第五話  時を経しもの(6)                   back |  top | home




 久下が語り終えたとき、東側の空はまさに朝の予兆に染まり始めていた。
「くだらん昔話は、やっと終わったか」
「統馬?」
 丸1日、背中を向けたまま身じろぎもしなかった統馬が、ようやくごろりと仰向けになり、天井に向かって大きな吐息をついた。
「寝ているふりも大変なんだぞ」
「い、い、いつから聞いておったのじゃ」
 草薙が目をぱちくりさせて、あわてている。
「さあ。おまえの話の途中からかな」
「そ、それじゃあ、信野のことも、信野が死んだ件(くだり)のところも、全部聞いておったということ……。しまったあ!」
 ぼかぼかと自分の頭を叩いている草薙をちらりと見て、統馬は「ふ」と笑った。
「そんなことは、もうとっくに知っていた」
「え?」
「おまえと慈恵は昔から話し好きだったからな。あの洞の中でも、俺が寝ているそばで毎晩ああだこうだと……。いやでも聞かされる」
「なんと……。あの頃からバレておったとは」
「そうじゃないかと思ってた」
 詩乃は誰にともなくつぶやいた。
「だって、矢上くんが私を「しの」と呼ぶときの顔は、いつも優しかった……。とても信野さんを殺したいほど憎んでいる人の顔には見えなかったもの」
 六畳の間がしんと静まり返る。
「だから今の話を聞いて思ったの。矢上くんのことを想いながらも夜叉に囚われてしまった信野さんを、そしてそのことに絶望して自殺してしまった信野さんのことを、矢上くんは四百年経った今でも愛しているんだなって。ずっとずっと忘れられないんだなって」
「……」
「ナギちゃんと久下さんの話を聞いて、とてもよくわかった。私なんかじゃ、永久に信野さんに勝てないんだってこと……」
「弓月……」
 統馬は何か言いかけて、そして口をつぐんで、うなだれる。
「あ、そうじゃ」
 草薙がすっとんきょうな声をあげた。
「久下。何をぼやぼやしとるんじゃ。日課の早朝ジョギングに行くぞ」
「え? 誰の日課のジョギング?」
「馬鹿者。わたしとおまえのふたりじゃ」
「だって草薙、どうやって走るんです?」
 草薙は久下の金髪をぎりぎりと噛みながら、むりやり部屋の外に引きずり出した。
「ニブチン、鈍感男。しばらくのあいだだけでも、ふたりきりにしておいてやろうとは思わんのか」
「ああ……。そうでしたか」
 小さな白狐を肩に乗せて、久下はアパートの暗い廊下をゆっくりと歩き始めた。
「わたしはな。久下」
 草薙は、歩調に合わせて悲しげに尻尾を振る。
「あの悲劇を見て以来、自分の考えを変えた。人が人を恋うる気持ちというものは、この世の中の何にも増して、人を尊くも醜くも、また強くも弱くもするのではないかと考えるようになったのじゃ。だから、統馬と詩乃どのの想い合う気持ちを大切にしてやりたいと、陰ながら応援しておった。
だが、それは余計なお節介だったかのう。かえって、ふたりを苦しませてしまう結果になったのやもしれぬ」
「いいえ、それは違うと思います」
 久下は穏やかに答えた。
「僕は、詩乃さんが寺の階段を飛び降りたとき、ひとすじの光明を見たような思いがしました。この方は、信野にはなかった強さを持っている。その強さで統馬を包んでくれるのではないかと」
「そうなるといいのじゃが」
「それに加えて、僕の目には、詩乃さんが何かしら不可思議な力を持っているように思えるのです。見たところ、それほどの霊力の素質に恵まれているとも思えないのですが……」
「それは、わたしも感じておる」
 草薙もうなずく。
「わたしが教えておらぬ、まだ知るはずのない高位の真言、「大三昧耶」を唱えおった。
……もしかすると詩乃どのは、はかりしれぬ大きな運命のもとにある女人なのかもしれぬのう」


 夜がすっかり明けたころ、統馬と詩乃は、T高校の校門の前に立っていた。
 正門の前にはさすがに報道関係者はもういなかったが、警察の立ち入り禁止のロープとフェンスがぐるりと張り巡らしてあった。
 真正面には焼け焦げた鉄筋校舎が、いまだにツンと火事の残り香を遠くまで漂わせている。四百年前、矢上郷を包んだあの炎と黒煙を思い起こさせる匂い。
「ごめんね。矢上くん。疲れているのにつきあわせて」
「いや……」
「でも、最後にもう一度だけ、ふたりで学校に来たかったの」
 途中、国道沿いの深夜営業の店で買った花束を校門のそばに置くと、詩乃は両手を合わせた。
「田無さん。夜叉刀に斬られたたくさんの人。澤村先生。……それにあの屋上から飛び降りた高崎くん。
みんなもう、戻ってこないんだね」
 校舎の焼け溶けた窓ガラスや真っ黒に焦げた壁面を、門扉ごしに見つめながらつぶやく。
「私ね。ナギちゃんと久下さんが「やっと終わったな」って話してるのを聞いて、正直言って腹が立ったの。うちの高校にとって、この町全体にとって、今度のことは全然終わってない。これからなんだよ。これからずっとみんな、事件を思い出しては苦しんだり悲しんだり、怖い夢を見ておびえるんだって、本当はちょっと考えてほしかった」
「すまない」
 統馬は、小さく答えた。
「俺たちは長い間、夜叉を祓うことだけを考えてあちこちを渡り歩いてきた。祓ったあとその地に残る人々の気持ちなど、もう久しく考えたこともなかった」
「ううん、責めてるんじゃないの。だって、日本中に数えきれないほどの夜叉がいるんだもの。ひとつの場所のことだけを考えていられないのは当然」
 詩乃は悲しそうに統馬に笑いかけた。
「……ただ、わかってほしかったの。覚えていてほしかったの。この町のことを。この高校のことを。……ううん、私のことを少しでも」
 そして視線をそらせて、足元のタイルをとんとんと爪先で叩く。
「さよならは、まだ言えないと思うんだ。いつかまた会える。嘘でも、そう信じていたいから。
私の気持ちは迷惑だってわかってる。だから、悪いなんて全然思う必要はないから。ただね、……ただ」
 乾いたタイルに水滴が一粒、二粒と、吸い取られていく。
 詩乃はぐいと顔を上げた。
「矢上くんが夜叉を調伏する姿を見てきて、ずっと思ってたの。この人はとても正しい心を持っている人だから、人々を苦しめる夜叉を絶対に赦せないんだろうって。私はそんな矢上くんに、すごく憧れてすごく魅かれた。
でも、今日のナギちゃんたちの話を聞いて、やっと本当のことがわかったの。矢上くんは、夜叉を憎んで戦っていたんじゃない。夜叉を赦していたんだって。
矢上くん自身が大きな過ちを犯して、それでも久下さんやナギちゃんに赦されてきたから、その同じ気持ちで夜叉たちを赦してきたんだなって。それが調伏するということだったんだって。やっと本当の矢上くんの心が見えたの。
だから、私も……私も、ちゃんと自分の気持ちを確信を持って言えるようになった」
 詩乃は、涙が流れ落ちるのもかまわず、もう一度統馬に向かって微笑んだ。
「あなたのことを、愛しています」


 詩乃と別れたあと、統馬はもう一度高校に戻り、誰もいない校庭の真ん中にひとり立っていた。
 毎日聞いていた生徒たちの歓声が、四方から遠い潮騒のように寄せて返す。
 ここで過ごした四ヶ月間の日々が、そして何よりも鮮明に詩乃の笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
 四百年動かなかったものが、ぎしぎしと流氷のように音を立て始めたのがわかった。
「くそぅ」
 迷いを吐き捨てると、彼はポケットの携帯を握りしめた。
「……久下?」
『おや、めずらしい。統馬から電話をくれるのは初めてじゃないですか? 何の用です』
「……実は、頼みたいことがある」
『そうだ! 僕も言い忘れたことがあったんです。ちょうどよかった』
 いかにもいたずら好きの策士らしい、笑いを噛み殺した声。
『例の事務所のことなんですが、うっかりして僕、年契約で判を押してしまっていたようなんですよ。だから、来年の春までT市を動くわけにはいかなくなっちゃいました』
「……」
『鷹泉(ようぜん)家のお嬢さんとも相談しました。新たに夜叉の狩り場となっている可能性のある場所は、彼女のほうでもまだ発見できないそうです。無駄に動いてもしかたないので、それまではここで待機しているようにと』
「……おまえ」
『ああ、それから草薙は、一番速い特急便で詩乃さんのおうちに送り届けておきましたよ。もう少しで、涙の再会シーンを演じることでしょう。統馬もきちんと自分で連絡を入れておいたほうがいいですよ。気の利く詩乃さんのことだから、学校に連絡してしまって、二学期から教室の席がなくなるかもしれません。楽しい修学旅行も行けなくなっちゃいますよ』
「手回しがいいな……久下」
『あれ、お気に召さないですか? てっきりあなたからの用事は、そのことしかないと思ったんですけど』
 そして彼は、15年前の高校生に戻ったように無邪気な笑い声をあげた。
『はは……図星でしょう? なにせ僕たちは、二百年の長いお付き合いですからねえ』
 


                    第五話    終



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