる』
 固い塊は、手の内でみるみるその形を変えた。
 次に手の上にうずくまっていたのは、光り輝くような毛並みと黄金の目を持つ、白い小さな狐だった。
「これなら、直接そなたに話しかけられる。蛇の姿とどちらにしようかと迷ったが、こっちのほうがギャル受けしそうじゃしな。
それに狐は、この霊場の鎮守神、稲荷神社の使役獣でもある」
「あ、あの。あの……」
「わたしの名は草薙。以後お見知りおきを」
「あ、弓月詩乃です。よろしく……」
 手の上の狐と詩乃は、丁寧なお辞儀を交わした。
 しかしその微笑ましい交流も、一瞬後には凍りつく。
「ああっ」
 統馬のほうを見やった詩乃は、悲痛な叫びを上げた。
「あんなにたくさん……」
 彼女の目に映ったのは、境内をうずめつくさんばかりの亡者の群れだったのだ。
「わたしの霊力の影響で、そなたにも見えるようになったのじゃな」
「噂は本当だったんだ……。この寺には戦国時代の侍の亡霊がいるって」
 それも五体や十体ではない。百体になんなんとする、おびただしい甲冑の群れは、歩くたびに鉄鋲の音をがちゃがちゃと立てながら、境内の真ん中に立ち尽くす統馬のほうに近づいてくる。
「武士(もののふ)の姿に見えるのか」
「違うの?」
「見る者の心が映すものを、霊は写し出す。
この中には、戦から逃げのびる途中で、ここで非業の最期を遂げた落ち武者もおろう。
また、明治の御世になり、廃仏毀釈の嵐の中で伽藍や本尊を破壊されて、行く先を失った無念の僧侶たちもおろう。
あるいは、太平洋戦争の空襲のおりに、B29のばらまく焼夷弾で生きながら身を焼かれた多くの民草たちもおろう」
「そんなにたくさんの霊が……?」
「こうした霊場には、多くの霊が救いを求めて来る。またその存在が新たな霊を集わせる。それらを束ねて自らの僕として使い、さらなる永劫の苦しみを与えるのが、夜叉どもよ。
その夜叉を祓い、霊障を取り除くのが、「夜叉追い」の仕事」
「矢上くんは、今から何をするの?」
「夜叉を一刀両断に断ち斬る。あの天叢雲を使ってな」
「曼荼羅は? 学校の屋上で描いたような」
「あれは闇にまぎれようとする夜叉をおびき寄せ、調伏するときにのみ用を成すもの。これだけの霊が押し寄せてきた今となっては無駄じゃな」
「でも大丈夫なの、矢上くんは。こんなにたくさんを相手にして?」
「ふふふ、まあ見ているがよい」


 液体のごとき静寂。
 闇に溶け入る黒い制服を着た男は、数多の亡霊を前になお直立不動の姿勢でいた。
 両手を組み、印を結ぶ。
 統馬の低く真言陀羅尼(しんごんだらに)をとなえる声が、大気をますます張り詰めたものとする。
 邪悪な者どもが一斉に飛びかかるのと、彼が居合いとともに剣を放つのは、ほぼ同時だった。
 雷(いかずち)の残像とも見える光の弧が空中に描かれる。
 数体の霊が霧散した。
 返す太刀でまた数体。敵の攻撃は毛筋たりとも届くことはない。
 すさまじい咆哮。形を保てなくなった霊どもは異次元に吸い込まれるように消えた。
 刀がひらめくたびに細かい水蒸気が舞い、天に立ち昇る。
 敵は見た目はいっこうに数を減らす気配がない。背後の暗闇から次々と湧き出てくる。
 それでも、統馬はほとんど表情を変えない。ただ光から闇へ、闇から光へと、剣を走らせる。
 その動きはまるで、大空を横切る飛燕。山影ににわかに吹き降ろす突風。乾いた大地に前触れもなく走る亀裂だった。
「苦しそう……」
 祈る思いで見つめていた詩乃は、つぶやきを洩らした。
「なに?」
「矢上くんの心が、とても苦しそう」
「なるほど、そなたには彼奴の心が見えるか」
 草薙は淡々と答えた。
「夜叉を調伏するには、その憑いた夜叉と憑かれた霊との継ぎ目を見つけて切り離す必要がある。永年の関係ほど、その結びつきは固い。そればかりでなく、斬る側はその瞬間に、霊のむきだしの恨みと憎悪にさらされることになる」
「え……」
「彼奴は今、数百の霊の怨念を身に浴び、亡者の執着に魂をむしばまれておるのじゃ」
 そのことばのあまりの恐ろしさに、詩乃はがたがたと震えはじめた。
「私のせいだ……。私が操られて、矢上くんをここに連れてきてしまったから……」
「たとえそうじゃとしても、彼奴はそなたを責めはせなんだはず」
 白狐は含み笑いを洩らした。
「統馬には、人を責める資格などないのじゃ」


 夜半の月が西天に落ちるころ、最後の一体が空気の悲鳴とともに切り裂かれた。
 統馬の肩が落ち、切先がだらりと下がる。まるで、刀の重みにさえ耐えられないというふうに。
 震える息を何度か吸って吐き、指で印を結んだ。詩乃はあわてて駆け寄ろうとする。
「待て!」
 詩乃の足が木の段を下り、地面につくかつかないかのとき、統馬の鋭い声が制した。
「まだだ。草薙と、寺の中に戻っていろ」
「どうして? もう全部片付いたんじゃないの?」
「彼奴の言うとおりじゃ」
 草薙は、険しい黄金色の瞳を空に向けた。
「まだ、一番大きな気配が残っておる……」
「親玉がいるって言ってた、それなの?」
 狐はゆっくりと美しく白い毛並みを逆立てた。
「まさか。いや、しかし、確かにこの気配は……」
 それにつれてかたわらにいた詩乃にも、その残虐な思念がびりびりと感じられる。しかしそれはあくまで氷山の一角。元凶は見ることもあたわぬほど巨大だった。
 その気配の中心に向かって、統馬が歩み寄った。先ほどチラリと見せた弱々しさは微塵もない。
「とうとう会えたな」
 声に、笑いさえ含んでいる。
「や、やはりあれは、『夜叉八将』!」
「夜叉八将……?」
 勢いこんで尋ねようとした詩乃は、その瞬間に「ひっ」と喉をつまらせて、寺の回廊にへたへたと座りこんだ。
 「邪」が、正体を現したのだ。
 草薙の結界が彼女を守っていなかったら、一目見ただけで心臓が止まっていたに違いない。
 それは身の丈八尺近くもある、異国風の鎧をまとった異形の怪物だった。黒いにかわのような肌。赤く裂けた口に嘲るような笑いを浮かべ、深蒼の目には途方もない憤怒をたたえている。
『久しぶりじゃな。「夜叉追いの統馬」』
 びりびりと大気が放電する。
 淡い月の光の下、統馬はそれにひるむ素振りもなく、静かに刀を構えた。
「捜したぜ、婆多祁哩(ばたきり)。――200年もの長き間」
 





next | top | home
Copyright (c) 2004 BUTAPENN.