第ニ話  光を拒むもの(1)                   back |  top | home




 夏の夕陽が北向きの校舎に長く射し入る。自分の下駄箱を開けた弓月詩乃は、大きなため息をついた。
 また、靴がない。
 このあいだは校務員室わきの、腐った落ち葉がいっぱい入ったポリバケツに捨てられていた。どのみち履ける状態ではないだろうし、捜すだけ無駄だろう。
 この数週間、表面は以前と何も変わらない。詩乃は相変わらずクラスの委員長として雑用に走り回っていたし、誰もが彼女を当てにして頼ってくる。しかしその一方、詩乃を標的にした嫌がらせは、水面下でますます激しくなってきた。
 犯人はたぶん、彼女を倉庫に閉じ込めようとした朋美たち3人組。それに同調する5、6人。残りの女生徒とおおかたの男子生徒は、見て見ぬふりか、陰でおもしろがっているかの、どちらか。
 潔くあきらめると、詩乃は上履きのまま、とぼとぼと階段を降り始めた。
 夜叉の影響がまだ色濃くこの高校を、そしてこのT市全体を覆っているのだろうか。


「詩乃どの」
 いきなり、間近から小さな声がする。誰もそばにいないことを確かめてのことだろう。紺色の学生カバンから、草薙が話しかけているのだ。
 いつまた夜叉に取り憑かれるかもしれない詩乃のために、ずっとそばにいて結界を張る。霊剣・草薙はその使命のために、学校にいるあいだは、ごく小さな白狐に姿を変え、マスコットのふりをして詩乃のカバンにぶらさがっている。
「靴は履き替えぬのか? 上履きと下履きを履き替えるのが高校のしきたりであろう」
「いいの、今日は」
「また、靴を隠されたのか」
 ドキンとする。裏門を出たところで、今度は真後ろから声をかけられた。
 矢上統馬が塀にもたれて、いつもの怜悧な目でこちらを見ていた。この男はまったく、気配というものがまるでない。
「あなたには、関係ないでしょ」
 詩乃は彼を睨み、すたすた歩き始めた。
「詩乃どのが腹を立てるのも無理はない。統馬、おまえは冷たすぎるぞ」
 草薙が、カバンの金具でぶらぶら揺れながら、文句を垂れる。
「同じ教室にいるというのに、一度も彼女のほうを見ようともせず、石のように押し黙ったまま。
今日も詩乃どのは、クラスの女子から誰にも口をきいてもらえず、弁当もひとりで食べていたのじゃ。せめておまえがことばでもかけてやれば、多少は気がまぎれただろうに」
「ナギちゃん、もういいってば。矢上くんにそんな優しいことを期待してないわよ」
 統馬は彼女の後ろにつき従いながら、小さく笑った。
「はみ出し者の俺がそんなことをすれば、おまえはますます惨めに感じるんじゃないのか」
「確かにそうよね」
 詩乃はすねたような視線を彼に向けて漂わせて、また歩き始めた。
「そうだ、いい作戦を思いついた」
 気まずい雰囲気を見かねてか、草薙が陽気な声をあげた。
「こういうのはどうじゃ。統馬が痴漢に扮して、夜道でクラスの女子を襲う。そこへ詩乃どのが駆けつけて統馬をこてんぱんにやっつける。女子は今までの意地悪を悔い改め、詩乃どのに許しを乞う。名づけて『変身!正義のヒロイン大作戦』! どうじゃ?」
「……そんなこと、死んでもごめんだ」
 憮然と答える統馬に、詩乃が「ぷはっ」と笑い出す。
「ナギちゃん、ありがと。ごめんね。心配してくれて」
 白いふわふわの毛並みをなでていると、統馬が横に並び、ひょいと詩乃のカバンを取り上げた。
「お、おい、何をするんじゃ、こらっ」
 むすんでいた毛糸を引きちぎって、草薙をポイとカバンの中に投げ込み、元通り蓋を閉めて、詩乃に返す。
「替わりの靴、俺が買ってやる」
 褪せた夏の夕空を見上げながら、統馬が言った。
「え?」
「そこの国道筋の安売りの店でいいのなら。……このあいだの粥のお礼だ」
「でも革靴、高いよ。いいの?」
「靴を買うくらいの金はある」
「だって、矢上くんって、全然お金なさそうなんだもん」
 あの築数十年のボロアパート。煎餅布団。いつも大根を生でかじっているという話を思い出して、詩乃は笑った。
「悪かったな。これでも一応社会人だ」
「そうだったっけ。じゃあ、おことばに甘えて」
 こうして統馬と並んで歩くのは初めてだ。彼はこの前の夜叉との戦いで破れた黒い詰襟の替わりに、今は高校指定の夏の制服を着ている。淡いクリーム色の半袖シャツと、詩乃のスカートと同柄の濃緑のチェックのズボンが、まるで別人のように柔らかな印象だ。
 統馬のいる側のからだがぼうっと熱く、鼓動が自然と速くなる。
 平日の夕方であまり客のいない量販の靴店に連れ立って入った。
 この数週間で3度目の靴を、いつもより念入りに選ぶふりをしながら、
「矢上くん、ほんとは何歳なの?」
「さあな」
「18か、19くらい?」
「……それよりはもっと上だ」
「ええっ。もうとっくに20歳過ぎてるんだ!」
 ふたりきりで話すこんな時間を作ってくれて、靴を隠した人に感謝、かな。そんなことを考えている自分が詩乃はおかしかった。
 店を出ると、空はようやく深い朱に暮れなずんでいた。
「上津町というのは、この近くか」
 彼が唐突にたずねてきた。
「ええと、そこの信号の、もうひとつ北のあたりかな」
「時間はあるか? もしあれば、弓月、おまえにも付き合ってもらいたい」
 統馬の真剣な様子に、詩乃は表情を引き締めた。
「……どこへ行くの?」
「死んだ高崎ミツルの家だ」


 新緑の5月、学校の屋上から飛び降りた1年生。統馬は夜叉に憑かれたその霊を祓ったばかりだった。
「結局、高崎の自殺の原因は何ということになっているんだ?」
「新しい学校生活に馴染めずにって……、イジメのことは何も発表されなかった」
「苛めた奴らの名前も、わからないんだな」
「うん。一年生の男子数人が高崎くんを苛めていた、という噂はあったんだけど……」
「そいつらの名前を知りたい」
「まさかそいつらも、夜叉に憑かれているの?」
「それは、そいつらに直接会ってみないと、わからん」


「こうして高校の生徒さんがお参りに来てくださったのは、初めてで……」
 高崎の母親は、白髪まじりの鬢(びん)を頬に落として、もう一度深々と頭を下げた。
「ミツルも、喜んでいるでしょう」
 仏壇に飾られた、気の弱そうな少年の初めて見る写真から、いたたまれなくなって詩乃は目をそらせた。
 母親はおずおずと大学ノートを彼らの前に置いた。
「電話でも申し上げたのですが、日記を書くような子ではなかったもので……。その代わりに、ノートの後ろに殴り書きというか、そういうものは、あとで机の引き出しから見つけたんですけど」
 詩乃は「拝見します」と、手に取った。
 数学の授業ノートだった。ぎっしりと細かく並ぶ文字は最初の数ページ、あとは真っ白。彼が高校で過ごした日々の短さを思わせる。
 そして最後の5ページほどに、また文字が並ぶ。


 4月22日
 依田、阿部、久保、松下


 ずっと、そんな調子だった。
 名前が2人に減ったり、6人に増えたりすることはあっても、基本的にはその4人の名前が続いていた。
 それ以外には何も書かれていない。何があったのかも、何をされたかも。
 ただ、授業の写しとはあまりにも違う、その筆圧の強さと文字の乱れに、少年の遺した怨みの強さがにじみ出ているようだった。
「これは、学校の先生に見せたのですか?」
 震える声で、詩乃がたずねた。
「はい。でも、これでは何の証拠にもならない、と言われました。学校側が調べたかぎりでは、ちょっとした男の子同士のふざけはあったが、イジメと言えるほどのものはなかった、と。警察にもなんべんも足を運びましたが、まともに取り合ってくれませんでした」
 母親は顔をくしゃくしゃにゆがめて、うなだれた。
「それで、……それで納得なさったのですか?」
 詰問してにじり寄ろうとする詩乃の腕を後ろから、統馬が制するように強くつかんだ。
「納得は、していませんっ……。でも、それを叫んだところでミツルが帰ってくるわけじゃないんです。
それに、ここは小さな町です。これからあの高校に入学することになる中2の弟もいるし、私どももずっとここで商売して暮らしていかなきゃならない。裁判なんかして、ご近所の心証を悪くするわけにはいかないんです」
「そんな……」
 詩乃の頬を、悔し涙が伝った。
「なんで、こんなことに……。こんな……ことに……」
 ミツルの母はこらえきれず、畳の上に突っ伏す。
「高崎さん」
 すすり泣きの中、突然、凛とした声が部屋に響いた。
「ミツルくんの、最後の伝言をお伝えします」
 詩乃もミツルの母親も、はっと顔を上げる。統馬は正座のまま、瞑目していた。
『お父さんもお母さんもお店のことばかりで、僕のことを考えてないと思っていた。誰も助けてくれないと思っていた。だけど、死んでからそうじゃないことがわかった。みんなを悲しませて、ごめんなさい。お父さんもお母さんも毎日泣かないで、仲良くして。僕のかわりにユウキのことを可愛がってあげてください』
「なぜ、……なぜあなたは、それを」
 静かに瞼を上げると、彼は母親に深々と一礼した。


「さっきのは……」
「夜叉を調伏する瞬間、剣を通して俺に伝わってきた、高崎の霊の最期の想いだ」
 暮れきった戸外に出ると、統馬は拳をきつく握りしめた。
「自らの命を絶つ者を誰も責めることなどできない。それほどに大きな絶望というものがこの世にはある。でもその苦しみが死によって取り払われても、あとに残るのは永遠の悔いだ。
死んでからでは何も取り戻すことはできない。生きている間なら何度でもやり直しがきくというのに」
 吐き出すように、激しい口調だった。
「子どもは、親より先に死んじゃいけないんだよ」
 詩乃は、誰に聞かせるでもなく、ただうつろな目で夜空を仰いだ。
「絶対に、絶対に子どもは親を悲しませちゃいけないんだよ」


 真夜中の高校。
 黒々と校舎の影に沈む一角を、数人の男子生徒が歩いてくる。
「いったい、誰だよ。こんなマネしやがったのは」
「高崎の名前で呼び出せば、オレたちがビビるとでも思ってるんですかねえ」
「あいつは勝手に死んだんだ。俺たちにゃ関係ねえってか。あ、でも依田はかなりビビってるんでねえ? おまえのイジメが一番インシツだったから」
「バカこくな。あんなのインシツのうちにゃ入らねえよ。メイロウそのものじゃん」
 笑いさえ混じる声高な会話に、突然低い声がかぶさった。
「……驚いたな」
「誰だ?」
 4人が振り向くと、奥のコンクリートの塀にゆらりと影が映る。
「貴様ら、夜叉に憑かれているわけではないのか」
「な、何の話だっ」
 1年生たちはぶるぶると震え出す。
 気づいたのだ。その声に含まれる、すさまじい憤怒に。
「魂をしゃぶりつくす味わいも知らぬ人間のくせに……。クク……。夜叉さながらに、貴様たちはひとりの罪なき者を極限まで苦しめたというのか」
「うわああっ」
 刀を手にした背の高い男のシルエットが、彼らの眼前に迫った。
 数分後、あばらや脚の骨をうち砕かれ、痛みに地面でのた打ち回る彼らを、男は冷めた目で見下ろした。
「しかるべき筋から、警察に再調査を命じさせた。これからたっぷり自分の犯した罪を償うがいい」
 そして去り際に、吐き捨てるように言い残す。
「……貴様らは、夜叉以下だ」




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