第一話 闇に潜むもの (5)                   back |  top | home




「あれは何なのっ!」
 歳月を経て角に丸みさえ帯びた手すりを、ぎゅっと握りしめる。
 恐怖のあまり、またへなへなと萎えそうになる膝をふんばり、詩乃は叫んだ。
 その横の手すりに飛び乗り、ぴんと背をのばした白狐が答える。
「夜叉八将と申しただろう」
「でも、夜叉って、直接は目に見えないのじゃないの?」
「夜叉には2種類いる。ひとつめが、下級の者「隠形夜叉」。人や霊に取り憑いてこの世に悪行を働くものどもじゃ。
だが、何かに取り憑かねども己の姿を保つことのできる上位の夜叉がいる。中でもことさらに霊力の高いのが、毘沙門天直属の八体の腹心たち。我らは「夜叉八将」と呼んでおる」
「毘沙門天って七福神のひとりじゃない。いい神様なんでしょ?」
「さあ、どうであろう。わたしは一介の霊剣。天界のことはわからぬ」
「ああ、混乱する。でも要するに、今までとは比べ物にならないくらい、とっっても強いヤツなのね!」
「飲み込みの早いギャルは、好きじゃよ」
 草薙はピアノ線のようなひげを振るわせ、にっこり笑った。
「矢上くんは、そんな強い奴相手に勝てるの?」
「彼奴も、ただの高校生ではない。伊達に修行はしておらん」
「あいつと前に会ったことがあるの? 二百年捜したって言ってた。どういう意味?」
「……「統馬」とは、夜叉追いの一族の秘伝を極めた長(おさ)のみに与えられる、いわば通し名。
夜叉追いたちは千年ものあいだ、世代を超えて夜叉たちを祓い続けてきた。そして一生に一度でも、夜叉八将にめぐり会い、戦えることを悲願としてきたのじゃ」


 悲願。
 歳月を越えた闘争心が、今まさに統馬の瞳の中に熾火のごとく燃えていた。
 亡霊たちを相手にしていたときの無心の構えとはまるで別人だ。それまでを凪いだ水面の景色とすれば、今の彼はいままさに荒れ狂わんとする嵐の大海原だった。
「この街の夜叉どもをたばねていたのは、おまえだったのか。婆多祁哩(ばたきり)」
 押し殺した声で、言う。
「おうよ。いいところで邪魔をしてくれたな。もう少しでこの一帯すべてを俺の「狩り場」にできたのに」
 対照的な大音声が、あたりをびりびりと震わせる。
「かつてのおまえの村のようにな。……ひひひ」
 前触れもなくうねり立つ波頭さながら、統馬は上段から振り降ろした。空気の分子が捻じ曲げられる悲鳴がする。
 離れたところにいる詩乃からは、それまで敵が巨体の陰にどんな武器を隠し持つのか全く見えなかった。
 統馬の激烈の一撃をいともたやすく撃ち止めたものは、その身体にふさわしい、得体の知れぬ巨大な金属の棍棒だった。太い柄の両端にそれぞれ、三叉のような突起がついている。
「あれは……」
「金剛杵じゃ」
「「こんごうしょ」って、お坊さんが座禅を組むときに手に持つ、あの小さな金色の道具じゃないの? あいつが持ってるのは、半端じゃなくデカいじゃない!」
「もともと金剛杵とは古代インドから伝わるヴァジラというれっきとした殺戮のための武器。それが、今の仏教ではあらゆる煩悩を打ち払う象徴の法具として使われておる」
 夜叉の将は気合とともに、全長2メートルはあろうかという金剛杵をぶんぶんと振り回し始めた。
 その遠心力に体の重みを加えて打ち降ろす。同時に統馬は軽々と横に飛ぶ。
 どすんという地響き。彼がそれまで立っていたあたりは、まるでショベルカーか何かで掘り返された地面のように深い穴がうがたれている。
「統馬、やれっ。婆多祁哩なんぞ、バターみたいに斬っちまえ!」
 ふさふさの尻尾を振りながら草薙は、もし届いていたら思わず脱力するような声援を送る。
 夜叉が武器を手元に引き戻す直前に、統馬は側面からその空いた懐にもぐりこむような太刀を浴びせた。
 しかし、金剛杵のもう片方の三叉がガツとそれを受け止め、払いのける。
 切先がかすったとも見えなかったのに、統馬の腕から鮮血がしぶきとなって飛び散った。
「きゃあっ」
「なんという」
 草薙はウウとうなる。
「完璧な攻撃。そして完璧な防御! 金剛杵がこれほど攻防一体の武器だったとは」
 悔しげな賛辞は、同じ武器界の住民ゆえか。
 敵は、おのれの飾り兜よりさらに高く杵を差し上げ、8の字を描くように回した。そのあまりの加速。棒状だったはずの武器は今や常人の目には禍々しい球にしか見えない。
 空気のうねりを巻き起こしつつ婆多祁哩は、そのまま統馬に突っ込んでくる。統馬も臆することなく、正面からそれを迎え撃つ。
 しばし、戦場は巨大な砂塵の渦の中心に投げ込まれた。


 ようやく双方が間合いを取り、あたりが晴れて一瞬の静寂が訪れたとき、統馬が片膝をがくりと折った。
「矢上くん!」
 詩乃が絶叫した。
「いかん!」
 草薙の声も悲痛の色を帯びる。
「先の亡霊どもとの戦いで、思っていたより彼奴は霊力を使い果たしていたか」
「そんな」
 それでも統馬は俊敏に体勢を立て直し、刀を地ずりの正眼に構える。満身創痍だが、相手を睨み上げるその目は死んでいない。
 勝利を確信したのか、婆多祁哩は真っ赤な口を開けてニヤリと笑うと、弱った獲物を仕留めにかかった。
 渾身の力で振り下ろされた三叉を、銀色の刀身が上段で阻む。
 しかし、金剛杵は予測のできない動きをした。受け止めた統馬の刃を巻き込むようにクルリと回転し、それによって体勢を崩しかけた統馬の左肩に突き刺さったのだ。
「うあっ」
 統馬の苦鳴の声と、高々と空まで飛び散る赤いしぶきに、詩乃は意識を手放しそうになった。
 一瞬の空白ののち、彼女の目に映ったのは、かろうじて後ろに飛び退って、体が地に崩れ落ちるのをこらえている統馬の姿だった。
 黒い学生服の左の肩口は、夜目にもわかるほど変形している。――肉と骨がごっそりと、えぐりとられているのだ。
「矢上く……ん……」
「詩乃どの」
 白狐は、こわばった形相で振り向いた。
「わたしを、あそこに放り投げてほしい。わたしは自分からはこの場を動けないのだ」
「え?」
 みるみるその姿を元の車輪に変えて、詩乃の掌に納まる。
『統馬を助けに行きたい。天叢雲(あめのむらくも)と草薙は、もともとひとつの剣。叢雲は夜叉を斬り、草薙は夜叉から主の身を守る。ふたつは一体となって初めてその真価を発揮するのじゃ』
「どうすればいいの」
『ただ、統馬の近くに投げてくれればいい。気づいてわたしを拾うはずだ。そなたは、そのままここにとどまっていなさい。ここは寺の聖域の中、わが結界がなおしばらくは守ってくれよう』
「でも……」
 統馬との距離を考えると、自分の力でそこまで届くか自信がない。もし、はるか手前に落ちてしまったら、瀕死の彼には、それを拾いに行くチャンスはないだろう。
 わなわなと全身が震える。
 彼がこんな窮地に陥ったのは、私が……、私が夜叉に操られてしまったからなんだ。
 きゅっと唇を引き結ぶと、詩乃は寺の階段を駆け下りた。
『何をする! 詩乃どの』
「行って、直接渡す!」
『ばかっ。やめろ!』


 走りながら、詩乃には何も聞こえず、何も見えていなかった。
 恐ろしい夜叉の姿も、おどろおどろしい夜の闇に包まれた境内も。
 ただ、血まみれの体を気力だけで支えている統馬の姿だけが、瞳の中心に映る。
 その視界の中で振り向いた統馬は、驚愕した表情を浮かべた。
「しの!」
 その手に握られていた霊剣がすっと不思議な力でひとりでに浮かび上がる。詩乃は手の中の草薙に引っぱられるように、そこを目がけて走りこんだ。
 白く発光したかと思うと、車輪の姿をしていたものは刀の柄に吸い寄せられ、固い鍔(つば)に変形した。
 詩乃は衝撃とともに、後ろに跳ね飛ばされた。
 あわてて、起き上がる。
「下がっていろ!」
 空中の剣をつかみなおした統馬は、彼女を背中にかばう位置に立った。
 清浄の光を浴びて一瞬ひるんでいた夜叉武将は、ぎりと歯をきしませると、ふたたび襲いかかってきた。
 統馬は足を一歩引き、その攻撃をかわした。すかさず水平に払ってくる金剛杵の三叉を、がっちりと鍔元で受け止める。
 詩乃は間近で見てあっと思った。
 たった今生じたばかりの鍔が、敵の武器の先端にからみついているではないか。回りの突起が、生き物のごとく長い爪に変形し、三叉をくわえこんだのだ。
 そのため、金剛杵は先ほどのように自在に回転できない。
「こしゃくな!」
 激昂した婆多祁哩は、武器をぐいと引き戻した。すばやく鍔は三叉を離し、双方また間合いを置く。
 統馬の体からぽたぽたと滴が落ちて、地面の砂に吸い取られる。それは血なのか汗なのか。
 詩乃はそれを見ているうちに、思わず叫び出しそうになった。
 統馬の背中が、自分の全生命を賭ける気迫に満ちている。
「矢上くん!」
 その声は、対峙するふたりの雄たけびにかき消された。
 巨大な敵の真向からの威迫の突き。それをまともに受けるかに見えた統馬はその刹那、からだを反転させ、斜めに受け流した。
 完全に勢いを殺され、前につんのめる敵の首筋に、とっさに左手に何かを握り、ずぶりと突き立てる。
「ぎゃやわああっっ」
 恐ろしい絶叫をあげ伸び上がった婆多祁哩の首には、銀色に光る棘のようなものが刺さっていた。
 それは主の意志に従い、瞬時に刀鍔から小柄(こづか)へと変化した草薙の姿だった。
「おのれ……」
 よろよろと数歩。明らかに夜叉は体のバランスを失っていた。
「許さぬ、許さぬぞ……。よくも貴様は……我らの邪魔を……」
 牙を剥いて、呪詛のことばを吐く。
「覚えておれ、いずれ八つ裂きにしてやる。……半……」
 しかし、すべてを言い終える前に、異形の者はこの世界から姿を消した。
「矢上くん!」
 走り寄る詩乃に気づき、統馬はぼんやりと焦点を合わせた。
「しっかりして、矢上くん!」
「信……野」
 その口元にかすかな笑みを浮かべると、そのまま彼は詩乃の腕の中に倒れこんだ。
   





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