第ニ話  光を拒むもの(2)                   back |  top | home




 7月の早朝、詩乃はタタッと階段を駆け上がり、3階の家庭科室に飛び込んだ。
「あれ、おはよう。もう来てたんだ。早いね」
 家庭科室の先客は、詩乃のクラスのふたりの女生徒だった。作業台に広げていた布から目を上げる。
「そうか、ふたりとも家庭科クラブだったね。共同制作? 夏休みすんだら、すぐ文化祭だもんね」
 うわあ、かわいい花模様と言いながら、彼女はふたりが屈みこんでいたパッチワークの布地を撫でる。
「弓月さんは、どうして?」
「あ、私は家庭科の先生に端布(はぎれ)をもらう約束してたの。先生、準備室にいらっしゃるよね」
「あ、あの弓月さん」
「何?」
 ひとりがおずおずと立ち上がった。
「ずっと言おうと思ってたの。……ごめんなさい。私たち、逆らえなくて」
 詩乃は微笑んだ。
「なんだ、そんなこと、気にしなくてもいいよ」
「クラス中で仲間はずれにして、ひどいと思ってる……。でも、自分が次の標的になるの、恐いから」
「いいんだってば。私、強いから平気よ」
 ふたりは詩乃につられて、はにかんだように笑う。
「山根さん、嶋田さん、ありがとう」
 詩乃はその日一日、久々に晴れた気分だった。
 確かに見て見ぬふりをするのは、イジメに加担するのと同じくらい悪いことだと思う。でも、誰もが自分の意見を言えるほど強いわけじゃない。
 こうして影ながらでも心配してくれる人がいるのがうれしい。
 だが、うれしいが、一方でどこか複雑な心境だった。あんなに同情されるほど、自分はいつも惨めな表情をしているのだろうか。
 これからは、せいいっぱい明るい顔をしていようと、詩乃はあらためて決意した。


 端布が欲しかった理由は、統馬の剣を入れる袋を、自分の手で縫いたかったからだ。
 彼は相変わらずどこかで拾ってきたゴルフのクラブケースを背負って、毎日学校に来ているのだ。
「別にそんなもの、わざわざ作らなくてもいい」
 ほかに誰もいない放課後の教室。
 霊剣・天叢雲(あめのむらくも)に巻尺を当て、寸法を測ろうとする彼女に、迷惑気に統馬は眉をひそめた。もちろん、剣のほうは何も言わないが。
 天叢雲と草薙はともに平安末期に造られ、統馬の先祖・代々の矢上一族が佩剣(はいけん)したと伝えられているそうだ。後世の日本刀と異なり、切先が細く刀文も小さい。
 千年以上前の刀。古いゆえなのか、最初からそうなのか、鞘から抜き放つと物理的な攻撃力はまったくないという。天叢雲が夜叉を斬り、草薙が夜叉の力を防ぐ。二体で一刀の役割を果たす霊剣。人語を自在に操る草薙に比して、天叢雲には話す力はないらしい。
「いいの、これはこのあいだの靴のお礼だから」
「あれは、粥の礼だ。それにまた礼を返されたのでは、いつまで経っても話が終わらん」
「お粥なんて、実費いくらもかかってないのに。釣り合わないよ」
「……ほんとに、おまえは窮屈な女だな」
「わはは。おぬし、それは「クツ」にひっかけた洒落じゃな」
 詩乃のカバンにぶらさがっていたマスコット「ナギちゃん」がはやしたて、また統馬にカバンの底に突っ込まれている。
「人に何かをあげるのは、楽しいもん」
「ものをやれば、相手に優越感を感じられるから、か?」
 相変わらずの棘のある言葉に、せっかく明るくなりかけた詩乃の気持ちもしぼんでしまう。
 どうして、この人はこんな意地悪な物言いしかできないんだろう。
 瞳にときおり宿る暖かい色に、余計な期待をしてしまうのが悪いのだろうか。彼の目が見ているのは、最初から別の誰か。自分ではないことはわかっているのに。
「さて、そろそろ行く」
 うなだれている詩乃を残して、統馬は立ち上がり、教室の入り口で思いついたように振り返った。
「おまえもいっしょに来るか。弓月」
「……なんなの?」
「校内に夜叉用の罠を張った。何かひっかかっていないか、確かめに行く」


 下校時刻前の校舎裏はしんと静まり返っている。
 そう言えば少し前、このあたりで1年の男子4人が内輪もめで乱闘騒ぎを起こしたそうだ。その名前が高崎ミツルの遺したノートに書いてあった名と同じだったのに、詩乃は驚愕した。
 2週間経った今も、彼らは登校してこない。怪我がひどいのか、噂では高崎の自殺に関連して警察の事情聴取を受けているとも聞く。
 学校側はまだ何も発表していない。統馬に聞いてみるが、はっきりした返事は返ってこなかった。
「ここだ」
 統馬が立ち止まって指差したのは、コンクリートの塀の隅に、丈の高い雑草に隠れた黒い錫杖だった。
「これは、曼荼羅を描いたときに四隅に差していた、あれ?」
 彼はうなずいた。
「あと3本も同じように、今朝から校庭の隅に置いてある」
「何のために?」
「校内にもし夜叉の通り道があれば、4本の錫杖の間に張りめぐらせた網に引っかかるようになっている。……まあ、見ていろ」
 眼の前の錫杖の数歩手前に立つと、両手で印を形作り、真言を唱えた。
「サラサラバザラ ハラキャラムハチタ……」
 統馬の口から紡ぎ出されるのはまるで、木の葉が微風にそよぐような心地よい音で、詩乃はついうっとりと聞きほれてしまいそうになった。
 錫杖の上の環がちりりと鳴る。
 そして不思議なことに、遠く離れた他の3本の錫杖の環も同じようにちりりと鳴るのが耳に届いた。
「いない、か……」
 やがて、彼は薄目を開けて言う。
「夜叉は学校内にはいないの?」
「少なくとも、今朝から今までは気配を落としていない。いれば、錫杖がもっと激しい音を立てるはずだ」
 空中にすっと腕を伸ばすと、4本の錫杖はいつのまにか、統馬の手の中に戻っていた。
「もう、終わり?」
「ああ」
 ふたりは校門に向かって歩み出した。
「しばらくは、これを続けてみる。何かがこの学校にいる気配を感じるのだが……」
「あッ!」
 詩乃が大声で叫んだ。
 まるでこのときを待っていたかのように、4本の錫杖の環が激しく回り始めたのだ。
「どこ?」
「違う。これは……」
 統馬は、コンクリートの塀をきっと睨みつけた。
「この塀の外側だ!」


「きゃああっっ!」
 甲高い悲鳴が、くぐもった泣き声にかぶさる。
 悲鳴は詩乃の上げたものだ。泣き声は、中年の男に後ろから抱きつかれている小学生の女の子のものだ。
 夕暮れの人気のない住宅街。ブランコやすべり台が涼やかな影に沈む小さな公園の前。
 塾に行く途中の少女に木陰で待ち伏せしていた痴漢が襲いかかる現場を、駆けつけたふたりは今まさに目撃したのだった。
「なんという下劣な」
 うめく統馬のそばから、いきなり詩乃が飛び出した。
「弓月!」
「このっ。このっ」
 持っていたカバンを振り回して、男に向かっていく。男はそれに気づいて、あわてて少女から手を離し、逃げようとした。
「草薙! 結界を張れ」
「心得た!」
 統馬の命令に、カバンといっしょにぐるぐる回っていたマスコットが白い光を放った。
 痴漢は、突然現われた見えない壁にぶつかり、しりもちをついた。
 天叢雲が、統馬の手のうちで音もなく鞘走る。
「ぎゃあ!」
 詩乃がうずくまる少女を助け起こしたときには、もう痴漢は剣を脳天に食らって、仰向けに倒れていた。
 無論、憑いていた夜叉のみを斬ることの出来る剣。男は死んだのではなく、気絶しているだけだ。
 下ろしたズボンから覗いている性器に気づき、統馬は思い切り男の体を蹴飛ばして、うつぶせに転がした。


「信じられない! この頃、小さな女の子ばかり狙うこんな事件がすごく増えてるのよ。日本はいったいどうなってるのかしら」
 警察が駆けつけ男を拘束し、少女を保護するのを影から見届けたあと、帰り道はもうすっかり宵闇の紫に染まっていた。
「あいつもやっぱり、夜叉に憑かれていたの?」
「そうだ」
「夜叉って、人を殺したり傷つけたり、破壊したり、そういう残虐なことばかりする奴らだと思いこんでいたけど、こういう痴漢行為まで関わっているなんて」
「その人間の持つ心の一番弱いところを夜叉は狙うものだ。そこから魂に入り込み、中を喰らい尽くす。憎悪に囚われた人間に夜叉が憑けば殺人を犯し、金銭欲に囚われた人間に夜叉が憑けば、どんなあくどいことをしても金儲けをするようになる。結局、あの男は性的な欲望が一番の弱点だったのだろう」
「ひどい、最低」
「男というのは、大なり小なりそういうものだ」
「矢上くんも?」
 じろっと睨め上げる詩乃の視線に、統馬は肩をすくめる。
「それは、……俺も男だからな。
ただあの男の場合は、夜叉につけいられるほど、それを異常な欲望に育て上げてしまった。抵抗できぬ小さな少女をいたぶることで、社会では満たされぬ自分の征服欲をも同時に満たしていたのかもしれない」
「あの子が、心に傷を受けてなければいいけど」
 憤懣やるかたなくつぶやくと、詩乃はふと視線を地面に落とした。
「……じゃあ、私の弱点は何? なぜ私は夜叉に憑かれたの?」
 彼は立ち止まって、彼女の横顔を冷ややかに見つめた。
「おまえの弱点は、自分を強いと見せかけようとするところだ」
「え?」
「おのれの弱いことを認めず、強い姿をいつも他人に認めさせようとする。いつも完璧を目指して、あくせくする。緩むことなくピンと張りつめた糸ほど、もろいものはない」
「私が……」
「自分の悲しさや苦しさに蓋をして、他人のことで頭をいっぱいにしようと必死になる。それは愛でもなんでもない。ただの押しつけの偽善だ。
いたわられる方の人間にはそれが見えている。だから他人に尽くせば尽くすほど嫌われる」
 体を支えているどこかの蝶番がぎしぎしと震えた。
 ひどいことば。でも、彼が言うことが真実であることも、心のどこかが納得している。
「統馬。おまえというやつは……」
 草薙が、見かねて咎めるような声を出した。
「そんなふうに言われる詩乃どのの気持ちも考えてやれ」
「問われたから、答えたまでだ」
「いいの、ナギちゃん」
 詩乃は毅然と顔を上げ、歩き出した。
「私は平気。自分のことは、ちゃんと知っておきたいから」
「それが、見せかけの強がりだと言うんだ」
 統馬はさらに先を続けようとしたが口をつぐみ、かわりに吐息をついた。
「……まったく、おまえには、こっちがはらはらさせられる」
 心臓がどくんと鳴った。彼の声の調子が急に変わったのだ。子どもを案ずる親みたいに、怒りながらどこか焦れたような響き。
「何よ」
「あの痴漢に向かって行ったときもそうだ。相手がナイフを隠し持っていたなどとは気づいてもいないだろう」
「え。そ、そうなの?」
「おまえは他人がからむとすぐこうだ。自分の身の安全など二の次になる。無思慮。無鉄砲。猪突猛進。見境がなさ過ぎる」
 今度は不思議と腹が立たなかった。
 罵倒のことばの中に隠しそこねた優しい気持ちを感じるのは、思い込みがすぎるというものだろうか。でも――もしかして、この人が私にさんざん意地悪を言うのは、私が嫌いだからではなく、内心は心配してくれているからだとしたら。
 まさかね。そんな期待しても損するだけ。そう言い聞かせながらも詩乃は、いつのまにか統馬がごく自然に自分と並んで歩いているのに気づいて、無性にうれしくなってしまう。
「いいのよ。だって私、正義のヒロインだもん」
「おお、そういえば、わたしの計画した「正義のヒロイン大作戦」を地で行くような活躍だったのう」
 草薙とふたりではしゃいでいる詩乃に、
「……やはり、おまえは変な女だ」
 遠くのヒグラシの音にまぎれるほど小さく、統馬が笑った。




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